今月の聖句 |
2000年11月 第479号・内容・もくじ
秋・花・色・実り
秋は、心ひかれる季節である。
近くの山々では木々や野草の葉はつぎつぎに変わり、黄色、赤色、褐色などさまざまの彩(いろど)りを表してくる。
そこには、緑一色であった野山とまたちがった命があふれている。そのような美しい変化を来たらせる目にみえない神の命がそこに感じられる。
徳島と香川の県境付近では、雨量が少ないために山々は杉の植林がなく、全山がさまざまの彩りの木々で覆われるところが多くみられる。それは、神の手のなされる壮大な立体芸術である。
無数の木々、その一つ一つの葉をもすべて独自の色合いの変化をもたせ、しかもそれが日々移り変わっていく。それに比べたら人間のどんな創作物もまるで色あせてくる。
色の大きな交響楽ともいえる世界が見られる一方で、木陰の谷間には、ひっそりと赤い実をつけたヤブコウジや白色の玉をあちこちにつり下げているスズメウリ、さらに秋の色をいっぱいにたたえたカラスウリの赤い実が木立の中から顔を出していることもある。
わが家にもう、五十年以上も実をつけつづけている柿の木がある。それは、以前からつるし柿にして食べたものであるが、食べるだけでなく、その美しい秋をいっぱいにたたえた色がよい。
また、秋は野草の花が多く見られるので嬉しい季節である。高知県境に近いSさん宅での家庭集会に参加する道は、片道七十キロの半分以上が山間部の道であるため、車を止めて少し山沿いに歩くとすぐに、さまざまの野草の花が秋を告げているのに出会う。
それらのうち、白い花のヤマシロギク、十一月終わりまで黄色の柔らかい葉と花を持つヤクシソウ、野生のキクの内でも白い大きい花を持ち、香料のリュウノウ(龍脳)に似た香りがある、リュウノウギク、シラヤマギク、野道によく見られるヨメナに似ているノコンギク(野に咲く紺色の菊の意)などなど。キクの仲間だけでもこのように、いろいろの野草が競うように神の創造の多様さを繰り広げてくれる。
また、山の斜面には冬に近づくと赤い実をつけるフユイチゴも目だってくる。
そうしたなかに、モズや、ヒヨドリ、ジョウビタキといった野鳥のさえずりが木立をぬって響いてくる。
これから、寒い季節、厳しい冬が訪れるというその前に、このように自然は豊かなものを繰り広げる。葉の色、実のさまざまの色、その実の味わい、花の形と姿、色などなど実に変化の多い季節である。
ひっそりと自然のしずまる冬の到来のまえに、このような変化と味わいの豊かな姿を見せてくれる。
私たちの日々も晩年に近づくときにこのようにさまざまの実りと味わいがそこに生じてくるようであったらと、ふっとそんな思いがよぎった。
教育という言葉と聖書
現在の私たちの生活においては教育という言葉はいたる所で目に入ります。また家庭も学校に通う子供を持っているということで教育ということは最も多く人々の心にある言葉の一つです。
しかし、聖書には驚くほど教育という言葉(訳語)は少ないのです。訳によって多少違いますが、口語訳など次の箇所のわずか一度しか全聖書で出てこないのです。
なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。(Ⅰコリント
八・10)
他の訳でも後に引用する箇所(パウロが厳しい教育を受けたことを記す箇所)などせいぜい数回といった程度です。
なお、教育という言葉に対応するギリシャ語(パイデイア)そのものは、新約聖書では、ヘブル書12章とⅡテモテ三章、エペソ書六章の三つの章に少し使われていますが、それらも
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。」(ヘブル書十二・5)という箇所で見られるように、現在の意味での「教育」でなく、「鍛錬」とか「しつけ」いう意味で使われています。
(なお、paideia の動詞の形は新約聖書では、十数回使われています。)
どうしてこんなに少ないのかと不思議に思われる人も多くいます。古代だから教育などあまり考えなかったのではないかと思う人もいるかも知れません。
しかし、聖書と部分的に時代が重なっているギリシャ哲学者の代表者であるプラトンの著作には教育(パイデイア paideia)という言葉(一部その関連語も含む)はたくさん用いられています。私の手元にあるプラトン全集の語句索引で調べても二百回近く使われています。
このように、心の問題や真理にかかわる内容を扱っているプラトンの著作と聖書では教育という言葉の使われ方がまったく違っているのに気付きます。これは、どうしてなのか。
それはプラトンの教育に対する考えが聖書と全く違っていたからでしょうか。たしかに大きく違っているところがあります。しかし、つぎのように、プラトンも近ごろの日本の教育のような詰め込みとか単なる知識教育とは根本的に異なることを考えていたのです。彼は、「教育とは、人間にもともと与えられている能力を魂全体とともに、真理そのものへと方向転換させるための方法である」と言っています。(「国家」第七巻518d)
このことは、キリスト教の出発点が「悔い改めること」、つまり心を神へ方向転換させることであるのと、似たところがあるのに気付きます。
そのために、さまざまの方法が考えられます。そこで最も重要だとされるのが論理による探求です。言葉(ロゴス)を用い、筋道たてて正しく考えていくと、魂はそのような方向転換がされるというのです。
そして真理を愛しつつ、さらにそのような論理的な思考によってその道を歩いていくのが人生だとします。真理(英知)を愛することこそ、フィロソフィアという言葉なのです。(フィロとは、愛を意味し、ソフィアとは、英知の意)
このギリシャ語は明治の初めに、西周(にしあまね)という学者によって「哲学」というわかりにくい言葉に訳されてしまったために、この言葉(真理への愛)への大きな誤解を日本人に知らず知らずのうちに植え付けることになりました。この言葉は本来、「真理への愛」であるのに、なにか難解な学問である、というイメージとなってしまったのです。
しかし、キリスト教では、神に方向転換することも、神からの呼びかけに応えることによってなされるのです。まず神はその愛をもって一人一人に呼びかけ、それに応えることが魂の方向転換であり、悔い改めです。
そしてその後は、神、主イエスご自身が私たちを導いて下さるのです。もちろん、先輩や学問をした人にも学ぶわけですが、必ずしもそのような人間や学問は必要ないのです。これはペテロやヨハネといったただの無学な漁師が、キリストの弟子となり、世界のキリスト教に計り知れない影響を及ぼしていったことからもわかります。
彼らにとっては、ふつうの教育は必要ではなく、ただキリストを信じて、祈りの中から聖霊を受けてその聖霊に従って歩むことから大いなる英知を与えられていったのです。
人間の手による教育でなく、神の手による導きこそ、聖書が一貫して述べていることです。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12)
パウロは指導者となるための十分な教育を受けた人であったのは次のような言葉からもうかがえます。
彼は言った、「わたしはタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい教育を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。(使徒行伝二十二・3)
しかし、そのような教育もほかのことも含めてパウロはつぎのように言っているのに驚かされるのです。
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損失と思うようになった。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、他の一切のものを損失と思っている。(ピリピ書三・7~8)
パウロはユダヤ人の優れた学者から教育を受け、家柄もよかった人でした。しかし、そのような教育をしても、キリストの真理をまったく見抜くことができず、逆にキリスト教徒を厳しく迫害していたほどでした。人間がする教育というのは、ついに魂の奥深い目を開くことができなかったのをパウロはみずからの痛切な経験から知ったのでした。
このように、キリスト教徒の代表者ともいえる、パウロが本当に教育されたのは、キリストを知ってからでしたし、それは生きて働くキリスト、聖霊のキリストによってであったのです。
この点で、無学な漁師であったペテロ、ヨハネ、ヤコブといった弟子たちとも共通していたと言えます。
私たちも周囲の至るところで、学校教育をいくら受けても、その人間の本性はまるで善くなっていないという事実を知っています。昔は高等教育を受ける人はごく少数でした。明治になってからも大多数は、小学校教育だけで、大学などはきわめて少数しかいかなかったのです。しかし、今日では、大学には国民の半数ほども行くようになったのです。そのような教育の普及によって人間の心はいったいどれほど真実になったのか、正しいことへの直感や洞察力は、また周囲の人間への愛は増しているかという点から見るとむしろ、悪くなっていきつつある、というのが大多数の人々の実感ではないかと思います。
小学校低学年ですら、授業中に歩き回ったり、かってにしゃべったりする学校が増大しているとか、大学ですら、学ぶこととは何かということも判断できない学生、あるいは、何らかの理由で登校できない学生も増えていて、大学の教官が訪問したり電話で登校を呼びかけたりせねばならないなど、驚くべき実態があります。
このような状態を知るにつけても、聖書が二千年も昔に告げていること、私たちは神とキリストへと魂を方向転換し、キリストを信じて、神やキリストご自身である聖霊を受けることによって初めて、成長していく(教育されていく)ということに気付かされているのです。
こうした神から来る真実や心の清さがなければ、単なる情報を洪水のように浴びせているとかえってますます人間の心は荒廃し、崩れていきます。
人間は魂の根源に神がいなければ、悪いもの、安易なものを簡単に選び取ってしまうのです。
私たちの心のうちにキリストが住んで下さって初めて、私たちの汚れた本質は潔めを受け、すべてを善いことに転じて下さる神によって教育され、限りない神の国へと導かれていくことが約束されています。
水や木の葉のコーラス
谷川のほとりに立つ。そこには心ひかれる音、せせらぎの音がある。そこに立ち尽くして耳を傾けたことは何度あることだろう。山を歩くとき、しばしば谷川にさしかかる。登り口からすでに純白の水しぶきをあげて流れ下る谷川とともに歩くときも多い。
そのとき、その川の色、水しぶきの真っ白い色とともに、岩を流れ下る音のなんという響き!
かつてある山深い滝の近くにて長い時間その水音に聞き入ったことがあった。そこに行くまでには、家からは数時間を要した。夕方近くに着くようにしたため、誰一人いなかった。周囲に群がる樹木たち、そしてその間に響きわたる水音。ただ一人、聞き入るとき私のまえに、しずかにある何かを感じたのを忘れることができない。
水の流れとともに、私の心にあったさまざまのもつれたようなものが流されていった。谷川のほとりで心を集中してその水と音にひたるとき、いつしか自分もまた、その水と一つになっていくようであった。
水は清める力を持っている。その水音もまた心に深く入ってくる。
それはどうしてなのか。不思議にも、やはり大風のときに、大きな松の木々に近くにいるとき、不思議な重々しい響きに心惹かれたことも幾度となくあった。
また、海辺に立つとき、そこに打ち寄せる波の音も数しれない人々の心を励まし、共感し、苦しみをいやし、またともに悲しみをも受けとめてくれたと感じさせたことだろう。
それは、みな小さな数しれないものの生み出す音。無数の水粒がいっせいにコーラスするのが、あの谷川の意味深い音であり、大波の壮大な打ち寄せる音であり、松の小さな無数の葉たちのコーラスがあの重々しい響きとなるのだった。
神は小さきものを用いられる。無数の小さきものが、神に用いられるとき、他にはかえがたい音楽を生み出すのである。
パウロの祈り
主イエスが教えられた主の祈りは、世界中で最も多く繰り返し言われてきた言葉だと思われます。それは礼拝のたびごとに繰り返し祈られてきたからです。少しでもキリスト教の集まりに参加しはじめた人は主の祈りを知っているわけです。
そのキリストの霊を最も豊かに、圧倒的に受けてきた人はパウロです。だからこそ、彼の書いた手紙は新約聖書の相当多くの部分を占めているのです。ほかの弟子たちとは比較にならないほどに多くが聖書として、神の言として収められているということは、パウロが受けた聖霊が最も豊かであったことをしのばせるものがあります。
そのパウロはどんな祈りをしていたのでしょうか。
パウロの祈りは、彼の書いた手紙のあちこちに見られます。パウロはつねに祈りつつ書いていたと考えられるので、それは当然のことです。神の言とは、いつも真実な祈りの魂へ最もゆたかに注がれるからです。
そのパウロの祈りをここでは学びたいと思います。わかりやすくするために、番号を付けてあります。
パウロの祈り(Ⅰ)
祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(エペソ書一・15~19)
(一)祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。
ここには、パウロが広い範囲の信徒たちに絶えず深く心を注いでいたにもかかわらず、一人一人をも思い出して祈りのうちで、神に感謝していたのがうかがえます。
このエペソ書のほかにもパウロがこのように一人一人を思い出して祈っていることを示す箇所をあげておきます。
わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし・・(ロマ書・一・9)
(二)どうか、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。
知恵と訳されていますが、日本語の「知恵」という語はずいぶん軽い意味です。知恵の輪というおもちゃもあるし、子供が少し生意気なことを言うと、知恵がついてきたと言ったりします。このようなことから、日本語では知恵といっても、大したことでないという感じを持たせる言葉です。しかし、この語の原語(ギリシャ語)は、ソフィアといって、これは、真理にかかわる洞察を意味します。
このような、真理を知ってさまざまのことの本質を見抜く力をいうので、それらは神の霊を受けてはじめて与えられるということです。パウロはそのようなことを人々に対して祈っていたのだとわかります。そして、これは、主イエスが最後の夕食のときに、約束したことでした。
真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(ヨハネ福音書十六・13)
パウロはこの主イエスの約束が実現されるようにと祈っているのです。これは現在の私たちにとっても重要なことで、自分についても他人についても、聖霊が注がれて真理を見抜く力が与えられるようにとの祈りはすべての人間に対して必要なものです。
(三)神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖徒たち(キリスト者)の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
私たちが神に呼ばれて見させて頂いている希望とは、どんな内容なのか、将来与えられるものがどんなに素晴らしいものか、それを知るほど私たちは現在の苦しみや闇に打ち倒されなくなると思います。将来に希望がないと思うとき、心は暗くなり、絶望的になります。希望のない心には力は生まれてきません。
私たちが神を信じるとき、万能の神がして下さると信じるゆえに私たちは希望を持つことができる、しかもその希望は不滅の神に結びついているからこそ、決してこわれない希望です。
(四)わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
この締めくくりの祈りで、パウロがいかに神の力が大きいと感じていたかが、私たちにも伝わってきます。私たちに対して働く神の力が絶大なものであると知れば知るほどにその神に対して希望を持つし、その神が私たちに与えようとしている大いなる天の国の賜物も絶大なものだとわかり、万事が希望に満ちたものとなるわけです。
その反対にもし神が小さいものと思うなら、そこには揺るぎ無い希望もあり得ません。
つぎに、もう一つの箇所で記されているパウロの祈りを見てみます。
パウロの祈り Ⅱ(エペソ書三・14~21より)
(五)どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
パウロの祈りの中心にあったことは、人々の心にキリストが住んで下さるようにということでした。これは別の箇所でもつぎのように述べています。
生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる。(ガラテヤ書二・20)
キリストが私たちの内にしっかりと住んで下さってはじめて私たちは愛にしっかりと立つものとなります。なぜならキリストは愛そのものといえるお方だからです。このように、パウロの祈りの中心は、キリストが私たちのうちに住んで、そこから神から頂いた愛をもって生きるようにということであったのがわかります。
(六)あなたがたがすべての聖徒たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
キリストが内に住んで初めて私たちは愛ということを知り、神を見つめて生きてきた人間は、ますますキリストの愛がどんなに底知れないものであったかがよくわかります。それをこのようにパウロはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さといった物質的な用語を用いて語っています。
キリストの愛はたしかに「長い」。それは、一時的なものでなく、二千年も続いています。私たちもキリストの愛の一端を受けるとき、他者のことを祈り続けることが少しずつできるようになります。
また、パウロの祈りは、キリストの愛の高さを深く実感することもあったのがうかがえます。それはどこまでも高く、深い神との交わりに導かれていくミスティク(mystic)としての祈りの体験をも与えられていました。
それは第三の天にまで引き上げられるほどの祈りだったのです。(使徒ヨハネ、あるいはアシジのフランシスコ、スペインのテレサやダンテなどにも深い神との直接的な交わりを与えられていたのがその著作に現れています。)
人間同士の愛と言われるものが、すぐに憎しみや妬み、単なる愛欲だけのような実に低い所まで堕落してしまうのとは大きな対照をなしています。
(七)わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることができる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
彼の祈りの最後は、栄光、神にあれ!ということでした。どんなに働いても、学んでも、業績をあげても、自分が偉いのだ、自分の努力がすばらしい・・などと自分に語っているようでは、決していいことはない。キリスト者は、いつもあらゆるよいことを自分や他人の努力とか能力のせいにするのでなく、そうした力を与えた神がして下さったと思って、神に感謝すること。それが神に栄光を帰するということです。
「主の祈り」のあとに付けられる、「御国も力も栄光も永遠に神のものです」という祈りに共通するものがここにあります。
以上のようなパウロの祈りをさらにこまかな内容にまで触れた箇所を見てみます。
兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。(ロマ書十・1)
ここでは、パウロは、敵対するユダヤ人のために、まさに「敵を愛し、敵のために祈る」ということを実際に行っていたのがわかります。ユダヤ人へのひそかな復讐的な気持ちとか裁きを願う気持ちでなく、絶え間ない痛みを感じつつ、彼らのかたくなさに対して深い悲しみを持って祈っていたのです。
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることであるが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがある。
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っている。(ロマ書九・1~3)
ユダヤ人たちが彼に対してどんなにひどいことをしたかは使徒たちの記録に詳しく記されています。ある時は、石で打たれ、意識不明になって郊外に引きずり出されたこともありました。またある時には、殺そうとする人たちの手から逃れて危うく一命を取り留めたこともあったのです。しかし、そのようなあらゆる敵意にもかかわらずパウロは、ユダヤ人を憎むとか報復するということは決して考えなかった。逆にユダヤ人のためなら自分がのろわれて捨てられてもよいとまで同胞であるユダヤ人を愛していたのです。
自分がキリストから離されてもよいとまで祈るとは!
それはキリストがいわば、犯罪人としてのろわれたごとくに殺されたそのような死の有り様を思い浮かべているのではないかと思われます。
このパウロの驚くべき祈りは、主イエスが十字架で息絶えるときに、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」と叫んだことを思い起こさせるものがあります。主イエスは自分が捨てられたと感じるほどに深く人々のために最後まで生きたということなのです。人が他者のために命を捨てることほど大なる愛はないと記されていますが、パウロもまさにそうした祈りと願いをユダヤ人に対して持っていたのがうかがえます。
(八)共同の祈り
兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、
また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。(Ⅱテサロニケ三・1~2)
パウロは二千年の歴史でも、最も高く引き上げられ、聖霊を豊かに注がれた人だから、他人から祈ってもらう必要などなかったと思われるかも知れません。しかし、そうではなく、一層他者からの祈りの重要性を知っていたのがわかります。人間は自分だけでは、うっかり祈りをしていないことがある。高ぶってしまうこともある。他人の非難に腹を立てたり、また逆に誉められたり重んじられたらいい気になってしまい、自分の罪が一時的にせよ見えなくなってしまうこともあります。
使徒ペテロはキリストの十字架での死のあと、聖霊を豊かに注がれた人であったけれども、それでもなお、信仰の事柄で根本的な誤りを犯したことも聖書で記されています。(ガラテヤ書二・11~14 参照。)
さらに、病気や悩みなどが深刻になったら、そのことばかりで他人のことまで心が及ばなくなって心が狭くなることもあります。そうしたすべてから守られるためにも、他者に祈ってもらう必要があるのです。
共同の祈り、それはキリスト者はすべてキリストのからだであると言われていることから、当然というべきものです。私たちがキリストのからだの部分であることを知るのは、他者のことを真剣に祈っているときにはっきりと感じるものなのです。
(九)祈りの戦い
兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、御霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。
(「一緒に熱心に祈って下さい」というギリシャ語原文の意味は、「祈りの内で、ともに戦って下さい。」であり、共に戦うという語 シュナゴーニゾマイ sunagonizomai が用いられています。sun は共にを表す接頭語、agonizomai は「戦う」という意味。ロマ書十五・30)
パウロの祈りはまた、戦う祈りでした。キリスト者の戦いは、目に見える人間や組織との戦いではなく、目に見えない悪の霊との戦いであることは、聖書にはっきりと記されています。(エペソ書六・10~18)
そうした戦いにおいては、どんな人でも加わることができます。霊の戦いであるからこそ、寝たきりの人、老人、死の近づいた人ですら可能なのです。ここには、学問とか経験、あるいは家柄などはいっさい関係がありません。
(十)未知の大地を見つめて・世界の果てスペインまで・
このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。・・
しかし今は、・・何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。(ロマ十五・20~24より)
パウロは、自分が知っている人たちだけを念頭においているのでなく、何があるかわからないような未知の大地、世界の果てをもキリストのゆえに見つめ、そこへと導かれることを心から願っていました。今から二千年前では、イスパニア(スペイン)というのは、文字通り世界の果てでした。パウロはローマ帝国の首都であるローマでなく、はるかな遠いイスパニアを思い浮かべ、そこに神の光を、キリストの救いの福音を宣べ伝えるべく祈りを続けていたのです。
(十一)パウロの祈りの雄大さ
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている。栄光が神に永遠にあるように、アーメン。(ロマ書十一・36)
パウロは、神が万物を動かしていること、そして最終的には、万物を神に向かわせていると知っていました。こうしたパウロの言葉を見ると彼は宇宙的スケールで万物を見ていたのがわかります。そのような雄大な神のご計画を見つめつつ、果てしなく大きい存在である神にすべての栄光があるようにと祈っているのです。
パウロの祈りは、神とキリストの深い交わりを持ちつつ、小さき者を一人一人思い浮かべる祈りであり、さらに小さい仲間だけのことを祈るのでなく、敵対する者をも祈る祈りでした。そして時間的には、世の終わりにいたるはるかな未来を見つめ、地理的には、世界の果てを見つめ続ける祈りであったのです。
キリスト者の短歌より
横山 幸子
○印の文は編者(吉村)の感じたこと。
・人生の何おそるべき嵐をも静め給える主とともにいて
○この歌を見ると、聖歌にある「人生の海の嵐」(四七二番)が思い出されます。私たちを吹き飛ばそうとするような激しい嵐であってもなお、それを静めることができる神を与えられていることの幸いを感謝。
すべてを支配されている主がいないのなら、私たちはたえず恐れて過ごさねばならないはず。自分が他人に押し出されるのではないか、無視されるのではないか、将来どうなるのか、結婚、職業は、病気、事故、そして最後の死などなど。不安と恐れの取りまくただなかで私たちの心を静めてくれるものは、いかなる人生の嵐をも静めて下さる主イエスであり、父なる神のみ。
・骨折をせしはいかなる罪ゆえぞ祈れば聞こゆ「わが愛におれ」
○日々の生活のなかで、私たちはさまざまの不可解なこと、苦しみや痛みに出会う。そのたびに、そしてその苦しみが大きいほど、どうしてこのような苦しみに、痛みに会うのかと叫ばざるをえない。キリスト者なら、そんなとき過去き罪ゆえなのではないか、その罪を知らせるため、その罪の大きさを知らせる警告ではないのか、罰ではないのかという思いが心をよぎる。そんなとき、私たちの心を静めてくれるのは、「わが愛にとどまれ」という主イエスのしずかな語りかけである。
・老いて病む独りの吾を思うとき主はかたわらに立ちてい給う
○どんなに健康そのものであっても、年を重ねるにつれて病身となる人が多数を占めている。家族は遠くに去っていくし、配偶者は死ぬ。そのような孤独な状況にあってなお、いっそうの輝きをもってくるのが、主イエスであり、共にいて下さることを実感してさらに感謝が生まれる。
作者の横山幸子さんは、一九二一年高松市生まれ。一九六〇年キリスト教を信じるようになった。一九八六年から朝日新聞で「香川歌壇」などに投稿を始めた。現在も高松市在住。この歌集を贈呈下さったので、一部を紹介しました。
ことば
(107)最もよい時
最もよい時期として思い出に残るのは、しばしば、それに直面しているときには最も苦しく思われた時期である。
というのは、その時期に、われわれは成長をとげたか、あるいは、その苦しみがなければいつまでも残ったであろう自分の欠点を脱ぎすてたからである。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」下 11月14日)
○だれでも、今まで自分が生きてきた中で最も苦しかったとき、危険であっときを思いだし、そこから導き出された経験を持っている人は、このヒルティの言葉に深い共感を抱くことと思います。
単に楽しかった思い出だけでは、人間は深いところに巣くっている欠点を知ることもできないし、したがってそれから離れることもできないのです。二度とあのようなところは通りたくない、と思えるような苦しみの時、いわば死の蔭の谷、涙の荒野というべきところが実は後から振り返ってみるときには、最大の恵みを受ける場であり、時であったと知らされます。
休憩室
○星と盲人
前月に図で示した土星と木星、そしておうし座のアルデバランという一等星は十月にははっきりとした直角三角形に並んでいましたが、一か月経った十一月下旬には、その形がもう直角三角形ではなく、少し平たい三角形のようになって見えます。
一般の人は、全盲の人は星など関心があるはずがないと思っている人が多いのではないかと思います。
しかし、全盲の方も外に出て、目の見える人に指さしてもらって星を教えてもらうことは、宇宙の広大さに触れる思いがするし、神の天地創造のわざの一端に触れる思いがするので、私たちの集会員にも特別な関心をもって夜空の星のことを見ている方もいます。それは、心の目で星を見つめることができるからです。
○フクロウ
わが家の裏山からは、一カ月か二カ月に一度ほどフクロウの鳴き声が聞こえてきます。じっと耳をすますと夜の闇の中から、静まった山の谷間を越えて響いてくるその声は、私たちを昔の自然ゆたかな時代へと引き戻してくれるようです。
この山には子供の頃からいた、フクロウ。以前は何の声かわからなかったのですが、その声には不思議な印象が残っています。
ずっと昔に夜になると鳴いていたもう一つの鳥はヨタカです。クックックッと夕闇の迫る山の方から聞こえてくるヨタカの鳴き声も、心に特別な印象を残している声です。これは子供のときに親しかったものですが、この鳥はもうかなり以前から耳にすることはできなくなり、他の地域や山に行ったときも含め、長い年月聞いたことはありません。
しかしフクロウは今も時折、その声を響かせては、私の心に、ある波紋を広げてくれるのです。
○別の文で書きましたが、秋は少し里山に入るといろいろの野草、葉の紅葉、草や木の実などに出会います。植物、とくに野草の花は病気の人も健康な人もどこか心に安らぎを与えてくれるものがあります。
ペットをいくら愛好する人でも病院に持っていくわけにはいきません。
その点、植物は単調な入院生活をしている人にも新鮮な何かを感じさせるものがあります。都会はその点ではまことに残念なことに、自然のすがたそのままの野草には出会うことができません。人間の心の荒廃はこうした静かな自然とのふれ合いが断たれていくことにも原因があると思われます。私はそうした都会の人にもせめて、思い浮かべることによってでも、自然の姿に触れてもらいたいと願って、自然ことに野草などの植物にかかわることを書いています。
返舟だより
十一月三日(金)、「祈の友」四国グループ集会が愛媛県南部の北宇和郡の日本キリスト教団岩松教会で行われました。徳島からは二名の参加で、愛媛県を中心として終わり頃に参加された方も含めると十九名が集いました。
祈りは教派とかに関係なくできることですので、近くの人、遠くの人ともに毎日の生活のなかで、祈り合うというただそれだけの集まりですが、祈りによって主といっそう強く結ばれ、遠く離れた人とも新しく主にあってキリストのからだの一員とされるのは幸いなことです。そこに神が共にいて下さって、初めての人、久しぶりの人とも祈りを合わせることが与えられてよき集まりとなりました。愛媛県の「祈の友」、会場の教会の方々に感謝です。
○十一月四日、五日は東京でのキリスト教全国集会(無教会)に参加。今年は、徳島からは三名の参加。その他私たちの集会との関係の深い大阪狭山市の宮田
咲子姉が発題者の一人として参加され、かつて徳島の集会に参加されていて、今は東京在住の看護婦のKさんも参加されていました。
全国集会は、一年に一度の集まりで、だれでも参加できるものです。今年は子供のための日曜学校も併設するという新しい試みもありました。考え方や信仰的な傾向のちがうさまざまの集会からの代表者と話し合いを続けて全国集会を実施するのはたいへんなことだと思います。しかしそうした労苦は主によって用いられていると思われます。私は今回の全国集会においても、初めての方や何年ぶりの方とも会って信仰に関わる交わりを深めることができたこと、感謝です。
○「はこ舟」にはわかりやすい言葉を使うことをいつも心がけています。それは、キリスト教とか聖書に初めての人にも読みやすいようにと考えているからですが、その他にも理由があります。
この「はこ舟」は、他の内容などとともにテープに録音されています。それは、集会員の綱野悦子さん(全盲の方です)が作成している「アシュレー」というテープ雑誌です。これは、視覚障害者を中心として希望の人たちに送付されています。
それと別に、「はこ舟」の内容はインターネットによって送り、視覚障害者(全盲、弱視)の一部の人たちにもパソコンによって朗読させて聞いてもらっています。
その際、音読してわかりにくいような言葉は、それがもし重要な言葉であれば、テープやパソコンを用いて聞いている人にとっては、意味不明になったり、別の意味にとってしまったりするからです。そのためにも、音読してだれでもわかるような言葉を選んでいるわけです。
○徳島聖書キリスト集会のホームページ
私たちの徳島聖書キリスト集会のホームページの内容そのもの選別は私(吉村)が担当し、それらのレイアウト、配色その他ホームページの実際の手数のかかる作成は集会員の数度勝茂兄が担当しています。数度兄は視覚障害者(弱視)でもあり、背景の色、レイアウトなどはわかりにくいところもあるので、必要なときには何種類かの案を送付してもらった上で、それらをもとに変えたり、追加してもらうなどしながら作られています。
徳島聖書キリスト集会のホームページのアドレスは次の通りです。
なお、以前の「はこ舟」の封筒に印刷してあったアドレスが次のように変わっていますのでご注意下さい。
http://pistis.jp/
http://pistis.jp/testbox/default.htm
ホームページの用い方はさまざまと思いますが、先日、次のようなメールが送られてきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっと 貴ホームページを拝見しています・・
実は、 毎朝オフィスに誰もいない時間に着き、まず私の部屋(個室があるので)で貴ホームページを開き、賛美歌を一曲 聴くのです。一日の働きを祈りをもってはじめるのに 最善の助けとさせていただいています。
インターネットにはこんな使い方(効能)もあるわけです。クリスチャンにはインターネットに消極的なことを言われる方が多いようですが、新しいものに前向きに取り組むことも必要だと考えています。
良い賛美歌を作られる方がおられるのですね。
愛聴者がいる、とお伝え下さい。賛美歌を追加する、とありますが、それも楽しみに待っています。(九州の方より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
○杣友豊市文集のこと
去年発行した杣友(そまとも)豊市文集を最近になって読み始めた方からの来信です。
・(いろいろと事情があり)・・やっと杣友先生の文集を読むときが与えられ、朝の雑念が入らないうちに日課としている内村鑑三の「一日一生」と「はこ舟」とともに少しずつ読み進んでいます。短い文章のなかに、光るように真理がこめられ、純粋な信仰に打たれております。さっと読み進むのはもったいなく、噛むように少しづつ読み味わわせて頂いております。今、「永遠の生命を求めて」の文を読み終えたところですが、すばらしい回心、新生で感動しましまた。(中部地方の読者より)
・先日お送り下さいました杣友兄の文章、まことに有り難く拝読さしてもらっています。伝道の書、イザヤ書、エレミヤ書など分かりやすく、要点がすばらしく書かれていて大事に読ませてもらいます。妻にも日曜日に話して聞かせます。礼拝のときにもイザヤ、五十二~五十三章はくわしく学んだ所でしたので手に取るように読みました。(中国地方の読者より)
○前号にダンテの「神曲」のことに触れましたが、読者の方からの来信です。
・若干のグループに加わっていてそこで、ダンテ「神曲」を学んでいて、今は、「煉獄編」の後半です。また、中村勝巳「近代文化の構造・キリスト教と近代」(講談社学術文庫)も読んでいます。これはぜひ皆様が読むべき本ですね。全体の進路と様子がわかるからです。また、矢内原忠雄の「嘉信」旧号も少しづつ読んでいます。(関東地方の読者から)
・ダンテの神曲は一度は読まなくちゃと思っていたのに、今まで果たせませんでした。けれどこの際、果たそうと思います。全く今までなまけてきたことを感じます。今回聖書に触れるようになりましたのも、偶然ではなかったように思います。・・何となく生まれ変わったような感じがするのは本当です。(最近聖書を読むようになった方から)
・ダンテの神曲は深い内容が込められているといっても、やはり注解書がなければその内容は十分にはわからないものです。私たちの集会の読書会では十年ほどをかけて、神曲を終えましたが、そのときに私が用いたのは、矢内原忠雄の土曜学校講義の「神曲」講義、生田長江訳や、河出書房からの口語訳、それに寿岳文章訳「神曲」など種々の日本語訳に付けられている注釈を参照して教えられました。
なお、海外のものでは、発行されている多くの注解書のうちで、とくに「DANTE The Divine Comedy 3Vols (OXFORD UNIVERSITY PRESS)」という三巻の注解書や「La Divina Commedia Annotated by C.H.Grandgent(Harvard University Press)」、「The Divine Comedy (Modern Library College Edition)」などの各歌のはじめに書かれてある簡潔な注解などがとくに有益でした。英語が読める人はこうした外国の注解書を求めて参考にすることができます。
徳島聖書キリスト集会集会案内
・場所は、徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時三十分から(旧約聖書を学んでいます)
・なお、毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で毎月場所が変わります。
(現在の移動夕拝は、板野郡藍住町、徳島市川内町、麻植郡山川町、徳島市国府町の四箇所を移動しています。)
☆その他、土曜日の午後二時からの手話と聖書の会、日曜学校(日曜日の午前九時半から)が集会場にて。
また家庭集会は、海部郡海南町、板野郡北島町、徳島市国府町(「いのちのさと」作業所)、板野郡藍住町、徳島市住吉、鳴門市などで行われています。
また祈祷会が月二回あります。問い合わせは下記へ。
・代表者(吉村)宅電話(FAX) 08853-2-3017