今月の聖句 |
2000年10月 第477号・内容・もくじ
休憩室木星、コスモス |
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神の声
人間や歴史を真に変えるもの、それは神の声である。
はるか数千年も昔、生きてはたらく唯一の神がおられるということをはっきりと知らされた人(アブラハム)が現れた。その時から歴史は大きくその人の信仰を軸として動き始めた。
それは、「生まれ故郷を離れて、私の示す地に行け!」という短い神の言葉であった。 その後、やはり世界の歴史に絶大な影響を及ぼすことになったモーセが現れた。彼も、自分の力で物事をやっていこうとするとき、ただ遠いところに逃げていくだけであった。 しかし、羊を荒野にて飼っているときに神の声が聞こえ、神からの呼びかけを受けてから、彼は数千年を経ても変わることなき、刻印を歴史に残すことになった。
そしてパウロも同様であった。キリスト教を敵視して滅ぼそうとして全力で行動しているさなかに、イエスからの声があった。
その声を深く聞き取ったことから、パウロはキリストの福音をヨーロッパの宗教とし、さらには世界の宗教とするのにはかりしれない影響を及ぼすことになった。
そして地味ではあるが、そうした例は、私のまわりでも今まで多く見聞してきた。私も大きく変えられたのは、大学での学びによるのでも、経験でもなく、また両親や友人との議論とか研究でもなかった。思いもよらない神からの語りかけが私の方向を根本から変えることになった。
それは今も続いている。私はつい近ごろもそうした人に出会ったことがある。この世界のどこかで確実に神は語りかけ、新しく神の国を知らされた人たちが今も生まれているのである。
嘘と真実
政治の世界にはじつに嘘が多い。最近も、日本の首相自ら、北朝鮮による拉致疑惑問題を行方不明者として第三国で発見されたようにして(嘘をついて)処理しようとしていることをイギリス首相に話して大きい問題になっている。しかもこうした嘘をもとにしたやり方を国家が公然とやることより、秘密であるべきことを不用意に話したという軽率さが問題とされている。
政治家というと、汚れているとのイメージを持つ高校生が多いとのアンケート結果を見たことがある。そうした汚れは、嘘からくる。不信実から来る。そして、そうした汚れた政治家たちを選ぶ国民もまた汚れていると言えるだろう。
政治だけでなく、この社会にはいたるところで嘘がある。これが人間の世界の現状なのである。
もし私たちが聖書の世界を知らず、生きて働く神とキリストのことを知らないならば、ついにその不信実の大波に飲み込まれてしまうであろう。
しかし、こうした海のような偽りの世界に浸されながら、決して嘘のない世界を知ることができるのは、なんという大きい恵みであろうか。
聖書にもそうした嘘や不信実の現実が数千年前から記されている。しかし、新聞とかのマスコミなどと根本的に違うのは、不信実のただなかにあって、闇夜の星のように、神の真実が一貫して記されていることである。私たちは、この世をどんなに知っても真実はいよいよないのを思い知らされるだろう。しかし、聖書の世界を深く知れば知るほど、そこには計り知れない神の真実が流れているのを知らされる。
私の愛する子
主イエスが、福音を宣べ伝え始める出発点に立ったとき、神からつぎの言葉が言われた。
「あなたは、私の愛する子、私の心にかなう者」(ルカ福音書三・22)
主イエスに言われたこの語りかけは、伝道の生涯が始まろうとするそのときに言われたのであり、それは、重要な意味を持っている。イエスのこれからの活動は、神の愛を受けてそれによって行われるという宣言なのである。神の愛を受けるのでなければ、イエスもなにもできない。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハネ福音書五・19)
この言葉は愛とはべつに大した関係があるとは思われていない。しかし、子であるキリストは父なる神のすることを見るのでなかったら何もできないというのは驚くべき言葉である。
人間はいちいち神のすることを見ないでも、すべていろいろとやっているではないか、キリストはどうして自分から何もできなかったのか、不思議なことだと単なる疑問しか感じないのが普通だろう。
主イエスは父なる神の深い愛のなかにあり、神の愛によって神と一つになっていたからこそ、神のなさることを見て、その通りにすることができたのであった。神の愛のなかにいるのでなかったら、そもそも父なる神のすることを見ることができない。神の愛のうちにいなかったら、神ご自身すら見えないし、信じることもできないのである。
もし、神の愛のなかにいないなら、自分勝手な考えですることになり、それでは神からの力も洞察も与えられない。
主イエスは、このように、最初に神との深い結びつき、神の愛のもとに深く置かれていることが直接に告げられて、そこから宣教の生活を始められたのであった。
この言葉を受けたときに、聖霊がイエスの上に下ってきたと記されている。聖霊が注がれたことと、神からのあなたは私の愛する子という語りかけは深く結びついている。聖霊を受けているということは、すなわち神からの愛を受けているということであるから。
そして神から愛する子との言葉を受け、聖霊を受けた上で、イエスは、さまざまの誘惑を受けるという試練の場に立ったのである。そしてその聖霊と神の愛によってサタンの誘惑にも打ち勝つことができた。
イエスの生涯の最初に神の愛が注がれているとの宣言は現代の私たちにとっても重要な意味を持っている。それは、愛こそはあらゆる人が求めているものであり、愛なくば人間は人間らしく生きることはできない。そしてあらゆる問題の解決の根本は制度とか設備、時間、場所でなく愛である。
愛がなかったらいっさいは無であるとパウロは言った。それは、神の愛がいっさいを生かす源であるからだ。
私たちは元気なときには、だれかに愛されているように思っている。両親、友達、上司、異性、職場の同僚などいろいろである。しかし、ひとたび病気になったりすると、いかに愛されていなかったかを思い知らされる人も多い。また老年が近づくとやはりだれからも愛されずに見捨てられることが多くなる。
学校生活でも、生徒は友人や先生から愛されていないと実感するとき、非行に走ろうとする。一人でも愛してくれる者がいたら、さまようことがない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きると言われた。それは、神の言こそ、私たちを導き、私たちの罪を赦し、私たちを励ますものであり、新しい力を与えるものであるからだ。そしてその私たちを生かす神の言のもとにあるのが、「あなたは私の愛する者」という語りかけである。
使徒パウロがキリスト者たちを激しく迫害していたとき、そこに復活のキリストからの光が突然射してきて、パウロは倒れた。そしてその神の光のもとでいかに自分が致命的な誤りを犯していたかに目が覚めた。パウロはキリスト者たちを殺すことにまで加担していたのであった。そうした取り返しのつかない罪をも、主は赦して下さった。主イエスからの「サウル、サウル!」という個人的な呼びかけと、天からの光のなかに、パウロは、「あなたは私の愛する子だ」との語りかけを聞き取ったのである。
(サウルとはパウロの以前の名前)
また、性に関わる罪を犯した女を打ち殺そうする人たちが、イエスはこの女の罪をどうするのか、とつめよったとき、あなた方のうちで自分に罪がないと思う者からこの女に石を投げつけよ、と言われた。そしてだれも石を投げつけることができないまま人々は立ち去ったという記事がある。
その後、主イエスは、その女に対して「私はあなたを罪に定めない。」と言われ、「もうこれからは罪を犯さないように。」と戒めた。
この女は、まわりのすべての人が、自分に対する敵意と軽蔑、そうして冷たい好奇心をもって見つめているのに、ただ一人、イエスだけは、全く異なるまなざしをもって見つめているのを知った。その目には、「あなたは、私の愛する者である」との深い意味がこもっていたのを読みとったことであろう。
キリスト教の本質は、「主イエスが十字架にかかって死んだのは、私たちの罪をぬぐい去って下さるためのものだったのだ」と信じることにある。
不思議なことだが、このような単純なことを心から信じることによって私たちの心は楽になる。
神がイエスへの信仰によって罪を赦して下さるということは、すなわち神が私たちを愛しているということである。
人間同士でも、相手の罪を赦さないということは、相手に怒っていることだと言えよう。
使徒ペテロは十二弟子たちのうちでもとくに重んじられた弟子であった。しかし彼は主イエスを三度も知らないと言い張って否定する事になった。そのような悲しむべき罪を犯したが、そのときに主イエスはどうされただろうか。
主は振り向いてペテロを見つめた。ペテロは今日、「ニワトリが鳴くまえに、あなたは三度私を知らないと言う」と言われた主の言葉を思いだした。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ福音書二十二・61~62)
主は、イエスなど知らないと何度も言ったペテロを、単に怒る目で見つめたのでなく、「お前のそうした心を私は以前から知っていた。それでも、あなたは私の愛する子なのだ」という深い思いをこめて見つめたのであろう。
このように、神から愛されているとの実感によって人は重い罪からも救われ、新しい力をも受けることができる。
「人の心は愛したいと思い、愛によって幸いを得たいと願っている。神も人間をそのように創造された。人がこの愛に関する深い願いを、移りゆくものによって満たすことができると考えるなら、それは大きな誤りである。
そして最高の善き存在である神を求めようとしないで、自分に与えられた時間をそのような愚かな考えを追求することで空しく失っている。
しかし人間は神によってこそ、本当の愛と清い喜びを見いだして完全な満足が与えられるであろうのに。」
(十五世紀末のイタリアの聖カタリナの言葉より。彼女は神との深い霊的交わりを与えられていたことで知られている。)
人間は、神によって創造されたときから、愛によってのみその魂が満たされるようになっている。しかしその愛とは神の愛であって、人間や地上のもの、金や栄誉、人間の賛辞や地位など等への愛では決してない。そうした人間的なものに対する感情をふつうは愛といっているが、そうしたものが私たちを満たすと考えることは愚かなことであり、根本的なまちがいなのである。
神によってのみ、神の愛を受けて、神への愛に生きることこそあらゆる不満を変えて私たちが喜びとすることができるし、人間の最もふかい愛への願いを根本から満足させてくれるのである。
今も私たちが神を仰ぎ、耳を傾けるとき、一人一人に向かって「あなたは私の愛する子」という呼びかけが静かに細い声でなされているのを聞き取ることができる。
アーメンとは何だろうか
礼拝において祈りのなされたあとで、参加者が「アーメン」と言い、また讃美歌の後で「アーメン」という言葉が付加されていますが、それはどんな意味なのか、ほとんどの日本人は知らないままで終わってしまうことと思います。私自身もまだ、キリスト信仰を与えられていなかったとき、なんか変わった言葉だと不可解な思いをわずかに感じたあとはなにも考えることなくずっと過ぎていったのを思い出します。
これは、ヘブル語(*)で、心から同じ考えであることを表したり、真実な気持ちをそこに込めるときに使います。
ヘブル語には「アーマン」という動詞があります。アーマンは「堅固にする」「支える」といった意味が基本です。
アーメンというのは、それから来た副詞で、「真実に」といった意味です。なぜ、この言葉が礼拝とか、讃美歌のあとに言われるかというと、礼拝で語られた神の言葉や祈りの内容に心から同意するとき、そこで語られたことを聞いている自分においても、礼拝に参加している人の内にもしっかりと内容が刻まれるようにとの真実な祈りをこめてアーメンというのです。
たしかに、他の人の祈りや語られた神の言に対して、私もそれに心から同意しますとの気持ちを込めてアーメンというとき、その祈りや語られた神の言は、祈ったり語ったりした人だけが勝手にしているのでなく、共同のものとして堅固にされるわけです。
とくに祈りの時に、一人の人が祈ったその祈りをみんながアーメンと言うと、他の人も「それと同じ内容の祈りを祈ります」という意味になり、同じ祈りをしてその祈りを堅固にするということになり、その同じことを心を一つにして祈りますという意味になります。
アーメンのもとになっているアーマンが堅固にするという意味で使われている例をあげてみます。
例えば、「わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。」(列王記上十一・38)」
というように用いられています。
そしてこの言葉こそ、つぎのように旧約聖書で「信じる」と訳されている代表的な動詞なのです。
「アブラム(アブラハムの以前の名前)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・6)
そしてこのアーマン(aman)から派生した言葉であるエメス(emeth)とかエムーナー(emunah)は、日本語風に書くと、全然別の言葉のように見えますが、原語のつづりでは、少し違うだけの言葉です。このエメスは旧約聖書では最も重要な言葉の一つになっています。それは、神の本質を表す言葉としてしばしば用いられているからです。
例えば「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、・・」(出エジプト記三四・6)のように、記されています。ここでのまことと訳されている原語エメスは、他の箇所では、「真実」とも訳されている言葉です。
アーメンという言葉がこのように、真実性、堅固性、永遠性という重要な意味を持っているために、この言葉はつぎのように神ご自身を指す言葉としてすら用いられているほどです。
それゆえ、自分のために祝福を求める者は、真実(アーメン)の神によって自分の祝福を求め、自分のために誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、私の目から隠れてしまうからである。(イザヤ書六五・16)
ここでは、原文では「アーメンの神」いう表現になっており、神のご性質として根本的に重要なのが、この真実性、堅固さであることがこのような表現を生み出しているのです。
このアーメンという言葉は、新約聖書でも多く使われています。
主イエスは、しばしば「アーメン、アーメン、私は言う」と話し初めて、とくに重要な内容のことを語るときに用いられています。
これは、日本語訳聖書では、「まことに、まことに汝らに告ぐ」(文語訳)とか、「はっきりと私は言う」(口語訳)などと訳されていますが、たんにはっきりと言う意味ではなく、文語訳のように、これから言おうとすることが、特別な重要性を持つ内容であり、その真実性を強調するときに用いられています。これは、この語の元の言葉であるアーマンという言葉が「堅固にする」という意味である故です。これから語ろうとする内容が揺るがない、堅固なもの、すなわち永遠の真理であり、そのことを強調している表現なのです。
そして新約聖書の最後の黙示録では、イエス・キリストのことを「アーメン」そのものだと言ったうえで、「誠実、真実な」とわかりやすく言い換えています。
アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方(キリスト)が、次のように言われる。・・(黙示録三・14より)
このように、見てくるといかにアーメンという語とその派生語が聖書では重要であるかがわかります。単なる形式的な言葉、儀式的な言葉では決してないのです。
イエスがアーメンそのものであるということは、イエスによってあらゆる良き約束がすべて成就するのであり、それほどにイエスの言葉は真実であり、堅固なものであり、私たちの確固たる希望の源泉であるということなのです。
(*)ヘブル語は今から数千年も昔の古代イスラエルの言語で、長い間旧約聖書の言語として書物の中で残ってきました。実生活の中では使われなくなっていたいわば死んだ言語でしたが、今から百年余り前にユダヤ人のエリエゼル・ベン・イェフーダーという人が、日常語としてよみがえらせて現在のイスラエルも使っています。
誘惑を受けること( 創世記三章より)
創世記には最初に創造された人間が、ヘビに誘惑されるという記述があります。これは有名な記事ですが、すこし考えてみるといろいろわかりにくいことがあります。
聖書は単なる神話のようなことは決して書かない。そこには、いつもこの世における事実、真実が記されています。
ヘビに誘惑されるということは、この世における事実を象徴的に述べているということです。この世には、強力な誘惑する力があって、どんなに豊かになっても、誘惑されて間違った道へと引っ張られてさまざまの悲劇が生じるということをヘビとか、食べるのを禁じられた木などを用いて描いているとも考えられます。
ヘビは数限りない与えられていることを感謝するように仕向けることをせず、満たされていないこと、足りないことを取り出して不満を生じさせたのです。
私たちが罪を犯すことも、また与えられているものに正しく感謝しないことがもとにあります。
ヘビはこのエデンの園において、真ん中に食べてはいけない木を置いたことを人間が不満だという気持ちになるように仕向けたのです。
まず、ヘビは神が言うはずのないこと、どの木からも食べてはいけないと言ったのかと問いかけます。どの木からも食べてはいけないのであったら、飢えてしまうのであり、そんなひどいことを命令するはずがないのです。しかし、ヘビは神とは厳しい、冷たいお方なのだということをまずもちかけています。
つぎに、食べてはいけない木の実を食べるなら、必ず死ぬと神が強く言ったのに、ヘビは決して死なないと逆のことを断言したのです。
かえってこの実を食べると神のようにあらゆることを知るものになるとまで言いました。
このように誘惑を受けた後で、その木を見ると、いかにも美味しそうで、目を引きつけ、賢くなるようにとそそのかしていました。それまではそんなに思わなかったのにどうしてこのヘビの言葉を信じたらそのような気持ちになったのでしょうか。
これは人間の心理を巧みに言い表しているところです。真実に反する欲望というものは、冷静に見ればすぐにその本質がわかるけれども、私たちが誘惑を心に受けてしまうと、よくないものであってもそれが素晴らしいもののように見えてきて、ますます引き込まれるということなのです。
少年が酒やタバコに引っ張られるのは、もともとそれらが美味であるとかでなく、たんに友人からの誘惑によってそれがなにかよいもののように錯覚していくのです。いじめなども、同様で、自分だけではする気持ちがないのに、悪い友達からそそのかされて一緒にするようになると、ますますそこに引き込まれていきます。
ダンテは、神曲の煉獄編第十九歌において、誘惑を受けて魂が引き込まれていくことを巧みに描いています。
夢のなかに一人の女が私に現れた。口はどもっていて、目は斜めになり、両足は曲がり、両手はともにもがれていてなく、肌の色は青ざめていた。
私がその女を見つめていると、ちょうど太陽が上って夜の寒さに萎えて冷えてしまった手足を暖めてよみがえらせるように、その女は、舌がなめらかになり、みるみるその姿勢はまっすぐとなった。そして青ざめていた顔には、生気がよみがえり、恋する女のように紅みを帯びてきた。
こうして舌がなめらかとなった女は、すぐに歌い始めた。
「私は、歌う女のセイレン。海のただなかで船乗りたちの行く手を惑わすほどのたとえようのない歌声を持ち、この声で、古代の英雄をも正しい道から引き離し、私のもとに引き寄せた。私の声を聞くものは私から立ち去る者は稀だ。それほどに私の声は聞く者を満たすのだから。」
そのとき、一人の機敏で聖なる女性が現れた。そしてその誘惑しようとしていた女セイレンを混乱に陥れた。
「おお、ヴェリギリウス、ヴェリギリウス(*)よ、この女はいったいだれなのか?」とその女性はきびしく言った。
ヴェリギリウスは、その清い女性をしっかりと見つめたまま、セイレンに近づいた。彼はその誘惑する女セイレンを捕えると、その胸を開き、衣を引き裂いて私にその女の腹を見せた。そこからは、耐えがたい悪臭が立ち上ってきた。私はそのひどい臭いで目が覚めた。(ダンテ作 神曲煉獄編十九歌より)
(*)古代ローマの代表的詩人
ここで言われていることは、創世記のこの箇所とよく似たことだと考えられます。この誘惑する女とは、人間のいろいろなものへのまちがった欲望の象徴です。そうした欲望は本来醜いものであり、だれもが目をそむけるものであるのに、それに引かれて目を注いでいるとだんだん心が引っ張られて、よいもののように見えてくるというわけです。
人間が欲望やその目的物を見つめていると、それがだんだんここのダンテの書にあるように、人間に誘惑の力を強くしていくというのです。人間が見つめるまでは、醜い正体をさらしていたのに、人が見つめるととたんにその欲望は元気が出てきて人間をとりこにしてしまう。
昔の神話にセイレンという女がいて、その心を引きつける歌声によって、名高い勇士すら、その声に引き寄せられて進路を間違ってしまったというのをダンテは用いています。 この女の悪い力に会うと、ダンテを導いた理性の象徴であるヴェリギリウスでさえも、惑わされそうになった。しかしそこに天からの声が聞こえ、その声に叱責されたので、その天の女性の方をじっと見つめていくとき、初めてそのセイレンなる悪しき女の魔力から逃れ、その女を捕らえて動けなくし、正体をも明らかにしたのです。
ダンテは詩人であるばかりでなく、哲学者でもあり、政治家でもあり、当時の科学にも深い素養を持っていた人だった。彼の肖像画には、そのようなダンテのきびしい理性的な表情が描かれています。
しかし、そうしたダンテであっても、なお、セイレンという誘惑する女の強い引力には負けてしまいそうになった。ヴェリギリウスすらも同様だったのです。それほどに誘惑の力は強いものであり、だからこそ、エバもその力に抵抗できずに引き寄せられてしまったといえるのです。
ダンテを導いていた先生であり、理性の象徴であるヴェリギリウスでさえ、引き込まれそうになったその力にいかにして立ち向かうことができたか、それは、天からの聖なる声を聞き、それを見つめるという単純な方法によって可能になったのです。
アダムとエバたちは、神が禁じていたことをどうしてこんなにも軽々と破ってしまったのか、しかもその実を食べると必ず死ぬと言われているのに、どうしてそのような悪事をすることができたのだろう。
どうしてアダムは何にも言わず、神の命令をも破ってしまったのだろうか。ヘビに誘惑されるまでは、この禁じられた木のことは全く破ろうとする気持ちすらなかった。しかし、ひとたびヘビが現れると、いとも簡単にそれまでに忠実に守ってきた戒めを破ってしまったのです。
なぜ、裸が恥ずかしくなっていちじくの葉で腰を覆ったりしたのだろうか。それは、だれでも性に関して罪を犯しやすく(本能であるゆえに)、またその罪が自分や相手の人格を破壊することにつながり、さらには、その関係の結果生まれてくる新しい命をもしばしば断つことにつながるからだと考えられます。
禁断の木の実を食べるということは、性の関係を持つことであると説明する人がいます。しかしこれはもちろん全くの誤った考えです。というのは、神は、「産めよ、増えよ」と言って、子を産むことに祝福を置いたからです。
神は、この実を食べると必ず死ぬと言われたのに、アダムとエバは死ななかったように見えるのはどう考えたらよいのでしょうか。
もし、この木の実を食べなかったら、アダムは命の木の実を食べて死ぬことはなかった。しかし、この木の実を食べたことによって死ぬ存在となった。また、この罪を犯した直後に神がアダムとエバのいるところに来たとき、彼らは神の顔を避けて園の樹木の間に隠れてしまった。
このように、神に背くということが霊的な意味における死であったといえます。
現代も、人間がいつも神の言葉に従わず、神の顔を避けて隠れているという状況になっています。このように最も愛と真実にあふれる神の顔がかつては見えていたのにわざわざ見えないところに行くというのが、神のさばきを受けたということになるのです。
このようにして創世記という聖書の巻頭の書で、人間が神に逆らい、せっかく与えられた数々の自然の恵みを無にしていく状況が記されています。
聖書のすべては完全な真実を持たれるお方(神)に背を向けて生きる人間の現実を描くとともに、いかにしてそのような縛られた状態から回復するかを書いている書物だと言えます。
そして創世記の時代からはるか後になって、キリストの時代になってようやくこの神に背を向けた状態から立ち帰って神と正しい関係になる道が開かれたわけです。
星とダンテ
星はいつの時代にも人々の心を深く引きつけてきました。とくに聖書においてはその最初から、神が光を与えたものとして太陽とともに記されているし、神の力とわざを表すものとして星があげられています。
神ご自身の創造したイエスのことが聖書の最後に明けの明星(金星)として、象徴的に表されています。
ダンテは、西洋の中世の大詩人です。大詩人というのは、彼が書いた神曲によって数しれない人たちがキリスト教信仰の深さ、広さを知らされ、また導かれる人生がいかに重要なのか、神の裁きと愛、神との深い霊的な交わり、神から与えられる喜びや力、そして政治や社会の出来事とキリスト信仰との関わりがいかに重要かといった内容を驚くべき均整のとれた構成で歌っています。
異性間の愛情等など、じつに彼が故郷を追放されて流浪の人となりつつも、長い年月を要して、生涯の終わりちかくなって完成した作品です。これは、一万四千行あまりの膨大な長編の詩です。
しかもこのすべての行にわたって三行一組にして、脚韻を踏んであり、各行の音節も11音節にそろえられています。
これは、最晩年までの十数年という歳月を費やして流浪の苦しみと悲しみのただなかで完成された比類のない作品です。
さらにこの神曲は地獄編、煉獄編、天国編という三つの部分に分かれていて、それらは地獄編が三十四歌、煉獄と天国編は各三十三歌であり、合計が百歌になっているのです。 そしてこれら地獄、煉獄、天国という三つの部分の最後にいずれも、星(stelle)という言葉で終えているのもまた、意味深いものがあります。(*)
星とは、まず光に満ちたもの、堅固なもの(永遠的なもの)、そして清さに満ちたもの、であり、これはつねに最も高きを見つめ、それに向かって歩んでいったダンテの志しがはっきりと表されているのです。
星こそは、いつまでも変わることがないと言われた神に結び付けられた希望の象徴でもあったのです。
(*)参考のため、イタリア語の原文を以下に引用しておきます。日本語文では、星という語は最後にはなりませんが、原文では最後に置かれているのがわかります。
・地獄編の最後の行
E quindi uscimmo a riveder le stelle.
(そして我らは、星を再び仰ぎ見ようとして外に出た。)
・煉獄編の最後の行
puro e disposto a salire a le stelle.
(私は、清められ、星を指して昇ろうとしていた。)
・天国編の最後の行
l'amor che move il sole e l'altre stelle.
(その愛は動かす、太陽とほかの星を。)
新しく生まれ変わる
(ヨハネ福音書三・1~15より)
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ(*)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえようか」と言った。
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
(*)ラビとは、ユダヤ人の律法の教師。もともと、ラブというヘブル語は「大きい、偉大な」という意味で、ラビとなると、「私の先生」という意味になる。旧約聖書の教師を指すことが多く、律法の「先生、教師」という意味。
霊から生まれた者も、すべて風のよう、どこから来て、どこへいくのか誰も知らない。
霊から生まれた者とは、キリストによって直接に呼び出された者のことです。そしてキリストを神の子として信じて、神の霊によって導かれる人です。それゆえに、霊から生まれた者も、どこから来たのか、すなわち、どのような過程を経てキリストを信じるようになったのか、本当のところはだれもわからない。パウロのようにキリストを迫害していた者、キリスト教を滅ぼそうと考えて必死になっていたような者すら、突然キリストを信じるように変えられた。
それは、どうしても言葉では、説明のできないことです。パウロの魂の奥でどんな変化があったのか、わからないのです。ただ神の見えない御手がはたらくとき、だれにもわからないような神秘のなかでキリストへの回心が生じるのです。
そして回心した者は、どこへ行くのか、どのようなところへと導かれていくのかは本人にしても他のだれも知らないと言えます。
また、風はじつに自由です。どんなところへも吹いていきます。同様に霊によって生まれた者もまたそのような完全な自由を与えられていると言えます。
この新しく生まれるということは、新約聖書では最も重要なことなのです。だから使徒パウロもしばしば述べています。
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。(ガラテヤ書六・15)
ニコデモは、主イエスが人は神の霊によって新しく生まれ変わらねば神の国は見ることができないと教えたとき、ニコデモは、「どうしてそんなことが有り得ようか」と言いました。この言葉で表されているように、主イエスは一般の人、それがたとえ学者であっても、有り得ないと思われることを成し遂げるお方であることがはっきりと言われています。
ニコデモは、ユダヤ人の神の言の教師であり、旧約聖書を深く知っていて、神の全能とかメシアが世の終わりに来ること、そのときに完全な神の御支配が成就することも信じていたのです。
にもかかわらず、ニコデモは主イエスの言ったことが全くわからず、もう一度母の胎内に入って生まれ変わるのかなどという、子供じみた疑問を出したのです。ユダヤ人の教師が、イエスのことをラビと呼んで最高の敬意を表してわざわざ尋ねに来たのに、相手が母の胎内にもう一度入って生まれることなど言っているはずがないのをニコデモともあろう人はわからなかったのだろうかと疑問になります。こんな幼稚な質問をするというのはどうしたことだろう。
神は万能であると信じている人でも、イエスの「新しく生まれ変わる必要がある」ということは理解できなかったのがわかるのです。たしかに旧約聖書では神の声に聞き従うことは繰り返し強調されているけれども、新しく生まれ変わらねば神の国(神の御支配)を見ることはできないというようなことは言われていないのです。
それほどに主イエスの言われたことは、旧約聖書の世界とは大きく違う世界を指し示していたということです。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(八節)
風そのものはどこから来て、どこへ行くのか見えない。しかし、その風の作用は木々のそよぎや水面上の波などでわかります。
ちょうどそれと同様に、神の霊によって新しく生まれた者もどこから来て、どこへ行くのかだれにもわからないというのです。この意味は、ある人が新しく生まれ変わるのにどんな経過をたどって新しくされたのか、それはだれも予想できない、全く思いがけない道筋で変えられる。それは不連続的であってしばしば突然にして生じる。それほど突然でなくとも、どんな風にして変えられたのかはだれも説明できないということです。そして、ひとたび新しく生まれた人は、どこへ行くのかもわからない。どんなところに導かれていくのか本人も周囲の人もわからないということなのです。
それほどに神の霊によって新しく生まれるということは、深い神秘に包まれたできごとであり、それは神ご自身がなさるわざであるからです。
神によって新しく生まれ変わった人が、本人すらわからないところにと導かれていくかについて、聖書の霊を少し見てみます。風は思いのままに吹く、どこへ吹いていくかわからない。
例えば、使徒となった漁師ペテロは、自分はただガリラヤ湖のごくふつうの漁師であり、ユダヤ人が何百年も待ち望んできた救い主の弟子となって、世界に宣べ伝えるような人になるとはいかなる人も予想しなかったことです。なぜ、ペテロという人が選ばれたのか、なぜ他の漁師でなかったのか、なぜ、他の農業とか牧畜をしている人、商人とか宗教家とかでなかったのか等など、それはまさしく風がどこから吹いてくるかわからないように、それはまったくわからないことです。風がどこからともなく吹いてきたように、ペテロは思いがけなくキリストの弟子とされたのです。
また、選び出された後にも、彼はユダヤ人だけにキリストのことを伝えるつもりでおりました。ユダヤ人以外は汚れているという考えが他のユダヤ人同様にしみこんでいたのです。
しかし、そのような考えをキリストは打ち破って彼が、ローマ帝国全域への伝道者となるようにとさらに導いたのです。そしてそのことがペテロ自身では思いもよらない方向であったことは、ヨハネ福音書の最後の部分にも印象的な書き方で示されています。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネ福音書二十一・18)
このように、風は思いのままに吹く、神の御意志のままに聖霊は人に注がれ、その聖霊は神の深いご計画のままに人を導いていくのです。
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。(12節)
ここで主イエスが地上のことと言っているがそれは何を意味するのかについてはいろいろの見方があります。ニコデモに話したことを指しているから、それは地上に真に生きるためには、生まれ変わる必要があることを述べたので、そうした意味では地上のことです。しかし、キリストが殺されることによって万人が罪から救われること、キリストと同じすがたに変えられること、復活のこと、さらにはキリストの再臨によって万物が新しくされることなどなどといったことは、「天上のこと」と言えることで、そのようなことは到底信じることはできないと言ったのです。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネ福音書では、ほかの福音書には見られない表現がいろいろあります。「私は・・である」(原語では、 エゴー エイミ・・)といった表現に独特の重要な内容を持たせていることとか、イエスの神性の強調、永遠の命の強調などなどです。
天に上るということ、そして人の子が上げられねばならないということ、が重ねられています。別の箇所では、イエスをただちに信じたナタナエルという人について、その信仰を特別にほめた上で、さらに大いなることを見ると約束されたことがあります。それが、つぎの箇所です。
イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
大なる信仰を持つものには、イエスが特別な存在であることが啓示される。それは神の天使たちがイエスの上に上り降りするという。これは何のことか非常に象徴的な表現なのでわかりにくいことです。しかし少なくとも、深い祈りによって書かれたヨハネ福音書の冒頭部分の最後におかれていることからも、ここに重要な意味が込められているのがわかります。
天から、すなわち神から天にあるものがイエスに注がれ、イエスの人間世界に対する祈りが神へと引き上げられる。天と地上世界との絶えざる交流を主イエスは持っている。
これは主イエスが神の子であることを示すものであると言えます。
主イエスは天に上るが、もう一つ「モーセが荒野で蛇を木に上げたように、自分もまた木に上げられねばならない。」といって、十字架に上げられて殺されることを不可欠のこととし、それが単なる処刑でなく、万人が罪から救われて、永遠の命を与えられるためだということを明確に述べています。
ここで、モーセが荒野で蛇を上げたというのは、初めて聖書や、この箇所を読む人にとっては何のことかまったく不明のはずです。
イエスは神の子であるから単に死んで終わりなのでなく、天に上るお方である、このことは現在では当然のように思われています。天に上ること、神のもとにいくことは主イエスなら当然だと思うはずです。
しかし、もう一つの木に上げられるということは、何を意味するのか、それは旧約聖書の不思議な記事をもとにして言われています。
しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。荒れ野で死なせるためか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、力も失せてしまう。」
主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯した。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。
主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(旧約聖書・民数記二十一章より)
人々がエジプトからようやく救い出されたと思ったのに、つぎは砂漠のなかを歩いて帰らねばならなかったのです。そのとき、砂漠のきびしい環境のなかで人々はモーセに向かって激しく怒ったことがあります。それがこの記事です。人々はモーセにだけでなく神に対しても罪を犯したので、その罪は神ご自身が取り除くしかないのです。
きわめて多数の人々がその罪をどうしたら取り除くことが出来ようか。この問題について神は不思議な命令を下したのです。それは、罪の償いのために何か労働をしなければいけないとか、金を捧げるとか産物を捧げるとかでもなかったのです。
それは驚くべきことですが、青銅で蛇を作りその蛇を木に掛けて、その蛇を見上げて、見つめるだけで、大きな罪が赦されて命を与えられるというのです。
このようにキリストよりも千数百年も古い時代から、十字架上のキリストを仰ぐだけで罪からの救いを与えられ、命を新しく受けることができるということがあったのです。
私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。(イザヤ書四十五・22)
この簡潔な言葉もまた、キリストよりはるか昔に書かれた旧約聖書のなかの預言書であるイザヤ書のなかに記されています。
このようなさまざまの人たちがはるかな昔に預言し、それが主イエスによって実現されたのです。
そのことを主イエスは引用し、それが自分にあてはまると述べました。自分が十字架の処刑をするための木にくぎ付けされ、木に上げられたけれども、それが神の永遠の計画であって、キリストには二種類の高きところへと上げられる事態が生じたのです。
主イエスはナタナエルという人に対して、天使がイエスの上に上り降りすると約束しました。そしてこれは、主イエスを信じる人においても、その程度の多少あっても、実現することです。
ヨハネ福音書では、とくに十字架にあげられることが神の栄光をあらわすものと記されています。
神と同様な存在として天にいくことも上がることであり、犯罪人として最も重い刑罰である十字架刑を受けたのです。この両極端のことがいずれも「上げられる」こととして表現されているのです。
休憩室
○木星
十月も半ばをすぎると、だんだんと夜は寒くなってきましたが、それとともに夜更けてからの空には澄んだ大気のなかで輝く星に心が引かれます。夜十時も過ぎるころになると、東の北よりの空に周囲の星とは一段と明るく際だっている星が見えてきます。それが木星です。今年は、木星と土星、そしておうし座の一等星であるアルデバランとが直角三角形をつくっています。
木星はどんなに星のことがわからない人でもただちに見つけることができる澄んだ強い光を放っています。
一年前の今ごろは木星はおうし座からもっと遠く南の方に離れていたのですが、今年はおうし座のところまで近づいてきて、ちょうど土星、木星、アルデバランの三つの明るい星で直角三角形を形作る位置に来ています。
また、金星が宵の明星として夕方の西の空に見えるようになってきました。これから数カ月は夕空に輝いて目を楽しませてくれます。
○コスモス
この原語(kosmos)はギリシャ語では、秩序を意味します。整然としているもの、それがコスモスです。目に見えるもので最も整然とした秩序あるもの、それは宇宙の星です。そこで宇宙のこともコスモスというようになり、さらにきれいにするということにもつながり、化粧関係にも使われ、コズメティック(cosmetic)という言葉も生じたのです。Ⅰペテロ 三・3には、そのような用い方がされています。
さらに、秋に咲く美しい花でその均整のとれた花の感じからコスモスと名付けられました。
また、新約聖書のヨハネ福音書では、特別な意味をもって書かれています。宇宙から地球へそしてこの世という意味まで生じることになり、ヨハネ福音書ではコスモスというギリシャ語は、「神などいないとするこの世」を指して言われます。私たち自身もかつては、神を知らず、神に背を向けて生きていたのであって、神不在とする「この世」の一員であったわけです。
そうした神に背いているこの世の人々すべてをふたたび真実な神に立ち帰らせるため、そして神のいのちを与えるためにキリストはこの世に来て、そして十字架にかかって死ぬことまでされたのです。そこにキリスト教のすべてが凝縮されています。
こうしてコスモスという言葉はさまざまのところに広がっていく意味を私たちに投げかけています。
返舟だより
私たちの集会のテープを聞いておられる方からの来信です。
○・・・(集会のテープでの聖書の解きあかしにより)こんなに深い意味があったのかと、聖日毎に驚きを共にしています。感謝です。・・(近畿地方の読者より)
・聖書は飽きることのない、唯一の書物であるとある有名なヨーロッパのキリスト教著作家が述べていました。先人の学びや鋭い研究、そして歴史のなかで膨大な量にのぼる注解書、それに加えて私たち自身の経験、さらに最も重要なことはすべての真理を教える聖霊を受けることなどなどによって聖書の意味はいっそう深い真理が示されてくるのだと思います。そのゆえに何度読んでも決して飽きることのない唯一の書物なのだとわかります。
○・・パソコンの件でいろいろのアドバイスをありがとうございました。有効に使いこなす努力をしたいと思います。実は、九十二年に○○県でパソコンの講習を二カ月ほど受けて、一応当時のパソコンは操作できていたのですが、使途が広がってきた上に、ソフト・ハード共に大幅に向上しましたのでまたじっくり取り組み、聖書の勉強に活用したいと思います。・・(九州の読者から)
・定年退職の後、時間が十分に与えられるようになって、多くの人たちがパソコンを始めています。しかし、肝心の問題は、時間も購入の費用も十分にあるが、なかなか側でこまかなことまでていねいに教えてくれる人がいないことだといわれます。
パソコンもこの来信のように、聖書の学びを深めるために用いるなら、大いに意味がありますし、印刷された書物は小さい文字で書いてあることが多いのですが、パソコン上では、画面に現れる各国語訳の聖書の文字はいろいろと自分の見やすいように好きなように変えることができます。
聖書を日本語の各種訳を比較したり、多様な外国語訳聖書を比較参照する作業をよくする熱心な聖書の学びをしている人は、書物をあちこち広げるよりパソコンの方がはるかに効率的で、重要な聖書箇所とか文を他の人にインターネットメールによって伝道の目的で送ったり、多種多様な讃美歌、聖歌などのキリスト教讃美に親しむこともできます。その他にもいろいろと多様な応用ができます。
ことにギリシャ語とかヘブル語など聖書の原文をも参照して聖書のより正確な学びをしたいという方には、ギリシャ語の辞書や逆引き辞書をあちこち引いて調べるよりパソコンを用いた方が断然早く、さらに多くのいろいろの情報がわかります。例えば、信仰という言葉がどこに何回現れるか、その箇所をそれぞれ表示するといった語句索引的な用法も簡単にできます。
○・・「はこ舟」のなかで引用されている聖書の箇所はその引用の箇所を実際に聖書を開いてその箇所の前後をよく自分で学ぶことが重要と思っています。「はこ舟」を通して独りで聖書を学ぶ習慣が得られることを願っています。・・(関東地方の方)
・「はこ舟」をたださっと読むだけでなく、そこで引用している聖書箇所を一つ一つ聖書にあたって見ることは、時間のかかることですが、そうして読んだ聖書の箇所が「はこ舟」の本文より強く印象に残るようであったら、神の言がいっそう深く入ると思われます。
・場所は、徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時三十分から(旧約聖書を学んでいます)
・なお、毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で毎月場所が変わります。
(現在の移動夕拝は、板野郡藍住町、徳島市川内町、麻植郡山川町、徳島市国府町の四箇所を移動しています。)
☆その他、土曜日の午後二時からの手話と聖書の会、日曜学校(日曜日の午前九時半から)が集会場にて。
また家庭集会は、海部郡海南町、板野郡北島町、徳島市国府町(「いのちのさと」作業所)、
板野郡藍住町、徳島市住吉、鳴門市などで行われています。
また祈祷会が月二回あります。
問い合わせは下記へ。
・代表者(吉村)宅電話(FAX) 08853-2-3017