今月の聖句 尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 |
2000年9月 第476号・内容・もくじ
混乱の中で
最近とくに異常なほど少年の特異な犯罪が続出している。仲間や自分の親の命を奪ったり、生涯にわたって苦しむような重い傷を与えるような行動は、それは他人をも自分をも生きている限り、償いようのない苦しみに巻き込むことになるのが見えないのだろう。
しかし、そのような混乱のなかにも、光は依然としてある。 キリスト教の不滅の価値は、いかなる事態が生じようとも、決して自分が捨てないかぎり希望を失わないでいられるということだ。
いかなる出来事が生じようも、それでも神はいる、神の愛はあると信じ続けるものには、たしかに神の存在や、神の愛を実感できるような人と出会ったり、出来事が生じたりする。
闇はだれも見たくない、しかし闇は周囲にある。闇深くなれば、いよいよ絶望するほかはない。しかし、キリスト者はその闇の深まるならますますはっきりと光を実感することができる。
「闇のなかに光は輝き続けている」ゆえに、キリストと結びついているかぎり、私たちは闇が深まるように見えても、そのなかで真理の光をますます明瞭に見るようになるだろう。
受け身の生活
私たちが生きるときに、受け身であってはいけないとよく言われます。他人から言われるままに生きている、それは意志の弱い、自主性のない人間だということになります。
他人に動かされずに、自分で判断し、自分で行動すること、それはだれにとっても重要なことだと言えます。
自分で判断できないなら、当然他人の判断で動かされることになるからです。
このように、受け身でなく、能動的に、主体的に生きることはあまりにも当然のことだと思われます。
しかし、聖書においては意外なことですが、最高の生き方は、受け身の生き方であるとされているのです。しかしそれは人間に対して受け身でなく、神に対しての受け身の姿勢です。
まず主イエスご自身はこのことに対してどう言われたかです。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子(イエスのこと)は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。(ヨハネ福音書五・19~20)
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(同30)
このように、主イエスは驚くべきことですが、自分ではまったく何も行えない、ただ神からの言葉を受けて、神の意志を行うだけだと言われています。主イエスこそ完全な受け身の生活をされたお方であったのです。
それは、聖書にいう神とは、完全な愛と真実のお方であり、万能であり、時間や空間を超えたお方であるゆえに、そのような神の御意志を受け取ることが最善だということになるからだといえます。
キリスト教における受け身の生活とは、このような、すべてを持っておられる、永遠の岩である神を信じてはじめて生じることです。
このような真理の霊に対しての受け身の姿勢は、ギリシャ哲学者の代表的人物の一人、ソクラテスにもはっきりと見られます。ふつうは彼は哲学者という名から自分で思索して自分で行動する代表的人間のように思われています。
しかし、彼が裁判の結果死刑になることを承知で、あえてその裁判に臨んだのは、意外にも、彼自身の哲学的判断の結果ではなかったのです。哲学者とは、いっさいのことを、理性的に鋭く考察して、その結論にしたがって生きる人だ、ソクラテスのように人類歴史上で最大級の影響をもたらした哲学者はその典型だと考える私たちにとって、彼が生涯の終わりの最も重大な決断を要するときに、肝心の自分の理性的考察でなく、「神からの声」によって決断したというのは、驚くべきことです。
ソクラテスには、すでに若いときから、間違った行動や発言をしようとしたときには、必ず心の奥に、ある警告の声が聞こえてきたといいます。それはじつにしばしば生じたことであって、ソクラテスはその声に従って生きてきたというのです。彼は長い生涯の経験からその声に従っていくとき、必ずよいことになると知っていました。彼の最期となる裁判のときも、家を出ようとするときにも、その神の声は反対しなかった、いよいよ裁判が始まって法廷に立とうとしたときにも、法廷での弁論の途中でも、その声は反対しなかった、だから今回の裁判の結果、死刑になるということは良いことであったと考えざるを得ない、その最大の証拠は、神の警告の声が自分の行動に反対しなかったということだと述べています。(プラトン著 「ソクラテスの弁明 40A~C」)
神の声に聞いて、その声に従って行動する、その姿勢こそは聖書を一貫して流れる受け身の姿勢です。
私たちは真理に対しては、ただ受け身であらねばならない、私たちは真理を受け取る器でしかないということです。
つぎに二千年のキリスト教史上の最大の使徒というべき、使徒パウロについて見てみます。彼の代表的な著作は、ローマの信徒へあてた手紙です。ここには、人間の罪の本質、その罪からの救いとは何か、イエス・キリストを救い主として受け入れなかったユダヤ人はどうなるのか、救われた者はいかに生きるべきか、何が救われた者を導くのか・・などなどについて詳しく書かれています。
そのパウロがどんな心で生きていたかは、随所に見られますが、その手紙の冒頭の表現に凝縮されています。
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、・・(ローの信徒への手紙一・1)
ここでパウロは自分の肩書きとして第一に、「僕」と言っています。しかし、この僕と訳された原語はドゥーロス(doulos)といい、奴隷という言葉です。奴隷とは、主人の言うままになる存在です。全く自分の考え通りにはさせてもらえない人間です。
自分はキリストの奴隷である、そういう驚くべき表現をして、パウロはいかに自分がキリストを主人とし、そのキリストに言われるままに生きている存在であるか、言い換えればいかに自分はキリストに対して全面的に受け身の生活をしているかを一言で示そうとしたのです。
つぎに、「福音のために選び出された」と言っていることについてです。
ここでも、自分でいろいろと考えて福音のために働こうと決心したというのでもなく、ある特定の人物とか宗教的組織から命じられたのでもないのです。神によって選び出されたという受け身の表現なのです。
つぎに、「召された」という言葉があります。しかし、この日本語は、現在ではここでの意味のように「呼ぶ」という意味では、ふつうの会話ではまず使われない言葉です。(*)
(*) もともと、この「召す」という言葉は、「見る」の尊敬語であって、そこからいろいろに用いられている。「ご覧になる、治める、呼び寄せる、取り寄せる、命じる、捕らえる」などに使うほか、「食う、
飲む、着る、乗る、風邪を引く」などにも使われる。
そのために、何かキリスト教の特殊な用語のように見えますが、そうでなくごく普通の「呼ぶ」という言葉であり、「召された」というのは、「呼ばれた」という意味です。
ですから外国語訳もほとんどすべてふつうの「呼ばれた(英語では、called)」という語を用いています。
「召されて使徒となった」ということは、「神に呼び出された」ということであり、ここでも受け身の姿勢がはっきりとしています。自分の考えや希望でキリストの使徒となったのではないということなのです。
事実、パウロはキリストに呼び出される前は、逆にキリスト教徒を殺そうとするほどに迫害をしていたのであって、彼自身の考えではとうていキリストの使徒になるなどということは考えられないことだったのです。
また、召されて「使徒となった」とあります。この使徒という言葉も原語では、「遣わされた者 apostlos」であり、これは「遣わす apostello」から造られた言葉で、やはり受け身の意味を持っています。
このように、ローマの信徒への手紙の最初にパウロは自分の肩書きともいうべきものを書くにあたって、キリストの命じるままに生きるという徹底した受け身の者であり、選ばれた者であり、呼び出された者であり、遣わされた者であるといっており、すべてにわたって、○○された者であるということを深く知っていたのがうかがえます。
私たち自身はどんなに自分で自分を変えようとしても変えることができない、ことに私たちは、敵対してくる人のために祈る愛の心というのは、どうしても持つことができません。
神の力により、聖なる神の霊によって変えて頂く必要があります。
私たちはつねに自分の力では正しい道を歩んでいくことができない、どうしても自分中心の利己的な考えで歩んでしまいます。
そのため、私たちは自分の考えや経験、あるいは他人の助言とか周囲の考えなどによって歩むことなく、神の霊によって導かれる生活が不可欠となってきます。
さらに、この地上での最期の死ということこそ、人間にはどうすることもできない事実です。その死というすべてのものを飲み込んでいく力から救われるために、神の力によって霊のからだに変えられる必要があります。ここでもただ人間は受け身になって、変えていただくのを待ち望むばかりです。
キリスト教の根本の精神が受け身にあること、それは旧約聖書にも多く見られます。
信仰の父と言われるアブラハムのことが詳しく書かれていますが、その出発点はアブラハムが神からの声に聞いて従ったということでした。ここでも、アブラハムは自分の考えや判断で決めたのではなく、ただ聞こえてくる神の言に従ったということなのです。
このことは旧約聖書でアブラハムと並んで、特に重要な人物であるモーセも同様です。モーセも妻子を与えられて、平和な羊飼いの生活をしていたときに、神からの呼びかけを受けてそれに従ったのです。
このように、聖書は数千年昔の旧約聖書の人物から、新約聖書の人々まで、つねに神に対して受け身である生活をしてきた人のことがたくさん載っています。
この受け身の生活は、ごくふつうの人にも重要であるということが、マリアとマルタという姉妹の出来事にも記されています。
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。
そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(ルカ福音書十章より)
この有名な出来事は、一見意外なこと、不可解なことです。姉が主イエスをもてなすために忙しくしているのに、妹がじっとイエスのところで話に聴き入っている、しかもそのような態度を重視されたのです。
しかし、ここで言われているのも、キリストに対して受け身であるべきこと、神の言葉に対してはまず何よりも受け身の姿勢でなければならない、そうでなかったら、私たちがしている行動もやがては不満とか飽きてしまうとかでできなくなってしまう、ということです。
また、山上の教えにおいて、第一に言われているのが、「ああ、幸いだ、心の貧しい者たちは!なぜなら、その人たちにこそ神の国は与えられるからだ。」 ということです。
これも、心に高ぶることのない、幼な子のような心とは、すなわち、受動的な心であるからです。
神とキリストに対しては、受け身になる。
しかし、人に対しては、たとえ敵対する人であってもその人に対して祈りをもってせよ、との主イエスの言葉は積極的に、能動的に関わるようにとの意味が込められています。 アブラハム、モーセ、エレミヤ、イエス、パウロといった聖書のなかで特別に重要な人たちがみな、神に対して全面的に受け身の姿勢を持っていたこと、そしてその後二千年の人類の歩みにおいても、それは続いています。
例えば、古代末期最大のキリスト教指導者と言われ、神学者、哲学者であったアウグスチヌスの例を見てみます。彼のような天才も、三十二歳になってもなお悩み苦しんでいて、いつまでこの苦しみが続くのかと叫び続けていた。
そうしたあるとき、近くから「取りて読め、取りて読め!」という不思議な声が聞こえてきて、それは神の命令だと悟り、それに従って聖書を開いた、そして最初に目に触れた箇所を一読した。心は光のようなものに満たされ、それまで覆っていた闇がすっかりかき消されてしまったと記しています。(「告白」第八巻12章)
ここでも、アウグスチヌスが自分の考えや欲望で動いている間は、真理の道を歩むことができなかったが、神に対して受け身になって、神からの助けを必死に求めるようになったとき、初めて神からの呼びかけが聞こえてきて、その声を受け入れることによって新しい生活が始まったのです。
また、女性としては世界で最も広く知られてきた一人である、ジャンヌ・ダルクも、十三歳という少女のときに、初めて神からの語りかけを聞きました。彼女のすべてはそのことから始まり、後にフランスを救った聖女として有名になりました。彼女は、フランスを勝利に導いたあと、イギリス軍に捕らえられ、宗教裁判によって異端とされ、火あぶりの刑に処せられたのです。
彼女の裁判の記録が現在読めるようになり、そこから六百年ちかく昔のジャンヌの裁判の様子がうかがえます。そこで彼女は、自分が助かりたいといった願いから答えるのでなく、何かを質問されたとき、「この点はわが主のお許しを受けています。」と言って、答えたり、あるいは、「そのことを話してもよいという、神からの許可がないんからです。」と言って何一つ語ろうとしなかったこともあります。
看護婦の地位を著しく高めた、ナイチンゲールも、十七歳のときに、「私に仕えよ」という神の言葉を聞いたことから、出発しています。
こうした例はいろいろとありますが、現代ではマザー・テレサの例がとくに知られています。マザーも、列車の中で聞き取った声に従ってあのような大きい働きをしたのです。 これらはみな、神の言、神からの語り掛けに対して受け身となりその声の命じるままに、また導くままに従っていった人たちです。
人間に対してではなく、神に対して全面的な受け身の生活こそ、限りない道がその向こうに続いているのがわかります。
女性と助け手
(創世記二・18)
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう さに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記二・18~25)
助け手の意味
ここで、まず問題となるのは、創世記においては、女性はアダムなる男性の助け手として創造されたということについてです。助け手という存在は、より上の立場の人に仕える人とも言えます。
そのような助け手という存在は、私たちの常識では、劣ったものという感じがあります。例えば、大学教授に対して助手という地位がありますが、助手とは教授よりずっと劣った地位だと見なされています。
また、たいていの職業には○○長という地位があり、それに対して助ける立場の副○○というのがあります。例えば、校長を助ける立場の人は、副校長、もしくは教頭といった具合です。
このように助ける者は、より劣った者だというのは、だれでも知っているほどのことだと言えます。
そのような現代の私たちの常識的考えからこの箇所を読むと、古いとか、男女差別だとかいう意見が出てきます。
しかし、現代の私たちにとっては、旧約聖書の記述をそのまま絶対としては受け取るべきでない記述もいろいろあります。例えば、アブラハムやヤコブ、ダビデなど旧約聖書の模範となるような人物であっても、多くの妻を持っていました。そして旧約聖書においてはそれが悪いことだという記述はありません。
また、食物にしても、複雑な規定があり、ひづめが分かれていて反すうする動物だけが食べてよいのであって、そうでないラクダとか野ウサギ、イノシシなどは汚れているから食べてはならない。
またひれ、うろこのないタコやイカのようなものも汚れているなど、あるいは、血を食べてはならない、食べる者は死刑となるなど、現在からみると全く無意味なような記述があります。
主イエスも口から入る食物によっては汚されることはないと言って、旧約聖書のこうした記述が意味を持たないことを明言しています。(マタイ福音書十五・11)
こうしたことから考えると、私たちは旧約聖書の記述は新約聖書に照らし合わせて見るべきだということがわかります。創世記の記述もアダムとエバは夫と妻という関係でした。それなら、新約聖書では同様な夫と妻という男と女の役割についてはどう言っているのか、新約聖書でよく知られた箇所を引用します。
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エペソ書五・21)
聖書では、人間の第一の義務は神を信じて、神に従って生きるということです。それがすべての前提となっています。真実と正しさ、そして愛に満ちた神を信じないということは、人間を信じ、人間に頼ることになりますが、人間がいかに過ち多いか、罪深い存在であるかを思うとき、そうした人間に従うことがすべてに間違いを生じることは容易にわかることです。
そのことが「キリストに対するおそれをもって・・」に記されています。キリストへのおそれを持つことは神へのおそれを持つことであり、キリストを信じることはキリストを遣わした神を信じることです。
夫婦が神を信じてはじめて「互いに仕え合いなさい」という戒めが意味のあるものとなってきます。
神を信じないときには、そもそも仕えるということはいやなこと、価値の低いこととしか考えられないからです。
神を信じて従うということがあって初めて、仕えるということに深い意味があることを知らされます。
助け手あるいは仕える者、これは低い存在だと思われがちです。しかし、私たちはこの地上で生きている限り、だれかによって助けられ、また助ける者にもなっていると言えます。そして、主イエスは、支配する者でなく、仕えるものこそ大きいと言われました。
そして驚くべきことですが、主イエスご自身が、支配するためでなく、命をも捨ててあらゆる人に仕えるため、救いのために来たと言われたのです。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(マタイ二十・25~28)
このように、聖書においては、そもそも仕えること、助け手となることがよくないことだとか、低いことだとは言っていないのであって、むしろ神を信じて仕える心こそ、最も神に喜ばれると言われています。
主イエスご自身が、このように、すべての人々に仕えるため、助け手となるために地上に来られ、そして十字架に付けられたのでした。
主イエスは私たちの助け手ですが、神ご自身が私たちの助け手であるということは、旧約聖書からしばしば言われています。
我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。(詩編三十三・20)
神ご自身が助け手であることは、人の名前となっても現れています。例えばつぎのような箇所です。エリエゼルとは、「神は助け」という意味です。これはエリ(神)とエーゼル(助け)から作られた言葉です。
ほかのひとりの名はエリエゼルといった。「わたしの父の神は我が助け、パロのつるぎからわたしを救われた」と言ったからである。(出エジプト記十八・4)
創世記の箇所で男の助け手として女を創造しようと言われたときの「助け手」という原語(ヘブル語)も、同じエーゼルという言葉です。
助け手となるということは、実に深い意味を持っています。それは日常の単なる雑用の手助けとか、リーダーの雑用などを助けるなどを連想するので多くの人は、つまらないことだと思ってしまいます。だからこそ、女性は男の助け手として創造されたという表現を嫌悪感をもって読むということになってしまうのです。
しかし、助け手になるということの意味は、主イエスご自身や神が助け手であるということを考えても、これはたいへん大きく、深い意味を持っているのだと知らされます。
最も深い意味での助け手であるとは、神やキリストのような役割を果たすことなのであって、それは魂に関わること、永遠の命に関わることなのです。闇に苦しむ者の助け手となることは、その魂をキリストに連れていくことであり、キリストの救いを得させることになるわけです。
このように考えると、もし夫がキリストを信じていないときでも、その助け手となる最も深い意義は、その夫をキリストに導くことと言えます。
双方がキリスト者である場合には、互いに仕え合うということが言われていて、片方だけが仕えるべき存在だとは言われていないのです。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会(キリスト者の集まり)の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。・・夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
ここでわかることは、夫婦が神を信じてキリストを畏れ、、互いに仕え合うということを前提とした上で、妻には夫に仕えるようにと言われています。そして夫には、キリストが命を捨ててまで人々の救いのために尽くされたように、そのような深い愛をもって妻を愛せよ、と言われています。
ここでの愛せよという動詞は、神からの愛を表すアガパオーが用いられていて、単なるふつうの人間的な夫婦愛を言っているのではありません。
このような愛は主イエスのように仕えることに導きます。ですからこの箇所で言われている、「互いに仕え合うように」ということこそ、一言で言い尽くしているのだとわかります。
ここで仕えるという意味について。イエスは人々のため、弟子たちのために仕えた、しかし、イエスは決して彼らの人間的考えには従わなかったのです。仕えるとは、単に何も考えずに言われた通りにすることでは決してありません。真理に結びつくようにとの祈りをもってすることこそ仕えることの本質です。
人間が創造されたのも神に仕えるように、神の言葉に聞きしたがって神の国の建設の助け手となるようにということなのです。人間全体が神の国の助け手となるようにと創造されているのです。
宗教改革者、ルターはその短いが、主著の一つである「キリスト者の自由」という著作の冒頭において、つぎのように述べています。
キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主(王)であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。
この本来矛盾するような二つのことが、キリストによって可能となるというのです。キリストご自身が、王であり、またすべての人に仕え、助け手であったゆえに、そのキリストに従う者もまた、そうした二つの本質を与えられるというのです。
最もよき助け手となること、これは神やキリストのなさったような助けに関わることです。そうした意味で、創世記のこの記述は決して女性への差別とか軽視でなく、これは聖書全体を見て判断すべきことであり、新約聖書において、それは男女を問わず人間のあるべき姿として現れてきます。
神やキリストこそ最大の助け手であることから考えるとき、女性に実に大きい使命が与えられていることを暗示するものだと言えるのです。
名を付けること
名を付ける、これは、簡単なことのように思う人が多い。しかし、決してそうでなく、例えば、植物の名前を知るとそれまでとは全く違った風にその植物が見えてくるということがよくあります。
ある植物の名を知るとは、その植物の花、葉、茎の様子、色、形、全体としての植物の姿などを知ることなのです。さらに、月日が経って実となり、また紅葉するときの状態、春の新芽や若葉、つぼみなど、それからどういうところに生えているかなどさまざまなことが見えてくるのです。
例えば、夏に土手などに咲いているオニユリという名を知ることは、あの独特の野生的な赤い花と葉、茎の様子、そして周囲の強そうな野草の中からそれに負けじと成長していくたくましいすがた、そしてその葉の付け根に生じるムカゴ(これが地に落ちると新しく芽が出てくる)などが一緒に思い出されるのです。
名前を知るとは、相手の本質に関わることだったのです。少なくとも相手の何かとの結びつきができるので、名を知った植物が多くなると、その植物を創造した神の心もまた近く感じられてくるほどです。
このように、名を知ることは、単なる暗記にすぎないことだ、として初めから放置する人が多いのですが、まったくそれは間違ったことだと言えます。
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。(創世記二・19~20)
これは、単に興味半分に名前を付けたということでなく、一つ一つの動物の本質を見つめていったということなのです。そうした上で、自分の本質に合う助け手を見いだすことができなかったのです。
その上で神は、人を深く眠らせて胸の骨(あばら骨)をとって、それから女を創造したとあります。
なぜ、神は女を胸の骨などで造ったのかと疑問になります。また、その後で、創造された女を見て、言った次の言葉は現代の私たちには実に不可解な言葉です。
人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉!これこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(23節)
長い間、本当の助け手を求めていた人がついに神から与えられた、助け手(女)を見て、「私の骨の骨!」などと叫ぶことは、日本人なら決して考えられないことです。数千年も昔の、しかも日本とは全く異なる風土、感情を持った人の言葉は日本語にはない、意味があることは当然だと言えます。ここでは、実際に人の胸の骨からとって創造されたことからそのような深い結びつきを指しているのはわかります。
聖書においては、「骨」というのは、単に生理学的な骨だけを意味するのでなく、つぎのように心の奥深い部分を指している場合があるのです。
主よ、憐れんでください。…主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのか。(詩編六・3)
わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶ者はありません。貧しい人を強い者から、貧しく乏しい人を搾取する者から助け出してくださいます。」(詩編三五・10)
このように、見てくると人が、女を見て、私の骨の骨!と叫んだのは、自分の魂の深いところで一致する存在だと実感したことを表していると言えます。
さらに、言葉の上でも、男を表すイッシュから、女を表すイッシャーが作られたと言われています。
このようにして男と女は、本来一つの存在であって、心あるいは魂を暗示する胸の骨から創造さたのが女であるから、からだの面だけでなく、心の深いところで一つになるようにと創造されたのです。
そして、一つになるということは、男と女だけでなく、新約聖書になると神を信じて、キリストを受け入れるときには、男女を問わず、人間がみな「キリストのからだ」であり、一つの体であると言われるようになったのです。
このように、旧約聖書の記事はつねに新約聖書の記述に照らしあわせて始めてその深い意味が浮かび上がってくるのがわかります。
夕べの祈りから
(C.ブルームハルトによる)
○愛する天にいます私たちの父よ、
この世においては、不安がありますが、あなたの内に私たちは平安を得ています。
聖なる霊によってあなたの天の国の喜びを与えて下さい。
あなたに仕えることによって、自分の日々の生活を生きる力を与えて下さい。
苦痛を忍び、悲しみ、不安、苦難の道を今もなお歩んでいるすべての人たちを覚え、神の賜物を与え、助けを与えて、それによって彼らが神に感謝するようになりますように。
あなたの大いなる憐れみと、誠実さによって待ち望み、望むことを許されているものによって、私たちをすべて結び合わせて下さい。
○主よ、私たちの神よ、天にいます私たちの父よ、私たちはあなたの子として、みもとに行き、祈り願います。
私たちを祝福して下さい!
私たちはしばしば不安になります。しかし、そのような時にこそ、私たちを祝福し、約束通りにあなたの助けをあらわして下さい。
キリストは全世界の救いのために来たお方なのです。
私たちに、み言葉を祝福して働かせ、私たちが繰り返しいのちある者となるようにして下さい。
(私たちの祈りが自分勝手なものにならないよう、祈祷書によって祈ることも必要なことです。これは、ブルームハルトの祈りの本からの引用ですが、筆者の祈りも主イエスも弟子たちに対してそのような祈りを教えられました。主の祈りには真に必要な祈りが記されています。なお、ブルームハルトは一八四二年生まれの牧者、神学者でバルトや、ブルンナーなどにも大きな影響を与えました。)
休憩室
○真珠
マーガレットという名は、よく知られています。少女雑誌の名前に付けられたり、西洋の女性の人名でも出てきます。さらに少し花に関心がある人ならだれでもが知っているマーガレットという花の名前としてもなじみがあります。
しかし、そのマーガレットとはどんな意味なのかになると、あまり知られていないようです。それはギリシャ語のマルガリテースから造られた言葉で「真珠」という意味なのです。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・46)
福音の真理、キリストの真理は、高価な真珠だというのです。
歳月を経ても変質することなく、その輝きを失わない本質が真珠にたとえられています。
生きるとは、この世のすべてにまさる「高価な真珠」である真理を見いだすか、それともすぐに壊れる土器のようなものだけがすべてと思って人生を終わるかのいずれかになると言えます。
○夕顔(ヨルガオ)
八月の終わり頃から、わが家では妻が種から育てた夕顔が咲き続けています。
夕顔というと、本来は、かんぴょうを作るウリ科のものが昔からあった夕顔です。それとはちがってかんぴょうなど取れないし、実も固くて小さい鑑賞用のもので、アサガオの仲間(ヒルガオ科)を、ヨルガオと言って区別していますが、この名称はあまり一般的ではないようです。
夕暮れが近づくとき、真っ白い直径十五センチにもなるような大輪の花を咲かせ、香りもよい花です。夕闇に白い花が浮かび上がるように咲くその姿は、昼の太陽のつよい日差しのもとで咲く花とはちがってどこか、静けさが漂っていて、見るものに語りかけるような味わいがあります。
キリストがつねに共にいるとき、私たちは人生の夕暮れになっても、なお純白の花を咲かせることができるのであろうと、ふと思ったことです。
返舟だより
○去る八月二十日(日)の主日礼拝には、奈良県在住で、しばらく徳島県の西部に滞在中の方が私たちの集会に、堺市のMさんと共に参加されました。次はそのNさんからの来信です。Nさんはもうじき九十二歳になるというのに、とてもお元気で主の守りと祝福を感じました。
先日は思いがけない主のお計らいにより、M姉とともに徳島の地での礼拝に参加させていただきありがとうございました。
御集会への姉妹たちの親切により、疲れることなく、二回も出席できました。(*)
また帰りには先生のお世話になり、吉野川の水辺に立ったとき、主に満たされ、聖霊に満たさ
れて久しぶりの心境でした。主に選んで頂いたことに感謝します。
集会の皆様の、身にある障害など気にせず、手話あるいは点字での理解により、明るい雰囲気に感激。
今まで生かされてきた九十一歳六カ月の私は、集会の姉妹たちに教わることいっぱいでした。・・
○四国地方のTさんからの来信です。
「はこ舟」にて杣友様の転居のいきさつを知りました。本当に驚きましたが、主のお導きと本人も決断されて、○○様のご協力で事が運びました由、ありがとうございます。
「はこ舟」では、聖書のみ言葉についてはもちろんのこと、自然に関する感想をも興味深く読ませて頂いています。・・
○関西のある教会にて、み言葉を伝える働きをされている方(牧師)からの来信です。
いろいろのことがあり、なかなかうまく教会員の訓練が思うようにできず、心に痛みがあります。
昔、杣友老人の記事を朝日新聞で拝見、たいへん感動しました。こちらは長い間、福音伝道のはたらきをしておりながら、思うようにならず、自分の非力を恥じている次第。・・
・私たちは、地上の生活である限りいろいろの悩みや苦しみがつきまとうのだと思います。使徒パウロも、同胞のユダヤ人のことを思って、「・・すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。」と言っていますし(ロマ九・2)、さらに別の箇所でもつぎのように記されているのを思い出しました。
このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。・・(Ⅱコリント十一・28)
○次は県南のある病院に入院中の方からの来信です。
月一回の集会で教えて頂きありがとうございます。「はこ舟」もありがとうございます。たくさん教わります。毎日聖霊を感じて動けたり、生活できれば有り難いのですが・・。 集会の時間は唯一貴重な時間です。何事にも主の導きがございますように。
・いろいろの事情のために月に一度の集会にしか参加できない方ですが、その集会で何人かの人たちと共に、み言葉を学び、ともに祈り讃美することが貴重なひとときとなっているとのこと、そこに主がいて下さっているからだと感じます。