20064月 第543号・内容・もくじ

リストボタン復活の重要性について

リストボタン祈りはどこにでも

リストボタン新しい歌―ファンタジーの装いをした真理

リストボタンことば

リストボタン休憩室

リストボタン編集だより

リストボタンお知らせ


st07_m2.gif復活の重要性について

春、それは誰にとっても待ち望まれる季節であろう。その第一の理由は厳しい冬の寒さに終りを告げて暖かくなることであり、次にはそれによって次々に木々や野草、草花たちが蘇ったようになり、花を咲かせていくからである。
こうした春の喜ばしさは、復活の喜びへと指し示すものがある。
けれども「復活」ということは、一般的にはほとんど話題にならない。そのようなことはおよそ問題外だという雰囲気があって、新聞、雑誌、テレビなどでも論じられるというようなことはほとんどない。
このような日本の状況とは全く違って、新約聖書では、復活の重要性は一貫して記されている。
復活ということがいかに世界全体において重要であるか、それは復活を記念する日が、主の日として毎週記念され、礼拝の日となり、それが現在の日曜日を休むという世界的な習慣として定着していったことにも現れている。
日本ではキリスト者はわずかに一%にも満たない少数派である。しかし、キリスト教の中心にある、キリストの復活の記念日と関わりのない人はだれもいない。知らず知らずのうちに、「キリストの復活」は、日本人全体の中に切り離すことができない状況となっているのである。
キリスト教が世界に伝わっていくそもそもの出発点は、イエスの単なる教えでなく、キリストの復活があったからであり、復活したキリストの別の現れである聖霊が注がれたからであった。

ヨハネ福音書においては、とくに復活した主イエスが、恐れている弟子たちの真ん中に立って、「あなた方に平和があるように」と語りかけたということが、次のように特に強調されている。

… その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。…
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」…
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ福音書二十・1920

このイエスの復活の記事は、ヨハネ福音書の事実上の最後の部分にある。そしてその重要な部分において、「平和があるように!」との主イエスの言葉が三回も繰り返し言われている。ここに、この福音書を記したヨハネがとくに啓示を受けたことが感じられる。そして十一人の弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて部屋に鍵をかけてこもっていたとある。そのことも、二回繰り返し記されている。
ここには、キリストと共に三年間、ずっと共に生活し、あらゆる主イエスの驚くべき働き、奇跡、その教えに親しく接していたにもかかわらず、主イエスが逮捕されたときには、みんな逃げてしまったし、弟子たちの代表的存在であったペテロすら三度も、イエスなど知らないと主を否認する状態であった。また十字架にて処刑された後も、このように、自分たちも逮捕されるのではないかとユダヤ人を恐れ鍵を閉めて部屋にいたとある。
こうしたヨハネ福音書の書き方によって、いかに人間は単なる教えや奇跡を見たとか、偉大な人と生活した、というようなことでは力が与えられない、本当には変えられないというのがわかる。
人間はどこまでいっても、人を恐れ、親しかった人や恩人さえも裏切るような弱さがあり、それは鍵をかけてこもっているような束縛感を持っていると言えよう。
人間はもともとそのように真理に対しては、鍵をかけている。それがいくら教えを聞いたり、奇跡を見てもイエスの復活を信じようとしなかった弟子たちや、若いときからすぐれたユダヤ教の教師について学んだパウロのような人でも、キリストの真理を全く受け入れられなかったこと、また、実際に現代の日本人も、キリストの十字架による罪の赦しや復活というキリスト教の中心的真理を全く受け入れようとしない人が圧倒的に多いということからも、人々は真理に対して鍵をかけているという状況がわかる。
しかし、このような状況においても、復活のキリストは、入って行かれる。たしかに、部屋の鍵をかけていた、ということはその文字通りの意味であったが、それとともに彼らの心にも鍵がかかっていたのに、そこにキリストが入って行かれるという、霊的な事実、霊的な真理をも重ねて書いてあると言えよう。
私自身もそうであって、およそ、敵のために祈るとか、愛するなどといったことには全く考えたこともなかった。せいぜいクラスのよくない人間に対して無関心であるとか、反発や嫌うという感情やあるいは見下すといったことでしかなかった。どのような人間に対してでも、その人が本当によくなるように、といった心で対するということは、はじめから思い浮かぶこともなかったのである。
そしてさまざまの苦しい問題が生じて、行き詰まりますます心に鍵がかかってしまう状況のただなかに神は、まずギリシャ哲学という心の世界に目を開かせてくださった。その後に、キリストの十字架による罪の赦しや復活ということ、再臨というキリスト教の中心にある真理に対しても、私の魂の狭い部屋、そこに鍵がかかっていたのに、それを砕いて、その真理が入ってくるようにして下さった。
この世界全体がたしかに、鍵がかかっていた状態になっていた。それは、一人の人間アダムによって罪が入り込んだ、という表現であらわされていること同じである。

…一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。(ローマの信徒への手紙七・13

世界に鍵がかかっていたが、その中に復活のキリストは入って来られたのである。

もう一つ、キリストの復活に関する箇所で強調されているのが、「あなた方に平和(平安)があるように!」という言葉である。ヨハネ福音書には、短い箇所に三度も繰り返し言われているし、ルカ福音書においても、復活のキリストが現れたということを弟子たちが話し合っていたとき、その復活したキリストが彼らの真ん中に立って、「あなた方に平和があるように!」と言われたことが記されている。(ルカ二十四・36

このような特別な強調と繰り返しは、復活のイエスが与えようとしていたものが何であるかを指し示すものである。それは、すでにヨハネ福音書では、最後の夕食のときに、やはり特別に強調されていたことであった。

…これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書十六・33

主イエスが最後の夕食のときに、ヨハネ福音書においては詳しくいわば遺言のように最後の長い教えが含まれている。それは十四章から十六章の三つの章であり、六ページにわたって詳しく書かれている。その最後に書かれているのが、右にあげた言葉である。そのように詳しく教えたその目的が、「イエスによって平和(平安)を得るため」なのである。
それは社会的な平和とは大きく異なる本質を持っている。一般のニュースやテレビ、新聞や印刷物で言われているのは、戦争がない状態を指していることがほとんどである。
しかし、ここで主イエスが言われているのは、「私によって平和を得るため」である。このことは、同じヨハネ福音書の十四章でも強調されている。

… わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。恐れるな。(ヨハネ福音書十四・27

ここでも、平和といっても、この世が与えるように、軍縮会議や法律、国連のような国際的組織
、あるいは表面だけつくろうといった仕方で与えるのではない。キリストによってであり、キリストの平和であると言われている。
平和という言葉のもとにあるのは、ヘブル語のシャーロームであるが、これは日本語とは大きく異なっている。日本語は国語辞典を調べるとすぐわかるように、「戦争がなく穏やかな状態」を指しているが、旧約聖書においてシャーロームは、本来は、「完了、完成する」、という動詞、シャーレームの名詞形である。
それゆえ、シャーロームとは、「完成された状態、満たされた状態」といったニュアンスを持っているのであって、「戦争がない状態」という意味が中心にあるのではない。それゆえ、聖書では、平和とか平安という訳語の他にも、勝利、安心、穏やか、勝つ、勝利、繁栄、好意、幸福、善、無事等々、三十種類ほどの訳語が用いられているほどである。(口語訳)
こうした訳語は、原語が、「完成された状態」というニュアンスを持っていることから説明できる。私たちの魂の世界が、完成された状態とは何か、私たちをそのようにするのは神だけができることである。神が私たちの内面を神のよきもので満たすとき、完成する。そのとき、周囲の状況が揺れ動いてもそれに動じないであろうし、さまざまの真理ではないものによっても誘惑されないと言える。また、神に従い、真理に従っていくときに初めて人間の内面は完成する。悪口を言われても、怒らず、かえって神の愛をもって祈るであろう。ほめられるようなよきことがあっても、それは自分でなく、神の力ゆえにそのようになったことをはっきりと実感しているとき、私たちはほめる言葉によっても動かされないだろう。
このように、神のよきもので満たされている状態こそが、完成された状態であり、シャーロームとは、本来はそうした状態を意味する。
だからこそ、次の箇所のように、神ご自身がシャーロームと言われている場合もある。

…ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。(旧約聖書 士師記六・24
*


*)士師記という名称は、ほとんどの人が、書物や新聞でも見たことがないと思われる。私もずっと以前に初めて聖書を手にしたとき、士師とは一体何なのかと思ったものである。士師とは、「中国古代の、刑をつかさどった官。」だと辞書には書いてある。中国語聖書で、士師記というように訳したのをそのまま日本でも受け継いだ名であるから大多数の人にとっては意味不明なのである。文語訳聖書では、中国語訳の聖書名をそのまま受けて、マタイ福音書のことを、馬太福音、ルカを路加、マルコを馬可などと書いていたし、使徒行伝という書名にしても、行伝などという日本語としては使わない言葉も、それが中国語訳の書名をそのまま取り入れたからであった。

そのうち、全うされた状態ということから、戦いに「勝利する」という意味でも用いられている例をあげておく。

…「わたしがアンモンの人々に勝利して帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし…」(士師記十一・31
*

*)代表的な英語訳聖書でもそのように訳している。
・…when I return victoriousNRS
・…I return in triumphNIV,NJB

このように、ふつうは「平和、平安」と訳されることが多いから、シャーローム=平和だと思っていたらいけないのであって、聖書の元の言葉の意味は、ずっと幅広いのである。
こうした、広く深い意味をたたえたシャーロームという語は、神が人間に与えようとしておられるすべてを含んだ言葉としても用いられている。それは例えば次のような箇所である。

…たとい山々が移り、丘が動いても、
わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、
わたしの平和の契約は動かない。」
とあなたをあわれむ主は仰せられる。(イザヤ書五十四・10

Though the mountains be shaken and the hills be removed,
yet my unfailing love for you will not be shaken nor my covenant of peace be removed," says the LORD, who has compassion on you.
NIV

神の平和の契約、それは信じる人たちに、いかなることが起ころうとも、今までのべてきたような意味における平和(平安)、原語で言えば、シャーロームを与えるということである。それがいかに固い約束であるかということ、「山が移り、丘が揺らぐことがあろうとも…」と言って、そうした天地異変のようなことがあっても、変わらないというのは、そのまま現代の私たちへの言葉でもある。
この部分のイザヤ書は、今から二千五百年ほども昔に書かれたと考えられているが、そのようなはるかな古代からずっと神の平和を与えるという契約(約束)は変ることがない。
それは、このイザヤ書が書かれて五百年ほど後のキリストによって、一層固く約束されたのが最後の夕食のときの言葉である。
主イエスは、最後の夕食のときに、とくに「私の平和をあなた方に与える」と約束された。このことが何カ所かでとくに強調して言われているし、それは主イエスの最後の遺言のようにすら感じられるほどである。
そして、実際に復活のキリストは、「主の平和を与えるために復活された」と言えるのである。また、それは永遠の命とも言われる。永遠の命とは単に長い命でなく、神が持っているような命であるから、それは神の平和そのものである。
ヨハネ福音書、ルカ福音書にはともに、復活したイエスが「弟子たちの真ん中に立ち…」と強調されている。ヨハネ福音書では二回繰り返されている。ここには、復活のイエスは、信じる人たちの集り(エクレシア)のただ中に来て下さるということが暗示されている。主イエスご自身が、弟子たちに、次のように言われたことと共通した内容が感じられる。

「二人または三人が私の名によって集まるところに、私もその中にいる。」(マタイ十八・20

ここには、個人の内にも復活のイエスは来て下さることは言うまでもないが、イエスを信じる者たちの集りの中にとくに来て下さるということが、約束されているのである。
このことは、キリストの最大の弟子といえるパウロの次のような言葉においても表現されている。新約聖書においては、キリストを信じる人たちの集り(エクレシア、集会、教会)というものが、「キリストのからだ」であるという驚くべき表現がなされているが、それはいかに信じる人の集りが重要であるかを示すものである。

…あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分である。(Ⅰコリント十二・27
…私たちはキリストの体の一部なのである。(エペソ書五・30

また、復活のキリストのことを知らされた弟子は、走って行ったと強調して記されている。走っていく時には、迫り来る時間を後にしつつ一心に前を見つめている。私たちは、そのように真摯に前方を見つめているだろうか。
死があたかも後から追いかけてくるかのように、そしてそれを振り切って復活のキリストに出会いさえすれば、もはや死は自分を追跡することはない。
この世においては、すべてのものを死というものが追いかけていく。そしてその巨大な口に、権力者や金持ちも王たちも、そして天才や一世を風靡したようて才能ある人たちも、みんな呑み込まれていく。人間の集りである国家も同様である。
二千年という歳月を振り返るとき、実にさまざまの国々が起こっては消えて行った。それはこの「死」というものに次々と追いつかれ、押しつぶされていったからである。

…わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(Ⅱコリント四・810

ここに使徒パウロがなぜ、どのような困難に会ってもそれに打ち倒されなかったかということが記されている。それは、復活の力を受けていたからである。キリストを信じるだけで、打ち倒されることがあった。しかし、滅ぼされることはない。また見捨てられ、さげすまれることがあった。しかし、そのただ中から新たな力が与えられて、立ち上がることができていった。
そのような苦しみは、何のためか。それは、イエスの命が現れるため、である。イエスの命、それは復活の命、死という最大の力を持ったものに打ち勝つ力である。
そしてこのようなキリストのゆえに受ける苦しみは、パウロのような迫害ということだけではない。病気とか人間関係とか、事故や災害など、キリスト信仰を持ったからそのようになったということでない苦しみや悲しみがはるかに多い。こうした苦しみも、それがキリストのため、神の国のために用いていただくための器になるための訓練であると受けとるとき、それはキリストのゆえの苦しみになる。自分の苦しみも悲しみも神の国のためなのだと、受けとるときには、そこから新たなキリストの復活の力が与えられる。そして、自分だけにとどまらない。
「こうして、私たちの内には、死が働き、あなた方の内には命が働いている」
と言っている。それはキリストのための苦しみや悲しみは、決してそれだけで終わることがなく、周りの人に新たな力、命が働くようになるというのである。
キリストのための苦しみや喜び、あるいは祈り、働きというのは、自分だけに留まらないで絶えず周囲にひろがっていこうとする本性をもっている。それが「キリストを信じる者たちは、キリストのからだである」、と聖書で言われているのはこうした意味も持っている。
ここでも、パウロはそのことを繰り返し強調している。
「すべてこれらのことは、あなた方のためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためである。」(四・15

このように、キリストの復活のいのちというのは驚くべき性質をもっているのが明らかにされている。だれかがキリストのゆえに苦しみを受けるとき、他の人に復活のいのちが伝わるというのである。
この最大の実例がキリストであった。キリストの苦しみによって、他の無数の人たちに復活のいのちが伝わる道が開けたのであった。
また、殉教者の血は、新たなキリスト者を生み出してきたのも、このことと関連している。
古いラテン語のことわざに、メメントー・モリー(memnto mori)というのがある。メメントとは、メミニー(覚えておく、忘れない)(memini)の命令形である。この言葉は、いろいろなところで引用されてきた。
私たちがもし、あと一カ月しかいのちがない、と宣告されたとき、どうするだろうか。なすべきことを、できることを精一杯しようと思う人もいるだろう。
悲嘆に打ちひしがれてしまって何も手がつかない人もあるだろう。
あるキリスト教著作家が、「私たちはみんな死んでいくことを忘れるな。自分を苦しめてきた人も、そのうちに死んでその遺骨の上に墓石が乗せられるだけになってしまうと考えるとき、自分を苦しめている人間に憎しみをもっていた人でもその憎しみは和らぐはずである。」と書いていたのを思いだす。
死が近いと感じるときには、私たちの考え方、もののとらえ方は相当異なるものとなってくる。
聖書にもその二つが対照的に記されている。
多くの場合、死んだらもう何もない、それで終りだと考える場合には、つぎのような傾向を生じることが多い。

…単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったか。もし、死者が復活しないとしたら、
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになる。
(Ⅰコリント十五・32

こうした考え方と正反対の生き方が、聖書には記されている。例えば、聖書にある例で言えば、使徒パウロは、野獣と戦わねばならないような危険に襲われたり、さまざまの迫害を受けた。それを切り抜けて勝利しつつ歩んで来ることができたのは、死んでも復活する、という確信があったからだ。

…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いであった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるであろう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(Ⅱコリント一・810より)

このように、復活があるからこそ、いのちにかかわるような危険をも犯して神に従っていこうとする力を生み出してきた。キリスト教が伝わっていく過程でほとんどどこででも生じたのは、このような迫害であった。家族からは切り離され、牢獄に入れられ、拷問を受け、そのような数々の苦難をもあえて受けていくようになったのは、まさに復活の力をいただいていたからであり、死後にキリストの栄光が与えられて復活するという確信があったからである。
人間が死んだらこの世から消えてしまう、というのは多くの人の考え方である。しかし、そのような考え方では、大きな苦難を平安をもって耐えていくことは到底できないであろう。なぜ苦しみを耐えていかねばならないのか、そのまま死んでしまってどうしていけないのか、どうせ死んでしまって、忍耐も善行も悪も正しい考え、悪い考えなどみんな、死とともに消え失せていくと考えるようになり、困難を乗り越えて行こうという気持ちがなくてってしまう。

魂が死すべきものであるか、死なないものであるかを知るのは、全生涯にかかわることである。
魂が死すべきものであるか、死なないものであるかということが、道徳に完全な違いを与えるはずであるのは疑う余地がない。(「パンセ」二一八~二一九 パスカル著)
*

*)フランスの思想家・数学者・物理学者。流体の圧力に関するパスカルの原理の発見は有名。真空の存在を実験によって証明したこと、初めて計算器を発明した。確率論や微積分学の先駆的な業績等々がある。キリスト教思想家としてもその著「パンセ」などで有名。(一六二三年~一六六二年)

著者パスカルはこの文章のすぐあとで、復活について述べているので、ここでは、魂が死すべきものであるとは、復活がないと信じることを指している。死んだらそれで終りで何もなくなる、ということを信じている人たちは、すでに述べたように、悪事をしても善きことをしてもみんな死んでしまうのだ、ということなら、人間は本気で善いことをしようとしなくなる。死んだら無になるのなら、今、苦しみながら少しでも善い事をしようなどと考えるだろうか。
どうせ死んだら終りなら、遊んで楽しんだ方がましだ、と考える傾向を生むだろう。
そのことを、パスカルは、復活があるのかどうかが、人間が正しく生きるそのあり方に決定的な違いを生むと言っている。そして、死とともにすべてが消えてしまうのか、それとも復活があるのかは、全生涯にかかわることであるという。
それは当然である。もし復活がなく、死とともにすべてが失せてしまうのなら、生涯の目標もまた、失せてしまうであろう。
世のために尽くすという、しかし、その世もまた、みんな死んでいくのであって、地球すら消滅してしまうはるかな未来を考えるとき、究極的にはみんな消滅してしまうからである。
こうした問題が解決されるのは、死によってすべてが終わったり消え失せたりするのではないという真理によってである。
人間が死んでもその本質は霊のからだとして復活し、この地球や太陽、宇宙なども、新しい天と地として再創造されるということを信じることができるとき、初めてそのような重苦しい未来から解放される。

…見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。(イザヤ書六五・17

この新しい天と地への信仰こそ、このすべてが移り変わり消えていく世界にあって、私たちに与えられる究極的な信仰である。それゆえこのことは、聖書の最後の黙示録にも示されている。

…私はまた、新しい天と地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなっていた。…この都にはそこを照らす太陽も月も必要でない。
神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。(黙示録二十一・1節、23節)

古代にあっては海というのは、得体の知れない深淵であり、少し海を深く沈むと暗黒の世界になり、一度荒れると恐ろしい破壊力を発揮することなどから、悪が霊的に存在しているという見方があった。それゆえに、新しい天と地においては、「もはや海もない」と記されているのである。
春になると、一斉にそれまで枯れたようになっていた木々からも初々しい新芽が伸びていき、黄緑色の葉がぐんぐん伸びていく。
宇宙の終りとかいった遠大なことでなく、ごく身近なところを見ると、春になれば、固い幹から次々と新芽が出てきて、花を咲かせていく。またごく小さい種からさまざまの形をした葉をつけ、それぞれに異なった形や色を持つ花を咲かせる。
このような身近なところでの変化、それは神が全く異なるものを、不連続的に創造する、その典型的な形として、復活するのだということを指し示すものとなっている。
使徒パウロも、蒔くときはただの小さな種粒であるが、一度蒔かれると、そこから種の姿とは全く違った植物として成長し、花を咲かせ、実を結んでいく。
人間の復活もそれと同様で、いまの私たちのからだは、復活のときには、「霊のからだ」を神から受けるのである。
復活ということは、単に死のかなたの出来事でない。すでにこの世にあるときから、そのことを体験させてくださる。それは、死んだようになっていたものが、キリストの十字架の罪の赦しを与えられて、新たないのちに生きるようになることである。

… あなた方は罪のゆえに、死んでいた。…しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さった。(エペソ信徒への手紙二・16より)

このパウロの言葉にあるように、将来死ぬというだけでなく、今すでに霊的に見れば死んでいたとさえ言われているような者がキリストを信じることによってキリストと共に復活させていただき、死にも打ち勝つ神の力を与えられて復活したのが、キリスト者だというのである。
しかも、肉体の死後でなく、今すでに天の王座に着かせて下さったという。それはそれほどに神の力といのちを受けた者だと言われている。
こうした人間の魂をよみがえらせてこの世で全く新しい生きる道を見出し、それを歩み始めるということもまた、復活のキリストの力である。このような意味での復活は、ルカ福音書の放蕩息子のたとえで印象深く記されている。
そして復活という言葉とともに思い起こさせるのは、ロシアを代表する大作家トルストイの最後の長編「復活」である。
これは、一人の女性を深い堕落へと突き落とすことになった重い罪を犯した一人の人間が、その罪の重さを知らされ、神の国に目覚め、悔い改めとともに全く新しい生き方へと変えられていくことをテーマとしたものである。
この作品の最後の部分に次のようにある。

「この晩からネフリュードフにとってまったく新しい生活がはじまった。」
「彼の生涯におけるこの新しい時期がどのような結末を告げるかは、未来が示してくれるであろう」という文で終る。

復活という最も信じられないようなことが、実は最も現実を支え、悪に勝利させる力を与え、現在から世の終わりに至るまでの最大の希望となって今後も闇に輝くともしびであり続けるであろう。


 


st07_m2.gif祈りはどこにでも

言葉は、しばしば正しく伝わらない。かえって誤解や行き違いが生じたりすることもよくある。遠くの人にも手紙やメールという手段で届けることはできるが、それも同様である。
手紙などであっても、本当の思いはしばしば書けない。
しかし、祈りには本当の思いを託することができる。
会うことは、遠い外国の人とは難しい。
自分を誤解し、また敵視する人には、言葉をかけても受け入れられない。何かを与えようととしても受けとられない。
しかし、神から受けた愛を送ることはできる。祈りは相手が受けとろうと受けとるまいと関わりなく相手に注ぐことができる。
重い病気の人、死に瀕した人に対するとき、もはやかける言葉もないことがしばしばである。しかし、心をこめて祈りを注ぐことはできる。
ふつうの言葉は目上とか目下など、社会的な上下関係や年齢のことなどによって言い方を変えなければいけない。しかし、祈りはそのようなことと関係なく、注ぐことができる。祈りにおいて私たちは対等の存在、兄弟姉妹となることができる。
主イエスは私たちのために祈りをもって見つめて下さっている。イエスが生きている、導いて下さるということは、言い換えると、絶えることなく祈って下さっているということである。本当の導きは祈りが伴うからである。
祈りこそは、人間を超えた神からの言葉や音楽、霊をも受けとるし、また人間以外の植物や山々、海、雲、水の流れなどからも、祈りによってそれらから心の養分、霊的な栄養を受けることができる。
そしていよいよ死の近づくときにも、苦しいさなかでも、その苦しみを神に訴えて叫ぶという祈りができるようになっている。
私たちは、年齢や健康や経済問題、地位など、さまざまの点で束縛されている。そうした人間に、あらゆる方面への見えざる翼を与えてくれるのが祈りである。

 


st07_m2.gif新しい歌―ファンタジーの装いをした真理

映画「ナルニア国物語」は世界で六七カ国で、公開されているという。そして、この物語は日本でも、今から四〇年ほども前、すでに岩波書店*から発行されていた。

*)岩波書店は、日本を代表する書店の一つとして数々の重厚な学問的著作が刊行され、特に重要とされる著作家の全集なども出版されてきた。
キリスト教に関しては、とくに無教会のキリスト者の者が多く選ばれてきた。内村鑑三、矢内原忠雄、南原繁、藤井武、高木八尺、江原万里、大塚久雄など、多く無教会キリスト者である学者、著作家、キリスト教伝道者たちが岩波書店から全集という形で刊行されてきた 。
とくに内村鑑三については、次のように異例ともいえるほどに、繰り返し全集や著作が刊行されてきた。
『内村鑑三全集』岩波書店、1932-1933
鈴木俊郎編 『内村鑑三著作集』岩波書店、1953-1955
『内村鑑三全集』岩波書店、1980-1984
亀井俊介訳『内村鑑三英文論説翻訳篇 上』岩波書店、1984
道家弘一郎訳『内村鑑三英文論説翻訳篇 下』 岩波書店、1985
鈴木範久編『内村鑑三選集』岩波書店、1990

キリスト教についてはとくに無教会のキリスト者への重視が岩波書店の刊行物に見られるが、他方では、「ナルニア国物語」のような物語が早くからその真理性を見抜かれて出版されていた。
「ナルニア国物語」の第七巻がイギリスで発行されたのは、一九五六年、日本では、岩波書店からその一〇年後の一九六六年に発行されている。 ちょうど四〇年が経つが、これまでは地味な子どものための物語として一部の人たちには広く知られてきたものの、特別に大きな話題になることはなかったといえるだろう。
しかし、今回、世界的に映画として公開されるようになって、単に子ども向けと思われていた物語が一挙にキリスト者以外の人たちからも、大人かさも注目されるようになり、その物語に秘められた深い意味、とくにキリスト教の真理にあらためて注目されるようになったのは、不思議な神の導きといえるだろう。

一九四〇年代の後半に、C・S・ルイスが、「ナルニア国物語」の第一巻の「ライオンと魔女」を書き始め、一九五〇年に刊行された。そして一九五六年に最後の「さいごの戦い」が刊行されている。
 今回の映画化は、第一巻であり、それについては多くの人が知るようになったと思われる。
「ナルニア国物語」の第一巻の最初は、第二次世界大戦の空襲から逃れた子どもたちから始まる。今回公開された映画ではそれがとくに激しい空襲の場面からとなっていて、強い印象を与えるものになっている。それは「ナルニア国物語」というフアンタジーというイメージとは全く異なる現実の世界の暗く、厳しい状況である。
しかし、そうした現実のただなかに、「衣裳だんす」というごく身近な扉を開けばそこから全く別の世界が開かれている。中心的な役割を果たしている少女や子どもたちは、その衣裳だんすの扉を開いてそこから、思いがけない世界「ナルニア国」へと導かれていくのである。
それは現代の私たちにおいても、汚れ、混乱した悪が至るところにあり、戦争のうわさが絶えずあるような世の中に生きる者であるが、そのごく身近なところから、キリストの真理の世界という大いなる世界が開けているということを指し示すものとなっている。
この世界は、霊の目を開いて見るならば、いたるところに、この物語での「衣裳だんす」のような、未知の深い世界への入口があるということなのである。
そして、このキリストの真理の世界へと導かれ、天からの清い音楽といのちの水に浸されるとき、憎しみや争いは自然に消えていく。 それは主の平和であり、そこが真の平和の原点となることを著者は知っていたのであり、そうした意味でこの「ナルニア国物語」は若い世代から、幼な子らしさを失ってしまった老年の世代に至るまであらゆる世代のひとたちに、真の平和へと心を向かわせるものとなっていて、それが戦争のような悪や憎しみなどの混乱への強い防護壁となることが期待される。
批判と非難、あるいは攻撃し合うことによって、または人間的なかけひきのつまった会議や取引によってでなく、一人一人の魂に天来の美しいもの、よきもの、力あるものを注ぎ込み、それによっておのずからいろいろの人間関係の悪化、不信、争い、また国家間や民族の間の戦争の根源でもある憎しみをなくしていこうとするものを持っており、人の魂をふるさとへと招きよせるものなのである。
第一巻の「ライオンと魔女」という作品では、罪をあがなう、身代わりの死と復活というキリスト教の中心にある真理が、一見するとファンタジーのような映画の中にあって、重要なものとして位置づけられている。
この二つの真理は、すべてのよきことの出発点にあるゆえ、この第一巻に記されているのは意義深いものがある。
そしてライオンによって、キリストが象徴され、魔女によってサタンがあらわされていて、善と悪との戦いという聖書全体に一貫して見られるテーマがこの物語を流れている。
以下の文はその「ナルニア国」という国ができるようになったいきさつが記されている、「魔術師の甥」(The Magician's Nephew)という作品から、その内容の一部を紹介したいと思う。
 「ナルニア国物語」は七冊にわたるシリーズであるが、それぞれに独立していて、ある著作家が、次のように述べている。
「何より重要なことは、どの本にも隠された美しい驚くべき真理が盛られていること、全体が善と悪との戦いに関わる壮大な物語であるということである。」

 ナルニアという国がまだできていないとき、そこに入り込んだ子ども、大人、そして魔女たちがいる。
 そこは何もない世界であった。それだけでなく、風も吹かず、お互いの様子すらわからない闇であり、草もなく木も生えていなかった。
 そのような不気味な世界に突然入り込んでしまった幾人かの人たちのなかで、馬車屋が言った。

…人間はいつか死ぬ。しかし私たちがきちんと暮らしてれば、死ぬのをこわがることは少しもない。
こんな時、時間を過ごすのに一番いいのは、讃美歌を歌うことだ。そして馬車屋は讃美歌を歌った。…彼はよい声を持っていた。子どもたちもそれに加わって歌いだした。それは非常に元気づけるものとなった。…

(・原文の雰囲気を感じてもらうために以下に一部の原文を引用。
I think the best thing we can do to pass the time would be to sing a 'ymn.He had a fine voice and the children joined in; It was very cheering.


 神への讃美は、たしかに暗いとき、道が見えないときに不思議な力を与えることがある。それを作者はこのような形であらわしたのである。
 そしてそのような讃美を歌うことによって引き出されたかのように、暗闇の中から歌が聞こえてきた。
 新しい国が造られるというときの情景が、音楽的な内容とともに描き出されているので、やや詳しく引用する。
*************************************
…暗闇のなかで、何かが起ころうとしていたのです。
歌をうたいはじめた声がありました。とても遠くの方で、歌声がどの方向から聞こえてくるのかわからないほどでした。
同時に四方八方から聞こえるようでもあったし、みんなが立っている地の底から響いてくると思ったときもあります。低音のしらべは、大地そのものの声かと思われるほど、深々としています。

In the darkness something was happening at last. A voice had begun to sing.It was very far away.
Sometimes it seemed to come from all directions at once. Sometimes he almost thought it was coming out of the earth beneath them. Its lower noptes were deep enough to be the voice of the earth herself.

 歌のことばはありません。ふしさえもないといえるくらいです。
 でも、それは今まで聞いたどんな音とも比べようがないほどの美しさでした。もうこれ以上耐えられないと思うほどの美しさでした。そこにいた馬もまたその歌を喜んでいるようです。

There were no words. There was hardly even a tune. but it was , beyond comparison, the most beautiful noise he had ever heard. It was so beautiful he could hardly bear it.

 馬はそのときいななきましたが、それはちょうど、何年も馬車を引いて働いた馬が、小馬のときに遊んだなつかしい牧場に戻って、忘れもしない大好きな人が、美味しい食物をくれるために牧場をよこぎってやってくるのを見かけたときにたてる声のようでした。…
 ついで驚くべきことが二つ同時に起こりました。
 一つは、あの声に、突然たくさんの他の声が加わったことです。それは数えきれないほどたくさんの声でした。それは最初の声に美しく和していましたが、音はずっと高く、銀のすずの鳴るような声でした。
 二つめの驚きは、周囲を取り巻いていた闇が、にわかに星々で燃え立つようにきらめいたことです。星は夏の夕方のように、一つ、また一つと何気なく現れたのではありません。
 今しがたまで、闇のほかは何もなかったところに、次の瞬間には、何千という光の点がぱっと輝き出たのです。
 一つ一つの星も、みな、私たちの世界のものよりも、はるかに光が強く、大きかったのです。 新しい星々が現れたのと、新しい声が加わったのとは、全く同時でした。 
歌っているのは、ほかならぬその星であったし、星々を出現させ、星々に歌を歌わせたのは、はじめの声、深々とした歌声の主なのだと、みなさんは疑う余地もなく心に感じたはずなのです。
 地上のあの声は、今やますます高らかに、ますます堂々と強くなりました。しかし、空からの声はあの声に合わせて一時高らかに歌ったあと、だんだん小さくなっていきました。すると今や別の出来事が起ころうとしてきました。
 そよ風が、とてもすがすがしく吹き始めました。空は、その一カ所だけ、ゆっくりとまたはっきりと白んでいきました。
 そして山々の黒い影をしだいに浮き立たせていきました。
 その間もずっと、あの声は歌い続けていました。…(「ナルニア国物語・魔術師のおい」岩波書店 一六三~一六五頁より) 
*************************************
 この世は、騒がしい音で満ちている。都会にて歩くなら、至るところから騒音が響いてくる。そして人間の精神においても、実にさまざまのよくない声が響いており、それはテレビや雑誌、新聞などにもあふれている。それらは、さまざまの人間の汚れた部分、怒り、妬み、金や本能的欲望、地位への執着などなどをそのまま映し出している。こうした状況にはどこにも清いものがない。
しかし、ルイスの「ナルニア国物語」は人間世界の暗く汚れた現状に、清く美しい何かをもたらそうとしているのがここに引用した記述でもよくうかがえる。
それは人間がそのように試みてもできない。著者のルイスは、この世界の根源にじつはそのような美しい、清いもの、しかも絶大な力をたたえた存在がたしかに存在するということを自分自身の人生においても深く体験し、それを何とかあらわしたいという情熱がこの本には感じられる。
キリストの福音という言葉がある。福音とは聖書の原語(ギリシャ語)では、「よい知らせ」(euaggelion)であり、喜びの知らせなのである。
著者はまさにそのよき知らせ、喜びの知らせをこの世にもたらすべく、この一連の物語を書いたのである。彼は、一九三〇年代に書かれたある手紙のなかで、次のように書いているという。

「ロマンスの衣の下に隠すことによって、キリスト教神学をそれと気付かれずにいくらでも読者の心の中に注ぎ入れることができるのではないだろうか。」

たしかに「ナルニア国物語」は一見単なるフアンタジーと見えるその構成や表現のなかに、随所にキリスト教の真理が隠されている。しかもそれはいかめしい神学とかキリスト教教義というのとはまったく異なるスタイルで書かれているから、それをいわば各自の鍬をもって掘っていかねば見えてこないところがある。
しかし、それでもここに流れている何か美しいもの、喜ばしいもの、この世を超えたはるかな世界からの―それこそが真の実在なのだが―おとずれをほのかに感じさせるものとなっている。
私たちが都会から田舎の清い大気のなかに行けば、全体で何か清いもの、よきものを感じるようなものである。
 そしてその美しいものを呼び出す根源となっているのが、ナルニアの国を造り出したライオンであった。このライオンこそは、「ナルニア国物語」の第一巻の「ライオンと魔女」の中心的存在であり、新約聖書の黙示録においてキリストのことがライオン(獅子)(*)と記されていることから用いられたと考えられている。
「ナルニア国物語」では、このライオンがきわめて重要な役割を持っているが、それはキリストを象徴した姿なのである。

*)…またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。
また、一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。
しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。
この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。
すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出たライオン(獅子)、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」(黙示録五・15より)


ここで、ユダ族から出たライオンとは、キリストはユダ部族の出身であること、さらにキリストの先祖にあたるユダとは、創世記にあるヤコブの息子の一人であるが、そのユダも、「ユダはライオンの子、…」(創世記四九・9)と記されていて、ユダには特別な支配権、力が与えられることが預言されている。

星たちを生み出したのは、神の言葉であった。創世記の第一章によれば、まず神は「光あれ!」という言葉によって光を闇のただ中に生み出し、その光を、太陽や月、星々に与えたというように記されている。
それが「ナルニア国物語」においては、遠くからのライオンの歌によって光が生じ、星々が輝きはじめたのである。
ライオンであらわされたキリストは、天地の創造に関わっただろうか。神を信じる人であっても、ふつうは天地万物を創造したのは神であって、キリストは、単に偉大な人間、聖人だと思われていることが多い。
しかし、聖書をみるとき、そうした単純な考えは根底から崩れていく。新約聖書では、キリストも神の本質を持ち、神とも言われ、神とともに天地創造に加わった存在なのである。

…万物はことば(ロゴス)によって成った。成ったもので、ことば(ロゴス)によらずに成ったものは、何一つなかった。(ヨハネ福音書一・2

これは四つの福音書の内では、最後に書かれたヨハネ福音書の冒頭部分である。何を最初にもってくるかは重要なことであり、ヨハネは神からの啓示によってこの言葉を冒頭に位置づけたのである。
万物は神によって創造された。それはヨハネ福音書よりはるかに古く書かれた旧約聖書の創世記に書かれている。しかし、ヨハネ福音書では、その万物は、ことば(ロゴス)と言われる存在によって創造されたと記されている。このロゴスとは何か、そのすぐ後に「ロゴスは肉体をまとって、私たちの間に宿った。それは父の独り子としての栄光であって、…」とあり、その独り子とは、イエス・キリストであるゆえ、このロゴスというのは、まだキリストが地上にくる前に存在していたその存在をロゴスというギリシャ語であらわしているのであって、ロゴスというギリシャ語には宇宙の根源的真理といった意味がある一方で、「言葉」という意味も持っているから、「言(ことば)」と、特殊な表記の仕方をしているのである。
キリストが万物を創造したというのは、現代の私たちには、不可解なことだと思われがちであるが、キリストがただの人間でなく、神でもあったゆえに当然のことなのである。このことは、新約聖書に含まれるヘブライ人への手紙にも、やはり最初の部分に記されている。

…神は、この御子(キリスト)を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造された。(ヘブライ人への手紙一・2

キリストが万物を創造したなどというのは、一般の人々には、およそ信じがたいことのように思われるであろうが、キリストの本質が分かってくるほどに、そのことが受け入れられる真理となっていく。
「ナルニア国物語」でキリストをあらわすアスランという名のライオンが、新しい世界を創造するというのは、聖書における記述から見れば当然のことになってくる。
先に引用した記述のなかで、音楽あるいは歌がきわめて重要な役割をもっているのが感じられる。
それは、ナルニア国の真の王であるアスランが初めてナルニア国を創造するとき、まずそこにいた馬車屋という庶民の讃美歌が導火線のようになって、アスラン自身の歌を引き出してくる。
そしてアスランの歌によっていろいろなものが創造されていく。ここには、いかに清い音楽、神に由来する音楽が力あるかが示されている。それは祈りであり、美しい流れであり、命となり、力を注ぎ込むものとなる。
アスランの歌によって星々が誕生し、いっせいに大いなるきらめきを放つようになる。そしてその星がアスランの力によって讃美し始める、そのようなことはあまりにも私たちの現実とかけ離れたファンタジーの世界だと思われるかも知れない。
しかし、これは霊的に私たちが高く引き上げられるならば、経験されることなのである。
ダンテはその大作である「神曲」の第二巻にあたる、煉獄編の終りに近い部分でつぎのように、清められた魂に生じたことを書いている。ここで夫人とは、マチルダというすぐれた女性で、ダンテの疑問を説き明かし、導く象徴的な女性である。

…そう話すと、夫人は愛に満ちたものとして再び歌い始めた。
「ああ、幸いだ、その罪を赦された者は!」
夫人は川の上流をさして、土手に沿ってその上を舞うように歩きはじめた。
そして、私もその夫人と並び、従った。
その道をまだそう遠くへ行かなかったとき、夫人は、私の方に向き直って言った、
「おまえ、見てごらん、聞いてごらん!」
たちまちすばやい光が大きな森の四方八方を駆けめぐった。
稲妻かと私は思った。
しかし、この光は、燦爛とその輝きを増していった。
心のなかで私は叫んだ、「いったい、これは何だ!」
光に満ちた大気を貫いて、心に沁みるような音楽の響きが流れた。
もし、エバが従順に神に従っていたら
このような、言い表すことのできない喜びを
私ははるかな昔から長い間味わえたに違いないのだ。(「神曲」煉獄編第二九歌より)

このように、讃美と光が、森を貫いて、その光と音楽によって天の世界に実在するものにダンテは触れる。それは罪ゆるされた者の与えられる大いなる恵みとして記されている。
旧約聖書においても、そのように引き上げられた魂(ヨブ記の著者)が啓示を受け、聖書のなかでその体験を神の言葉として次のように記している。

… わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。…
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。…
(この世界の)基の柱はどこに沈められたのか。
誰が(この世界の)隅の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。(ヨブ記三八・47より)

これは、信仰に生きていたヨブという名の人に突然さまざまの苦難が降りかかってきて、長い間苦しみあえいだすえに、ようやく神からの直接の語りかけがあったときの、神の言葉である。
ここには、天地創造のときの状況は誰も知らないことが強調されている。そしてそのような創造のわざに対して、星々たちがすべて喜びの歌を歌ったと記されている。
ナルニアという国が生れるとき、星々が大いなる歌声を歌ったというのも、聖書のこのような記述を用いているのが分かる。
そして天地創造のときなのだから、現代の私たちには何の関係もないのでなく、我々が聖なる霊を受けるなら、現代でもやはり星々たちは清い讃美をあげているのが聞き取れるのである。
本当によいことは、神に根ざしているのであり、神は永遠に変ることがないのであるから、神から直接に由来する星たちの歌も決してすたれることはない。星々たちは天地創造のときから今に至るまで、高貴な歌を讃美し続けているのである。

また、旧約聖書の詩集(詩編)においても、次のように記されている。

ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。
御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。
主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。
日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。(詩編一四八の13

アスランが星々に命じると大いなる声で讃美の歌を歌いだした。それは、この詩編にあるように、神の霊を豊かに受けた詩人が、神のご意志を受けてこのように、太陽や月、そして星々に向かって、主を讃美せよ、とうながしているのと同じことである。
そしてそれに応えて、それらの天にある輝く星々たちは歌い出したのであり、今に至るまで歌い続けている。
このように、大空の太陽や星々から神への讃美を聞き取ることは、旧約聖書の続編にも次のように記されている。

…神の家はなんと雄大で、
神の支配する領域はなんと広大なことか。
雄大で限りなく、高くて計り知れない。…
神が光を放つと、光は走り、
ひと声命じると、光はおののいて従う。
神が命じると、「ここにいます」と答え、
喜々として、自分の造り主のために光を放つ。(バルク書三・2435
*

*)バルク書とは、旧約聖書続編の一つ。預言者エレミヤを助けてその預言の筆記者となっていたことがあるバルクが、バビロンに滞在していたとき、捕囚となったイスラエルの人たちに与えた祈りや奨励の言葉。

ここにも、星々のあの光は単に冷たい物理的な輝きでなく、神の愛のご意志に従って生み出され、光っている存在であり、そこには神への讃美が込められているとされている。これはこのバルク書の著者自身が星々の光に喜ばしい讃美を聞き取っていた証しともなっている。

先に引用した「ナルニア国物語」の続きを見てみよう。

…東の空は、白からうす赤に、赤から金色に変わっていきました。あの声はますます高く、ついには大気がそのためにふるえるほどでした。そしてその声が、まだそれまでに出したことのないほど力強い、荘厳な響きにまで高まったちょうどその時、太陽がのぼりました。
この太陽はのぼりながら、喜びのあまり笑っていると思われるくらいでした。…(一六七頁)

The eastern sky chaged from white to pink and from pink to gold.
The Voice rose and rose,till all the air was shaking with it.
And just as it swelled to the mightiest and most glorious sound it had yet produced, the sun arose.
You could imagine that it laughed for joy as it came up.

アスランの歌声によって呼び覚まされた星々たち、そして最後にのぼってきた太陽もすべて喜ばしい輝きに満ちていた。それはアスランの歌は、暗闇に喜びをうながすものであり、この世にない喜びを告げるものであったからである。
このような神的な讃美の世界は、新約聖書にも記されている。それは聖書の最後にある黙示録である。

…また、わたしが見ていると、見よ、小羊(キリスト)がシオンの山に立っており…
わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。
わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。
彼らは、(神の)玉座の前で、新しい歌をうたった。(黙示録十四・13より)

迫害のただなかで書かれたと言われる黙示録、その苦しみと悪の支配の中で、黙示録の著者に啓示として見ることが許されたのは、神とキリストが御座におられるということであった。
そしてその前で、大いなる歌声が聞こえたが、それが何にもかえがたいような重い音、堂々たる響きを持った音なのであった。それは神ご自身が万物を支え、支配されている重々しさと力を象徴するものである。
この黙示録において、救われた人たち、額に神とキリストの名が記された人たちが、「新しい歌を歌った」とある。
神によって救われ、永遠の命を与えられた者の内にはキリストが住むようになるゆえ、そこからはつねに新しい歌が生じる。ちょうど、神によっていのちを与えられた草木からはつねに新たな新芽が出てきて、新たな花を毎年咲かせていくようなものである。神は無限の広がりを持っているゆえに、
その神に結びつくときには、新しい命があり、そこから新しい歌が生れる。
そのことが、ナルニア国が生れるときにも次のように取り入れられている。ここでは、以前に歌ったのとは違った新しい歌という意味で言われているが、その背後には、聖書にある前述のような内容がある。

… ライオンは新しい歌をうたいながら、何もない大地を行きつ戻りつしていました。
新しい歌は、星々や太陽を呼び出した歌にくらべてやさしく、軽やかでした。穏やかなさざ波の寄せるような音楽でした。
そして、ライオンが歩きながら歌うにつれ、谷間は青々としてきました。草はライオンの歩くところから、まるで水の広がるように広がっていきました。
そして小さな丘の中腹を波のようにのぼっていきました。ほんの二、三分のうちに、遠くの山々のふもとの斜面にまで上っていき、それがこのできたばかりの世界をひと時ごとになごやかにしていくのでした。
そよ風は、今は草をなびかせてそよそよと音を立てました。…(一七一頁)

このように、ナルニアという国は、ライオンの歌う新しい歌によって創造されていく。キリスト教において、讃美の重要性は言うまでもない。現在も世界中で神への讃美は鳴り響いている。それは個人の家であったり、病室であったり、あるいは教会や集りでも歌われているだろう。さらに、CDやラジオ、外国ではキリスト教関係のテレビ番組など多数あり、そこでも歌われている。
そしてそのような讃美できる心こそは神より与えられたものであり、そうした讃美が現在も新たなよきものを生み出していく。
自然のうるわしい木々と風の合奏、谷川の流れの水音、大波の打ち寄せる壮大な水と砂のおりなす交響楽、そして星々や樹木の沈黙の讃美、それらもまた神の国から流れ落ちる音楽であり、神の国からの招きなのである。

ナルニアの国が出来上がったときの状況を再び引用する。

…ライオンは口を開きました。しかし、口からは何の響きも出てきません。ただ息を吐き出していたのです。長い暖かい息吹です。その息はまるで風が一ならびの木々を揺するように、すべての動物を揺り動かすと見えました。
はるか頭上の青空の幕の奥に隠れていた星たちが、ふたたび歌いました。清らかな、難しい音楽でした。
それからまるで火のような光の稲妻が一すじ、空からか、それともライオンの体からか、ぴかりと光りました。
すると子どもたちのからだの血の一滴一滴がうずきました。その時、子どもたちがこれまで聞いたことのない深い、まことにはげしい声が言いました。
「ナルニア! ナルニア! ナルニアよ! 目覚めよ、愛せ。考えよ。話せ。歩く木々となれ。もの言うけものとなれ。聖なる流れとなれ。」

The Lion opened his mouth, but no sound came from it; he was breathing out,a long,warm breath;it seemed to sway all the beasts as the wind sways a line of trees. Far overhead from beyond the vale of blue sky the stars sang again; a pure,difficult music.
Then there came a swift flash like fire either from the sky or from the Lion itself,and every drop of blood tingled in the children' bodies,and the deepest wildest voice they had ever heard was saying;
"Narnia, Narnia, Narnia, awake, Love, Think. Speak. Be walking trees. Be talking beasts. Be divine warters"

ライオンが言葉でなく、ただ息を吐き出していたとある。そしてその息がすべての動物をも揺り動かす不思議な力を持っていた。聖書においては、「息」とか「風」という原語は、ヘブル語もギリシャ語も「霊」という原語と同じなのであり、これは次のような記述を思い起こさせる。キリストが復活したときの箇所を引用する。

…イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けよ。だれの罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される。…」(ヨハネ福音書二十・2122

ライオンのからだから、あるいは天からの強い光を受けて子どもたちの血潮も強く動かされたという。そこには、キリストの光こそは人間を奮い立たせるもの、新たな力を与えるものだということが暗示されている。
そして最後のライオンの深く力強い言葉は、この「ナルニア国物語」の著者であるルイス自身が、読者に向かって情熱をもって語りかける言葉であったし、それは彼が神とキリストからそのように語りかけられたということを示している。
生けるキリスト、復活のキリストからの直接の語りかけはそれほど力づよく、またそれはその人だけに留まるのでなく、周囲へと波及していくものなのである。
ナルニアを生み出したアスランという名のライオンの歌、そうした讃美は世界に今この時も響きわたっているのであって、すでに今から数千年前に詩人が歌ったことと相通じるものがある。

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編十九・15

私たちはこの清く力強い響きを聞き取ることによって新たな力を得ることができる。それはかつてモーセが見た、火の柱、雲の柱のように私たちを導くものなのである。この世の騒音でなく、まったく異なる世界からの美しい何か、力強いある存在、それを私たちも日々与えられ、導かれるようにと神は備えて下さっているのである。

 


st07_m2.gifことば

232)ある人たちは、生活がとても忙しいから祈れないと、言い訳をします。しかし、そんなことはあり得ないのです。祈りは、私たちの仕事を中断することを要求することはないのです。
私たちは、働くことが祈りであるかのように、仕事し続ければいいのです。
大切なのは、神と共にいることであり、神のご意志のうちにあって、神の内に生きることなのです。(マザー・テレサ)

There are some people who,in order not to pray,use an excuse the fact that life is so hectic that it prevents them praying.
This cannot be.
Prayer does not demmand that we interruot our work,but that we continue working as if it were a prayer.
What matters is being with him,living in him,in his will.
(「MOTHER TERESA IN MY OWN WORDS 7P

233)真実の天国とは、果たしていかなるところか。私は信じる、神の聖意のみの成るところだと。…
私は信じる、天国とは、自己の満足を求めず、キリストの心を心とした者の世界だと。それは来世であれ、現世であれ。(「午後三時の祈り」内田 正規著 66頁)

・神の聖意とは、神のご意志であり、御心とか御旨などとも訳される。私たちの不満、動揺や混乱は、すべて自分の意志や欲望などをを第一とすることから始まる。なすことがうまくいってもいかずとも、そこに込められた神のご意志を信じて受けとるなら、平安があり、新たな力が与えられる。
内田は、午後三時祈の友会の創始者。結核の苦しみのなかから祈りの力を知らされ、互いに祈りをもってする祈の友が生れた。一九四四年、三三歳にて召される。神は彼を用いて祈の友を起こしたがそれは今も主に支えられて続けられている。

 


st07_m2.gif休憩室

○わが家への山道のかたわらにいつの頃からか、コバノタツナミという、タツナミソウの仲間が育ち、今頃になると美しい花を咲かせています。その付近にはこの花は見られないし、我が家のずっと上の山道をたどっても頂上にいたるまで見られないし、どこをどのようにたどってこのわが家の近くの道に種が落ちて、そこから育って花を咲かせるに至ったのか、不思議なことです。
しかもそこはかなり乾燥した石地なのであり、まるで美しい花を咲かせるには不適だと思われるようなところです。
種が落ちる、これは、キリスト信仰においても、福音の種が私のところに落ちて育ったのも実に不思議です。私自身も考えたこともなかったし、私の周囲の人も、私がキリスト信仰に生きるようになるとは、だれも全く想像もしなかっただろうと思います。福音の種も人間の予想を超えたところに落ちて、そこで神が育てていかれるのを思います。

 


st07_m2.gif編集だより

今月は、三月はじめから日本全国で映画が公開されている、「ナルニア国物語」について、今回は現在上映されている、第一巻の「ライオンと魔女」の部分でなく、そのナルニアという国が生み出される状況を描いた部分について、紹介のために書きました。 映画化されるようになって、第一巻についてはたくさんの「ナルニア国物語」に関する本が出版されているので、スペースの関係でそれについては省いたのです。
大型の書店やインタ-ネットが使える人は自由にこの物語についての解説書とか、原作を購入できますが、からだが弱い方々、インタ-ネットが使えない状況にある方々、田舎にいるとか入院とかで書店に行けない人たちも多いので、そのような人たちにとくに読んでもらえたらと考えたわけです。
それから、やはり、聖書との関連を示すことも重要と考えたので、具体的にどのような箇所と関係しているのかも書いてあります。
キリストの福音や聖書の内容をさまざまの方法で知らせることは大切だからです。 主はこうしたかたちをも用いられるからです。
このようなファンタジーの衣をまとった物語は、表面的に読むと、ただ空想の世界のことだと思われやすいのですが、著者のルイスは、そのような子ども向けのスタイルを用いて、真の実在である神とキリストを指し示そうとしたのです。

 


st07_m2.gifお知らせ

○四国集会
今年のキリスト教・無教会四国集会は、五月十三日(土)~十四日(日)、愛媛県松山市での開催です。もう間近に迫っていますので、参加希望の方は、はやく申込をしておいて下さい。
内容は、四国の三人の講師による聖書講話、特別讃美、感話(証し)、小グループ感話会、自由な感話会、早朝祈祷、自己紹介などです。今回は、感話として四国外の三名を含む六名の方々による二十分の感話が(土)、(日)それぞれに三人ずつ設定されています。み言葉を学び、ともに祈り、讃美することと、聖霊による交わりが深められる集会となりますよう、祈っています。

会費 一万円(一泊二食、写真代金含む) 昼食は別途申込する。

申込先 〒790-0056 松山市土居田町747-4 冨永 尚宛
電話 089-971-9276 携帯 090-3784-2888
E-mail
t-tominaga@r7.dion.ne.jp

○祈の友四国グループ集会
今年は祈の友のグループ集会も松山市が担当です。従来は九月二十三日の休日でしたが、今年は、九月十八日(月)の祝日(敬老の日)になっていますので、間違わないようにして下さい。

○真実な愛、キリスト教的な愛をテーマとした作品はごく少ないものです。文学にしてもドラマや映画なども同様です。
 アメリカで一九七四年から一九八四年までの十一年間放映され、日本でもだいぶ以前にNHKで放映された「大草原の小さな家」という作品は、キリスト教的な愛、そして罪とその赦しということをしばしばテーマにした作品です。
 制作総指揮者であるとともに、自らも明るく勇気と愛に満ちた父親役を演じているマイケル・ランドンは、神に導かれて制作したのではないかと思われるほどです。登場人物が十年余りもほとんど同一のまま、ずっと継続されたというのも、他では聞いたことがありません。このような内容の作品は、恐らくは二度とできないと思われます。
 かつてNHKで放映されていたものを、熊井さんが全部ではありませんが、かなりの内容をビデオに録画してあり、ビデオテープのままでは、カビが生じたり破損して使えなくなるので、その一回分を一本のDVDに変換してあります。それで希望者に貸し出しまたは、ダビングすることができますので、希望者または、問い合わせは吉村まで申し込んで下さい。

○瀬棚聖書集会
 今年の北海道瀬棚郡の瀬棚聖書集会は、七月13日(木)~16日(日)までと担当の野中信成兄から連絡がありました。私(吉村孝雄)は例年のように聖書講話を担当予定です。もう二か月半ほどです。参加希望の方は予定に入れておいて下さい。
○「大草原の小さな家」
 真実な愛、キリスト教的な愛をテーマとした作品はごく少ないものです。文学にしてもドラマや映画なども同様です。
 アメリカで一九七四年から一九八四年までの十一年間放映され、日本でもだいぶ以前にNHKで放映された「大草原の小さな家」という作品は、キリスト教的な愛、そして罪とその赦しということをしばしばテーマにした得難い作品です。
 かつてNHKで放映されていたものを、集会員の熊井さんが全部ではありませんが、かなりの内容をビデオに録画してあり、ビデオテープのままでは、カビが生じたり破損して使えなくなるので、その一回分を一本のDVDに変換してあります。それで希望者に貸し出し、またはダビングできますので、ご希望の方は、吉村まで連絡ください。