2003年5月 第508号・内容・もくじ
何かが起こる | 真理と繰り返し | 悔い改めよ、天の国(神の国)は近づいた! | 一つのビラと方向転換 |
闇の中の光 | 心のうた | 休憩室 | ことば |
返舟だより |
何かが起こる
私たちが手がけることが本当によいことならば、そしてそのことをなしていく心がまっすぐであり、さらにそのことをずっと続けていくときには神は必ずそのことを祝福される。そこに何かよいことが生じる。
この世にはそうした不思議な法則のようなものがある。まず「神の国と神の義を求めよ」とか、「求めよ、そうすれば与えられる」という主イエスの有名な言葉は、原文のギリシャ語のニュアンスからいえば、単に一度求めるのでなく、「求め続けよ」という意味を持っている。(*)
どんなに苦しいことが起ころうとも、また神が聞いてくれないように見えることが続こうとも、あくまで、愛と真実の神への信仰を持ち続けること、神の言葉に信頼し、聖書を読み続けること、ある特定の問題を持っている友人への祈りを続けること、そして主の名によってなされる集会を続け、あるいは主日礼拝や家庭集会、県外の集会などに参加し続けること、印刷物や本、テープなどを必要な人を見いだして、与え続けること、敵対する人にも反感や嫌悪感を持たずに、主から受けた愛をもってそうしたことがなかったような心で対して、祈りを続けていくこと、自分の関わる特定の人が集会に参加するよう、祈り続けていくこと等など、こうしたことを、漫然と続けるのでなく、神へのまなざしを持ちつつ、神の助けを借りつつ続けていくとき、主は何かよきこと、思いがけないことを起こして下さる。
祈り願ってきたこと、それ自体は聞き入れられないこともいろいろとあるが、それと全く別のこと、または意外なところでよきことを主がなして下さることを経験させて下さる。
キリスト者は、日曜日ごとに礼拝集会に参加する。一般の人がするような単なる飲食の会とか遊び、行楽に日曜日を使わないのが、本来のあり方となっている。それは一般の人からみるとじつに単調で、せっかくの日曜日を楽しまないのはつまらないと思うかも知れない。
しかし、こうした地味なことを続けていく人に与えられる、不思議なよきこと、驚くべきことを体験していくと、そこに与えられる喜びや満足、あるいは生きた神の御手をまざまざと感じるがゆえに、この世の遊びなどが与える満足とは比較にならない魂の満たしを実感するようになる。
ここにキリスト者の心の世界がある。
谷川の流れは、ただ同じ水が同じように流れ続けている。じつに単調にみえる。しかしそこに主の御手を感じ、天の国の水の流れを実感するときにはその単調な流れの側で立ちつくしていても深い満足がある。心がうるおされる。
この世においても、単純にみえる生活のただなかにあって、神の生きたわざに触れることこそ、一番の深い心の満たしがある。
神の国の「満ちあふれる豊かさ」(ヨハネ福音書一・16)の中からくみ取ることだからである。
(*)例えば、英語のNew Living
Translation や、THE AMPLIFIED NEW TESTAMENT 訳では、このギリシャ語の「…し続けよ」というニュアンスを生かして、「求めよ、さらば与えられる…」の箇所を次のように訳しいる。
Keep on asking, and you will be given what you ask for.
Keep on looking, and you will find.
Keep on knocking, and the door will be opened.
真理と繰り返し
キリスト者は同じことを繰り返し、他者に伝えようとしてきた。話すことも、書くことも、祈ることもである。キリストが復活したこと、そして死の力に勝利されたこと、キリストは神と同質のお方であり、十字架で万人の罪を担って死なれたこと、それをただ信じるだけで心のなかに積もりつもった罪が赦され、清められ、憂い、悲しみなどが驚くべきほどに軽くされること、信じるだけで、聖なる霊、神の命そのものである永遠の命が与えられること、そして最終的には、この世の悪は滅びて、神の真実と正義に包まれた愛の力が勝利して、「新しい天と地」が訪れること…。
この「はこ舟」誌にも本質的には同じことを書き続けてきた。
二〇〇〇年という歳月、キリスト者たちはこの単純な真理を信じて、繰り返し述べてきたし、それが真理であることを繰り返し体験してきた。
私たちは、啓示により、神からの一方的な恵みによって、この真理を信じるようになった。それはすでに信じてキリストを受け入れている人によって知らされることもあるし、すでにこの世にいない著者の書物によって知らされ、信じるに至った人もいる。
ある人は、この真理を死ぬほどの苦しみを通して、また再起できないと思われるほど深い悲しみを通して またある人は、生涯の人生を通して徐々に知らされてきたであろう。
讃美歌にしても、同じ讃美を百年も歌ってもなお、飽きずに愛唱されている讃美はたくさんある。日曜日ごとに歌う讃美はある讃美集に含まれる讃美の繰り返しである。ほとんどの教会は、伝統的な「讃美歌」あるいは「讃美歌21」、「聖歌」、「新聖歌」などを基本としている。それらを何十年も繰り返し歌ってきても、なお味わいは尽きないのである。
そこで歌われている歌詞はやはりすでに述べたように、十字架の罪の赦し、復活の信仰などが基本の内容となっている。
なぜこのように、長い年月にわたって繰り返してもなお飽きることがないのだろうか。
それは、同じ聖書の言葉であっても、それを語る人、書かれた文章、書いた人に神が働かれるからである。そしてそれを聞く人、読む人に対して神がその魂を動かし、聖霊が働くからである。聖なる霊が働くとき、どんなに単純なことや繰り返しであっても、そこに豊かさと変化を感じさせてくれるからである。
逆に神の国からの賜物が働かないとき、どんなに変化のある題材であっても、興味を引く筋書きの小説であって、魂を満たすことはなく、それらはつぎつぎと時間というふるいにふるい落とされて消えていく。
また、この世でどんなに誉められても金があっても、健康と家庭も恵まれてもなお、それだけでは深い魂の満たしは感じられない。
私たち人間は、天地の創造主である神のもとに魂を休ませて初めて満たされるように造られているからである。
それゆえに、私たちは語る内容が同じであろうと、用いる讃美が昔からのものであろうと、また用いる聖書が同じ箇所であろうとも、神のはたらきを願いつつ、その同じことの繰り返しを続けていく。
その繰り返しのなかに、神は新たな芽を出させ、聖なる霊がはたらき、心にゆたかな流れ、神の国からの命の流れを注いで起こして下さるからである。
主イエスが言われた次の言葉はこうした内面の満たしを指している。
わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書七・38)
悔い改めよ、天の国(神の国)は近づいた!
この主イエスの福音伝道の最初に記されているメッセージは、短い言葉のなかに多くのことを暗示している。また私たちにさまざまのことを関連して思い起こさせるものがある。伝道ということは、何を心にいつも思っておらねばいけないのか、何を伝えるのかといった点についてこの短い言葉によって考えてみたい。
この言葉は二つの部分から成る。まず、「悔い改めよ」である。この原語は、メタノエオーというギリシャ語である。これはメタという接頭語と、ノエオーという言葉から成る。メタという接頭語は、転じるという意味を持っている。(*)ノエオーという言葉と語源的につながっている語はヌースであり、これはプラトンやアリストテレスの著作の日本語訳では、しばしば「理性」と訳されている。
(*)メタという語は、ほかに、「〜と共に」、「〜の後で」などという意味もある。
そういう意味から考えると、メタノエオーというのは、理性的転換と言えるのであって、感情的に何かの罪が悪かったと思うことではないと考えられる。
さらにこのギリシャ語の背後にある、旧約聖書の言葉は、シューブというヘブル語であって、これは、「転換する、方向を転じる、戻る」といった意味を持っている。(英語では、turn , return)
まず、旧約聖書において、神への方向転換ということがどのように記されているかを見てみたい。
聖書の最初に創世記がある。そこに、「天に通じる階段」のことが記されている。信仰の父といわれるアブラハムの孫にあたるヤコブが、兄を欺いて長子への祝福を奪ったので、兄が怒り、憎しみのあまり、ヤコブを殺そうとまで考える。そのときヤコブは、母親の助言ではるか遠い親族のところへと一人旅立っていく。その途中の砂漠のような荒野にあって、ヤコブは驚くべき夢を見た。それは、つぎのように記されている。
すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは…神、主である。この土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記二十八・12〜17より)
この箇所は、多くの人の関心をひいてきたところである。何もよいことをしたわけでもなく、かえって兄を欺いたことで憎しみを受けてたった一人で前途の不安や危険を胸一杯に感じながら、旅していく、そうしたただなかにこのような驚くべき啓示が与えられた。これは、神ご自身がヤコブに迫って、ヤコブの魂を神の方向へと方向転換させた出来事であった。聖書の記述でみるかぎり、ヤコブはまだ、危険な前途の旅に出るにあたっても祈りもなく、神への信仰ははっきりしたものとなっておらず、ただ人間の考えや計画などにとらわれていたと考えられる。ヤコブの魂は、この出来事によってはじめて神への方向転換をすることが与えられたといえる。
神の国は、どこにも見えなかった。しかし神が彼の魂に働きかけて方向転換させ、ヤコブもそのときにはっきりと目覚めて、荒野のただなかにおいてすら、「天への門」がそこにあるのだと実感したのである。
旧約聖書のなかの預言書などで、多くもちいられているが、方向を転換する、という言葉は、すでに述べたようにヘブル語では「シューブ」という。この言葉は新共同訳続編も含むと、九十回ほども、「立ち帰る」と訳されている。
このような多くの用例は、この語の重要性を意味しているし、それはすでに旧約聖書から根本的に重要な内容を持っていることがうかがえる。この語は聖書全体にわたってたくさん用いられている。ことにイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言書に多く、エレミヤ書だけでも十七回ほども使われている。
ここでは、イザヤ書の箇所をあげておく。
まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。(イザヤ書三十・15)
このイザヤ書の言葉は、旧約聖書のなかでもとりわけ多くの人の心にとどまってきた言葉の一つである。深い霊感によって与えられたこの真理は、キリストが来られて以後も、ずっとその重要性は変わらない。この、「立ち帰って」とは、もちろん神に魂の方向を転じてという意味である。神が私たちに求めていることは、きわめて単純、明快である。
複雑な儀式とか組織に加わることも必要なく、金や物がなければいけないのでもなく、よい行いをたくさんしていかねばならないのでもない。
ただ、信じて、神へ心の方向転換をすればよいのである。そうすれば、救いを与えられ、力が与えられる。ここに、信仰者の基本がある。そこで与えられた、救いと力をもって私たちは新しい道を歩むことができる。そして、その救いと力を受けるとき、黙っていることができなくなる。それがおのずから伝道ということにつながる。
こうした精神と同じ本質が、主イエスの最初にあげた言葉、「悔い改めよ、神の国は近づいた!」にある。悔い改めよ、という言葉は、個々の罪を悪かったとしてそんなことをしないようにしようというような意味でなく、神に立ち帰れ、ということであり、私たちの魂の方向そのものを、人間的なものから、神に方向転換せよ、ということなのである。
そして、それは決して洗礼者ヨハネや主イエスが初めて言ったことではない。
創世記や出エジプト記、レビ記などにはこの、「立ち帰れ」、という命令は現れない。しかし、歴史書になって見られるようになり、先にみたように預言書には多く出てくる。
このきわめて重要な真理、すなわち、救いと力を与えられるというために、ただ方向転換すればよいということは、自分自身の経験でもあった。私が救われ、新しい力を与えられたのは、何もよいことをしたわけでも、金を捧げたとか組織に加わったとかいうのでない。ただ、十字架の真理を知らされ、十字架の主イエスに、心を転じ、信じただけであった。それ以来、たしかにそれまでまったく知らなかった救いを知らされ、力を与えられてきた。ここに伝道の根本がある。それなくしては、伝道はできない。それなくしては、決して犠牲を払っても伝道しようという心にはなれない。それなくしては、周囲の反対を押し切っても伝道を続けることはできない。
悔い改めよ、すなわち、神へ方向転換せよ、という一言は絶大な意味を持っているのである。パウロが、ガラテヤ書で、力を込めて、ただ信じるだけで救われると語っているのも、この神への方向転換だけで救われるという真理にほかならない。
これだけでも、救いと伝道の関わりは明確である。しかし、さらに、主イエスは「天の国は近づいた!」といわれる。
そこには、神への方向転換をした、魂に何が与えられているかという、約束がここに込められている。「天の国」とは、神の御支配であり、その神の御手のうちにあるものすべてが暗示されている。それはキリストそのものであるし、キリストが与える罪の赦しであり、新しい命であり、神の愛など、神の手にあるあらゆるものが含まれている。
先程の悔い改めよという言葉と同様に、ここでも原語の意味を考えたい。
天の国という言葉にある、「国」とは、原語のギリシャ語では、バシレイア(basileia)という。これは、 王(バシレウス basileus )に由来する言葉であって、「王の支配、王の権威」といった意味がもとにあり、そこから、その支配や権威が及ぶ領域ということで、「国」という意味も持っている。
このように、御国とか天の国というとき、それは、「王の支配(*)、王の権威」といった意味が背後にある。
(*)実際、新約聖書のなかでも、例えば次のような箇所は、「国」と訳さないで、「国を治める」とか「支配権」などと訳されている。
・ …彼らはまだ国を治めていないが、ひとときの間…受ける。(黙示録十七・12)
・…自分たちの支配権を与えるようにされた…(同右十七・17)
ヘロデ王の残虐なことは(*)、新約聖書の中にも記されている。キリストが、誕生したときに自分の王位をねらわれるのではないかと邪推して、イエスが誕生したベツレヘム付近の二歳以下の男子を皆殺しにしたと書かれている。
(*)この王が闇に取り囲まれていたことは、肉親への疑いを深く抱いて、いろいろの噂に惑わされ、自分の妻や義母を殺し、別の二人の王子も投獄したのち、処刑し、また長男をも王位をねらっているとして処刑してしまったほどであった。
こうしたヘロデ王の支配していた世の中は、悪がまさに支配していると思われた状況であった。しかし、そうしたただなかにおいて、じつは神が支配されているということが示されているのである。
そしてそれを現す明確な事実がある。それがキリストが来られたということである。キリストが来られてから、たしかに、この世は悪が支配しているのでなく、神が支配しているということが明らかになっていった。ハンセン病や生まれつきの盲人やろうあ者への癒し、また悪霊にとりつかれていた人たちから、悪霊を追い出すといったことも、神の国、すなわち神の支配がそこに来たことを示している。
また、当時はまったく放置され、捨てられていた罪の女、ハンセン病の人、異邦人、障害者たちを深い愛をもって受け入れられた。それは、すでにイザヤ書で言われていた、消えかかっている灯心を消さず、折れかかっている葦を折らない、という預言の成就なのであった。
そうしたところにまさに神の御支配が目に見えるかたちで到来したのである。
また、主イエスはすでに霊の目によって、サタンが天から落ちるのを見たと言われている。
彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。(ルカ福音書十・18)
主イエスは、神の御支配(天の国)をまざまざと霊の目で見ることができたのである。
そればかりか、十字架で殺されたという、最も悪の支配とみえたことが、じつは神の支配そのものであった。それは罪の力を十字架で釘づけにして滅ぼしたということであった。罪の力とは悪の力である。十字架とは、悪への決定的な勝利を象徴しているのであった。
天の国(神の国)とは、すでに述べたように、「神の御支配」というのが元の意味であるが、この言葉は、新約聖書のうちでは、福音書にことに多く用いられている。新共同訳で見れば、神の国という言葉は、新約聖書では六八回出てくるが、そのうち五四回が福音書である。なお、マタイ福音書だけは、神の国という言葉のかわりに、天の国という表現を多く用いていて、三二回ほど現れる。
しかし、他の書簡では意外なほどにすくなく、パウロにおいても、その手紙(*)で少ししか用いていない。それはなぜだろうか。
パウロにおいては、神の国(神の王としての御支配)については、自らが復活のキリストに出会い、大きな罪を十字架のキリストによって赦されたという実際の経験が根本をなしていた。 復活も十字架での罪の赦しも、神の国(支配)が具体的に実現したことを意味しているのである。パウロは、神の国が近づいて、そこにあり、自分にはまさにその神の国が与えられたと実感していたのである。
それゆえ、パウロの生涯も、「悔い改めよ、天の国は近づいた!」ということに尽きるといえよう。
(*)「神の国」という言葉は、ローマの信徒への手紙には一度のみ、あとコリント書など合わせて十回ほどしか用いられていない。
また、主イエスの一つ一つの奇跡、五つのパンと二匹の魚の奇跡もまた、神はこのような小さなものを用いて、悪の力に打ち勝って、その祝福を永遠に与え続けていることができるということであった。
神の御支配が近づいて、すでにそこにあるということは、ヨハネ福音書においてとくに強く感じられる。
イエスは彼女に言われた、「わたしがよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。…」(ヨハネ福音書十一・25〜26より)
この言葉は、神の御支配は、死の力にも打ち勝っているので、今、信じるだけでその勝利の力が与えられるということである。神の国(支配)は、このように、単に近づいただけでなく、すでにそこにある、だから、真剣に求めるときには、私たちにそのまま与えられると言われているのがわかる。
神の国が近づいているということは、初代のキリストの弟子たちの共通の実感であった。主イエスは、終わりの時が近づくときには、愛が冷え、戦争とそのうわさを聞く、飢饉や地震が生じる、と言われた。これはこうした混乱と神不在のように見えるときのただなかに神の最終的な支配が近づいているということを示している。
聖書のなかで、復活という最も重要なことは、一方では世の終わりに実現すると言われていることが、キリストを信じて結びつくときには、今、実現するといわれているように、神の御支配全体についても、キリストを信じるときには、すでに実現しているのをすこしずつ実感できるようになる。
…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ福音書十二・31〜32)
神の国が近づいたということ、それは、すぐ近くにあるということであり、だからこそ求めるだけで与えられるのである。
「求めよ、そうすれば与えられる」という有名な言葉は、神の御支配がそこにあるからである。
神は与えることがそのご意志なのである。神は喜んで与えて下さる。ルカ福音書によればこのとき、求めて与えられるものは、聖霊であると言われている。目に見えるもの、地位やお金、持ち物、健康、友人や家族といったものはいくら求めても与えられないことは多い。けれども、神の国のもの、それがすべてを含むといえる聖霊を求めるときには必ず与えられると約束されている。
このように、主イエスの宣教の最初に記されている、「悔い改めよ、天の国は近づいた!」という言葉は、主イエスの伝道、さらに使徒たちの伝道をきわめて簡潔に言い表したものだとわかる。
現代に生きる私たちにとっても、この短い言葉を生きることが、与えられている。
一つのビラと神への方向転換
四月二十九日に、キリスト教独立伝道会主催の講演会にて、右にあげた内容「悔い改めよ、天の国は近づいた!」という題で話をする機会が与えられました。
その話を聞いた方から、来信と「ともしび」という伝道誌が送られてきて、その方の若いとき、今から四十年ちかく前の経験と、今回の話しとの関連について書かれてありました。
その方は、有名大学への進学を最高の目的とする高校で、みじめな経験をし、大学受験にも失敗し、仕事についた、その時に思いがけなく与えられた聖書の言葉を見て、大きな変化が後に生じていきました。この文章は、そうした人生の重要なとき、与えられた経験について書かれたものです。 これは証しとして書かれているので、神の不思議な導きの一端に触れて頂きたいと、少し長いのですが、引用をさせて頂きました。
…生徒同士の人間関係も冷たいものであった。受験競争で勝ち抜く、それには自分の点数をあげなければならない。他人のことなど考えている暇がなかった。自分のことさえ考えていればよかったのである。他人に勝って、自分の点数をあげる。これが生徒の本分であり、これ以外何もなかった。私は落ちこぼれの生徒になっていった。
そんな中で、私は友人を失い、精神的にも不安定な状態になっていった。今まで考えてきた自分の価値観が、足元からガラガラと崩れていくのを感じた。ああ、何でこんな学校に入ったのだろうという後悔がおそった。
やがて、三年生になり、私は地方の大学を受験したが、失敗してしまった。予備校に通えるような経済力もなく、職を転々として、三山電鉄(現在廃止になっている)に勤務するようになった。…私はそのある駅に勤務することになった。駅長と私の二人勤務で、仕事は何でもしなけれぱならなかった。…
ある日のことだった。昼頃だったと思う。私は、プラットホームの掃除をしていた。ふと、線路を見ると一枚の広告紙(ビラ)が落ちていた。掃除をしなければと思い、線路に降りて、そのビラを拾い上げた。B5程度の大きさのビラだったと思う。それを見て驚いた。それには大きな字で次の聖書の言葉(黙示録二十一章からの言葉)が書いてあったのである。
「涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや苦しみも労苦もない」
私が見た文には確か、「苦しみの叫びもない」とあったと思う。
私は背筋に電気のようなものが走るのを感じた。いままでの苦しみがスーウッと体中から抜け去っていくのを感じたのを覚えている。
あの当時は無我夢中であった。聖書も読んでおらず、自分の心中に何が起こったのかもわからなかった。 しかし、あれから四〇年あまり、今考えると、人間の世界で四面楚歌の状態にあった当時の精神状態が、神の国、つまり天の御国に心が向けられたのではないか、と思う。この世がすべてだ、と思っていた私の心に、神の国が映し出されたのではないか、と今は考えるのである。
今年の四月二十九日に「キリスト教独立伝道会総会」で、吉村孝雄氏の講演があった。演題は「悔い改めよ。天の国は、近づいた!」であった。その折、吉村氏から「悔い改める」とは、この世のことから神の国に心の向きを変えることだ、と教わった。
私は思った。なるほど、これが、救いなのだと。それまで何回か「コンバージョン」という言葉でこういう類のことを見聞きしたことはあった。しかし、このたびほど私の心に響いたことはなかった。それと同時に、あの十八歳の時の体験は、「天の国」に目を向けることであったのだといまさらながら自分でも気づき、驚いたのであった。…(「ともしび」二〇〇三年五月号より 山形県寒河江船橋町四〜四 黄木
定 氏発行)
・この証しを書かれた黄木さんは、最近教職を辞して、福音伝道のための歩みへと決断された方です。この文を読んでいて、星野富弘さんのことが思い出されました。彼は、体育教師であったときに転倒し、以後、首から下が動かなくなる重度の障害者となったけれども、後にキリスト信仰を与えられ、さらに口で描いた絵と詩で知られるようになった人です。つぎに彼がはじめてみ言葉との出会いが与えられた時のことが書かれている箇所を、その著書の中から一部引用しておきます。
…たしか高校生のときだった。豚小屋の堆肥を籠に背負い、畑に運んでいた。暑い日であったうえに、堆肥の熱が背中に伝わり、汗びっしょりになっていた。…細く急な坂道を上っていると、突然真っ白な十字架が目の前に現れた。そこは小さな墓地で、十字架は建てられたばかりの真新しいもので、花束も添えられてあった。その十字架のおもてには、つぎの短い言葉が記されてあった。
「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」
思えばこれが、私と聖書の言葉との最初の出会いであった。
しばらく立ち止まり、声に出して読んでみた。心に何かひびくものを感じた。…
「我に来たれ」とはどういう意味なのだろう…。畑仕事をしながらも、それからずっと後まで、その疑問が私の頭から離れなかった。…(「愛、深き淵より」一三三〜一三四頁 立風書房刊)
こうした全く人間の側からは偶然としか思われないようなことが、実は後になって生涯のきわめて重要な転機であったと知らされたのです。それは神ご自身が、私たちの生活のただなかに来て下さって、私たちの魂の方向を、神の国へと向け変えて下さったことだと知るのです。
こうしたことは、社会の状況や本人の心がどこを向いているかということすら関わりなく、ただ神の憐れみと恵みにより一方的に与えられた方向転換であり、本人がまだ目覚めていないときからすでに方向転換への啓示がなされていたのがわかります。
私自身も、自分ではまったくキリスト教など関心なく、求めてもいなかったときに、たまたま立ち寄った大学の裏通りの古書店で見つけた一冊の本、何気なく手にとった本のあるページのわずかの言葉から、人生で最大の方向転換をさせて頂いたのです。
こうした呼びかけや光は、人間の予想を超えたところで働くこと、そこに私たちの大きい希望があります。神は過去数千年にわたって、こうした呼びかけを送り続けてこられたし、 今後もどんなに社会状況が混乱に陥ろうとも、また時代が大きく変わっていこうとも、神はその御心によって、予想しなかったような人を呼び出し、救いを与え、さらにその福音を宣べ伝えさせるのだとわかるのです。
あなたを創造された主はこう言われる。
「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(イザヤ書四三・1より)
このような神からの呼びかけが、闇のひろがるこの世の生活のただなかに突然聞こえ、すでに信仰を持っている人にも、困難なおりや動揺するときに、このような励ましが響いてきますように。
闇の中の光
いつの時代にも、周囲の実態を知るほどに闇は覆っているのに気付かされる。戦争、飢餓、地震や洪水などの自然災害、さまざまの犯罪、政府の圧政と迫害、さらに個々の人々においても、病気の苦しみ、老年の痴呆や家庭の深刻な分裂や対立等など、地上に住むどんな人であっても、さまざまの闇に悩んでいる。
いま、楽しくてたまらない、闇などどこにあるのかなどと思っている人もいるかも知れないが、そうしたひとは、単に近づいている闇を知らないだけなのである。
聖書はこのような現実を深く見抜いていた。聖書ほどに現実のあらゆる闇を見抜いている書物はないだろう。見抜いた上でそれを克服する道を一貫して指し示しているのが聖書なのである。
それは聖書の最初の書である、創世記を見てもわかる。そこではその冒頭からつぎのような記述で始まっている。
神が天地を創造した初めに、
地は荒涼、混沌として、闇が淵を覆い、暴風が水面を吹き荒れていた。(*)
「光あれ」と神が言った。
すると、光があった。(創世記一・1〜3)
(*)これは、前田護郎訳。(中央公論社刊の「世界の名著」第十二巻所収)
従来の多くの訳は、「神の霊が水の表面を動いていた」というような訳になっている。ここで「神」という言葉の原語である、エローヒームは形容詞と解して、「大きい」とか「激しい」といった意味にとり、「霊」という原語は、ルーァハであり、これは「風」という意味が本来の意味なので、右にあげたような訳文となっている。エローヒームが、「大きい」といった形容詞に用いられている例としては、例えば「恐怖はその極に達した」「非常に大きな恐怖になった」(サムエル記上十四・15)とかの箇所で見られる。
また、聖書学者として著名で、学士院会員でもあった、関根正雄氏の訳でも、「神からの霊風が大水の面を吹きまくっていた」となっている。
なお、この訳者であった前田護郎は、無教会のキリスト者で、東京帝国大学文学部言語学科卒業、聖書学、西洋古典学専攻。ボン大学、ジュネーブ大学講師を経て、東京大学教授を務めた。
この創世記の最初の記述が、このように、恐ろしい闇と混乱、そして吹き荒れる風という、どこにも静けさや光のない深い闇から出発していることは、深い暗示が込められているのを感じる。それはこの創世記の言葉が書かれてから数千年を経て現代においても、やはりこの言葉は、至る所にみられるからである。
しかしそうしたただなかに、神は「光あれ!」とのみ言葉を出された。するとその一言で、その恐るべき闇と混乱のただなかに、実際に光が差し込んできたのであった。
この創世記の冒頭の短い内容が、じつは聖書全体のメッセージとなっているのに気付いたのは、私がキリスト者となってから、何年か後であった。
このテーマは繰り返し聖書であらわれる。
聖書における、最初の家庭は、じつに兄弟殺しという、目をそむけたくなるような記述から始まっている。どうして聖なる書という書物にこんないまわしいことが書いてあるのだろうかと、最初のころはよく思ったものである。
しかし、それは聖書が現実を決して逃げないで見つめるという鋭いまなざしを持っていることの一つの現れなのであった。そのような闇こそが、現実の世界の実態なのである。その実情に直面していかにして私たちは生きていったらよいのか、そこにどんな救いの道があるのか、それを聖書はまさに指し示しているのである。
詩篇は、旧約聖書のなかの重要な部分であるが、それを愛読しているキリスト者は案外少ないのではないかと思われる。それは日本語訳にすると、どこか力強さに欠けたり、簡潔なひきしまった表現にはなりにくいこと、書かれてある内容や表現が、いまの私たちの生活とだいぶ距離があるように感じるからではないだろうか。
しかし、この詩篇は心して祈りをもって学びつつ読んでいくと、あらゆるキリスト者にとっても深いメッセージをたたえた書物であるといえよう。
その中心になっているメッセージとは、闇の力のただなかに与えられる光なのである。現実には敵が激しく迫ってきていることへの恐れや苦しみ、実際に敵(悪)によってふみにじられ、苦しめられること、あるいは病気の苦しみ、罪への罰を受けた苦しみや悲しみ、等など現実の厳しい状況が随所に見られる。そうした現実の深い闇、恐ろしい状況のただなかで、神に叫び、祈ることによって光が射してきて、じっさいにその大いなる苦しみから救い出される、そして讃美をおのずからあげざるを得ないほどに満たされる…という内容が多くみられる。
主よ、わたしを苦しめる者は
どこまで増えるのか。
多くの者がわたしに立ち向かい、わたしに言う
「彼に神の救いなどあるものか」と。
しかし、主よ、
あなたはわが盾、わが栄光
わたしの頭を高くあげてくださる方。
主に向かって声をあげれば
聖なる山から答えてくださる。
私は、身を横たえて眠り、また、目覚める。
主が支えていて下さるから。(旧約聖書・詩篇第三編より)
この詩の作者が置かれていた状況は、周りに敵対する者、神などに頼っても救われるものか、とあざけり続け、苦しみを与える人たちがいた。そうしたどこにも光のない状況にあって、作者は、あるとき、突然に神からの答えを聞き取る。闇でしかなかったところに、驚くべき光が射してきたのである。そのとき、あれほど助けもなく、ただ一人敵対する者の悪意に踏みにじられていた自分に新しい力が湧き出て、立ち上がることができた。そして生きた神からの生ける応答をはっきりと聞き取ったのであった。
このような闇のなかの光ということは、預言書にも多く記されている。
…主の慈しみに生きる者はこの国から滅び
人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい
互いに網で捕らえようとする。…
今や、彼らに大混乱が起こる。…
息子は父を侮り
娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者となる。
しかし、わたしは主を仰ぎ
わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。
わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても
主こそわが光。(ミカ書七章より)
預言者ミカが、啓示のうちに見ることができた荒れ果てた状況はまさに深い闇に包まれ、最も関わりの深い肉親同士すら、その平和が崩れ、互いに信頼が失われ、憎しみが取り巻いていく。
そんな状況にあったら、ふつうは自分もまたその闇に飲み込まれ、力を失い、希望もなくなっていくであろう。絶望的な状況が周囲にあるとき、人はそこに一人立ち上がることなどできないことである。
けれども、いかに闇が深く、希望は断たれた状況にあろうとも、必ずそのなかから、主に従う人は起こされる。
右に引用した箇所の後半にみられる、「しかし」という言葉は、実に重い意味を持っている。
どんなに暗くとも、絶望的状況が取り巻いていても、「しかし」私はそれらのあらゆる流れに押し流されずに、主を仰ぎ、救いを与える神を待ち望む。そうした心が神によって注がれるのである。周囲のいかなる悪い影響にも巻き込まれないで、独立して光を待ち望み、そして実際に光が与えられる人がいるのである。 闇のなかにあっても、主こそ、わが光という確信が与えられる。この確信は、すでに述べた創世記の冒頭の言葉、光あれ! とのみ言葉が響いていると言えよう。
こうした、深い意味をもつ、「しかし」という一言は、別の預言書にも見られる。
いちじくの木に花は咲かず
ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り
田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ
牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る。
わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし
聖なる高台を歩ませられる。(旧約聖書・ハバクク書三・17〜19)
この短い詩の中に、深い絶望と現実の恐ろしい混乱のただなかにあって、何一つよきものが見えず、期待できないような状況におかれてもなお、「しかし」と言って、希望の光を見いだすことのできた人の魂の軌跡を見る思いがする。
そのような魂が起こされることは、まさにおどろくべきこと、奇跡というべきことである。
私たちの希望は、目に見えることによって大きく影響される。よいことが続いておこるといよいよ希望を強くするが、マイナスのことが続くとたちまち希望は失せていく。力も出なくなる。
しかし、神の御手が触れた魂にとっては、いかなる現状の絶望的状況にあっても、なお「しかし」といってそこに希望の光を見いだし、新しい力を天よりくみ取ることができるのであった。
喜びはこうして、目にみえる出来事や物、あるいは他人の評価や物質的な生活の豊かさなどまったくなくとも、それらと全く無関係に、天から、神の国から注がれるのがわかる。
こうした、通常の喜びとは本質的に異なる喜び、天に由来する喜びを、使徒パウロはいつも信徒たちにも与えられるようにと願っていたのである。それが、つぎのようなパウロの手紙に見られる。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。(Tテサロニケ五・16〜17)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(ピリピの信徒への手紙 四・4)
迫害のすでに激しかった時代、キリスト者たちはこうした天からの喜びを与えられていた。それがキリスト者たちを憎しみに駆り立てることなく、み言葉にしっかり立って、その真理をあとの時代へと語り継ぎ、また世界の各地へと伝える原動力にもなっていったのである。天から来る喜びこそは、私たちを動かすものだからである。
こうした光の存在とそれが実際に、与えられることについては、別の偉大な預言書にも記されている。
闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ九・1)
聖書の世界、キリスト教の流れには、いかなる闇であっても、そのなかに光が差し込むのであって、その光の一筋を受けるだけで、闇の力に勝利したことが実感される。
…悪魔のすべての仕業を水泡に帰せしめるには、ただ一度だけ神を仰ぎ見るか、呼びかけるかすれば十分である。これは実にすばらしい事実である。(ヒルティ著「眠れぬ夜のために」上・五月十七日の項)
これも、闇の力がどんなに大きくとも、神への真剣なまなざしへの応答として、神からの光の一筋を受けるだけで、悪の力に打ち勝てることを指している。実際にこのように、闇のなかに、光は差し込んでくるのである。求めよ、さらば与えられん、という言葉はこうしたことも意味している。
ここに引用したイザヤ書の言葉は、大いなる喜びのおとずれ、すなわち福音である。私自身、この聖書の言葉のように、かつて闇のなかを歩んでいたものであったが、そこに大いなる光を見させていただいたのであった。それは死の陰の地に住んでいたと言えるほどであったがそうした中に、光が輝いたという実際の経験が与えられたのである。それから私の魂には、それまでにはどうしてもできなかった、まったく異なる変化が生じていった。
新約聖書において、使徒パウロもやはり同様であって、学問を積んで、当時のすぐれた教師について学んだし、社会的にも地位の高い家柄であった。しかしそれでも闇は消えなかった。キリストの真理に輝く光は見えなかった。そこでキリスト教徒を厳しく迫害していた。
そのような闇を歩いていたパウロに、突然光が臨んで、彼は百八十度転換して、今度はキリストの最も大いなる弟子と変えられていったのである。
こうした経験は、キリスト以後の二千年の間に無数に生じていったのがわかる。
キリストが現れたとき、すでに引用した、イザヤ書の箇所を用いてその光とはキリストなのだと、言われているがそれは、以後生じる無数の例を予告したものとなったのである。
主イエスが、育った土地ナザレを離れて、ガリラヤ湖畔の町に来たとき、その言葉が実現したと述べている。
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にあるガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ福音書四・12〜16より)
キリスト教といわれる信仰のかたちは、この単純な事実を受け入れることである。現実は闇である、しかしそこに、輝く大きな光がある、ただそのことを信じてその光を見つめ、受け入れることなのである。
ヨハネ福音書においてもやはりキリスト教がいかに単純で明快な内容を持っているかが、その冒頭に記されている。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…
(洗礼の)ヨハネは証しをするために来た。光(キリスト)について証しをするため、また、すべての人が信じるようになるためである。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネ福音書一・5〜9より)
ここでも、最も重要であるからこそ、闇という現実のすがたと、そこに差し込む神の光なるキリストのことを、簡潔に述べている。それはヨハネ福音書の総結論ともいうべき内容であるからこそ冒頭に記されているのである。
闇ということ、それは身近な人間関係や自分の心のなかという最も近いところから、周囲の人間やその集まりである社会にもはびこる、嘘やいつわり、憎しみやねたみ、そして人の命を奪い、物品や地位を奪うこと、自らの利得のためには他者を傷つけても平気であること、人の貴さを踏みにじり、差別をし、飢えや貧困、国家同士、民族同士の対立、戦争などなど、個人的レベルから国家社会的レベル、国際的な問題に至ってかぎりなくある。
一見きれいなようなものでも、その内部まで見抜くときには、深い闇が取り囲んでいるということはよくある。
そうした現状は科学技術や政治政策、道徳的な努力などいかに積み重ねても、表面的力は変わっても、根本的にはどうにも変わらない。変わらないどころかますます悪くなって闇が深まって行きつつあるのではないかということも言われている。
そうした現実の世界に生きる私たちにとって、聖書のこのメッセージはまことに貴重なものである。たしかに光は注がれている。その光を見つめているだけで、私たちはこの深い霧のかかった世からたえず引き出され、導かれて清い神の国への道を歩むことができる。
心のうた 水野源三の短歌から
かぎりなき 主の御恵みを指し示す 窓からのぞく柿の若葉よ
・寝たきりの作者にとって、家に車がなかったので、今のように車に乗せて遠くにつれて行ってもらうこともできず、車イスもなかったので、家族などが周囲から採取してくれる野草や樹木の花などを見るのが精一杯というところで、ふだんはただ窓から見える単調な景色に触れることでしかできなかった。
そうしたきわめて変化の少ない窓からの風景も、春になって柿の若葉が見えるようになった。それまで枯れたようになっていた木に小さい若芽が現れたと思うとつぎつぎとあちこちから芽を出して、それが初々しい新緑の葉となっていく。
そうした小さな自然のたたずまいを見るだけでも、作者にとっては主の恵みを指し示すものとして感じられた。
柿の若葉は、適当な光と温度によってぐんぐんと成長していく、それを見て、私たちも枯れたようになっていても、主の力を受けるとき、あのようにいのちに満ちた姿を現すことができるのだということ、主によって造りかえられるとき、日々新しくされていくのだという思いが重なる。
感じる心、見る目さえあれば、どんな小さな出来事も、主の恵みを指し示すのである。
スズランが今年も咲きし庭の隅 永久(とわ)に尽きるなき主のいつくしみ
人が忘れていても、毎年スズランは今年も咲き始める。ここにも変わることのない主の慈しみが指し示されている。もし、主イエスからの恵みを感じないときには、スズランが今年も咲いた、ただそれだけしか思わないだろう。しかし、春になって当たり前のように咲き始める花を見てもそこに、神の愛と変わることない神の真実を感じるのである。
休憩室
○春の花
暖かくなって、野草や樹木たちもいっせいに芽を出し、花を咲かせていきます。それまでおさえていたいのちの力が泉となって湧き出るように、枯れたようになっていた樹木からもにわかに新しい芽が伸びていき、地面からは草も育ち、つぎつぎと花を咲かせていきます。
みんな、それらは背後の見えざる力によってうながされるようなめざましい変化です。
この世には、よきものを壊したり闇で覆ってしまおうとする力もたしかに働いています。しかし、そのような暗い力とはまったく逆に、天をめざし、清いものをたたえ、美しさを花開かせる力がある、それは野草や樹木たちの春のたたずまいによっても知らされるのです。
アケビの花を、インタ−ネットメールで「今日のみ言葉」とともに配信しましたが、その美しさに初めて接したという人が多かったようです。アケビの実が食べられることは知っていても、その花は知らないのは、その時期にちょうど山に行かねばならないし、気付かないことも多いからです。
アケビの木そのものは、目立たないつる植物です。樹木の花の内では五指に入るほどの名花だといいますが、その気品ある美しさには誰しも惹かれると思われます。
○目覚めていること
目覚めているというギリシャ語は、グレーゴレオーといいます。この言葉は、新約聖書・福音書のなかに特に多く現れる言葉です。キリスト教の事典で見ても、グレゴリオというローマ法王は十六人もいるほどです。その中でも、グレゴリオ一世は、グレゴリオ聖歌をまとめた人として有名です。
また、グレゴリオ歴は現在世界で用いている太陽暦です。つぎに事典からの引用をしておきます。
「これは一五八二年、ローマ法王グレゴリウス十三世により施行された。当時使用されていたユリウス暦は1年の平均日数が三六五・二五日であったため、この暦法に従って閏(うるう)日を置いていると、百年間で十八時間、千年で八日近く、実際の季節と相違をきたす。十六世紀終わりころになると、三二五年にニカイアの宗教会議で定められた三月二十一日の春分は三月十一日となり、十日も早まった状態となった。復活祭は、春分の日の後に起こる最初の満月のあとの日曜日と決めていたから、これは大きな問題となっていた。そのため、ときのローマ法王グレゴリオ十三世は、一五八二年の春分が三月二十一日となるように十日間を省いて十月四日の次の日を十五日とし、将来も相違がおきないようにするため四年に一度閏年を置いた。これが現在、世界で用いられている太陽暦である。」
このように、現在私たちが使っている暦はグレゴリオ暦であり、「目覚める」という言葉を連想させるものなのです。また、讃美歌、聖歌などは私たちが繰り返し用いるものですが、それらキリスト教の讃美の源流といえる、グレゴリオ聖歌にも、やはり「目覚めよ」という言葉に由来する人名が刻まれています。
福音書で繰り返し、主イエスが強調した「目覚めていなさい!」という戒めの言葉は、このような人名や暦名、聖歌の名ともなって根強く生きてきたのです。
ことば
(156)私の秘密はとても簡単です。それは祈ることです。…
実を結ぶ祈り、それは心からのもの、神の心に触れるものでなければなりません。…
私たちは多くのことを複雑にしてしまうのと同様に、祈りも複雑にしてしまいます。しかし、祈りとは、誰に対しても分け隔てなく愛を注がれるキリストを愛することなのです。(「祈り」マザー・テレサ、ブラザー・ロジェ著 サンパウロ刊 54〜57Pより)
・マザー・テレサのあのような、激しい活動と愛に満ちたはたらきの源泉は祈りにあった。そしてそれはキリストへの愛そのものであった。祈りとはキリストへの愛を注ぐことであり、そこからキリストの愛を受けることであったのがうかがえる。私たちも本当の力の秘密である、祈り、単純な祈りへと導かれたいと思う。
(157)人間はただより多くの愛によってのみ、しかも、だれでもみな直接にその「隣人」から始めねばならぬあの個人的な、本当に強い愛によってのみ、救われるのである。この愛の精神こそは、また真のキリスト教の精神でもあるが、これが世を救うのであって、その他のすべてはこれと反対に、やたらに声のみ高い無用事にすぎないことが多い。(「眠れぬ夜のために・下」四月二日の項 ヒルティ著)
・主イエスはたしかに、この神の愛をもって世に来られ、私たちを救い、私たちもその愛をもって生きるようにと指し示された。私自身も、かつて学生運動にも関わりを持ったこともある。しかし、そうしたことによっては全く救いは与えられなかった。いよいよ悩みは深まるばかりであった。 私は自分自身の活動とか友人たちとの長時間にわたる議論、あるいは大学の学びなどでもなく、ただ一方的な神の愛によってそれまで知らなかった平安を得た。 神の愛、それこそが、私たち自身をもうるおし、周囲をも救う道なのだということは、聖書がはっきりと告げている。私たちはこの単純な道を間違うことがなんと多いことであろう。
返舟だより
○ミレーとコローの画集を見ての感想を送って下さった方がいます。
…ミレーの絵を通して堅実な静けさの世界を知ることができ、コローの絵を通して天上から来る光と力に照らされた物が天上に憧れ向かっている姿を知ることができました。
天も地も祝福された目で見るとこんなに美しく映ることを知りました。私もどんなところにも神の愛を見付けていきたいと思います。
植物にはこんな清い神様の愛が込められていて罪がないことを知らされてきましたが、どんな所にもこの愛を認めていけるようになったら人生観が変わると思いました。み言葉の中にこのような世界に開かれる鍵があると思います。み言葉をいつも「食べさせて」頂けることに感謝です。(四国の読者の方より)
○四月二九日に、東京でのキリスト教独立伝道会主催の講演会で、「悔い改めよ、天の国は近づいた!」という題で、一時間ほど話させて頂きました。講演というより、私はこの世で出会うさまざまの言葉のうち、最も大切な神の言葉についてその意味の深さの一端を何とか紹介できたら、そして、その聖書の言葉にこめられた、私たちへの神からのメッセージは何かということを伝えたいという気持ちがいつも心にあります。 人間のいろいろの知識や研究、社会的評論などは、一時的に興味深いものではあっても、決して闇にある人、絶望的な状況にある人を救うことなどできません。しかし神の言はどんな苦しみにある人をも、救う力があります。私自身も短い神の言によって、救い出され、今日あるを得ています。その大いなる神の力になんとか働いて頂きたいという願いをもって語りました。
今回の講演会には、「はこ舟」の読者からも参加者があり、同じ神の言葉に支えられ、導かれているという思いを新たにして頂き、ともに祈りを合わせ、そこで神の言を共に深く受け止めることができ、感謝です。
後で、何人かの若い人たちの希望があって、時間を過ぎていたのですが、語り合うひとときを与えられ、若い世代の人たちに主が働かれ、み言葉のために生きる人をさらに起こされますようにと願ったことです。 また、夜は埼玉県の栗原
庸夫さん御夫妻のお家にて一泊をさせて頂き、主にある愛のこもったもてなしをしていただきました。翌日も羽田までも車で送って下さって、今回は私の体調が十分でなかったので助かりました。