20036月 第509号・内容・もくじ

リストボタン愛とさばき

リストボタン海の深みに

リストボタン集会の重要性について

リストボタン神の国とは何か

リストボタン二種類の方向転換

リストボタン休憩室

リストボタンことば

リストボタン返舟だより

 

st07_m2.gif愛とさばき

キリスト教は愛の宗教だと言われる。そしてそれは事実である。どんな罪悪を犯した者でも、ただ心から赦して下さる神の愛、十字架にキリストが死んで下さったと信じるだけで、すべてが赦され、神の国のよき賜物が与えられるというのは、人間の社会では考えられないことである。殺人のようなひどい犯罪を犯してしまえば、どんなに悔い改めても、裁判で重罪とされ、周囲の人々からは生涯冷たい目でみられるだろう。しかし、神はそうしたあらゆる人間の感情や人間の愛とは本質的に異なっている。
放蕩息子という有名なたとえ話しがある。生きているうちから財産の分け前をもらい、父から遠く離れて放蕩の限りを尽くしたが、その挙げ句に食べるものもなくなり、最も汚れたとされていた豚の餌すら求めるほどであった。そのような状況に陥ってもうそのままいけば死ぬ他はないというところまで追い詰められたとき、初めてその息子は自分の罪に気づいた。そして天に対しても父に対しも罪を犯したと深く悟って、もう使用人でもいからと父のところに帰って行った。そのような息子であったが、父親は遠くからその息子を見つけて、走り寄り、大いに喜び、抱きしめて最上のごちそうをしてやったとある。ここにも聖書でいう神がいかに愛の深い御方であるかが示されている。 また、いつの世でも見下され、苦しめられる貧しい人、重い病人、障害者、ハンセン病の人たちをまず第一に省みて慰め、力を与えられた。この世からは極刑にしてさらしものにするしかないとみなされ、十字架につけて殺されていくような重罪人にすら、主イエスは愛を注がれて、その人が最期のときに主イエスを信じたことによって、最初にパラダイスに行くようにされたほど、その死んでいく罪人を愛されたのである。
こうした記事はそのまま現代の私たちにも経験できることである。神に背き、罪を犯して神を忘れていてもただ神を仰ぐだけでたしかな赦しを受け、十字架のキリストを仰ぐだけで、罪赦され、心の平安を与えられることを実感することができる。キリスト者とはまさにそうした神の愛を実感した人だといえる。
このような愛の神であるが、他方キリスト教では神のさばきということもはっきりと記されている。ただ神に心を向けかえるだけで、何にも代えがたい主の平安を与えられる道が備えられているのに、それをあえて意識的に拒み、真実なものを踏みにじることを続けていくならば、さばきが必ずある。また主の名を用いていながら、じつは自分の利益を求めていくような偽りの心を続けていくなら、やはりさばきは必ず生じる。それは何かの事故や病気ということで、その警告やさばきが行われることもあるだろう。しかし、そのようなことは真実に生きる人にも生じることであり、さばきとはいえないことも多い。
さばきはもっと身近に実感できることである。私たち自身においても、他人に不信実なことをいったり、したりすれば何か心が穏やかでない。清い喜びは確実に消えていく。そこにさばきがある。逆に他人にたいしてそれがよくない人であっても、もし祈りをもって対することができたとき、どこか心にさわやかさがとどまる。
神がもっておられるような真実を軽んじ、自分中心に汚れた考えや行動を続けていくときには、その人は必ず心が濁り、それはよどんだ目や表情、濁った声などとなって自然に外にも現れてくる。そこにさばきがある。そしてそのような場合には心のなかに決して澄んだ喜びや深い平安は与えられず、真実な友人などが確実にいなくなっていく。
このように、さばきはいわゆる不幸とされるようなことでなく、私たちの日常の心の世界に確実になされているのである。
旧約聖書の預言書において、つぎのように記されていることは、いまから二五〇〇年以上も昔に書かれたことであるが、そのまま現代に生きる私たちに、神のさばきがとんなことであるかを告げている。

…その心が主を離れ去っている人はのろわれる。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、暑い荒れ野を住まいとする。(エレミヤ書十七章より)

そのよう者は、深い平安なく、心にうるおいなく、真に心を結び合う友も与えられない。
しかし、このような状態に陥って神の御手にかかることがいかに重大なことかを思い知らされて、神に立ち返るとき、そのような状態からでも人は再び神の愛を受けて生きることができるようになる。ここにも神の愛がある。
神の愛は、果てしない。しかしまた神のさばきも、たんに個人にとどまらず、家庭や社会、国家全体、そしてその背後にある悪そのものにも及ぶのである。神への愛が聖書のいたるところで示されているとともに、しはしば神をおそれよと言われているのはそうした愛とさばきを同時にもって、すべての人、全世界に及ぼすことができるからである。

 


st07_m2.gif海の深みに

 日々の生活のなかで、私たちの心の内には、なにかすっきりしないものが残ることが多い。それはたいてい、毎日の生活、職業でのこと、自分自身があるべき生き方ができていないとか、家族であれ他人であれ、他者が言ったことが気になる、心が重く傷ついているといったことのゆえであり、また健康上の不安などであることも多い。さらにこれからの社会はどうなるのかといった、将来への漠然とした暗雲を感じることもある。
 こうしたさまざまの憂うつや重い心は、時としてどうすることもできないほどにもなる。
 このような心の重さや憂うつ、不安はどこから来るのか、それは周囲のせいなのか、確かに周りの人間や社会が間違っていることから来ているということも多い。
 しかし、そうした事態に対面する私たち自身にも常に問題がある。それは私たちの心の深いところで、真実なものに従えない、自分中心のすがたが根強く残っているからである。それを聖書で罪と言っている。
 病気の苦しみですら、その苦しみを耐えがたいものにしているのは、実はその人の心の内奥にある罪なのだということは、主イエスも指摘されたことがある。
 それは、つぎのような記事である。

…人々が中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ福音書五・1820

 病人や周りの人たちが心から願っていたのは、長く苦しい病気をいやしてもらうためであって、罪を赦されるために来たのではなかった。しかし主イエスは、その苦しみの根源には赦されない罪があるということを見抜いておられた。罪が赦されるのでなかったら、もし病気がいやされても今度は健康になったからだで新たな罪を重ねることになる。人間の最も重要な問題は、からだが癒されること以上に、その心であり、魂が罪赦され、清められることなのである。
 事実、この世の大きな犯罪はからだが健康な人たちによって起こされているのであって、病気に苦しむ人によってではない。健康はそのままでは決して、真実な生活へとつながってはいないのである。
 こうした点から、聖書では心のなかの深い問題、罪を赦されるということが、最も重要なこととして記されている。

見よ、わたしの受けた苦痛は
平安のためにほかならない。
あなたはわたしの魂に思いを寄せ
滅びに陥らないようにしてくださった。
あなたはわたしの罪をすべて
あなたの後ろに投げ捨ててくださった。(イザヤ書三八・17

 これは、死の病にかかった王が心を注ぎだしての祈りによって、神からの力を与えられ、命を与えられた後で神に感謝して作った詩である。そこには、病気のいやしにとどまらず、魂の病気といえる罪を投げ捨てて下さったことへの深い感謝と喜びがある。 
 キリスト教信仰もこのことが根本にある。
 キリスト教のシンボルとなっている十字架は、まさにそのことである。主イエスが十字架で死んで下さったことにより、私たちのどうすることもできない罪そのものを、後ろに投げ捨てて下さったのである。

…あなたのような神がほかにあろうか
咎(とが)を除き、罪を赦される神が。…
神はいつまでもご自分の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
主は再び我らを憐れみ
我らのすべての罪を海の深みに投げ込まれる。(旧約聖書・ミカ書七・1819より)

 ここにも、神のご性質がどのようなものであるかが、心に残る表現で言われている。旧約聖書の神はしばしば怒りの神、裁きの神といわれる。しかし、決してそのような単純なものではない。ここにあるように、神の本質的なご性質は、憐れみの神であり、赦しの神なのである。そのような神のお心を完全に持たれて地上に現れたのが、キリストであった。
 私たちのさまざまの心の重さや憂うつや暗い気持ちの根本にある罪、それはただキリストが、十字架にかかって私たちの罪を身代わりに負って下さったと信じるだけで、その罪が「海の深みに投げ込まれる」という実感を与えられる。
 人ではない、神ご自身がそのようにして私たちが罪によって沈んでいくことから救い出して下さる。罪が赦されずに残っているかぎり、私たちの存在は次第に沈んでいく。老年が近づき、死が近づくのはだれでも同様であるが、それとともに次第に罪が私たちの存在を死という闇に引き下ろし、海の深みに我々自身が沈んでいくのである。
 罪赦されて初めて、魂の深いところでも重荷が軽くされ、光が臨み、この世には助け主がおられ、死のなかに沈んでいくのでなく、逆に光にみちた天の国へと引き上げられていくのだという予感が与えられる。

…そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。…死も火の池に投げ込まれた。(黙示録二十・1014より)

 聖書の最後に近いところで、このように、この世の悪そのものと死が火の池に投げ込まれたという表現で、それらが永遠に滅ぼされたことが力強く記されている。私たちを悩ますもの、それは罪であり、罪を起こさせる悪そのものであり、あらゆるよいことすべてを飲み込んでいく死の力であるが、それらが永遠に消滅させられるということは、私たちの最終的な希望である。
 この世で生きるということ、老年に近づくことは、つぎつぎとよいものが投げ捨てられて、なくなっていくということのように見える。しかし神とキリストを信じるとき、逆に私たちを縛る最も重いものを神ご自身が海の深みに投げ込み、天の国の賜物をもって私たちを導いて下さるのである。

 


st07_m2.gif集会の重要性について

 毎年の四国のキリスト者(無教会)の合同の集まりが、今年もこの6月に行われた。信仰に生きることは、一人だけでももろろん可能である。
 しかし、他方で、このようなキリストを信じる人たちの合同の集まりによっても神は働かれる。もう幾年にもわたってわが家に月に一度、神戸からわざわざ来て下さって、集会のテープのダビングを主としてその他の伝道にかかわる仕事を手伝って下さっている神戸のUさんは、四国集会で出会った方である。このテープダビングで私自身もずいぶん助けれらてきたし、またこのテープによって集会や学びをしておられる方々もある。四国集会がなかったらこうした出会いもなくテープダビングもわずかしかできていなかった。
 また、私は高校の理科教員として、理科を教えながら自然の世界に現れた神のわざを紹介しつつ、放課後などで希望者には読書会という形で、聖書やキリスト教関係の書物を語り、み言葉を伝えることを目的として生涯を送るつもりであった。
 しかし教員となって十年ほどたった頃、四国集会で知り合った大阪のある方からの紹介で全盲のTさんとの関わりが与えられて、聖書の世界をその人に紹介するべく、定期的に訪問するようになった。それが視覚障害者の方々との関わりの最初であり、その少し後に、別の全盲の人を紹介されて、点字の教育を個人的に依頼されることになった。
 そのことから、神が私に盲学校への転勤を望んでおられるのを直感し、盲学校に転勤希望を出したのであった。そこでは困難な問題が生じたが、主の驚くべき助けによって乗り越えることができた。ついで聴覚障害者の学校へと転じることになった。
 そうしたことから私たちの集会ではいろいろの障害者の方が増えていくことになった。今日まで私はそうした障害者の人たちとの関わりで書物からは決して学べないいろいろのことを学んできたし、その方々によって実に多くの祈りや支えを与えられてきた。
 四国集会がなかったら、私と障害者の関わりもなく、私たちの集会の状態もずいぶん変わったものになっていただろう。主イエスが病気の人や障害者との関わりを重視された意味が、私たちの集会に集っておられる障害者の方々との長年にわたる関わりによって示されてきたのも大きな収穫であった。
 これは一例であるが、こうした合同の集会がなかったら私たちの主にある兄弟姉妹との交流はずっと貧しいものになっていただろう。主にある交わりはそこに主がはたらく場となるのである。エクレシア(信じる人たちの集まり)はキリストのからだであり、聖霊が働く場なのである。
 私たちはこうした集会によって生きた証人に出会うことができる。単に書物のなかで記されている聖徒たちと出会うのでなく、いまも生きて働いている現実の人間によって、その人を動かす生きた神のはたらきに接することができ、私たちの信仰も強められる。
 書いたものにしても同様である。優れた書物は過去二千年のあいだに山のように積み重なっている。それらを読めば十分だという人もいる。しかし、今、み言葉を委ねられ、いま主の霊によって動かされている人の書いたものも大いに必要なのである。主がいまも生きて働いていることを証しすることになるからである。
 日曜日の主日礼拝や他の日の家庭での集会においても同様で、一人で学ぶのでは与えられない、霊の賜物と主にある交わりによって私たちは励まされ、祈りが集中される。 み言葉中心に集まることそこで、主が働かれるのを、私は長い年月で経験してきた。
 今後とも私たちは個人の学びや祈りとともに、集まってする礼拝、集会、交わりにもいっそう力を注ぎ、ヨハネの手紙で、繰り返し強調されている、「互いに愛し合う(祈り合い、助け合う)」ということに少しでも近づかせていただきたいと願っている。

 


st07_m2.gif神の国とは何か

 キリスト教において神の国とは最も重要な言葉の一つである。
 なぜか、それは主イエスが、宣教を始めたとき、その宣教の要約ともいうべき内容を、つぎのように言われたからである。

…そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国(神の国)は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ福音書四・1617

…洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ福音書一・1415
 このように、今日までの二千年にわたるキリスト教伝道の長い歴史において、その出発点におられたキリストの伝道を一言でいうと、このように、神の国が近づいた。イエスを信ぜよということであった。
 そのように重要な意味を持っている「神の国」とはいったい何を意味しているのだろうか。
 そのためには、やはり日本語の神の国ということと、聖書の原語であるギリシャ語ではどんな意味を持っている言葉なのかを少しでも知っておくことが大切となる。
 ギリシャ語では、「国」ということは、バシレイアであり、これはバシレウス(王)という言葉から作られていることからわかるように、「(王の)支配」といった意味なのである。そこから、その支配が及ぶ領域という意味も持つようになった。
 このように、神の国とはその根本の意味は、神の御支配ということである。マタイ福音書では天の国という言葉が使われているが、天は神という言葉の代わりに用いただけで、意味は神の国と全く同じである。
 そこで、神の御支配ということが旧約聖書ではどう記されているのかを見てみよう。
 こうした原語の知識がまったくないときには、旧約聖書には神の国というのがない、新約聖書で初めて現れるのだというように考えてしまう。
 しかし、神の国というのが神の支配だとわかると、これは決して新約聖書で初めて現れるのでないことがわかる。

…初めに、神は天地を創造された。地は混沌として、闇は深淵の面にあり…。神は言われた、「光あれ!」 こうして光があった。(創世記1:13より)

 この聖書の巻頭の言葉は広く知られている。これは単に昔のことを言っているのでない。神が全世界、宇宙を支配されているという宣言なのである。宇宙を支配しているのでなかったら、宇宙のさまざまの天体を創造することができない。また、闇が深淵の面にあって、強い風が吹き荒れているような状態のただなかに、光を創造して闇の支配を打ち砕くというのも神の支配を表している。
 闇を支配するものこそ、本当の支配である。神は万物を創造されたお方であるが、それにとどまらず、人間が最も悩まされる闇(悪)を支配し、そこに光を与える存在であることが、聖書の冒頭に記されている。 それは、神こそがすべてを支配しておられるお方であるということなのである。
 また当時の世界ではたいてい太陽を一種の神としてあがめ、礼拝していたのに、聖書においては、まず神が闇のなかに光を創造し、植物をも造り出し、太陽にすでに創造した光を与えて光るようにしたのだと記されている。これは太陽とかさまざまの霊的なものがこの世界を支配しているのでなく、あの絶大な働きをしている太陽すらも、神が支配しており、神がその光を与えたものにすぎないということを表している。
 また、詩篇にはつぎのように、神が王として世界を支配されているということが記されている。

・王権は主にあり、主は国々を治められる。(詩篇二二・29
・栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。(詩篇二四・10
主は、全地に君臨される偉大な王…、神は全地の王、讃美を歌って、告げ知らせよ。神は諸国の上に王として君臨される。聖なる王座についておられる。(詩篇四七編39より)

 私たちはふつう、神のことを「王」だというようには思わないことが多い。愛の神、正義の神ということが多いが、聖書ではこのように、世界を支配しているという意味で、王である神という見方が根底に流れているのがわかる。
 このような、旧約聖書の流れのなかで、新約聖書とも深いつながりのある箇所はつぎのところである。
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」(永遠に生きておられる者、神)の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。(ダニエル書七・1314

 これは、神から、その王としての権威、支配の力をうける、人の子のような者を、ダニエルが啓示のうちに見たのである。新約聖書にたびたび現れる言葉、主イエスが自分のことを「人の子」といわれたことや、世の終わりに、再び天の雲に乗って来るといわれた表現は、のちに主イエスが用いられた。

…イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ福音書二六・64

 このように、ダニエル書の著者は深い霊感を受けて、のちに神からその権威や力、支配を受ける永遠の存在者が人の子のようなすがたで現れるということを示されたのである。ここで預言者ダニエルがとくに強調しているのが、その人の子は、愛や憐れみといったこと以上に、神の権威と支配を受けるということ、しかもその支配が永遠であるということである。このダニエル書は、厳しい悪の支配、迫害の時代を背景として書かれたものであったから、とくにそうした支配のことが前面に現れているし、そうした悪の支配に打ち勝つ神の支配のことが啓示されたのである。
 このように、旧約聖書でも最初から神の支配のことは一貫して言われている。そのような意味で、神の国(支配)ということは、聖書の最初からの基本のテーマなのである。

新約聖書における神の国
 こうした神の御支配という意味は新約聖書でももちろん見ることができる。
 主イエスのたとえで、天の国(支配)というのはよく出てくる。これらは、まさしく地上における神の御支配のなされ方を意味している。

…イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」
 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、毒麦も現れた。…僕たちが、『行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておけ。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 ここでの天の国とは、死後の世界でなく、この地上での悪の問題であることは明らかである。それはまさに神のこの地上での御支配のなさり方を意味している。悪をただちに滅ぼさないで、あえてそのままおいてある。それはよい麦をも刈り取ってしまう危険性があり、神の定めた時(世の終わり)に初めてそうした悪そのものが、滅ぼされるのだ、そのようになさるのが、この世界を創造された神の御支配のなさり方なのである。
 
…イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ福音書十三・1132より)

 このたとえも、神の御支配は、わずかなもの、小さいとるに足らないようなものから始められる、真理の種というべきものが人の心に播かれるとき、それは弱い人、地位のないような人、病気などで死にかかっているような人であって、世の中ではまったく相手にされないような者であっても、そのような小さきものを用い、そこから始めて人間がだれも予想できないような形へと増し加えられていく。人間の支配はまず、権利や金の力、数の力をもって弱いものを犠牲にして行おうとする。戦前の日本の天皇を現人神とした支配の仕方はそのようなものであって、日本だけでなくそうした支配の仕方をアジアの国々まで広げていったものであった。そうした間違った支配の仕方と、神の御支配の仕方とはいかに異なったものであろうか。

…天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ福音書十三・4446

 ここでは、神の御支配の仕方は、まず大いなる宝や高価な真珠を与える、それによって人は喜びの余り持ち物をすべて売り払ってその宝のある畑を買うのだと言われている。たしかに、私自身をふり返っても、何一つ要求されたことはなかった。まずわずか数行の短い言葉、キリストの十字架による罪の赦しという、絶大な宝であり、高価な真珠というべきものを与えられたのである。そのことがそれまでのいかなることよりも大きな出来事であり、平安と喜びを与えてくれたので、私はほかのものでなく、まさにそのことを伝えたいと心から願うようになった。高校の理科教師となろうと思ったのも、若い世代に理科を教えながら、その宝を伝えたいという気持ちがほかのどんなことよりも強く生じてきた。
 この主イエスのたとえは、私自身のうちに実感されたものであり、たしかにイエスのたとえのように、神は私の存在を御支配されているのがわかる。それは私がかつてどんなにしても達することのできなかった最善の道なのであった。

 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタイ福音書十三4450

 このたとえでは、この世の悪をどのように御支配されるのかということが言われようとしている。世の終わりには悪いものは必ず裁かれるということである。神とは正義の神であるゆえ、悪に対しても必ずその裁きがあるというのは当然のことである。ここでも神の御支配ということがこのたとえではっきりと示されている。
 また、神の国とはどのようなものであるか、主イエスは次のようにも言われた。

…人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ福音書十七・2021

 イエスの生きておられた時、ユダヤ人たちは、神がローマ帝国の支配、偶像崇拝している異教の人間の支配をくつがえして、ふたたびダビデのような王を立てて支配されるときが来る、それはメシアの現れるときでもあると信じていた。だからそうした民族が待ち望んでいる支配の時はいつなのかということが、重要な問題なのであった。
 そのような問いに対して、主イエスは、「いつ」来るとは答えず、神の御支配はあなた方の間にある、と言われた。
 この意味は、神の御支配は、あなた方の生活のただ中にすでにあるということである。霊的な目をもって見るならば、神の新しい支配はキリストとともにすでに来ているのであって、パリサイ人たちのように敵対しようとする人々の間に、悪が支配しているとか、神はいないのではないかと思われるような出来事が多く生じている私たちの社会のただなかに、神は支配なさっているのだという意味である。
 また、この表現は、「神の国はあなた方の内にある」とも訳することができる。
*この場合には、私たちの内に、神の国はあるということになる。それは、神の国とは「義と愛と平和」であると言われた通りに、私たちの心の内にすでに与えられている、神からの義や愛、平和だということになる。
 このような神の御支配は、主イエスの力によって悪の霊を追いだして頂くことによって私たちのところに来ていることになる。

…わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(ルカ福音書1120
 
 こうして私たちの願いは、神の国が来ますように、神の見えざる御手によって神の国を来たらせたまえという内容になる。

*)「間に」と訳された原語は、エントス(entos)という言葉で、これは新約聖書では二回しか使われていない。あと一箇所は、パリサイ人たちへの警告として言われた、 「まず杯の内側をきれいにせよ。そうすれば外側もきれいになる」(マタイ福音書二十三・26)という箇所である。また、旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)では、「心は内に(entos)熱していた…」(詩篇三十九・4)、「私の内なるものはすべて聖なる神の御名をたたえよ(詩篇百三・1)」などのように使われている。

賜物としての神の国
 新約聖書においては、最初に述べたように、主イエスが宣教の最初に述べたと記されていることであって、その重要性ははっきりとしている。
 私たち自身のことをふり返っても、人間は何かを求めている。求めなくなったら生きてはいないのである。まず幼児はミルクを求める。そしてまもなく、母親の愛や友達、遊びや快楽などを求め、さらに人より上に立つこと、勉強やスポーツができること、よい大学とか会社、健康、家、地位…などつぎつぎと求めていく。
 そうしたものは与えられないことが多いし、与えられてもふとしたことで失われ、変質したり壊れてしまう。しかもそれらは他に分け与えることができない。この世の宝といったものは、与えるほどなくなってしまうものである。
 そのようなものと全く異なるものが、聖書では約束されている。それが神の国である。これこそ、人間がだれでも求めるべきものであり、最もよいもの、分かち与えることができるものであり、永続的な賜物だからである。
 それゆえ、主イエスも人間が共通して第一に求めるべきものとして、「神の国」をあげている。 

…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。(ルカ福音書十二・31

 また、私たちがつねに祈り願うべきこと、最も大切な願いとは何かということについて、弟子たちが尋ねたときに、答えられたのがやはり、神の国のことであった。

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。…』(ルカ福音書十一・12

 これは、弟子たちもどんな祈り、願いが最も神に喜ばれるのか、どんなことをいつも願っていたらよいのかという疑問を持っていたのがわかるし、それに答えて、人間がいかなる状況に置かれようとも、共通して持つべき願い、祈りはこれであるとはっきりと示されたのがこの祈りであった。この祈り、願いこそは、私たちが健康なとき、病気のとき、また困難や悩み、悲しみのとき、そして老年や孤独、さらに死が近づいたときでも、つねに一貫して祈り願うことができるものなのであった。また、そこで与えられる神の国というのは、祈った自分だけでなく、まわりの人にいくらでも分かつことができ、分かつほどに増えていくものなのである。それこそ、五千人のパンの奇跡で言われていることでもあった。
*

*)空腹になったたくさんの群衆に対して、弟子たちが持っていたのは、五つのパンと二匹の魚しかなかったが、主の祝福を受けると、五千人をはるかに越える人々が満たされ、さらに余りも十二のかごいっぱいになった。すなわちこれは完全数であり、残ったものにも完全な神の祝福が宿っていて、無くならないといった意味が込められている。

 神の国というと、何か遠いこと、私たちの現在の生活と関係があまりないように思われがちである。それは新聞やテレビなどでまったく現れないし、学校教育でも耳にすることがないからである。
 しかし、ひとたび聖書の世界に入るときには、日常で最も関わりの深いことのひとつとなってくる。私たちが朝起きてから夜やすむまで、たえず心にて願い、祈るべきことが、神の国だからである。
 自分の心が暗い、憂うつである、それなら神の国が自分の心に来るようにと祈ればよいし、自分の家族の問題があるならそこにも神の国を来たらせて下さいと祈ることができる。職場や人間関係において、また病気になっても神の国、すなわち神の愛の御支配が臨んで、自分も含めて人間の悪しき本性が変えられ、からだにおいても神の御手が臨んで癒しを願うことができる。
 あらゆる私たちの願いは、つきつめるならば、神の国を求める願いと祈りなのである。それに目覚めていないだけだと言える。
 多くの教会で、「主の祈り」を唱えている。しかし、主イエスは、弟子たちが本当の祈りを教えて下さいという願いに答えて、このように祈れと言われたのであって、たんに唱えるようにとは教えられなかった。唱えることと、祈ることとは大きな違いである。いくら唱えていても祈っていないことはいくらでもある。祈りとは心を注ぐことであるし、魂を尽くし、精神を尽くして神に訴えることである。
 最近もある教会の信徒の方から、御国が来ますようにという意味を知らずに祈っていたと言われたことがあった。
 主イエスは、まず神の国と神の義を求めよと言われた。そしてそれらは求めるなら必ず与えられると約束された。神は真実なお方である。真実とは、約束したことは必ずかなえられるということである。求めよ、そうすれば与えられるという有名な言葉もそれを意味している。
 ルカ福音書では、求めよ、そうすれば与えられるという言葉の後で、必ず与えられるのは、聖霊であると記されている。

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。(ルカ福音書十一・913より)

 このように、主イエスは、わかりやすいたとえをもって、求めたら必ず与えられるということを強調している。弟子たちに、「あなた方は悪い者でありながら…」と言われたのには意外な気がする。これは罪を持ち、過失をたえず犯してしまう者でありながら、という意味である。そのような罪深いものであっても、求めてくる自分の子供には、よいものを与える。それならば愛に満ちた天の父がどうして、求めるものを拒むことがあり得ようかと言われている。必ず賜物のうちで最もよいもの、すなわち、神ご自身ともいえる聖なる霊を与えられるという約束なのである。
 このように、神の国をまず求めよといわれた主イエスが、信じて求める者には必ず聖霊が与えられると言われていることからも、神の国は聖霊と同じものを意味しているということがわかる。
 こうした点からも、神の国とは今求めたら与えられるものなのである。
 求めたら与えられる賜物としても、「神の国」という言葉は用いられている。

…「ああ、幸いだ、心の貧しい人々は!
なぜなら、天の国(神の国)はあなたがたのものだからである。(マタイ福音書五・3

 このように、マタイ福音書では主イエスの教えの冒頭に、神の国が与えられることが記されている。キリスト教のメッセージとは、福音である。福音とは、ギリシャ語のユウアンゲリオンであり、これは「よき知らせ」という意味である。打ちひしがれている者、闇にあるものへの救いのメッセージだからである。
 そして神の国が心貧しき者に与えられるとはどんな意味だろうか。それは神の御支配そのものが与えられることであり、神の御支配のうちにあることが与えられることである。聖霊が与えられることであり、主イエスご自身が与えられることである。
 これこそは、この世で与えられる最高のもの、最もゆたかなる賜物である。
 そうした神の国が与えられるとき、私たちは悪に打ち倒されないで、立ち上がる力が与えられ、御国へと歩み続けることができるようになる。

…ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ福音書十二・3132

 また、このような神の国は求めたら必ず与えられるということは、すでに述べたが、この主イエスの言葉でも、神の国は神ご自身が喜んで与えて下さるのだという。
 私たちが神の国を求めることも、神が喜んでくださる。それは主の祈りで示されているように、御心にかなった祈りであり、願いであるからである。だからこそ、そのような求め、祈りには、喜んで神の国を下さるのである。
 また、これと関連しているが、現代の私たちにも、同様に神の権威や力が与えられるからこそ、この世の悪に染まることなく、信仰を持ち続けていくことができるのである。生きた信仰が続いているということはすなわち、その人に神の国(御支配、権威)が与えられているということの証拠なのである。
 そして神の国とは神の支配のうちにあるものをも意味するから、それは愛、平安、勇気、真実等なども含む。使徒パウロが、神の国とは、平和や喜びであると言っているのもそういう意味である。

神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びである。(ローマの信徒への手紙十四・17

 神の国とは、このようにすでに私たちのただ中に与えられている。神の御支配は私たちのこの悪に満ちたように見える世界のただ中に行われている。これは主イエスがこの世界に来られてからそれが全世界の無数の人々によってはっきりと自覚されるようになった。

未来に与えられる神の国
 他方、神の国は未来において完全に実現されるものとしても、聖書には記されている。それは、今は悪が多く支配しているように見えるこの世であるが、霊の目で見るときには今も神の御支配はなされている。
 しかし、将来において完全に神が支配されるときが来ると言われている。
 そのことを、主イエスご自身が、世の終わりに関する教えで述べている。

…人の子が力と栄光をもって、天の雲に乗って来るのを見る。
…人の子は思いがけないときに来る。(マタイ福音書二十五章より)

 人の子とは、キリストのことであり、未来のある時にキリストが、神の力をもって来るといわれている。そしてその時にすべての悪が裁かれて、究極的な神の国が実現する。
 このようなことを詳しく書いてあるのが、黙示録である。黙示録は、迫害の時代に書かれた。そして迫害を受けるということは、実に苦しいときであり、悪が謎のように力を振るい、弱い人々を捕らえて殺し、残酷な刑罰を与えるのであった。キリスト者たちもライオンの餌食にされたり、道路の横に十字架を並べ、そこで火を燃やして苦しめられたこともあった。
 このような、考えられないようなひどい悪の支配に苦しめられた者にとって、最大の願いは、神の御支配によって、そのような悪が一掃され、悪の根が断たれるということである。それゆえ、黙示録は神の支配がいかに、悪の支配よりも強いかということが内容の根本をなしている。
 黙示録の最初には、主イエスが私たちを「王」として下さったという箇所がある。それは支配するものということである。キリスト者たちは、ローマ皇帝なる王からさんざん苦しめられてきた。しかし神はそのキリスト者たちをこそ、王として下さるというのであった。
 そして黙示録の最後、すなわち新しい天と地についての啓示の最後の部分で、黙示録の著者はこう述べている。

…そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、…神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
…もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく支配(統治)するからである。(黙示録二十二・5

 ヨハネの黙示録での長い啓示が終わるとき、その最後にヨハネが書き記したのは、キリスト者たちが永遠に統治(支配)する者となったことであった。それほどにこの著者にとって、神が支配されるということは重要なことであったのがわかる。
 このように、未来のいつか神が定めたとき、そのときは人の子も知らないと、地上に生きておられたときの主イエスが言われたほど、人間には分からないことである。しかしそれがいつ来るのかだけでなく、どんな形で来るのかも全くわからないが、そうした神の国と言われている霊的世界が必ず来ることをキリスト者は信じている。それは神の万能という性質、完全な正義、創造主、その約束が変わることがないことなどから、必ず実現されると信じることができる。
 それゆえ聖書の最後の部分は、そのような究極的な神の国が来るようにとの願いと祈りで終わっている。
主イエスよ、来て下さい!(黙示録二十二・20

 


st07_m2.gif二種類の方向転換

 日本は今大きい方向転換をしつつある。というよりも、すでに転換した方向をさらに決定的なものとしつつある。それは増大した軍事力を海外へと派遣していく方向である。
 これは、日本の憲法が規定することとは、まさに逆の方向である。
 自衛隊は国を防衛するためのみに用いるというのであったはずだが、自衛隊が創設されてまもなく、その増強の一途をたどるようになった。そして、現在では世界有数の軍備を持つ事実上の軍隊となった。そして、自衛隊を海外に派遣する法律が、九二年の国連平和維持活動協力法(PKO)、〇一年の、テロ対策特別措置法、そして今回のイラク復興法案と続いていく。
 また、それとともに九九年の周辺事態法によって、アメリカが海外で戦争を起こしたときに米軍への支援をすることになったし、先頃の有事三法によって、日本が武力攻撃を受けたときの、国や地方の任務、国民の協力、自衛隊の行動を円滑化することなどを定めた法律ができた。
 最近こうした自衛隊が活動することに関連する法律や議論、それと関連して憲法第九条を変えてしまおうという議論が多くなされるようになっている。
 このようにして、アメリカが持っているような軍事的防衛を日本が肩代わりするとなると、ますます自衛隊は規模を大きくしたり、その活動範囲も大きくなっていかざるを得ない。
 ことに北朝鮮問題がこうした傾向に拍車をかけている。
 だが、この武力によって守り、あるいは守ることを口実に、アフガニスタンでの戦争のように攻撃するという道は、正しい道なのか。いつの戦争もこのように、守るということを口実に起こされてきた。
 実際、一九四六年の憲法議会において、首相吉田茂は、つぎのように述べたことはよく知られている。
「…近年の戦争の多くは自衛権の名において戦われたのであります。満州事変しかり、大東亜戦争またしかりであります。…」この吉田首相の考えはまもなく、次第に変質していく。
 戦争が自衛の名においてなされることは、最近のイラク戦争も同様であった。アメリカの中心部の巨大な建物が航空機によって崩壊させられたことから、さらなる攻撃から自衛するためと称して戦争が行われた。 こうしてタリバンによるアフガニスタン支配はくつがえされた。しかしそれで解決はしたかというと、最近のアフガニスタンでは、政権を追われたタリバンが再び勢力を回復してきて、各地で政府軍やアメリカ軍をねらった攻撃が相次ぐなど、国内状況はかえって悪化傾向にあり、内戦に逆戻りするのでないかとの不安が高まっているという。
 武力によって解決したように見えてもそこにはまた新たな武力による混乱が生まれていく。武力は一時的な解決にみえることをするだけである。
 また、戦争という大量殺人を始めるには、よほどのことがなければできない。それだけの理由がない場合には、不真実なこと、嘘を用いて戦争を始めようとする。かつての日本も、中国兵が満州鉄道の線路を爆破したといって日本軍がただちに攻撃を始めた。これが中国との長い十五年戦争となり、さらに太平洋戦争ともなってアメリカやイギリスなどとの戦争へと突き進んでいくことになった。そして数千万の人々が殺傷されるかつてない悲劇が生じることになった。
 しかし、これは日本軍の一部指導者層がたくらんだことであった。じっさいに爆破したのは日本の関東軍の中尉が数名の部下を使って爆破したので、ただ口実のためにやったために、その直後に満鉄の列車は無事通過できたほどであった。
 今回のイラク戦争の開始においても、イラクが大量破壊兵器を持っていると断定して、その兵器からアメリカを守るためだというのが理由であった。しかし、その断定には根拠がなかったことが明らかになりつつある。アメリカの国防情報局は、昨年九月の内部報告書で、イラクの化学兵器の存在を断定するための信頼できる情報はないと結論していたのに、大統領は国連やホワイトハウスで、それらの大量破壊兵器の存在を断定したという。アメリカの大統領は自分たちが始める戦争を正当化するために、大量破壊兵器に関する情報を意図的に操作していたのではないかという疑惑が次第に膨らんでいる。
 イギリスでもそのブッシュ大統領に一貫して協力したブレア首相に対して、イラク戦争を始めた根拠を追求されている。イギリス政府が、イラクの脅威について出した報告書は、核兵器とか生物化学兵器に関するイラクの脅威を偽物の文書によって造り出したとか、脅威があるように書き直したものであったという。
 日本政府は、やはりアメリカの大量破壊兵器が存在するという断定をそのまま信用して、明確な国連決議も基づかないのに、アメリカによってはじめられた攻撃を早い段階で支持した。
 もしこのまま見付からないときには、アメリカの大統領は自国民だけでなく、国連をはじめ世界人たちを欺いたということになる。
 そもそもイラク戦争はアフガニスタンへの攻撃の延長上にある。そのアフガン攻撃は、アメリカの中心部へのビルの攻撃にあった。それはイスラエルとパレスチナの対立が重要な原因ともいえる。あの攻撃を計画した首謀者とされている人物は、パレスチナ紛争でイスラエルに味方するアメリカを制裁するためだと示唆していたという。 
 アフガン戦争、イラク戦争がアメリカによってなされた。しかしイスラエルとパレスチナの対立抗争は止む気配がない。
 アメリカが世界に示したことは、国連の決議がなくとも、武力で攻撃するという、話し合いより武力を前面に出す方式であった。しかしそのような武力で解決しようとする考えが根本的に問題なのであり、イスラエルとパレスチナの対立抗争を生んでいるのである。
 アメリカは一時的にはアフガンやイラクの政権を崩壊させたと言えても、武力という危険なものをもって世界の紛争に介入するという発想を刻み込んだのである。それは今後世界の紛争や内戦、あるいはテロにおいて武力をもって解決を図ろうとする傾向を強めることになっていくであろう。 実際、二〇〇二年度の、世界の軍事費は前年に比べて六%も増加して、九十三兆円にもなるという。アメリカがこうした軍事費の増大、武器の高性能化と増加を引っ張っている状態となっている。さらにアメリカは、小型核兵器の研究を再開することも決定した。日本も、福祉や医療、教育などの費用はつぎつぎと削減されていくのに、軍事費は巨額のままである。
 このような方向は人類が無数の人々の犠牲を払い、つい六十年ほどまえにも、数千万もの人が殺され、傷つき、生涯を破壊された世界的悲劇から学んだ、外交的な努力、平和的な話し合いで問題を解決するという方向に逆行するものである。
 日本はドイツ、イタリアと同盟して、その世界大戦で最も害悪を与えた国の一つであり、また核兵器の恐ろしさを身をもって体験した唯一の国であるゆえにこそ、ほかの国々とは違った根本的に異なる対処をするということで、一切の戦争には加わらない、とする平和憲法(*)を受け入れたのである。

*)「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 どの国も自国を防衛するためと称して軍備増強をしていく、その方向で世界大戦は生じた。だから、日本はそこから全く方向転換をして、軍備を持たない方向に向かって国の歩みを進めていくということであった。
 この方向転換は、世界に類のないものであった。わずかに、コスタリカという国がこのような徹底した平和主義の憲法を持っているだけである。
 しかし、このような方向転換はまもなく終わりを告げる。一九五〇年の朝鮮戦争がきっかけとなって、自衛隊が生まれたからである。そしてその後は肥大を続けて、現在では世界四位の軍事力を持つにいたっている。表面では憲法があるゆえに、平和主義への方向を維持できた。しかし実質は再び軍備増強という方向に向かっていったのである。
 日本の憲法の徹底した平和主義の精神はキリスト教から来ている。「剣をもってするものは剣によって滅ぶ」という主イエスの言葉、「敵を滅ぼすための復讐や攻撃はしてはならない。かえって敵のために祈れ」、「キリスト者の武器は、武力でなく、神の言葉であり、聖霊であり信仰なのだ」という新約聖書にあるイエスやパウロの言葉は、いかにみても武力攻撃を支持する言葉ではない。
 じっさい、キリストも、使徒の代表であったペテロも、ペテロの兄弟であったヤコブ、そしてステパノといった弟子たちも殉教した。書いた手紙が新約聖書の相当な部分をしめるほどに神との深い交わりを与えられていた使徒パウロも、意識不明になるまで石で打たれてほとんど死ぬほどであったが、かれらはみな、武力の助けを借りて相手を攻撃することはまったくしなかった。
 こうした聖書に記されている平和の精神は二千年経った今も変わらない。人間の考えは変わる。国家や教育、また新聞などマスコミの意見や論調もたえず変わっていく。
 イラク戦争のときには、アメリカの世論も戦争反対の意見に対して圧力がかかって自由にものが言えない風潮となった。日本も戦前は政府の戦争政策に反対して、平和主義をとなえようものなら、厳しく弾圧された。そして数千万の死傷者を生みだし、原爆のすさまじい被害を経験し、アメリカの指導のもと、平和主義を基調とする憲法が生まれた。そして政府も国民もそれに賛成した。しかしまもなくアメリカの考えも変わり、日本政府の考えも変質していく。国民の考えもとくに最近の国際情勢によって大きく変わっていきつつある。そして平和憲法を変えてもよいという考えが増えていく。このように、人間の考えはたえず変化していく。
 残念なことだが、キリスト者だと称する人たちであっても、時代の状況に押し流されて変質することがしばしばある。そうしたすべてが移り変わっていくただなかで、決して変わらないものがある。
 それは聖書の真理である。キリストが言われたこと、そのキリストから直接に教えられた使徒たちの記した真理である。
 この世はたえず、流れゆく世論や周囲の状況に押し流されていく。そしてもと来た道へと逆戻りをしていく。
 しかしキリストにつながる者は、たえずそうした流れに抗して、新約聖書に記されている、キリストやパウロの言葉へと方向転換をし続けて行かねばならない。
 私たちは世論によらず、国際的な風潮にもよらず、政治や教育などの指導者、評論家にも頼らない。ただ永遠の真理の書たる神の言葉に頼る。聖書こそは、主イエスが言われたように、天地が滅びようとも、神の言葉は変わらないからである。

天地は滅びる。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。(ルカ福音書二十一・33

 


st07_m2.gif休憩室

○五月末から六月にかけて、わが家の裏山では毎年ホトトギスの声が聞かれます。それは何かを呼び覚まそうとしている声のように感じます。小鳥たち自身はその本能に応じてさえずっていても、人間にはさまざまの意味と情感をもって受け止められるのです。五月二十九日に、徳島県の中央部に近い山地で、家庭集会が行われたとき、集会をしている間すぐ近くでホトトギスの声の強い声が聞こえていました。ほかにヤマガラやウグイスの美しい声も聞こえましたがこれは、天の国からの清流のようなものでした。私たちにはたえず目覚めさせ、呼び覚ます声と、汚れを洗い流してくれる清い命の水が必要ですが、これらの小鳥はそのようなはたらきをしてくれます。
○ホタルが、最近わが家の付近に見られるようになり、今年はある日の雨あがりの帰宅時には二十匹ほどもが家の付近に点滅していました。どこからやってくるのか、生れたのか不可解なのです。かなり離れたところに小さな谷がありますが、そこからはかなり距離もあり、途中の山にはそうしたホタルがほとんど見られないからです。ホタルの光は弱く、点滅し、わずかの間だけですが、そこから私たちは永遠の光へと思いを引き上げられるものです。闇の中の光はキリスト者にとっては、とくにヨハネ福音書の、「光は闇に輝いている」という言葉を思い起こさせるものです。

 


st07_m2.gifことば

158)私たちは祈るべきである。もし、人が神と正しい関係にあり、心から神を愛しているなら、呼吸と同じように自然に祈るであろう。私たちの中にも、神と正しい関係にあって、祈りが自然のすがたになっているゆえ、祈りを強いられる必要のない人々がいて欲しいのである。(「祈り 十二の鍵」CH・スパージョン著 173頁)

・このような祈り、呼吸のように自然な祈り、それは自分の思いをもつねに神に注ぎだし、新鮮な空気を吸って生きるように、神の国の霊的な賜物をたえず受け取って生きている状態だと言える。こうした状態に近づいた人は、周囲の人のために自然に祈り続け、あたかも心臓がからだに血液をおくり続けるように、よきものを注ぎ続けていく。
この言葉は、つぎのマザー・テレサの言葉を思い起こさせる。
「祈ることを愛しなさい。日中にたびたび祈りの必要を感じるようになさい。いろいろの妨げを乗り越えて祈りなさい。祈りは心を広くして神ご自身という贈り物を受け入れることができるようにする。」

159)正しいキリスト者は絶え間なく祈る。彼らは、必ずしもその口をもって祈らなくとも、彼らの心は眠っているときも、覚めているときも、絶え間なく祈る。真のキリスト者のしるしは祈りであるからだ。同様に、真のキリスト者は、つねに十字架を担う人である。(「ルターの卓上語録」グロリア出版 177頁)

・絶え間なく祈ること、それは自分に本当によいものがないことを深く知っている心から生まれる。自分が何かを持っている、力をもっていくなどと思っているときには、深い祈りは生まれない。自分のなかになにもよいものがないと自覚した、マタイ福音書にある「心貧しい者」でなければ、そのような祈りは生まれない。また、絶えず祈ることは、神を愛しているのでなければできない。愛とは心を注ぐことであるから。 そして本来、キリスト者とはそのような心貧しき者、たんに神を信じるだけでなく、神への愛を持つようになった者だと言えよう。

 


st07_m2.gif返舟だより

○…先日は、「はこ舟」五〇八号をお届けいただき、嬉しく読ませていただきました。私も八十歳を越えていて、すっかり体力的にも乏しくなり、以前は教会に礼拝は出かけていましたが、脳梗塞の再発がいつあるやも知れない身体状況ですので、外出もままならず、信仰の寄る辺は、いただいている「はこ舟」が何よりの頼りで、毎回の発行を楽しみに待ちわびています。…会員の皆様によろしくお伝え下さい。(近畿地方の方より)

○…そしてずっとページを繰っていき、「闇の中の光」、私もあの旧約聖書の最初の家庭の、アベルとカインの兄弟殺しの記事は、今までいろいろと答えや教えも頂いたりしても自分で納得できずにいました。この十ページに書いて下さってあること、「…聖書が現実を決して逃げないで見つめるという鋭いまなざしを持っていることの一つの現れなのである。このような闇こそが、現実の世界の実態なのである。その実情に直面していかにして私たちは生きていったらよいのか、そこにどんな救いの道があるのか、それをまさに指し示している。…」と教えて下さってあり、私は、三十年間理解できなかった問題を今やっと見つけることができました。心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
 次のページの預言書ミカのところ、「…最も関わりの深い肉親同志すらその平和がくずれ、信頼が失われ、憎しみが取り巻いていく。」ここで、私は○○さん、○○さんのことを思いました。
 そして「しかし、私はそれらのあらゆる流れに押し流されずに…」ここもとてもよく理解させて頂きました。毎月毎月私は「はこ舟」によっていろんな疑問を答えて頂き、また友にも教えてあげることができ、これ以上の感謝はございません。そしてそのたび毎にほかのどんな書物よりも私の老いの頭にはっきりと教えて頂くことのできる「はこ舟」を毎月驚きのまなざしで読ませて頂いております。…(四国の読者の方より)
・以上ふたつの返信は、いずれも老齢の方々からのものですが、「はこ舟」を読んで、そこに述べられている、神の言葉の持つ力に惹かれていることがうかがえて、神の力はこうした人生の晩年におられる方にも不思議な力を与えるのだと感じています。いっそう主がそうした老齢の方々にも、み言葉の力を与えて下さいますように。

○「今日のみ言葉」のメールへの返信から
キリストの大きな愛を受けながら、自分の周りの人たちへの愛の足りなさを日々反省しております。
「愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と祈っています。
 今年三月に、世界的な脳科学者(松本元さん)が、六二才の若さで昇天されました。一般紙でも紹介されたので、ご覧になったかも知れませんが、彼は「愛は脳を活性化する」という説を学会などで堂々と述べ、岩波書店からもこの題の著書を出しています。
 友人の子息が交通事故で脳をやられ植物人間になると宣言されたものがご家族の愛によって快復したのを目の当たりにしたのがきっかけでキリスト教に関心を持ち、熱心なクリスチャンになられ、深くキリストの愛のことを学ばれました。
 その告別式は、まさに「愛」のことで一杯でした。牧師さんの説教も、関係者の弔辞もそのことが中心でした。大変感動的な告別式でした。彼はエネルギッシュな研究者でありましたが、接する人すべてに明るく愛をふりまくタイプでした。
 日本の脳研究のリーダーの一人であり、新しい脳型コンピュータの開発構想の具体化に向けて邁進していた途中でありました。本当に残念なことをしました。今日のみ言葉に関連し、ちょっと書かせて頂きました。 主にあるお働きとご平安をお祈り申し上げます。(関東地方の読者より)

・確かに神からの愛は、脳という人間精神のもとを活性化するのだと思います。神の愛を受けて生きている人は、若々しい状態で保たれるのは多くの人が実感していると思います。脳を活性化することはまた心を活性化するし、からだも、活性化していのちに満たしてくれるのだと思われます。

○四国集会
 第三〇回のキリスト教無教会四国集会が、松山市で開催され、五十名あまりが参加できました。今回は、初めて松山聖書集会の代表者、冨永 尚兄が責任者となって開催されたもので、従来とはちがった新鮮さと行き届いた配慮が感じられた集会でした。またこの四国集会のために、ずっと祈りをもってなされ、私たちの集会でも礼拝や各地の家庭集会でも祈りを合わせてきたことでした。参加者は、四国四県以外に、福岡、広島、鳥取、神戸、大阪などからでした。テーマは「神の国」ということで、この重要な言葉について、聖書ではどういわれているのか、現在の私たちへのメッセージは何かということで、四人の講話担当者がみ言葉の真理の一端を語りました。
 グループ別集会では、静かな落ち着いた雰囲気のなかで、特定の人の長話や、議論にたけた人の一方的な話しもなく、全体として参加者がそれぞれ信仰の歩みや証し、主からの恵みなどについて語り合い、今後も、ともに主を信じる者として、互いに愛し合う(祈り合う)ための基礎となったことと思われます。
 主催県は四国の三県(愛媛、高知、徳島)が順番に交代していますので、三年に一度その地元に出向いて、その県の信徒の方達との交わりを新たにしていただけます。今回も、ずいぶん久しぶり、十年ほども会ってなかった方々やこれまであまり語ることもできなかった人とも出会う機会、語り合う機会も与えられ、主がそのように主にある親しい交わりへと導いて下さっているのが感じられました。
 使徒パウロは、ギリシャの都市コリントのキリスト者たちに、
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」と祈っています。(Ⅱコリント一三・13
 四国集会は確かにこうしたキリストの恵み、神の愛、そして聖霊の交わりを与えられた集会だったと思います。私たち一人の信仰生活でも日々こうしたものは与えられることですが、年に一度の祈りが込められ、多くの時間とエネルギーが費やされた集会においては日頃与えられないような賜物が与えられることもまた事実です。今後ともさらなる主の恵みと祝福が四国集会に与えられ、主の栄光があがめられますように。

 


st07_m2.gif著者・発行人 吉村孝雄 〒七七三ー〇〇一五 小松島市中田町字西山九一の一四 電話0885323017
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