2006年5月第544号・内容・もくじ
なくてならないもの
先日、朝にホトトギスの鳴き声を聞いた。ただ一声であったが、私の心の中に漂っていた雲のようなものを吹き去るような働きをしてくれた。何かさわやかなものが心に入ってきたのである。
人間の心には、このようにしてごくわずかなものがそれまでのもやもやしたものを一掃してくれることがある。
友の一言、あるいは、聖書の短い言葉、またふと流れてきた音楽、風にそよぐ音、あるいは水の流れの音…そうした短いもので私たちの心の風景がさっと変ることがある。
聖書のなかに、キリストの弟子ペテロが、主イエスが逮捕されたときに、三度もそんな人は知らない、と強く否定した。そのときの主イエスのことが次のように記されている。
…主は、振り向いてペテロを見つめられた。
ペテロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われた主イエスの言葉を思いだして、外に出て激しく泣いた。(ルカ福音書二二・61~62)
主イエスのまなざしと少し前に聞いていた短い一言が、ペテロを深く悔い改めさせることにつながった。 私たちが道にはずれたこと、言ったりしてはいけないことをしたとき、何らかの誘惑に負けたようなとき、主は私たちの方を振り向いて見つめておられる、そのまなざしを、この福音書の著者であるルカ自身がはっきりと体験していたのであろう。
そしてそのようなまなざしの背後に、神のまなざしがある。
最大の働きをした使徒となったパウロ、かれはかつてはキリスト者に対して激しい迫害をしていた人物であった。しかし、突然の光と復活したキリストの直接の呼びかけの一言によって決定的に変えられた。
私たちが神から求められているのも、幼な子のようなまっすぐな心で神を仰ぐただひとつのことであり、私たちが必要なものも、私たちに語りかけられる上よりの一言であり、神のまなざしである。
…無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。(ルカ福音書十・42)
低きところに
谷川のほとりを歩いていてふと思った。水は低いところへと流れる。
この世で与えられる最善のものである、聖なる霊も同様であり、神の前に自分を低くするところに自然に天からの水が流れてくる。
高ぶるところ、自分を第一とする心には流れてこない。自分には与えられるという自信のようなものがあっても難しい。
心の貧しい者、悲しむ者、正しいことができず、しかし真実な正しさそのものに飢え渇く者、自分は罪を犯した者にすぎない、土の器でしかない、と自覚する低い心に主の霊は注がれてくる。
これは、低いところへと水が流れていくように、必然的なことなのである。
可能なかぎりのことを
私たちがなすことは、わずかなことでしかない。よいことだと思ってしても誰からも評価されずかえって悪く言われることもある。人に精一杯の祈りと善意を尽くしても、あるいは印刷物をたくさん作って配布しても何の反応もない、何らかのよき運動のようなことをしても何にも現実は変わらない。そのようなことはよくある。
しかし、結果を見ないで続ける。ほめられてもけなされても、やっていること自体がよいことならば、続けていく。それは時として「水の上にパンを投げる」(コヘレトの言葉十一・1)ようなことだ。全く無駄なようなことに見えることがある。
しかし、内なるものにうながされるなら、無駄にみえることも続けることができる。
そうして続けるとき、意外なことが生じる。思いがけない出来事、予想しなかった出会い、また突然の事故や苦しみ、分裂、そうしたすべてを通して神が働かれていたのが後から分かってくる。
イギリスの広く知られたキリスト教伝道者のスパージョンが次のように言っている。
「海上に風が全く吹かなくとも、帆を降ろしてはならない。
そうすれば風が吹いたとき、あわてて準備せずにすむからである。
恵みが伴わないように見えても、手を尽くせ。
そうすれば恵みが訪れたとき、それを受け止めることができる。
一回の好機を逃してしまうよりは、五〇回の徒労の方がよい。
しばしば祈ることができない、などと考えてはいけない。朝に、昼に、夕に、魂を神に向かわせよ。
望みを失って願うことをやめてはいけない。鳥の声にさえ耳を傾けて下さる神は、時至って、あなたの願いを聞いて下さるはずだから。
神が願いを聞いて下さるまで、あきらめてはならない。…」
主イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」と言われたのは、こうした持続する祈りと願いなのである。
イエス・キリストの福音
福音という言葉は、日本語としてもキリスト教と関係のない領域においても広く用いられている。新約聖書に現れるこの語の原語は、ギリシャ語では、ユウアンゲリオン(euaggelion)であり、これは、「喜びの知らせ」という意味である。(*)
(*)euとは、「良い」という意味の接頭語、 aggelw とは、「知らせる」という動詞。
この世において、喜びの知らせとはどういうことを指しているだろうか。それは結婚、出産、あるいは、大学合格とか、大会社に就職できた、あるいは自分のひいきするチームが優勝したなどといったことが一番ふつうに連想されるだろう。
しかし、そうしたよい知らせを全く生涯受けとることのない人も相当いる。生まれつきからだが弱いとか、重いからだの障害があって、病院で多くを過ごさねばならない人、あるいはスポーツの勝ち負けなどに関心が持てない状況にある人などにとっては、そうした喜びのおとずれなどはまったく関係のない別世界のことだといえよう。
また、世間の喜びの知らせを受けた人であっても、その後にどんな悪い知らせを受けるかは誰も予測できない。例えば合格した喜びはまもなく、勉強とかサークル活動についていけないとか、健康を害するとか、あるいは人間関係がうまくいかないなどで、まもなく苦しい生活になるということもよくある。
子どもに恵まれなかった夫婦がやっと子どもに恵まれた、しかしその後病気になったとか、少し成長して親に逆らうようになったり、問題を起こして心配の種になることもしばしばである。
このように、この世の喜びの知らせは、たいていが一時的である。
しかし、聖書が示している喜びのおとずれは、本質的に永続的であり、だれにでも本来与えられるものなのである。
聖書全体が、いわばこの喜びの知らせをたたえている。それは、すでに旧約聖書の巻頭にみられる。
天地創造のときには、この世界、宇宙全体がおそるべき混乱と、深い闇のなかであったが、そこに「光あれ!」 という神の言葉ひとつで、すべてを包んでいた闇に光が生じた。これはすでにあらゆる困難な問題への喜びのおとずれなのである。
戦争、飢饉、憎しみ、絶望、差別、貧困、老年の孤独と病気、天災や事故等々、この世には心を暗くし、希望を失わせることで満ちている。しかもそうした闇を解決する根本的な方法はだれもが知らないのである。
しかし、神はそのはてしない闇と混乱のただなかに、根本的な解決の道をはっきりと示したのである。
それこそは、神の言葉であり、光をもたらす神の力である。
このことは、信じるかどうかである。どんなひどい闇や混乱があっても、そして人間の努力や対策、運動が無力に見えても、そのなかに神の言葉が注がれるなら、たちはだかる壁を越えることができる。
ここに喜びの知らせの原点がある。
また旧約聖書における最も重要な人物の一人である、アブラハムについて見てみよう。それは神が人間に呼びかけ、約束の地へと導くということであり、さらに、星のように子孫を増やすということであったが、それもまた、喜びのおとずれである。
どこにいくのかわからない、最終的には死という闇へと向かうのだという一般的な常識は、喜びどころか心を憂鬱にするものである。
しかし、アブラハムを未知の地ではあるが、そこに導き、大いなる祝福を与える、という約束を与えられたこと、それはまさに喜びの知らせであった。
喜びの知らせ、その特質は、一方的に与えられるという点にある。もし私たちの側にいろいろな条件が必要とされるのなら、それは何か苦しいもの、努力を要するもの、あるいは生まれつきのものであったりする。そこからは、自分には喜びの知らせではないのではないか、という恐れや不安がある。
しかし、アブラハムにとっての最大の喜びの知らせは、突然、一方的に神から告げられた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えよ。あなたの子孫はこのようになる。
…私はあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」(創世記十五・7)
このように、アブラハム自身がなにか優れたところがあったとか、何かの特別な善行をしたとか、そういうことが全く言われていない。ただ一方的に祝福の源になり、星のように子孫が増やされ、よき土地を与える。」と言われたのである。
このことが、時代がすすむにつれて、祝福の源になるということよりもさらに深いところへと進んだ。それが、人間の根本問題である、罪の赦しのことである。
これが何よりも、深い意味において、喜びの知らせとなることは、すでに旧約聖書の詩編においても、示されている。
いかに幸いなことか、主に罪を数えられず、心に欺きのない人は。
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てた。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は夏の日照りにあって衰え果てた。
わたしは罪をあなたに示した。
わたしは言った、
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。…
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。…
神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。(詩編三二より)
ここに、深い喜びの声をあげるのは、罪赦された人である。多くの人々に喜びの知らせを告げることができるのは、罪赦され、それまでのどんなことをしても解決できなかった罪ゆえの苦しみから解放された人なのである。
この詩は、喜びのおとずれをキリストより何百年も昔にすでに知らされていた内容を持っている。
こうした罪ゆえに縛られた状態からの解放が最大の喜びとなり、解放を告げるもののうちに与えられる喜びが、イザヤ書にも記されている。
いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げる…
主は聖なる御腕の力を
国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。(イザヤ書五二・7~10より)
このイザヤ書の箇所は、もともとは、イスラエルの民が彼らの罪ゆえに、新バビロニア帝国に攻略され、滅ぼされて多くの民が遠くバビロンに捕囚として連れて行かれた。そのときから半世紀を経て、新しくペルシア帝国が起こり、その王が意外にも捕囚となったイスラエルの民を解放し、祖国に帰ってもよいとの許可を与えたことが背景にある。
罪ゆえにとらわれていた人たち、その人たちが帰ってくる、という喜びの知らせを指しているものであった。しかし、聖書の箇所は、そうした特定の時代に関して与えられた言葉であっても、驚くべきことに、はるか後の時代のことを預言するものであることが実に多い。というより、聖書とはそうした言葉が収められたものであって、それゆえに神の言葉と言われるのである。
神の言葉とは、永遠性、普遍性を持つものだからである。
実際、パウロは、この箇所を福音を宣べ伝える者を預言した箇所として、その書簡の中に引用している。
…遣わされないで、どうして(福音を)宣べ伝えることができよう。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」
と書いてあるとおりである。(ローマの信徒への手紙十・15)
この福音とは、パウロがその主著であるローマの信徒への手紙の冒頭で書いているように、神の子キリストに関するものである。
この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
御子に関するものである。
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって神の子と定められた。この方が、私たちの主、イエス・キリストである。(ローマの信徒への手紙一・2~4)
福音とは「キリスト」であり、復活したゆえに「神の子」と定められたと言われている。ここで、神の子とは、単に神が造った子という意味でなく、神と同質という意味である。
この短い表現によっても、福音とは復活したキリスト、神の子キリストに関するものであることが分かる。
そしてそのキリストの福音の中心は、人間の最も深い問題、すなわち罪の問題の解決であった。人間世界の根本問題とは、戦争や、資源やエネルギー問題、あるいは環境問題、人口や貧困の問題でない。それらすべての問題の根源にあるのが、人間が正しい道を歩けず、自分の欲望や意志どおりにしようとする人間中心、自分中心の考えにある。そのことが罪というものである。罪こそは、あらゆるこの世の問題の根本に横たわっている問題である。
それを解決するために来られたのが、キリストであり、キリストそのものがまさに福音なのである。それゆえ、過去から現代に至るあらゆる問題の根本的な解決には、つねにキリストの福音が働いてきた。
そのことは、具体的には、キリストが私たちのどうすることもできない罪そのものを身代わりに背負って死んで下さったということである。これは、あまりにも予想できないこと、人間のそれまでのどんな哲学思想や経験にもなかったことであるゆえに、自然のままの人間には到底信じられない、受け入れられないことなのである。
そのことを、聖書において初めてはっきりと記しているのは、次の箇所である。
… かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
彼の姿は損なわれ、人とは見えず
もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、
一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ書五二・14~五三・1より)
このように、神のしもべとして来られた方であっても、前代未聞のかたちでの生き方のゆえに、その人を受け入れられないと記されている。
キリストの時代より、五〇〇年以上も昔に預言されたこのことは、キリストがこの世に来られたことによって実現することになった。福音はその内容があまりにも予想外であるゆえに、まず第一にユダヤ人の救いのために来られたはずのメシアであったが、ユダヤ人そのものがほとんどが受け入れようとしなかった。
そして現在も特に日本において、この簡単な福音を受け入れることができない人がきわめて多い。
このような喜びの知らせが全く予想外のことであるのは、次の言葉でもうかがえる。
…これから起こる新しいことを知らせよう
隠されていたこと、お前の知らぬことを。
それは今、創造された。
昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。
それをお前に聞かせたことはない。(イザヤ書四八・6~7より)
この記述は直接的には、新バビロニア帝国が滅び、新しく興ったペルシア帝国の王によって、捕囚となっていた民が解放されるということを指している。しかし、預言書、とくにイザヤ書にはそうした時代的な状況を越えてはるか先のことをも預言するものとなっていることがしばしばある。預言書というのは本質的にそのような真理を内に持っているのである。
これは、これが書かれてから五〇〇年ほども後に生じる、キリストによる罪からの解放を預言するものなのである。罪の力、人間を自分中心という力に縛られた状態、囚われた状態から、キリストが十字架にかかって死ぬことによって、解放するということは、全く誰も考えたことのないことであった。
また、同じイザヤ書の最後の部分には次のような記述がある。
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。
わたしはエルサレムを喜びとし
わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(イザヤ書六五・17~20より)
現在、私たちが生きているこの天地と異なる新しい天地、それはどのようなものか、描くことは困難であるが、はっきりしていることは、その新しい天地は霊的なものであるということだ。そしてこの書を書いた人が、神から直接に受けた深い啓示によってこのような新しい天と地が必ず来るということを、世界の人々に伝えようとしていることである。
そして人間も、新しく創造されるという。その特質は、ひとつ、喜びに包まれた存在として創造されるのである。
これは、単にイスラエルの人たちのことを預言しているのでなく、全世界の人たちに向けてこの言葉がある。
このような、全く新しい霊的な世界と、新しく創造される自分とを知るとき、これはまさに喜びのおとずれである。
この預言書の著者、イザヤは神から直接にこの喜びのおとずれを聞き取り、それが永遠的な意味を持っていることを知らされていたであろう。
このことは、当時としては多数の人たちからおよそ信じがたいとして受け入れられなかったであろうが、現在の私たちへも届く光に満ちたメッセージとなっているのである。
人間は、罪深い存在であるゆえ、何か自分にとって気に入らない言動がなされると、相手にも不満や怒り、憎しみとか軽蔑といった様々の感情を持ってしまう。
しかし、そうしたあらゆる暗い感情を越えて、喜びのおとずれがある。
このように、旧約聖書ですでにごく一部であっても、人類に与えられる「喜びのおとずれ」が告げられていたのであるが、それが決定的になったのが、主イエスによってであった。
新約聖書において、キリストの福音とは何か。
キリストご自身は、どのようにこの福音という言葉を用いたであろうか。
福音書の最初のもの、マルコ福音書で福音という言葉はつぎの箇所で現れる。
イエスは、神の福音(喜びのおとずれ)を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。心の向きを変えて、福音(喜びのおとずれ)を信じなさい。」(マルコ福音書一・14~15)
ここで福音(喜びのおとずれ)と言うが、なぜ、どのような意味においてそれが喜びのおとずれなのであろうか。また、旧約聖書ですでに見られる喜びのおとずれとどのように違うのであろうか。
それは、神の国が近づいた、すでにここにある、ということである。神の国とは、何かということが次の問いになる。日本語で「国」といえば、日本とかアメリカといった国を連想する。そして、王という意味が入っているなどということはない。しかし、新約聖書の原語であるギリシャ語では、「国」と訳された原語は、バシレイアであり、それは王(バシレウス)という語と関連している。すなわち、単に目にみえる国というのでなく、王の支配といった意味を持っている。それゆえ、主イエスが、神の国は近づいた、といわれたのは、神の王としての支配が近づいたということになる。そして単に近づいただけでなく、すでにそこに来ているという意味が込められている。
それは、原文の表現が、単に近づいたという過去でなく、近づいた、そして今そこにある、といったニュアンスを持っているからである。(*)
日本語訳をそのまま受けとると、神の国、すなわち神の御支配が近づいた、しかし、まだ来ていないというように受けとられるかも知れないが原文はそうでなく、現に神の愛と真実の支配がそこにあるのだ、という意味を持っている。
(*)「近づいた」と訳されている表現は、ギリシャ語で、「(現在)完了」といわれる時制である。これは、単なる過去でなく、「完了した行為の結果としての現在の状態を表現」している。
…完了時制は、動作を、いわばひとつの完成した製品のように目の前において眺める時制である。言い換えると、その動作の生起や遂行そのものに注目するのでなく、完成の極点への到達と完成の結果そこに存在する事態を総合して眺め、その時点で現にどうなっているかを表現する。この時制のギリシャ語名は、parakeimenos は、新約聖書の本文にも現れる動詞の分詞形で、「側に来ている」「現に目の前に置かれている」時制を意味する。…完了時制の主要な表現機能は、動作が完結して、「現にどうなっているか」にスポットを当てることである。
(「新約聖書ギリシャ語構文法」一七五頁 岩隈直他著、「新約聖書のギリシャ語文法」第一巻一〇五頁 織田昭著 などより」)
そのことを裏付けるように主イエスもつぎのように言われている。
…ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間(ただ中)にあるのだ。」( ルカ福音書十七・20~21)
ファリサイ派の人たちとは、旧約聖書に記された律法を厳格に守ることを重んじた人たちであった。彼らも神の国が来ることを待ち望んでいた。それは旧約聖書に預言されていたからである。
メシアではないかとうわさされているイエスならば、神の国のことについても答えるだろうと考えてこのような質問をしたと見える。
神の国は、どこか別のところにあるのでなく、「あなた方のただ中」すなわち、私たちが生活し、さまざまの問題を抱えて悩み苦しみつつも、生きている私たち自身のただ中にあると言われた。どんなに悪がはびこり、また神がいないように見える困難な問題が生じようとも、それでもなお、神の国、つまり神の王としての御支配は、そのようなただ中にある、といわれたのである。
イザヤ書の預言から数えるとおよそ七〇〇年ほども昔から、神に特別に選ばれた者が現れるとされてきた。そうした身近なものとなった神の国はじつはそこに来ているのである。
この地上の状況は、昔から今に至るまで変ることがない。聖書にもその最初の書物である創世記に、初めての家庭であった、アダムとエバの家庭に、兄のカインが弟のアベルを妬んで殺すというようないまわしいことが書かれてある。初めて聖書を読み始めたときにはどうしてこんな暗い記事が書いてあるのかと思ったが、それはこの世の現実の状況を鋭く現しているものなのである。
カインが弟を殺したのは、妬みが憎しみへと深まったためである。そのような感情は自分中心の心から生じる。この自分中心という人間の本性のゆえにこの世はさまざまの苦しみや悲しみが生じる。どんなによいことをしてもどこかに自分への報いを期待する心があり、よいことをしていない人を見下したりする心が隠れていたりする。
聖書における放蕩息子のたとえに出てくる兄の態度がそうした人間の本性をよく現している。兄の方は仕事熱心で、落ち度もなかった。長い間怠けることもせずに働いてきた模範的な息子と思われていた。しかし、放蕩のかぎりを尽くしたが、心を入れ替えて罪を告白して帰って来た弟に対してはまるで愛を持てなかった。父が大いに喜んでかつてないほどのご馳走をして、その放蕩息子を迎え、死んでいたのに生きかえったと、その喜びを表したのに対して、兄の方は、あんなに遊び暮らしてきた人間をどうしてあのように迎えるのかと、父への不満と弟や父への怒りでいっぱいになってしまった。ここには、どんなにまじめに働いているようであっても、その心は自分中心であるという人間の現実の姿が描かれている。
人間の善い行いというのも、このように実は自分中心の心がその奥にひそんでいる。しかし、本人ですらそれには気付かないほどに奥に隠されているのである。
このような人間世界の現状のただなかに、神の新しい御支配が近づいた、すでにそこに来ているというのである。それは、悪の支配でなく、神の全く新しい御支配がそこにある、というのである。
人間がどんなにいろいろと努力しても、本質的に自分中心という本性は変わらない。そのただ中に突然、天から入り込んできたのが、神の御支配の新しい世界だという知らせである。
主イエスは、悔い改めよ、福音を信ぜよ、といわれた。この悔い改めと訳されている原文の表現は日本語とはニュアンスが異なっている。このところの言語は、ギリシャ語ではメタノエオーであり、これは、旧約聖書のヘブル語の、シューブという言葉で現わされる意味が背後にある。
そして、シューブというヘブル語は、「立ち返る」とか「悔い改める」、「向きを変える」「心を変える」といった訳語に訳されている。
英語では、このシューブは、英語訳としては最も広く用いられてきた、
(きんていやく)聖書(*)でみると、return(「戻る、帰る、復帰する」という意味) と訳されたのは三九一回、turn(「回転させる、変える、裏返す、方向を帰る、向ける」)と訳されたのは 一二三回というように、合計すると五〇〇回以上も、転じるという意味をもった言葉に訳されているのが分かる。
悔い改めるという日本語は、日本語訳よりも先に訳された中国語聖書からそのまま引き継いだ訳語である。中国語聖書(**)では、手許にある五種類ほどのものは、四〇年ほど前の翻訳から最近の翻訳まですべて「悔改」と訳している。
(*)イギリス国王ジェームズ1世の命を受け,五十数人の聖職者,学者たちによって訳され、一六一一年に刊行された英訳聖書。その文体は優れていて、刊行以来今日に至るまで3世紀半以上にわたり広く国民の書として愛誦され,英・米人の精神,思想,感情生活をはぐくんできた。シェークスピアの英語と並び,むしろそれ以上に,近代英語の形成に大きな役割を果たした。それは翻訳であるにもかかわらず,一つの文学作品として,後の英・米文学に与えた影響も絶大であり,日常英語に引用ないし言及される作品として最も広く知られてきた。
(**)例えば、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」というイエスの言葉は、新しい中国語聖書では次のように訳されている。
神的国近了! …当悔改、信福音。
日本語の「悔い改め」という言葉は、ある具体的な罪を犯したことに対してそれを反省して、止めようと思ったというニュアンスを感じる。例えば、以前に盗みをしたことを悔い改めた、という用い方である。けれども、このような個々の罪を悪かったと悔い改めるというのでは、人間の本質は何も変わらない。私たちは、日々、数知れない罪を犯しているからである
罪を犯していない、正しい生活をしている、という人もいるだろう。しかしそれは、仕事もまじめに熱心にする、人間関係もよい、悪い遊びもしていない…そのようなことをふつうは正しい生活というだろうし、周囲の人もよい人だとみなし、罪があるなどとは考えない。
しかし、主イエスの指し示された人間のあり方は、そのような表面的なあり方でなく、心の奥の状態まで言われている。それは、この世の標準からみて正しいかでなく、正しさや真実の根源である神を愛し、隣人を愛しているか、ということが問われている。
神を愛しているなら、自分のため、家族のためだけに生きるということは、正しい生き方でないと分かる。神とは万物を創造されたお方であるから、どんな人間をも愛をもって造られている。それゆえ自ずからどんな人間にも同じような心で対することが求められてくる。
それゆえ、主イエスは、神を愛することと並んで、人を愛することが、人間の基本的なあり方であると教えられた。
このような、誰にでも及ぼす愛を持って生きているか、という点からみると、いったい誰がそのような愛を持って日々生活していると言えるだろうか。
何か気持ちが向かない、合わない人、病人、障害者に対して自分の家族に対する心と同じように愛を持っているだろうか、あるいは敵対する人、意図的に悪意を持って攻撃してくる人、欺いた人、裏切った人、等々そのような人たちへの愛はどうか。
さらに、誰にでも及ぼす愛を持っているというなら、通りで出会う一人一人、通りすぎる家々の一人一人、通勤で出会う数知れぬ人たち…そうした人たちへの愛をいったい誰が十分に持っているなどと言えるだろう。
主イエスが言われたような、誰でもに及ぶ愛はあるのか、神が求めるような正しさや真実をもって生きているか、と問われたら、そのようなことはとてもできていない、すなわち神が示されている正しいあり方から遠くはずれた者でしかないのが分かる。
このように、もし私たちが個々の罪を悔い改める、などということをするなら、それは無数にある罪を一つ一つ悔い改めていくなどということは到底できないことである。
主イエスが、「悔い改めよ、福音を信ぜよ」と言われたのは、そのような個々の罪を思いだして悪かったと反省することでないのはこうした事実を考えても明らかである。
すでに述べたように「悔い改める」と記されていても、本来のギリシャ語やヘブル語では、そのような個々の罪を犯したことを反省するといったことでなく、「転じる」という意味がある。
神の新しい支配がそこに来ている、だから今までは、この世の罪深い出来事や、戒め、その罰等々社会の表面ばかり、目に見えるようなものばかりを見ていたのを、全身で方向転換して、すでに私たちのただ中にある神の新しい御支配(神の国)を信じ、それを受け入れよ、というのである。
一般の考え方の場合、私たちに近づいているのは、ますます広がる環境汚染、原発やそれと深い関係がある核兵器の危険性、地震などの天災、テロや戦争の広がりといったもので、何もよいニュースではない。それどころか、心を暗くする、悪いニュースが毎日告げられている。
「神の新しい御支配のときは近づいた、そしてすでにそこにある。今までの方向でなく、その神の支配を信じよ」ということは、より具体的に言えばどういうことであろうか。
それは、悪の霊が退けられるということにはっきりと現れている。悪の力が追いだされることである。次の主イエスの言葉がそのことを示している。
…しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(ルカ福音書十一・20)
また、主イエスが、弟子たちを派遣するときの記述も、次のように記されている。
…イエスは、十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権威を与えた。
汚れた霊を追いだし、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
…イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
「…イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい。行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、…悪霊を追い払いなさい。」(マタイ福音書十・1~8より)
このように、汚れた霊(悪霊)を追いだすということ、悪の力が退けられることは、天の国(神の国)が近づいてすでにここにある、ということをはっきりと示すものである。
悪の霊の力、働きが追いだされることは、イエスの地上での働きのときに始まった。そして、主イエスが十字架にかけられて処刑されたということも、善の敗北でなく、それによって人間の罪の力が十字架にかけて滅ぼされたという象徴になった。
罪が赦された、ということは何にも代えることのできない喜びであり、平安をもたらすものである。人は自分の過去の長い間にわたる言動や、心に思ったことなどを静かに振り返るとき、じつにたくさんの罪を犯してきたことに気付くだろう。過去の罪によって誰かを傷つけたり、苦しめたことはどうすることもできない。それによって相手がどのような打撃を受け、場合によっては生涯にわたる影響を受けたかも知れない。それはいかにしても償うことはできない。
しかし、そのような赦されない罪の苦しみから解放される道が開かれた。それはそのような罪を赦し、主の平和を与えるために、キリストは十字架にかかったのだと信じて受けいれることである。
それこそ、まさに「喜びのおとずれ」(福音)である。
これが喜びの知らせであることを次のようにパウロは記している。
…神は、私たちを愛して、聖なる者、汚れなき者にしようと、キリストによって選ばれました。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちが称えるためです。
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるのです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせて下さいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。(エペソ信徒への手紙一・4~9より)
ここには、罪の赦しがいかに大きな喜びのおとずれであるかが記されている。その計り知れない大きな喜びのゆえに語らずにはいられない、という著者の熱心が感じられる表現である。
そしてこの罪からの救い、罪の赦しということから、復活ということにつながっていく。
罪赦された者、罪からあがなわれた者は、死からよみがえったものなのである。
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。…
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。…
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ信徒への手紙二・1~6より)
ここで、私たちは罪ゆえに死んだと同然な者となっていたと言われている。罪とは人間を死に至らせるからである。しかし、死の根本的原因である罪が赦され、罪からあがなわれたゆえに、死の原因が除かれた。それゆえに、キリストを信じて赦しを受けた者は、死から復活したと言えるのである。
キリストが復活したのはわかる、しかし、罪深い私たちがキリストと共に復活する、などということがあるのだろうか、と信じきれない者もいるだろう。
しかし、そのような本来なら信じられないような恵みが与えられるというのが、一貫した神の言葉なのである。それが喜びでなくして何であろう。
十字架と復活は、このように「喜びのおとずれ」の最たるものなのであり、それこそキリストの福音なのである。
神が、この世の悪の霊的な力に勝利する(悪霊を追いだす)ということは、このように、十字架の罪の赦し、復活ということにも内的につながっていく。
これらすべてがイエス・キリストが地上に来られて、たしかに「神の国」が近づいて、私たちの生活のただなかにある、ということを指し示すものである。
神の国などどこにもない、あるのは、人間の国、人間のさまざまの思惑や計画、策略などなどの混乱した世界しかないのだ、と考えている人間のただなかに、いわば雷が落ちるように、稲妻が闇夜を貫いて大空から光を放射するように、「否、神の国は、そこに来ている、もう来ているのだ」という大いなるメッセージがここにある。
教育基本法について
憲法の改定、さらに教育の根本方針を定めた教育基本法をも変えようという動きが強まっている。ここでは教育基本法について考えてみるが、その改訂の主たる目的は、「愛国心」という言葉を入れることと「歴史・伝統の重視」である。自民党などには、従来から、この教育基本法が「愛国心教育の足かせ」になってきたなどと不満を持ってきたという。
現在の教育基本法の根本的な精神が現れている前文をあげる。
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性的ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」
この目標を箇条書きにすると、、
一、個人の尊厳を重んじる。
二、真理と平和を願い求める人間の育成。
三、普遍的かつ個性的な文化の創造をめざす教育。
この前文の精神は、十五年ちかくにわたる中国との戦争と太平洋戦争がこの三つを否定し、または著しく軽んじたことの反省から生まれたものである。この戦争においては、個人の尊厳が驚くべき仕方で、無惨に蹂躙された。戦争とは、なんの危害も加えたことのない、一般の住民に対しても、無差別に爆弾を落として、殺害し、住居を破壊し、生活を根本からくつがえすものであって、最も個人の尊厳を否定していくものだと言えよう。
一人の人間は無限の価値があるという考え方からは、到底戦争という発想は生じないはずである。国家の利益と称して、一人一人の人間の自由や権利、尊厳を平然と奪い、侵していく全体主義が戦前は堂々とまかり通っていたのである。
つぎに、戦前は、天皇というただの人間にすぎない人物を現人神とし、その天皇がアジアを支配するのを目標とするまでに到った。人間を生きている神だなどという偽りを日本の国全体に強制的に教え、信じ込ませ、その現人神の命令ということでアジアへの侵略を行っていったのである。
このような考え方は、真理とするどく対立するものであり、その偽りの本質は中国やアジア諸国への侵略行為によって、明らかになったし、敗戦によって世界中にそのことを示すことになった。
戦前の日本は、戦争を正しいこととし、自国を守り、平和のためと称して、近隣諸国への侵略戦争を繰り返していった。
一九三一年九月の柳条湖事件に始まる、中国満州への侵略戦争である満州事変、また、一九三七年七月の蘆溝橋事件から引き起こした北支事変(のちに支那事変)、さらに、上海への大規模な攻撃である上海事変などがそれである。
このように、日本は中国に対して、つぎつぎと戦争をしかけていき、それらを○○事変と称して、○○戦争という呼称を用いず、戦争であったのに、たんなる衝突であるかのように見せかけようとし、次第に国民が大規模な戦争へと飼い慣らされていくようになっていった。
こうした戦争に明け暮れた戦前の状況は、戦争が大量殺人という意味で、最悪のことであるという感覚を失わせていくものとなった。教育において戦争が悪であるということを教えることなく、逆に戦争をする職業(軍人)が最も重要な職業であるというように教える状況であった。
以上のような戦前の教育を根底から変えるために、教育においても平和を愛し願い求める教育を根本においているのである。
そして「普遍的にしてしかも個性的ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」とある。
これは、戦前の文化は天皇を中心とした日本の伝統ということを極度に重視するようになり、(とくに日中十五年戦争以降)世界のどこにも通用しないような、著しく普遍性を欠いたものであった。
そして同時に、自由な言論は禁じられ、みんなが天皇に向かって生きるような画一的な人間を養成しようとする状況となり、個性的人間の育成とは逆の方向であった。このようなまちがった教育方針を根本的にあらためる観点から、この「普遍性」、「個性的」ということが言われている。
そして、さらに「個性的な文化の創造を目指す」という表現は、日本固有のよき文化をも育てるという意図も含まれているのである。
戦前は、教育においても、天皇からの言葉だと称する教育勅語が国民道徳の絶対的基準とされ、それが教育の最高原理ともされて、それに向かって最敬礼を強要するほどに、神聖化されていった。
このように、万事において天皇が中心とされ、天皇に仕える人間を育成することが目標とされた。
英語すら敵の言葉だといって排斥するような、著しく狭い考え方が支配するようになっていた。
こうした戦前のまちがった教育方針を根底から除いて正しい方向を指し示している基本的精神から、それをさらに詳しく述べたのが、つぎの第一条である。
第一条 (教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的な精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期しておこなわれなければならない。
このように教育基本法の前文と第一条を見れば、なにを目的としているかがはっきりとわかる。この新しい教育の方向を決めることになった、この基本法はどのような人たちが作ったのであろうか。
これを少し詳しくみると、この基本法の背後にどのような精神があったのかが浮かび上がってくるのである。
敗戦後にあらゆる社会のしくみが再検討され、変えられていく過程で、当然教育についても根本的に見直すことが考えられた。日本の教育の民主化を積極的にすすめるために、アメリカの教育施設団が来日し、その人々に協力して日本の教育の方針を決める重要な委員会が作られた。それが一九四六年二月に発足した日本教育家委員会である。
その委員長は南原繁(東大総長)で、その下に、山崎匡輔(成城大学長、東大教授、文部次官)、天野貞祐(第一高等学校長)、田中耕太郎(学校教育局長、後に文部大臣、最高裁判所長官)、長谷川如是閑(芸術院会員、文化功労者)、柳宗悦(日本民芸館長)などのメンバーであった。
このうち、南原繁は内村鑑三門下の無教会キリスト者であったことは広く知られている。
山崎匡輔も、「内村の著書によって救われた一人であった」と言っている。そして「私は、内村先生の弟子としては、あるいは正統派に属しないかも知れないが、ひそかに内村鑑三先生の本当の弟子の一人である言っても、今は天にある先生は、おそらくそれをきっと許して下さるものと信じるものである。」と書いているような人物であった。(「回想の内村鑑三」岩波書店刊254頁)
そして天野も、またキリスト者にはならなかったが、若いとき、内村の門をくぐったことがあり、長谷川も、内村の創刊した「東京独立雑誌」の読者の一人であった。
また、田中耕太郎も最初は熱心な内村の弟子の一人であって、彼のキリスト教信仰の元は、内村から学んだと言えよう。
この少しあと、一九四六年八月に、教育刷新委員会ができ、その委員長は、安倍能茂、副委員長に南原繁(後に委員長)がなり、その委員会の審議を経て今日の教育基本法の制定へとつながっていった。
また、戦後の三人の文部大臣は前田多聞、安倍能成、田中耕太郎たちであった。田中はすでに触れたが、前田多聞はやはり内村鑑三の日曜集会で学んだキリスト者であり、安倍はキリスト者にはならなかったが、岩波茂雄(岩波書店の創設者)のすすめで、毎日曜日の内村鑑三の聖書講義に一年ほど出席していた人である。
このように見てくれば、戦後の新しい教育がいかにキリスト教、とくに内村鑑三の深い影響のもとにあったかがよくわかる。
そして、これは、内村鑑三がキリスト教の本質、真理そのものを最も鋭く見抜き、それを体得していたからであったと言えるし、彼らの弟子たちもそのキリスト教の真理を深く受け継いでいたことがうかがえる。
南原繁は戦後教育の方向の決定に最も大きい役割をはたしたが、彼は、こうした戦後教育の基本を決める全過程で、そうした委員会や審議会に占領軍の介入があったりしたことは一度もなかったと再三にわたって言明している。(小学館版・日本の歴史・第31巻による)
こうした事実を知らない人たちが、アメリカの押しつけであるなどと言ったりしているのである。
キリスト教こそ最も普遍的な真理をうちに持っているものであり、そのゆえにこそ全世界に広がり、老若男女のあらゆる年齢層に、また職業や身分的なもの、貧富の差や、健康と病弱などあらゆるものを越えて広がっていった。
教育基本法の前文において、「真理と平和を希求する人間」、「普遍的にしてしかも個性的な文化の創造をめざす」と言われているのは、以上のような背景を考えると、キリスト教の精神がそこに深く流れているのが感じられる。
これは、人間を天皇と教え、侵略戦争をも正義の戦争などと教える偽りの教育を根本から変える方針を明確に持っているのである。
このように考えると、そのような過程を経て作られた基本法をなぜ変えようとするのか、変えてどのようにしようとするのだろうか。
改訂しようという人たちは、「日本の歴史・伝統」を重視する方向へと大きく曲げようというのである。しかし、その日本の歴史・伝統を徹底的に重視した教育とはすでに実験済みである。それは戦前の教育である。
その戦前の教育の根本方針は教育勅語に表されている。ここではくわしくは触れないが、教育勅語では、教育の根本は日本の国体にあるとされていた。それは天皇を現人神として絶対的な位置におく国家体制を指している。
そのような天皇というただの人間を絶対的な存在として位置づけることは、世界に通用しないものである。
現在の日本の動向は、教育という次の世代の人々を形作る重要な領域においても、真理に反する動きがしだいに目につくようになった。
人間に本当に必要なのは、一国だけにしか通用しない伝統や歴史でなく、万国にわたって、しかも永遠に通用する真理である。そうした真理とは、二千年の歴史を見ても証しされているように、聖書に記されているのであって、教育の基本も当然そのような永遠の真理に基づかねばならない。
現在、憲法と教育基本法の二つを改定しようと考える人たちが増えている。憲法の改定の中心となっているのが、第九条の平和主義であり、教育基本法においては、その普遍性である。
憲法の平和主義は、この「いのちの水」誌でも何度か述べてきたが、その根源は、聖書にあり、すでに旧約聖書の古い時代からそれはみられる。そして、新約聖書に現された武力を否定して、神の愛と力に頼る平和への明確な真理こそは、平和主義憲法の背後にある真理なのである。
また、教育基本法の前文に、「真理と平和を希求する人間の育成」を掲げ、その第一条に「真理と正義を愛する」人間を目指すことが明記されている。真理を愛するというのは、その背後に究極的な真理である、神への愛、ということにつながる内容を含んでいる。これは、すでに述べたように、教育基本法を作成するにあたった人たちが、内村鑑三を通して、聖書の真理の影響を深く受けてきた人たちが多数を占めていたからであり、太平洋戦争を生み出したのは、そうした聖書的真理を無視したことによるのが明らかであったからである。
このように、現在大きな問題となっている、武力を持たず、武力に訴えないという平和主義の改定や、教育基本法にある、真理と正義そのものを愛するということから、自分の国中心の愛国心の強調へと改定しようというのは、聖書に示されている永遠の真理に背こうとする動きだと言える。
こうした、究極的真理である聖書やキリストの真理に背こうとする動きは、いつの時代にもあったのであって、それらは繰り返し歴史のなかで生じてきた。しかし、それにもかかわらず、そうしたあらゆる真理への敵対にもかかわらず、キリストの真理は変ることがない。
私たちは、憲法の平和主義や教育基本法の背後に込められた、聖書的精神、真理をあくまで主張し続けるものである。そしてその真理はそれが真理であるがゆえに、いかなる表面的な動きにもかかわらず、滅びることなく続いていく。
私たちの必要とされているのは、そのような真理への確信であり、それぞれの場においてこの真理を証ししていくことである。
四国集会について
五月十三日(土)~十四日(日)は、松山市で、松山聖書集会の主催で、第三十三回 キリスト教(無教会)四国集会が開催されました。今回は、これまでの会場を初めて変更することになり、去年の徳島での四国集会の参加者百五十名あまりの人たち全部に、あらかじめハガキを出して、参加希望するかどうかを問い合わせて会場の宿舎が十分かどうかを検討されました。このような手数のかかることをされたのは、長い三十三年に及ぶ四国集会の歴史でも初めてのことでした。このことをみても今回は特別な労力を注ぎ、祈り、また具体的な準備をなされたのがうかがえます。
実際、今までの松山での四国集会のうち、私は今回の四国集会が最も霊的雰囲気がよかったと感じたし、それから一週間を過ぎてもなお、心の奥にその余韻が残っています。
去年の四国集会で初めて参加された沖縄の方が、去年の集会がよかったからとお姉さんをも同伴して参加されたこと、やはり去年参加された大分の方が、全盲のご夫妻を初めて同伴して参加されたこと、また広島県の北東部からの参加者が、やはり初めての方を同伴して参加されたこと、そしてまた関東地方からも二人の参加者がありました。
それから、去年Aさんが、遠く北海道の旭川から参加されました。そのために、Aさんの数十年前の教え子が、長くキリスト教集会から離れていたのですが、去年の四国集会に参加されていました。そのAさんの教え子の方が、今年もまた松山での四国集会に参加されました。
このように、去年の参加者が新たな人と共に参加され、あるいは長い空白の後に再びキリスト教の集会に参加されるようになる契機を与えられた方、これらは主がこの四国集会を用いて下さっていることを実感させてくれるものです。
神との縦のつながりと、信徒同士の横のつながりは、縦糸、横糸の関係で、その二つが共になかったら布ができないように、キリスト者の本当の生き方は生れないように思われます。
縦の関係が深まれば、おのずから横の信徒同士の関係は深まり、また逆に信徒同士の主にある交流が深められると、互いに学びあっていっそう神との縦の関係も深まります。聖霊による交わりというのが実際に存在することを思いました。
祈り、祈られた四国集会だと感じています。
次に第三十三回 キリスト教(無教会)四国集会の松山聖書集会からの案内文と、プログラムの要約を書いておきます。
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春暖の候、主にある兄弟姉妹のみなさまにはその後、いかがお過ごしですか。松山聖書集会では、今年の四国集会を別紙の要領で開催させて頂くことになりました。会を開くにあたって、私たちの救い主イエス・キリストにあって自由に、神の御名が賛美できればよいと願っております。イエス・キリストにあって、喜び、悲しみを、苦しみ、慰めをそして希望を、聖書を通して語り、お交わりができることを望んでいます。
この世的には、力なく、貧しく、見ばえなく、みすぼらしく無力であっても、そのありのままの姿をもって、神に感謝を、祈りを、願いをもって共にお交わりができることを念願しております。主の御前に心をひとつにして、み言葉をまなび、祈りをともにして、主のご栄光を讃美いたしたく存じます。みなさまの御参加を心よりお待ちいたしております。日々の歩みのなかにみ恵み豊かにとお祈り申し上げます。
「主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ書四・5~7)
○会場 JR松山駅前 スカイホテル
五月十三日(土) 13時開会
開会礼拝 13:10~14:00
聖書講話 「悪人に手向かうな」(マタイ五・38~42)
愛媛 冨永 尚
聖書講話 「一度も聞かされなかったこと」(イザヤ書五十二.13~15) 高知 原 忠徳
信仰感話 Ⅰ 14:10~15:10
「よいサマリヤ人」
岡山 香西 民雄
「エレミヤから私たちへのメッセージ」 福岡 大園 正臣
「信じること、生きること、伝えること」大阪 宮田 咲子
自己紹介 15:30~17:50
夕食・自由時間
小グループ感話会 19:10~20:10
自由感話「福音の受け入れ」20:10~21:00
----------------------------五月十四日(日)
早朝祈祷 6:30~7:30
朝食・自由時間
主日礼拝 9:00~9:50
「キリストにある喜びの知らせ」徳島 吉村 孝雄
特別讃美(オルガン演奏、手話讃美、コーラスなど) 9:50~10:20
信仰感話Ⅱ10:30~11:30
「主のまなざしは苦しみの中に注がれて」 徳島 貝出 久美子
「祈りに支えられて」
徳島 熊井 ちづ代
「人知を超えた愛」
高知 甲藤 浩三
閉会礼拝 11:40~12:20
四国外からの参加者の感話
奥津満(広島)、菊池誠(東京)、宮田 博司(大阪)、池辺 秀成(大分)、梅木 龍男(大分)
ことば
(234)悪魔のすべての仕業を水泡に帰せしめるには、ただ、一度だけ神を仰ぎ見るか、神に向かって叫ぶかすれば十分である。これは実にすばらしい事実である。(ヒルティ著
「眠られぬ夜のために」上・ 五月十七日の項より)
Ein einziger Aufblick,oder Ausschrei zu Gott genugt,um alle seine Arbeit zu nichte zu machen.…
私たちがひどい打撃を受けたとき、あるいは罪を犯したとき、それゆえに他者にも大きな傷を残したと感じるとき、意気消沈する。済んでしまったことをどのようにしようとも元通りにはすることができない。そのような心の重荷や沈む心を取り返すためには、ただ神への真剣なまなざし、神への叫びだけで十分だという。
たしかに、聖書においても長い間苦しめられてきた人が、イエスに向かってただ、「主よ、憐れんで下さい!」と叫ぶだけでキリストの大いなる恵みが与えられたことが記されている。
その単純な叫びに応えて下さることは、すでにキリストより五百年以上も前から、次のように言われている。
…地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書四五・22)
(235)…かならず、常に浩然の気を養うことをつとめねばならない。…浩然の気とは、いかなるものよりも大きく、どこまでも広がり、何物よりも強い。正しい道をもってこれを養い、そこなうことがなければ、この気は、ますます広く行き渡り、天地の間に満ち満ちるようになる。
この気は、正義と道から離れることができない。もし、離れるなら、それは弱って滅びてしまう。(「孟子」公孫丑こうそんちゅう章句 上 より)
・ここで言われている「気」とは、単なる空気ではない。日本語にも、「元気」とか「気を吐く」といった言葉に現れているように、生命の原動力となる力とか、
万物が生ずる根元といった意味がある。「浩」という漢字そのものに、「水が豊かで、ひろびろとしているさま」という意味があり、そこから一般に、広く豊かで大きいものにも用いる。浩然の気とは、このように、私たちが正しい道を歩んでいるなら、私たちの内にも与えられるものであり、天地のどこまでも広がっている目には見えないある力のようなものを指している。それは海の広がりのような、深くすべてを満たすようなものである。
孟子は、キリスト以前三七〇ほど前に生れた。キリスト教の真理は全く知られていないとき、中国にもこのような、個々の人間だけでなく、天地に満ちる正義の霊のようなものを感じていた人がいた。
聖書には、次のように記されている。
「主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。」(詩編三六・6)
これはダビデの作と伝えられているが、そうでないとしても、大多数の旧約聖書の詩篇は、新バビロニア帝国に捕囚となる以前のものとされているから、キリスト以前六〇〇年よりも以前の作だと考えられる。
このように、この世は悪いものがたくさんあるように見えるが、他方、このように古くから私たちの心が清められるならば、私たちの心にも、天地にも満ちる清く広大なもの、力あるものが感じられることが示されている。
孟子は自分の努力でそのような「気」を養おうとしたが、人間の本質的な弱さを思うときにはそれはきわめて困難なことであり、誰にでも与えられるなどほとんど不可能なことである。
しかし、キリスト教においては、ただ、幼な子らしい心で神を仰ぐことによってそのような「気」を越える聖なる霊を与えられる。
詩の世界から
一)
知性に光をあらしめよ、いよいよ明るく
心には敬虔の念を宿らしめよ、いよいよ深く。
知性と霊性とが階調を奏でて、
昔の通りに、そしていっそう響きも大きく、和音をならすために。(テニソン著「イン・メモリアム」13頁 入江直祐訳 岩波文庫)
Let knowledge grow from more to more,
But more of reverence in us dwell;
That mind and soul, according well,
May make one music as before.
・as before =as in the ages of faith(Tennyson)
(上の訳文は、今から七〇年あまりも前の訳文であり、現代の人には分かりにくいところがあるので、次にこの詩が言おうとしているところを説明的に記しておく。)
正しき知識(知性)は、間違った考えや無知を破り、新たな洞察を生み、力となるゆえに、健全な方向へと成長していって欲しい。しかし、それ以上に、万物を創造し、正義と愛をもって支配されている神の御前にひざまずいて、畏れ敬う心こそ、いっそう人間に宿るようにと願う。そうすれば、古き信仰の燃えていた時代のように、知性と、霊的な働きが私たちの中で美しいハーモニーを奏で、真の成長がなされていくであろう。
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二)
雨注ぐ 花橘に風過ぎて 山ほととぎす 雲に鳴くなり(新古今集 巻三 夏歌二〇二)
・タチバナの花が咲いて香りを放っている。雨がそこに降り注いでいるが、風はその香りを運んでいる。その時、山のホトトギスの鳴く声が雨雲の中から聞こえてくる。
わが家においても、五月の中頃から六月にかけて、何度かホトトギスの印象的な鳴き声が響いてくる。何かを訴えようとしているような、独特の鳴き声である。
タチバナとは日本原産の柑橘類をいう。雨、花と香り、そして風とホトトギスの強い鳴き声、それらの自然の交差する状況がこの歌に現されている。神の創造された自然にはそれぞれに深い意味が込められているゆえ、私たちもさまざまの自然に対して敏感でありたいと思う。
三)
苦しみは とこしえならず 耐えしのび待たば ついには過ぎゆくものぞ
星月夜 悠久の空目前にして 大きみわざに言うこともなき (「真珠のうた」より)
・重い病に苦しむゆえに、狭い病室にこもる他ない作者にとって、夜空を仰ぐときにその広大無辺の星月は日々の重荷をしばし忘れさせ、心に翼を与えられる思いであったであろう。
編集だより
○五月、それは、新緑の最も美しい季節です。多くの樹木は毎年新たな芽を出して、初々しい黄緑色になり、内に込められた命を現してきます、日照時間も増え、気温が高くなることによって、植物たちは新たな成長をし、花を咲かせ、実を大きくしていきます。
主イエスは、ご自身をぶどうの木にたとえ、私たちはその枝だと言われました。
新緑の木々、その枝から、命に満ちた新芽を出して葉を繁らせ、花を咲かせ、実を付けていく、それは私たちが主イエスにつながっているときに、どのようになりうるかを指し示しているようです。
○今年で三三回目を迎えたキリスト教(無教会)四国集会は、最初は高知県の信徒の方々の発案で、一九七四年に高知で特別集会として開催されたもので、そのとき、記念の会だからと愛媛、香川、徳島からも数人ずつ招かれて開かれたのでした。それがとてもよかったから、次から各県が順に担当して開催しようということになり、その翌年の夏に徳島県小松島市の日峰山頂の野外活動センターで開催され、今日まで続いてきたものです。
この三二年間に、多くの方々が参加し、交流し、互いに交わりを与えられ、そして誰も予想しなかった新たなよきことを主は起こして下さってきたのを思います。かつて四国に在住していて、近畿など四国外に住んでいる方も参加し、そこからまた新たな交流が生れていきました。最近では、近畿以外に、九州、中国、関東地方、さらに去年は韓国からも参加者もあってより広がりが与えられてきました。
こうした長い継続した集会になるということは誰も予想できなかったことで、この間の歩みを振り返るとき確かに神が私たちのあらゆる予想を越えて導いてきて下さったと感じます。
今後とも、一層主の恵みが満ちあふれる集会となっていき、救いを受ける人、信仰を新たにされる人、さらに信徒同士のつながりが深められて日頃の生活においても互いに祈り合うことができますようにと祈ります。
来信より
○先日の四国集会では、皆さんと一年ぶりにお会いでき、また姉も共に参加できたので、とても嬉しかったです。イエス様を真ん中にして、皆さんと共に祈り、礼拝が持てた事は、神様の恵みでした。(九州地方の方)
・言われていますように、人間を中心とするのでなく、主イエスを真ん中にしてみんなが集い、語り、祈り、讃美すること、そこに天の国の味わいを感じさせていただいた二日間でした。
○…(今年の四国集会によって)多くの恵みを戴けたことに深く感謝いたしております。大きな励ましと主にある友との交わりの刺激を戴き、さらに前進できたと感じています。
「アンケート」のご意見のように「若者たち」への対応が、本当に重要との思いを強くしました。これからの大切な課題です。
二〇〇七年 高知での四国集会のテーマ「一人も滅びないで」(ヨハネ3:16)は、心のこもったよいテーマと存じました。(四国の方)
○朝ごとに、「いのちの水」誌を読みまして、新しい命の水を与えられます。何十年も聖書を読んでおりますが、「祈り」について、「復活」についてよく分かっていませんでした。今号(四月号)でくわしく教えていただき、ありがとうございました。特に、「祈りはどこにでも」によって涙の谷を歩んでいるような私には、深い感謝と慰めと希望が与えられました。貴誌には、季節の花のカットがあちこちにちりばめられているのは、大変よいと思います。(関東地方の方)
お知らせ
○六月十一日(日)は、神戸の夢野集会、高槻市の高槻集会に吉村 孝雄は聖書講話に出向きます。神戸は神戸市兵庫区菊水町十丁目39-11-1-417の上田 末春氏宅(電話 078-531-1365)にて、午前十時より十二時三十分ころ、後者は、高槻市塚原5-8-5 那須 佳子氏宅にて、午後二時~四時ころ。(電話 050-1331-7174) 問い合わせはこれらの連絡先か吉村 孝雄まで。
○主日礼拝や夕拝の録音CD(MP3形式で録音)は引き続いて希望の方は申し出て下さい。九十分テープなら十本にもなっていたのですが、CDでは一枚に収まるので、DVDプレーヤかパソコンがある場合にはとても便利です。
なお、マザー・テレサの「日々の言葉」そしてその英語の原書(合計で三千円)は集会の内外から多くの希望がありましたが、まだ若干の余分がありますので希望者は連絡下さい。