あなたのなすことを主にゆだねよ。 |
2008年2月 第564号・内容・もくじ
神の言葉を日本語にーヘボンの生涯から |
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お知らせ 無教会 全国集会2008 |
働きの継続
なにかよいことを始めても、それを続けることは困難である。始めることより継続がはるかに難しいのはだれもが実感するところである。
人間はもともと揺らぎやすく、何かあるとすぐに続けていけなくなる。
やっていることによい結果がなかったらそれだけで続けていけなくなるし、労力ばかりかかっても同様である。人から認められず、やっていることを否定されたりすると一層続ける気持ちは失われてしまう。
継続、そのためには他人がどう言おうと、評価がどうあろうと、内部で動かすものが不可欠である。それは言い換えれば、神に結びついてその道具になることである。
「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。
なぜなら、すべて永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。
エゴイズムと超感覚的世界に対する不信とが、人間の弱さの根元である。」(「眠られぬ夜のために下」ヒルティ著 一月三〇日)
「私のうちにとどまれ」と主は言われた。そのみ言葉に従って、私たちが主のもとに留まるとき、主が継続して下さる。いかに小さなものであっても、主が代わりにして下さる。
主が、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私につながっていなければあなた方は実を結ぶことができない。」と言われたのも、私たちに善きことを継続するための力を与えるための言葉でもあった。
また、「私に従って来なさい」ということも同様である。主イエスに従っていくとき、私たちは新たな力を受けることができる。また「主はわが魂を憩いのみぎわに伴い、緑の牧場に導く」と言われているように、魂に深い休みが与えられる。
それによって継続が可能となる。
今、活動的に働いていても必ず老年になると弱り、病気になったりついには死に至る。それで私たちの仕事の継続は終りになるだろうか。そうではない。それが神の国のためのはたらきであるなら、決して終わることがない。私たちが病気や高齢でできなくなっても、また思いがけない所に、また予想しない人が起こされてそのはたらきは継続されていく。
人の事業は終り、壊れていく。しかし、神の国の事業は壊れることがない。それは神ご自身が守り、かたちを変え、人を変え、場所をも変えて継続していかれるからである。
山を歩くと、思いがけない植物が芽をだしているのに気づくことがよくある。その付近一帯にどこにも見られないような野草が花咲いているのに出会うとどこからこの植物はやってきたのだろうかと、不思議な気持ちになることがある。種でなく、球根で増えるようなものはなおさらである。
もう、三十年以上も前に、徳島県の中央部に近い山深いところにある標高千メートルあまりの山の頂上付近にだけ、カタクリが群生しているのに出会ったことがある。周囲の広大な山域にはまったく見られないので、いつ、どのようにしてその植物が生えるようになったのか、自然のなすわざに驚かされたことであった。
それと同様に、神は、驚くようなところに、だれも予想しないような形であらたに神のわざを起こされていく。私たちが体力もなくなってできなくなっても、神は思いがけない人を起こして継続させていかれる。
種まきのたとえもそのようなことを意味している。 蒔かれた種が鳥に食べられ、日照りで枯れても、また水に流されたり、石につぶされたりしてなくなっていくように見えても、意外なところで芽をだして成長していく。そして大きな実りができ、その種がまた次の世代へと継続されていく。継続は神のわざである。
一匹の羊を探すために
九十九匹の羊を置いて、迷い込んだ一匹の羊を探す。これはよく知られたたとえ話である。迷える羊という言葉は、キリスト教と関係のないところでも使われているが、新約聖書においてどのような意味で使われているだろうか。
ここには、失われた者を探し求める神の心がある。人間的な心は、一〇〇人のうち、一人くらいは迷い込むのは仕方がない。大勢の方が大切だということになる。こうした考え方のゆえに、戦争ということも生じる。一発の爆弾によって数多くの人たちが死傷する。 武力による解決ということは、必ずこうした弱い人たちを犠牲にするということが生じる。
この世ではどこにでも見られることは、少数の弱い者、能力の乏しい者は放置されるということである。
これはどこでも、当然なこととして見られる。会社でも定年になったら知的にも、体力的にも乏しくなるから退職となる。そこには何等不自然なことはない。そのようなことに慣れているのである。
しかし、聖書の世界ではそうしたごく当たり前ということとは別の考え方がはやくから記されている。
すでに創世記からそのような失われた者をそのまま見捨ててしまわないで見守るという姿勢が記されている。
聖書における最初の家庭の記事、それは家族間の憎しみであった。何の罪もない弟を兄のカインが襲って殺すというようなひどいことが生じた。このようなことをした兄は、当然神から厳しい罰を受けると予想できる。たしかに、神は、カインを楽園から追いだし、地上をさまよう者となるとされた。本人も自分の犯した罪の重さゆえについには殺されてしまうということを自覚していた。
しかし、そのような罪深い者に対して、神は驚くようなことを言われた。
…「カインを殺す者は、だれであれ、七倍の復讐を受けるであろう。主は、カインに出会う者がだれも彼を撃つことがないように、カインにしるしを付けられた」(創世記四・15~16)
このように、罪もない兄弟を殺したという重い罪をきびしく罰するということに終わるのでなく、そのような重い罪を犯してさまようことになった人間が殺されないようにと特別にしるしを付けるという意外なことが記されている。
ここに、迷える羊をも探し求める神の姿の本質がはやくも現れていると言えよう。罪を犯し、よい状態から追いだされてしまった者たちを罰して滅ぼすということでなく、あえて立ち帰るのを待ち続ける神の愛が感じられる。
こうした何らかの集まりから追いだされた者、あるいはそこにいられなくなった者への配慮は、旧約聖書において、「逃れの町」という記述にも見ることができる。
…人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。(出エジプト記二一・12~13)
…あなたたちは、人を殺した者が逃れるための逃れの町を六つレビ人に与え、それに加えて四十二の町を与えなさい。あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るとき、自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。
町は、復讐する者からの逃れのために、あなたたちに用いられるであろう。人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである。
あなたたちが定める町のうちに、六つの逃れの町がなければならない。…これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、過って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる。(民数記三五・6~15より)
…モーセはその後、ヨルダン川の東側に三つの町を定め、意図してでなく、以前から憎しみを抱いていたのでもないのに、隣人を殺してしまった者をそこに逃れさせ、その町の一つに逃れて生き延びることができるようにした。(申命記四・41)
このように、繰り返し旧約聖書で「逃れの町」ということが書かれているのは意外なことである。というのは、故意でなく、うっかり何かの事故とか、仕事中で他人を殺してしまう、などということはめったにあることではないからである。
昔は農業や牧畜、狩猟、あるいは漁業などが多数を占めていたはずである。それは食べることの基本にかかわる仕事だからである。現在のように、工場、銀行、商社、公務員などといったものがないのであるから、これは当然のことである。
そのような仕事において、人をうっかり死に至らせた、などということはきわめて稀なことであったはずである。それは現在も同様である。聖書ではこのようなほとんどだれの一生にも起こらないような出来事についてわざわざ詳しく繰り返し延べている。このような記述の仕方に、このような問題に力を注いでいるのが感じられる。
人の命を奪った者は、自分の命をもって償わねばならない、と記されている。(*)
それゆえ、何かの理由で、故意にでなく人の命を失わせた者は、その親族たちから命をもって償え、と迫って来られることになる。それは故意ではない、といっても、その証拠がなかったら親族たちから殺されるということも十分に有りうる。
そのような全く無実の者がどうしても言い開きできないで殺されてしまう、という追い詰められた状況にある人を、この「逃れの町」という規定によって救おうとしているのである。(**)
(*)目には目、歯には歯、手には手、足には足、 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記二一・24~25) 後になって、このことは、目には目、歯には歯というのは、復讐を意味する言葉として受け取られるようになったが、旧約聖書に出てくるのは、このように、復讐とは全く異なる、償いなのである。
自分が他者に与えた苦しみと同じ苦しみを自分も受けて償わねばならない、ということであって、犯した罪の重大性を徹底的に自らも味わわねばならないということなのである。
(**) そしてその逃れの町にいる間は、不当な復讐からは守られるが、そこから出ると復讐にさらされる。しかし、大祭司が死ぬと自分の土地に帰ることができる。
(民数記三五・16~28)このように、大祭司の死によって復讐の危険から解放されるようになる。このことは、キリストは、旧約聖書に言われている大祭司の完全な成就であり、キリストの死によって罪のさばき、滅びから解放されるということを指し示すものともなっている。
この逃れの町に関する特別な言及は、たった一人の苦境にある人間をも顧みようとする神の心が現れている。しばしば私たちの苦しみや悲しみは一人で担わねばならないものである。どんなに追い詰められた心境になってもそれは周囲の人たちには分からない。学校の生徒で自ら命を断ってしまうことが時々報道されるが、多くの場合、周囲の人はまさか死ぬほどの苦しみを持っていたとは分からなかったと言う。時には最後に会った人たちと笑顔で別れたのに、その後命を断ったということもよくある。
これは、いかに人間は孤独な苦しみや悲しみを持っているかということである。そしてそのような一人で負うことを余儀なくされる苦しみを知ってもらえるのは、人間ではなく人間を超えたお方であり、父なる神だけがそのような苦しみを分かって下さる。悩みの暗闇に入り込んだ魂を探し求めて下さる神の愛がそこにある。
人は誰でも実は迷える羊であるが、それぞれの人間が負わされる苦しみや悲しみは他人には分からないゆえに、自分一人が他の人にはないような苦しみに追い込まれているというように感じるのである。
逃れの町、それはもしそのようなものがなかったら、追ってくる人たちによって殺されてしまうということである。私たちも、自分の苦しい問題や犯した罪のことを思うとき、それを真剣に考えるほど、闇の力や罪を責めてくる人たちが迫ってくるとか、見えない裁きの力が私たちを追いかけてくるような気持ちになるだろう。
そのような人間の心に逃れの町に相当する逃れの場というべき存在を神は備えて下さった。それが主イエスである。主イエスは、「疲れた者、重荷を負った者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(*)と言って下さった。
(*)文語訳 「すべて労する者、重荷を負ふ者、われに来れ。われなんじらを休ません。我は柔和にして心低ければ、わがくびきを負ひて我に学べ、さらば魂に休みを得ん。」(マタイ福音書十一・28~29より)
さらに、私たちが正しい道からはずれ、ある人たちあるいは周囲の人たちに大きな苦しみを与えてしまったという罪、またもしあのようにしなかったらこんなにならなかっただろう、といった過去の過ち等々、それぞれ人によってそのようなことがあるだろう。
そうしたもはやどうすることもできなくなった過去のことについて、思いだすたびに心の痛みを感じることになる。それは人間の力、金や地位があろうともそのような類の悩みや苦しみはどうすることもできない。
それをいやして下さるのはただ一つ、すでに述べた重荷を負って下さる主イエスであり、キリストの十字架である。キリストが私たちのそうした魂の重荷をも知って下さり、それを担って下さる、しかも過去の過ちや罪をも赦し、あたかもそれらがなかったかのように扱って下さり、新たな力すら下さるということ、それはこの世の闇や人間の弱さや醜さに疲れ果てた魂には最上のいやしとなる。
戻らざりし一匹は いずこに行きし
飼い主より離れて 奥山に迷えり…
主は越え行きたまえり 深き流れを
主は過ぎ行きたまえり 暗き夜道を
死に臨める羊の 鳴き声を頼りに…(新聖歌二一七より)
この讃美にあるように、谷あり、山ありの奥深い山の中に迷い込んでしまい、もはや自力では戻ることができなくなった一匹、それは誰もが困難のときに感じる思いであるだろう。深く迷い込みもはやそこから脱出することはできない、と思えるほどに深く暗い闇に入り込んだと感じるのである。
その霊的な高さで群を抜く詩人、ダンテもまたそうした深い森に迷い込んで死ぬと思われるほどの苦しみを体験してきたことがその主著である「神のごとき詩(神曲)」の冒頭にある。
人生の道の半ばで
正しい道を踏み外した私が
目をさました時は暗い森の中にいた。
その苛烈で荒涼とした
峻厳な森が
いかなるものであったか、口にするのもつらい。
思い返すだけでもぞっとする。
その苦しさにもう死なんばかりであった。(「神曲・地獄篇第一歌より」)
迷い込んだ一匹の羊、それは何も特別な一〇〇人のうち、一人二人といったものでなく、人間そのものの存在が生まれたときから暗くて深い森の中に迷い込んだ存在なのである。ダンテはそのことをこの一万四千行を越える大作の冒頭にもってきたのである。それほどに、この歴史的な作品そのものが人間の存在が深い森に迷い込んだものなのだと表現しようとしているのである。
聖書にも、そのことはさまざまに表現されている。聖書の最初の書である創世記にやはりダンテの神曲のようにその冒頭の描写はほかならぬこの闇の森にいるということを、次のように表現している。
…地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…(創世記一・2)
神からの光なければ、この世界は闇と混沌であるということを指し示すものである。それは、また新約聖書においても、イエスが地上に来られたのは、「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」への光としてであったことが記されている。(マタイ福音書四・16)
こうした記述は、みな人間は失われた者であり、暗い闇の森に迷い込んだものであることを示すものである。それはダンテが言っているように、思いだすだけでもその時の恐ろしさがよみがえってくるというほどの苦しさであり、死ぬと思われるほどであった。
パウロはそのことを次のように、人は死んでいたのだ、と端的に述べているほどである。
…あなた方は、以前は自分のあやまちと罪のために死んでいたのです。(エペソ書二・1)
こうしたすべてのことは、私たちが自分の力では戻ってくることのできないところまで迷い込んでいるという状況を思わせる。一匹の迷える羊とは、ごく一部の者を指しているのでなく、人間全体がそのようなものなのである。
だれもが見出してもらわなかったら死の暗闇へとさらに迷い込んでいく存在でしかない。死ということの本質は、科学技術では生物学的なことしか扱えないのであって、死という無限に深いことがらのごく表面的なことしか扱えないものである。それはこの二〇〇年ほどの間に科学技術は飛躍的に進んだことを思ってみるとよい。ライト兄弟による初めての飛行機が飛んでまだ一〇〇年と少ししかならない。しかし、超音速のジェット機や月にまで到達できるほどの技術、目に見えない原子核の核分裂を用いて核兵器や原発が作られ、コンピュータ関連機器は生活の至るところに入っているし、手のひらにのる携帯電話でさまざまのことができる状況になっている。
しかし、死の迫る孤独な苦しみ、そして死のかなたに何があるのかは、科学技術では全く慰めを与えることもできないし、死のかなたの世界に迫ることもできない。科学技術がどんなに束になって取り囲んでも死の闇をいささかも照らすことはできないのである。
そのような暗い森に迷い込んだ人間、死の闇にあり、人生の終りには必ずそこに向かっていくところにまで闇に光る探照灯のように照らすものがある。
それこそ、一匹の羊をも探し尋ねる主イエスでありその父なる神なのである。
放蕩息子と背後の祈り
天における喜び
このたとえでは放蕩息子が堕落して放蕩のかぎりをつくしたこと、そして苦しみの後に悔い改めて、父のもとに帰ったこと、父が喜びを持って受けいれたことがだれが読んでもすぐに分かるようなわかりやすい言葉で書かれている。
ことに放蕩息子が帰って来たときに、父がいかに喜んだか、次のような記述に表されている。
…彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。…
父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。(ルカ十五・20~24より)
ふつうなら、こんな放蕩息子を見たら今までの怒りをぶつけて激しく叱るということであろう。しかし、この父親は考えられないほどの喜びだけを表したのである。抱きしめて接吻をし、一番よい服を着せたということは、何にもまさる深い関係だということを意味している。そして、指輪をはめたということは、父の権威を与える象徴的行為であったという。
これは、いかにこの父親で表される神が、立ち帰ることを喜ばれるかをこれ以上はないと思われるほどに表している。
このたとえの前にも、次のように悔い改めを神が喜ばれることが重ねて強調されている。
…悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ十五・7)
…一人の罪人が悔い改めるならば、神の天使たちの間に喜びがある。(同10)
大きな喜びが天(神)にある、あるいは天使たちの間に喜びがある、というが、いかに地上での大きな喜びとかけ離れているかが際立っている。地上での大きな喜びは、マスコミなどで大きく報道される。サッカー、ゴルフ、あるいはプロ野球とかオリンピック、大相撲といったことで当事者だけでなく、ファンも大喜びするといった場面がよく見られる。
このような喜びを生み出すための優勝とかを勝ち取るためには、生まれつき特別な能力のある人、そして努力、周囲の援助、金の力などなどたくさんのことが恵まれた状態でなければ生まれない。しかも、優勝しても次の機会には別の人が優勝する、あるいは怪我をしてできなくなるなど、その喜びはすぐに消えていくはかないものでしかない。また、しばしば判定にも不正があったり、そもそも生活に追われている貧しい人たち、食物すらまともにないような多数の人たちにはそのような喜びはまったく縁がない。
しかし、 天において大きな喜びを生じさせ、天使たちも喜ばせるほどのこと、それは神の目から見れば大いなることであるがそれは、そのような社会的に目立つところでなく、どんな貧しい人にも、能力も健康もないような人たちであっても生じることである。
万能の神、あるいは天にいる御使いを喜ばせるということは、とてもできないように見える。この世では地位が高い人、大金持ち、あるいは権力者、スポーツや芸術など能力が恵まれている人たちは少しのことでは喜ばない。いつも大金を扱っている政治家に少しの献金をしてもまったく喜ばないだろう。
しかし、そうしたあらゆる資産家や能力ある者たちより無限に大きなものを持っておられる神を喜ばせることはだれでもできるというのは驚くべきことである。しかも、いかなる能力も、金も地位もいらないのである。さらに、どんなに悪いことをしてきた者であっても、長くまじめに働いてきた者と同じく、あるいはそれ以上に喜んでくれるという。それがただ、今までの自分の心の方向を変えて、神に向かって方向転換するだけでそのような喜びを神が持たれるというのは、信じがたいようなことである。
主イエスはまさにそのような信じがたいことをわかりやすいたとえで話されたのであった。
このように、神の喜びということはどんなところから生じるか、それは大きな事業とか目立った賞をもらうとかスポーツや芸能あるいは学問の世界で名を馳せたということでもない。
どんなに目立たない人であっても、ひとり病院の一室で、また家庭のなかで、ひっそりと行われる真の神への方向転換こそは、神が最も喜びとされることなのである。
そして主イエス以来この二〇〇〇年の間、私たちが神に立ち帰ることによって、実際に神が喜んで下さるということを、無数の人たちが魂の深いところで実感してきたと言えよう。
神が魂の方向転換という単純なことをこの上もなく喜んで下さるということを私たちは深く心に留めておきたいと思う。
父の祈り
しかし、それだけではない。こうした記述の背後にある重要なことがある。それは、父が、放蕩息子が立ち返るのを待ち望む強い願いと祈りである。そして帰ろうとしない息子への悲しみである。
この父親のそうした深い願いがどれほど大きかったか、それは、放蕩息子が帰って来たときにそれ以上はないと言えるほどの喜びを表したことでうかがえる。
自分の息子が財産をもらいたいと願い出たとき、ふつうならなぜそんなことを言うのかと詰問し、仕事をせよ、と怒って命じたことであろう。このたとえには、いろいろと驚くべきことが書かれてあるが、まずこの出発点において、父の忍耐と祈りがあったことを知らされる。
人はたいてい自分の意志や考えあるいは感情のままに生きて、そのあげくにさまざまの罪を犯してしまう。そのような状態から百八十度方向を転換して、真実な神に向かうようになるためには、父なる神の祈りがある。痛みと悲しみがある。
人間は、自分の愛する子供にできるだけ苦しまなくてもよいようにする。それが人間の愛の表現となっている。それが結果的に子供を甘やかして精神的に弱く、視野も狭い人間となっていくことも多い。
この世にはじつにさまざまの人がいる。しかし、いかに変わった性格の人であっても、自分の愛する者をわざわざ難しい病気にするなどということは聞いたことがない。
しかし、神はそのような人間の愛とは全くことなることをされる。この放蕩息子の場合もわざわざ財産の分け前を父親の死以前に受け取るというようなことは、ふつうなら決して許さないことである。しかし、この父親はそのような間違った方向をもあえてそのままにした。そして息子がその財産を金に換えて悪い遊びに身を持ち崩していくのをもそのままにした。
しかし、その背後には苦しみつつ見守るまなざしがあった。こうした神の真理や愛に背く人々に対して神の心はどのようなものであるか、それは預言書にそのことがうかがえる記述がある。
…主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。
わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。
いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
ただあなたは自分の罪を認めよ…(エレミヤ書三・12~13より)
このように、神に背を向けて間違ったことを続ける民に対して、神はすぐに怒って罰するということや、見捨ててしまうということもせずに、立ち帰ることを待ち続けておられるのである。
そのように愛をもって見つめるゆえに、そこには深い悲しみがある。それは、エレミヤのつぎのような言葉に表されている。
わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ八・23)
人々が真実な神のもとから離れて神でないものをあがめることからさまざまの腐敗、堕落が生じてついには外国からの攻撃を受けて滅ぼされていく、その実体をありありと見たエレミヤは人々が死んでいくことや外国に捕囚となって連れ去られていくことに対して深い悲しみを持っていた。
この悲しみは神の心を反映したものである。神と結びついていない人間なら、自分が繰り返し警告しても聞き入れないでむしろ自分に敵対してくる人々への裁きを願い、彼らが滅びていくのを当然のことだ、神の裁きだと見下ろすような気持ちで見ることだろう。
しかし、神の心と深く結びついたエレミヤにはそのような心と逆の、深い悲しみの心があった。頭が涙の源となって嘆き続けたいと願うほどにエレミヤは自分の全身をもって民の滅びゆく苦しみや悲しみを感じた。
このようなエレミヤの民への愛は彼らが崩れ去っていくことに強い悲しみを持っていたために繰り返しそのことが現れる。
あなたたちが聞かなければ
わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。
涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。
主の群れが捕らえられて行くからだ。(エレミヤ一三・17)
このような滅びゆく民への深い悲しみは、エレミヤのものというより、それは神のお心を表すものである。主イエスも目前に迫ったエルサレムの滅びを神から啓示されて深い悲しみをもったことが記されている。
…いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、
「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。
いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。
それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。(ルカ十九・41~43)
主イエスが涙を流すほどに心の痛みを感じておられたこと、それはエレミヤと同様に真なる神から背いて間違ったものに心を向けていく人々、そのゆえに近いうちに神の裁きを受けてローマ帝国の激しい攻撃(*)を受けて滅びていくということがはっきりと示されていたからである。
(*)紀元七〇年にローマの将軍ティトスがエルサレムを攻撃し、神殿も炎上、破壊された。その後は、ユダヤ人はカナンの地(現在のパレスチナ)から追放されて世界各地に散在することになった。なお、パレスチナとは、ペリシテの地という意味であって、ユダヤ人と敵対していたペリシテをその土地の名とした
このような心の痛みと苦しみは、キリストがその魂の内に住んでいたパウロにも見られる。パウロはキリストの福音を伝えようとして赴いた先々で、ユダヤ人から迫害を受けた。(*)
(*)例えば、パウロたちが初めて地中海周辺の地域に伝道に赴いたとき、まずユダヤ人の会堂に入ってキリストの復活を証言することが多かった。最初にその記述があるのは、聖霊によって送り出されたパウロが現在のトルコにある町のユダヤ人の会堂に入ってキリストのことを証ししたことであった。
… しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。
そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。…
…ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。
(使徒言行録一三・45~50より)
このようにしてパウロはその町を追いだされたが、そこから移った町においても、ふたたびキリストのことを語った。そのときは、多くのユダヤ人やギリシャ人も信じるようになった。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、パウロたちを迫害した。
…ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。
… 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、
二人はこれに気づいて、その近くの地方に難を避けた。(使徒一四・2~6より)
また、その後も、パウロが迫害を逃れて行った町にて次ぎのようなことがあった。
…ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。
(使徒一四・19)
このように、パウロが地中海沿いの地方へと宣教の旅に出発した最初の記述からユダヤ人がパウロを迫害したことが記されている。その後も、各地でパウロはキリストのことを宣べ伝えたが、少数のユダヤ人は回心してキリストを受けいれても、多くは激しく反対するのであった。
このような状況が繰り返し生じたゆえに、そんな迫害を次々と受けると普通なら彼らに対して憎しみを持ったり嫌悪感を持つとか、神が裁かれるとして見放してしまうかも知れない状況であった。
しかし、パウロはそのような命の危険すらしばしば生じたような状況であったにもかかわらず、彼は、ユダヤ人に対して次ぎのような気持ちを抱いていた。
…わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
(ローマ信徒への手紙九・2~3)
このような心は、まさに彼の内に住んでいたキリストの心であった。どんなに敵対されてもそれでも憎しみを持たず、また無関心になったり嫌悪感とか見捨てる心にならないということ、それはただキリストの愛と平和を内に持っていることによってのみ有りうることである。
放蕩息子が立ち帰ることを待ち望む心は、このような痛みと悲しみの心をまとったものであった。
…あやまちを犯さぬように守ってやるのが、人間の教育者の本務ではなくて、あやまてる者を導いてやるのが、いや、そのあやまちをなみなみとついだ杯から飲みほさせるのが、師たる者の英知です。
(ゲーテ著「ウィルヘルム・マイステルの修業時代 第七巻九章 筑摩書房 世界文学体系」二〇・二六七頁)
真の人類の教師である主イエス、そして神は、このような教育の仕方をなされる。私たちが過つことのないように妨げとなるものや苦しみとなるものを取り除いていくのでなく、あえてそれらを「なみなみとついで飲み干させる」のである。
そしてその過程において、ずっと見守り続け、その苦しみの杯を飲み干すことによって神に立ち帰ることを待っておられる。
この放蕩息子のことを、物語りを読むように自分とは関係ないこととして読む人が多い。しかし、実はこの放蕩息子とは人間のすべてのあり方を暗示したものなのである。
自分は財産を父からもらったこともない、という人がいるかも知れない。しかし、すべての人は何かを受けてこの世に生まれ出ている。神が愛であるなら、そして真実であるなら、どんな無意味なようなこともそこに深い意味がある。ただそれが分からないだけである。
人間ははじめから過ちをおかす存在だ。この息子は人間全体の象徴的存在なのである。人は誰でも神から能力を与えられている。それを神の国のために使わずに、自分のために使おうとする。そしてそのあげくに、追い詰められた状況になる。
与えられたものを使い果たして苦しむ。自分の力では生きていけないことを思い知らされ、汚れたものだと知らされ、何も持っていないということに気付く。このようにして、自分の中には何等誇るべきものがないと思い知った心こそ、主イエスの言われた、福音書の最初のイエスの教えの出発点にある、「心の貧しい者」なのであり、そこから神を求めるときに天の国が与えられると約束されている。それゆえに幸いな者となる道が開かれている。
放蕩息子は、このように自分が持っているものがいかにはかないか、もろいか、を思い知らされ、自分は何の役にも立たない者だと知って初めて、立ち返るべきお方に気付いた。
真に悔い改めた者、神への全面的な方向転換をした者は、自分がいかに罪深い者であるかを深く知らされた者であるゆえに、どんなことでもしようという気持ちになる。この放蕩息子は、「もう息子と呼ばれる資格はない。雇い人の一人にして下さい」と言う気持ちになった。
自分の罪深さを思い知った者、しかしその罪がキリストによって赦され、清められたと実感できる者は、滅びの中から取り出されたということになるので、もはや社会的に認められるとか、ほめられることを求めるといった心は消え去っていく。
また、放蕩息子の父の心は、神の心であるから私たちのような小さなもの、汚れた者には無関係だと思うこともまた間違っている。
私たちを神の子供として下さるという約束がある。そして、信じる者には、何でも与えられると言われている。
…私の父に祝福された人たち、天地創造のときからあなた方のために用意されていた御国を受け継ぎなさい。(マタイ二五・34)
御国を受け継ぐと言われているほどであり、私たちが心から求めるときには、神のお心をわずかであってもいただくことが許されるであろう。そのとき、私たちの最大の喜びは、自分が安定した生活になるとか、食べたり飲んだりすることや、地位が上がるとか、有名になるなどといったことでなくなる。
それは、自分も他人も神に立ち帰ることを喜びとするということである。どんなにひどいことをした人間であっても、また自分に悪意をもって攻撃してくるような人であっても、その人が神に方向転換することを願うようになるだろう。そして最大の喜びを、そのような人が神に立ち帰ることにおいて感じるようになるだろう。
詩の世界から
山に向かいて
窪田 泉
わがこころ驕りてあれば
山はきびしく
わがこころ貧しくあれば
山はやさし
こころうなだれ
おもいみだるる日
山に眼をあげ
神を呼ばわん
(「曠野の詩」祈の友同人信仰詩集九〇頁より 静岡 三一書店 一九五四年刊)
・著者は、青山学院英文科卒。第一回山梨文学賞受賞。一九四七年召される。
若くして召されたこの作者、山を見つめる敏感な心が感じられる。自然というのは、私たちの魂の状態を反映して見えてくる。私たちの心が固く無感動になっているとき、何かに気を奪われて忙しくしているとき、自然もまた私たちには無関心なように何も語りかけてはこない。
あるいは、高ぶりの心あるときには、自然もまた私たちに厳しくなり、なにもそこから汲み取れなくなる。
しかし、ほかに慰めもなき苦しみや孤独にあるとき、砕かれた心もて山を見、樹木や野草に触れるとき、それらは私たちに近づき、やさしく語りかけてくる。
この詩は、聖書にあるつぎの詩が胸中にあってつくられたものであろう。
私は、山に向かって 目をあげる
わが助けはいずこより来たるか
天地を造られた主より来たる (詩編一二一より)
香りを近くに
ホイッティア (*)
John Greenleaf Whittier
どこからか分からないが、香りを近くに感じ、
旅人は、感謝の心を持つ
立ち止まって、帽子を取って
空からの祝福を受ける。
The traveller owns the grateful sense
Of sweetness near, he knows not whence,
And, pausing takes with forehead bare
The benediction of the air.
(*)アメリカのクェーカー(キリスト教の一派)の詩人。一八〇七~一八九二。内村鑑三には、自分の愛する詩を数十編原文とともに訳して日本人に提供した「愛吟」という著作がある。そのなかにもホイッティアの詩が含まれている。
ここにあげたのは、新渡戸稲造が、その著書「武士道」の最後に引用した部分。
…何世代か後に、武士道の名が忘れ去られるときが来るとしても、「路辺に立ちて眺めやれば」その香りは遠く離れた、見えない丘から漂ってくることだろう。この時、あるクェーカーの詩人はうるわしい言葉で歌う。…
(「武士道」 奈良本辰也訳 一七八頁 三笠書房刊 )
としてこの詩を引用して最後を締めくくっている。これは長い原詩 SNOW BOUND の最後の部分である。
新渡戸が述べている武士道の精神としての義や憐れみ、勇気といったものは武士たちの中にあったといっても、武士階級は日本人のごく一部でしかなかったのであり、日本人全体のなかに流れているとは到底言えないものであった。
そして、人々の心を引きつけた忠臣蔵に見られるように、義や忠義というものも仇打ち、復讐になって現れることもあった。
武士道の中心にあったとされる義や憐れみなどは、はるかに完全なかたちで、キリストに実現されている。
そしてそのキリストの香りは、私たちが静まって天を仰ぐときには、天からも雲からも、また吹きわたる風や山野の野草からも、そして現在生きて御国のためにはたらく人々からも、歴史のなかの人物からも、だれでもがどこにあっても感じ取れるようになっている。
― 日本人へのキリスト教伝道、日本語訳聖書のために命をかけた人 ヘボン―
現在私たちは最も深い魂の助け手としての聖書を自由に購入し、読むことができる。このようになったのは、どのような人が、どんな苦闘をした結果なのであろうか。このようなことは、私たちは、ふだんほとんど考えてみることもないように思う。
アメリカ大陸にヨーロッパ人が初めて到達するまでに、コロンブスの困難で危険な航海があった。それは死と隣り合わせのようなものであって、どこへ行き着くのか誰も分からないような冒険であった。
また、厳しい差別と人権などを徹底して無視していた江戸幕府が滅ぶためには、数多くの命が犠牲となった。天皇を神とするような間違った体制のもとで国家が運営され、教育もそのような誤りを強制され、戦争することが最大の美徳であるかのように言われた悪夢のような時代が終わるためには、アジアの数千万という人たちの命や体の健康や家庭が破壊され、日本人も数百万人が犠牲になってはじめてそのような悪夢のような体制が打ち破られた。
何事も、ある大きな壁が打ち倒されるためには、非常な犠牲が払われてきた。
聖書という世界で最も重要な書物が日本語で読めるようになるまでに、数多くの人たちの血のにじむようなはたらきがあった。
聖書を日本語に訳するという大きな仕事に終始一貫して打ち込んだのが、ここに紹介する、ヘボンである。(*)
彼は、江戸時代の終り頃に日本での、医療を通しての伝道を志したアメリカ人である。
(*)ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn
ヘボンという発音は当時の日本人が、Hepburn (ヘップバーン)という発音がしにくく、簡略化してヘボンと言っていたことからそのように発音されるようになった。彼が後に作成した日本で初めての本格的英語辞書には著者として
「美国 平文先生」となっていて、漢字では「平文」と表していたのがわかる。 なお、アメリカの大女優として知られるヘップバーンも、先祖は同じ一族であって、イギリスのスコットランドからアメリカに移住してきたという。
小学校や中学時代にヘボン式ローマ字というのを学校で聞いた。それは、例えば、「つ」をローマ字で書くとき TU と書かないで TSU と書き、「し」ならば、SI でなく、 SHI と書くような書き方のローマ字だと知らされた。ヘボン式のほうが外国などでは用いられているのだと知った。それ以来ずっとローマ字には二通りあって、日本で考案されたのと、ヘボン式のがある、ということはずっと知識としては頭のなかにあった。
しかし、そのヘボンというのが、人名だと分かっても単にローマ字の別の書き方を考案したのだといった程度で、その後は全く学校でもならうこともなく、話題になることもなく過ぎていった。
キリスト者となってから、ヘボンが江戸時代の終りに日本に来た宣教師だということを新たに知り、彼が医者でもあって、辞書や聖書の訳にかかわったということもごく表面的に知るようになった。
そして、その後、「ヘボンの手紙」という本をふとしたことから入手してヘボンが大きな犠牲を払って日本に来たことを知らされた。江戸時代の鎖国中、キリスト教を日本人に伝えるなどをすれば、すぐに捕らえられるし、キリスト教を信じるようになった日本人は殺されるほどの厳しい状況なのであった。
そんな恐ろしい状況にどのような心ではるばる来たのだろうか。その背後の神の力を感じさせられていた。
ヘボンは、一八一五年にアメリカのペンシルバニア州で生まれた。その両親は信仰篤い人であった。ヘボンは優れた素質と学業の習得も十分になされていたということで、十六歳という若年でプリンストン大学の三年に編入し、わずか一年半ほどで卒業した。この間にコレラが流行し大学は閉鎖され、そのときに医学のなす重要なはたらきに目を覚まされたと思われる。卒業後はさらにペンシルバニア大学医学部に進み、医者になった。そして神は彼の心に福音を全く知らない遠い日本への宣教を志す思いを起こされたのであった。
しかし、そのことを持ち出すと両親とくに父親は激しくそのようなことに反対した。両親ともに社会的な地位が高く、安定した生活が保証されている息子が、命の危険を伴う鎖国下の日本に、しかも何カ月もかかってアフリカやインドを経て行くということは、考えられないようなことであっただろう。
そのような状況にあるとき、一人の女性と出会った。クララ・リートである。クララの何代か前の祖先はイギリスの国教会の重要な地位にあったが、清教徒たちの真剣な信仰に感化され、その地位を捨てて清教徒の指導者としてアメリカに渡った。
そのクララは、ヘボンの志を聞くとその困難な命がけの宣教について深い共感を示し、両親の強い反対のゆえに、決断できずにいたヘボンを後押しして二人でそうした神のためのはたらきをするべくすすめたのであった。
しばしば女性は、聖書の最初からアダムを誘惑して神に背く道を開いてしまったこともあるように、悪の道に誘うことがある。
しかし、他方では、ルツ記に見られるように、その固い信仰と決断によって道のないところに神の国への道を開くことに大きく働いた女性のことも記されている。
クララはヘボンを霊的に後押ししてきわめて困難な道への旅立ちをともにすることになったのである。結婚したその翌年に三カ月もかかってアフリカやインドを経て遠い東アジアに向けて出発していく、周囲の親しい人たちにもその本当の意図を理解してもらえない状態であった。
「私の家族、とくに父は私の考えに強く反対しました。何とかして私の決心を翻させようと努力していました。私自身も、決意を断念すべきか否かについて迷い、悩みました。」
このような悩み苦しみの中から決断して旅立ったが、乗組員十七名という小さな捕鯨船で大西洋を横断するという長期にわたる船の旅のゆえに、妊娠六カ月となっていたクララは船酔いに苦しみ続け、その結果流産し、その子供を海に葬るという悲しみにまず直面した。
クララは、その後も狭い船室に一か月もの間横たわったまま船室外に出ることができない状態であった。
この頃の彼の日記には次のように、祈りにおいて、神からの励まし、なぐさめを受けていたこと、そして苦難の中から新たな力を与えられていることがうかがえる。
「悲しい心をなぐさめてくれるのは、ただ祈りのみ。祈りに優るなぐさめはない。聖書の真理が現実に理解され、感じられる。私たちはこの航海を通して忍耐することと、神に信頼することを教えられた。
信仰と希望と愛と謙遜は、すべてこの苦しみを通して成長するように作られていることを確信する。
主は必ず私の精神を純化し、主との霊的な交わりのために捧げる私の祈りに応えて下さる。
それがどんな形で応えられるか分からないけれど、神の大いなる、数々の恵みに確信しよう。
ああ、どうか信仰がさらに強められ、忍耐が信仰によって全うされますように。」
三カ月を経てようやくシンガポールに着いてそこでの生活がはじまった。その後、長男が生まれたがふたたびその命は失われた。わずか数時間の命であったという。
そこからヘボンは中国に移り、そこで次男が生まれた。そうした間にも中国の言葉を覚え、キリスト教宣教のために日夜心身のエネルギーを注いでいたのであったが、ヘボン夫妻はマラリヤに感染し、回復困難であったので遂に祖国アメリカに帰ることに決断した。いったん帰ったらふたたびアジア宣教に戻れるかどうか、あれほど反対していた両親や周囲の人たちからはやはり、ヘボンたちの考えは間違っていたと言われるであろうから、ふたたびアジアに出発することはできなくなるのでないか、等々さまざまの思いがあったであろう。アメリカの東海岸を出発して
五年という歳月が経っていた。
アメリカに帰ったヘボン夫妻は健康を回復し、ヘボンはニューヨークで開業した。彼は医者として献身的かつ技術的にも優れていた上、アジアの人たちに命を捧げようとしたほどの愛を持っていたゆえに、治療に来る病人たちにもそうしたキリストの愛をもって対処した。それゆえに、まもなくたくさんの患者がくるようになって病院は大きくなっていった。そしてニューヨークで一、二とも言われるほどの大病院となった。そうした医者としての高い名声、評価を受けるようになったが、その間に三人の子供が生まれた。しかし、しょうこう熱や赤痢などで、次々と死んでいった。五歳、二歳、一歳という年であったというから、そうした天使のような子供たちを相次いで失っていくことは、大きな悲しみであったであろう。
こうした悲しみは、ヘボンがその後に日本への伝道という大きなはたらきをするための、神による準備のようなものであった。「ああ、幸いだ。悲しむ者は。天の国は彼らの者である。」という主イエスの言葉はヘボンにもあてはまるものとなった。アジアへの船旅の途中で一人、シンガポールにて一人、そしてニューヨークで三人、合計五人もの子供を亡くしていったという特別な悲しみによって、この世の病院の事業が大いなる評判を得て、豊かな生活を与えられるということにも流されず、悲しみのなかから神の国を求め、それを与えられていったことがうかがえる。(*)
このような悲しみを通って、ヘボンの中にかつて燃え始めたアジアの人たちの魂の救いへの思いが一層清められ、深められていったのであった。
(*)このように家庭の悲劇によっていっそうその神からの使命に目覚めていくのは、日本で初めての知的障害者教育を、夫の石井亮一とともに創始した、石井筆子のことを思い起こさせる。石井筆子は、一八八〇年に日本人初の女性留学生としてフランス、オランダに留学し、帰国後は華族女学校でフランス語の教師をしたり、父親も福岡県令(現在の知事)をしていたような社会的地位の高い人であったが、子供が、次々と障害や病気で亡くなっていった。
長女は知的障害者、次女は虚弱児で生後まもなく亡くなったし、三女も結核性脳膜炎で死亡、最初の夫も三五歳の若さで死去した。このような家庭の悲しみを越えて、キリスト教信仰をもって一〇年あまり不幸な子供や女子教育に力を注いだ。その後、知的障害児の
福祉にすべてを注いでいる石井亮一と出会って結婚した。そして知的障害者の施設を夫亮一とともに献身的に守り、恵まれない子供たちの保護と教育のために一身を捧げた。
家庭の悲劇がなかったら石井筆子のこうした活動はなかったし、このような深い悲しみや苦しみを経験することによって、いっそう神のみに頼り、神の導きにゆだねて、その使命に目覚めていったのがうかがえる。
そのような病院の隆盛を伴いつつ、十三年の歳月が流れていった。ふつうならもうそのような豊かで社会的にも広く知れ渡った評価のもと、一度は挫折したアジアへの宣教といったことを断念して医者として大都市の中で病気に苦しむ人たちを助けるために働くことに志を変えていくだろう。にもかかわらず、ヘボンの心には神に点火され、アジアの闇に閉ざされた人たちへの愛の炎が燃え続けていた。
ヘボンの弟スレーターは、牧師であって終生兄弟愛を続けた。ヘボンが弟に宛てた手紙を次に引用する。
…あの子は今朝二時ごろ死にました。四週間ばかり病気でした。…だんだん弱っていってとうとう今朝二時、その霊は去ってイエスのもとに永遠の命に入ってしまいました。
ああ!スレーター君、私どもの深い悲しみ、わたし共のこの予期しない淋しさをどう君に説明することができようか。わたし共は、この小さい子はきっと命をとりとめると思いました。
しかし、私は心のそこから、「私の思いでなく御心をなし給え」と言うことができると信じます。(神の)無言の英知と愛はわが子とわたし共には与えられないように見えても、神はすべてにおいて善くなし給うことを信じています。どうかこのことが祝福となりますように。
こうした苦しみや悲しみに打ちのめされるということは空しいことではありません。ああ、私たちをさらに神のもとへと導いて下さるように、我らをさらにキリストのようにして下さいますように。…
しかし、勝利は神のみにある。幼な子は勝利した。彼はイエスの胸に抱かれて安全となった。―私の胸は張り裂けるほどだ。私につばさがあったらどこか寂しいところに飛んで行きたい。これが悪しき思いならば、神よ、赦してください。…(「ヘボンの手紙」高谷道男著 有隣新書二七~二八頁 一九七六年刊)
このような悲しみによって霊的に鍛えられ、強められていったヘボンの心にはいっそう日本への宣教の思いが強まっていった。その頃日本は、長い鎖国をようやく改めて開国の方に向かっていた。一八五三年にペリー提督が日本に開国を迫り、幕府との長い交渉の末、ようやく日本との交流がはじまった。しかし、キリスト教は絶対禁止のままであり、キリスト教の宣教を目的として日本に来るということは捕らえられ、あるいは幽閉され拷問を受けるなど、どんな恐ろしい状況に直面するかも分からないのであり、命の危険を覚悟しておかねばならないことであった。
そのような困難を見つめた上で、ヘボンはふたたびアジア、特に日本への伝道を決断した。すでにニューヨークでは代表的な大病院となっていたし、社会的にも名医として確固たる地位をえていたヘボンには財産もあった。立派な邸宅、大病院、別荘などすべて売却して伝道のための資金とした。多くは伝道団体によって一般のキリスト者からの献金が集められており、それによって宣教師たちはその生活や伝道が支えられるが、ヘボンはそうした支えとは別に自らも多額の資金を日本伝道のために用意したのであった。
ヘボンの信仰の決断によってその後も大きな心の負担となることが伴った。それは次々と生まれた子供が亡くなっていくなかで、一人無事に成長した十四歳になる一人息子のサムエルを宣教には同伴できないことである。幕末の日本には言葉がそもそも分からない、日本にはアメリカ人としての必要な教育を授ける機会というのは全くないのであって、たった一人の子供であって青年期にさしかかる重要な時期であっても同伴することは到底考えられないことであった。親しい友人に預けて進学の保証を取り付け、後ろ髪を引かれる思いでヘボン夫妻は日本への出発を決断したのであった。
…かわいそうなサムエルは、学校に通うために、昨日友人の家に引き取られました。…これがわたしの遭遇する最初の別離であり、最もたえがたい試練でもあります。ほとんど胸も張り裂けるほどの悲しみでした。
しかし、私は主なるわが神を信じています。神は父なき人々の「父」であると約束して下さっています。…いつか近い将来、日本においてふたたび私ども家族が一緒に住めるという望みを抱いています。そうなればどんなに喜ばしいことでしょう。たとえそれが果たせなくとも、天において再会することができます。… (「ヘボンの手紙」三四頁)
このように、胸も裂けるかと思われるほどの悲しみをも、神の国のために一人息子を他人の手にゆだねて日本に向けて出発することになったのである。
そして彼の家族、親族や親しい人たちも、ヘボンの真の意図、神が実際に彼に働きかけたのだということをなかなか信じようとしなかった。
…ただ、私が残念に思ったのは、彼ら(故郷の親しい人たち、親族たち)が私が日本に行くことについて、キリスト教的な考え方を持っておらず、彼らの感情や目標がキリスト教的なものでなく、私が日本の人々に福音を伝えようとする努力に対して、好感を持とうとしないし、私がみんなに期待したほどに救い主の栄光を望もうとはしなかったのです。
みんなは私が一時の熱心にかられてのことで、賢明な判断ではないと考えています。…彼らみんなが熱心な生きたキリスト者であってほしい。そう祈っています。
(「ヘボンの手紙」三四頁)
最も理解してほしいと願った身近な人たちからも十分な理解を得ることもできなかったが、ヘボンはそれらの無理解のただなかで決断を変えることはなかった。
数千年も昔、アブラハムが、次のような神からの言葉を受けた。
「あなたの国を出て、あなたの親族に別れ、あなたの父の家を離れて、私の示す地に行きなさい。
私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。」 (創世記十二・1)
このアブラハムが受けたのと同じようにヘボンにも住み慣れた故郷、そして家族や親族のところから出て、神の示す地に行くようになった。そして彼が日本に聖書の日本語訳をなさしめ、キリストの福音をもたらすなどで大きな祝福の基となった。
聖書の言葉はいくら読んでもその意味は深く味わいは底知れない。それはこのように、数千年を経てもなお、人間の生涯を支配し導いていき、そこから大いなる祝福をもたらす神の御計画は今も変ることなく続いているのを知らされ、生きてはたらく神の御手を実感するからである。
愛する一人息子をアメリカに残していたためずっとその息子のことには心を注いでいたが、弟から、息子のサムエルを預けておいた友人が、息子を嘘つきといって鞭で打ったということを知らされた。そのことを息子からも知らされたとき、ヘボンは、大きな心の痛みを感じたのであった。
…私は息子の手紙を読んだときに、胸は痛みました。たとえ息子が間違っていたとしても成長した息子をそのように罰するのは、よくないと思います。息子を預けた友人が息子を嘘つきと非難したりするのは、紳士的でなく、キリスト教的でないと思います。…もしこのようなやり方でなければ息子を教育できないと友人が考えているようならば、息子を他のところに移して下さい。…
私がアメリカを去って以来、こんなに悩んだことはなく、急いで帰国しなければならないかと思ったほどです。
しかし、このことや私の心の憂いを、すべて父なる神にゆだねるようにつとめます。
(前掲書 14~15頁)
こうした抜き差しならない試練にも直面しつつも、彼は、聖書の日本語訳という道のないところに道を切り開くために日夜働いた。それはまず、医者としてのはたらきから始めた。公然とキリスト教を説くことはとてもできない状況にあったし、そもそも日本語が分からないから説くこともできない。日本語を習得しようとしても、幕府の役人がさまざまの手段を使って妨げ、できないように見張りを置いたりする。
当時の日本は、外国人が侵略など何らかの悪事を日本に対してなすのだと考えて、攘夷という考えが激しくなっていた。ヘボンは当時の日本の状況を報告する書で、「暗黒の地」として表現したという。イギリス公使館の通訳が殺され、また人々によって「近いうちにお前ら異人は皆殺しだ」などと脅迫されたとか、五〇人の浪人が外国人襲撃未遂の疑いと捕らえられたとか、ロシア使節の部下たちが斬られた、またオランダ船長と船員が宿を出たところで殺された等々という暗い事件が相次いだ。
日本が鎖国を止め、アメリカなどと貿易を始めるようになってから一年ほどで十数人の外国人が刀で殺害された。日米修好通商条約は一八五八年にハリスの努力で締結されたが、彼の通訳であったヒュースケンは、オランダ語と英語ができるということで貴重な通訳として活躍していたのに、単純に外国人を憎む一部の者によって暗殺されてしまった。
ヘボン自身に関しても危険はすぐ近くまで忍び寄っていた。家で雇った使用人もヘボンの暗殺を計画したり、彼らがスパイであることも多かったという。そしてしばらく住み込んでみたが、ヘボンが全く怪しい人間でなく誠実さとか親切さ、そして非常な能力を持っているにもかかわらず、高ぶったり見下したりしないというので、斬りすてたりせねばならないような人間でないと分かって辞めていった者もあった。
また、ヘボンの妻のクララもあるとき、外出したおりに後ろから棒で殴りかけられて倒れ、意識不明になったほどで、もし打たれたところが肩でなく、後頭部であったら助からなかったかも知れないようなこともあった。
ヘボンが来日したのは、一八五九年、江戸時代の末期であり、明治になる一〇年ほど前である。開国したといってもキリスト教は厳禁されたままであり、一般の人たちがキリスト教に触れるようなことがあったらすぐに捕らわれて牢獄入りとなり、拷問などひどい仕打ちを受ける状況であった。外国人が必要上持ち込もうとする書物も一つ一つ検査して、少しでもキリスト教に関する言葉が入っているなら集めて焼いてしまうという状況であった。
このようなキリスト教への敵視と異常なまでの迫害は、明治になっても続いたほどである。長崎県浦上村の一八六七年におきた大規模な迫害は有名である。ここでは江戸時代の後期にとくに厳しい迫害が行われた。四回にわたるものであったからそれを一番崩れ、二番崩れ…四番崩れといっている。
最後の浦上四番崩れという迫害は、江戸時代から明治に変る一八六七年におきたものであった。信者は捕らえられ、牢に入れられ、拷問を受けた。明治の新政府になってもこの迫害の姿勢を全く変えず、政府は村全体のキリシタンたち三四〇〇人ほどにも及ぶ村人たちを、数多くの県に流罪として村を滅ぼすという驚くべき強硬な手段に出た。こうした非人道的なやり方が外国の使節団によって強く抗議され、外交問題となりそれによってようやく政府は、一八七三年にキリスト教の禁制を解いたのであった。
こんな状況のなかであったから、日本語を学ぼうとしても話しかけると逃げていくし、彼らは外国人と親しいかのように思われたら、自分たちの命が危ないというので恐れていたのである。
日本人にキリスト教を伝えるにはまず言葉が分からないと何もできない。そして生きた日本語のためには周囲のふつうの日本人との会話が不可欠である。それができないので日本人を雇って日本語の研究に力を注いだ。ヘボンは医療を通じて人々と近づき、キリスト教を伝える接点としたいと考えて、治療所(施療所)を開く許可を幕府に申し出ていたが、当時の幕府はこうした外国人からの申し出とか願い出はできるだけ引き延ばして結論を与えないという方策をしばしばとっていたため、彼の申し出もなかなか許可されずに放置されていた。
ヘボンはこうした状況がいつまで続くか分からないと思われたので、日本に来て一年あまり経ったときに、無許可のままにキリスト教宣教の糸口をつかむためにと施療所を開いた。
この施療所は次第に周囲の人たちの注目を集めるようになった。その評判は広く関東一帯に知れ渡り、貧しい人から地位のある武士、女性、子供、また結核や眼病、天然痘、手足の怪我などありとあらゆる病気の人たちが押し寄せるようになった。医者なども訪れて自分の手術などの技術を高めたいとするものたちも来訪するようになっていった。
そうしたなかに後の明治政府で重要な役割を果たすことになった大村益次郎もいた。大村はもともと村の医者であったが、後に幕府の講武所教授となり、長州藩の代表的人物の一人となったが、ヘボンの卓越した医者としての見識に学ぶために、幕府から派遣されたものであった。
このようにして少しずつヘボンの霊的な力は浸透していった。
ヘボンは、日夜わずかの時間をもむだにせずに働き、また聖書を日本語に訳するためには極めて重要な日本語の研究を続けていた。
彼の霊的な慰めや力の源泉はもちろん神であり、主イエスであったが、神の創造された目に見える植物にも大きな慰めを得ていたのがつぎの手紙で知ることができる。
…私の花壇はいつも変わらぬ慰めであり、仕事の源泉です。私の作ったすばらしいイチゴ畑をお見せしたい。…庭の畑には、トウモロコシ、トマト、エンドウ、タマネギ、レタスなど多くの野菜類を植えています。
ある婦人から二六種類の種をいただき、別の人からは百十一種類の種をいただきました。みんな蒔きました。私は自分の花園を、この国における最大の祝福の一つと思っています。これは私の憩いとなり、園芸をしているときほど幸いなことはありません。
こうした多くの美しい花を地上に満たして下さる私たちの父が、どうして私を導いて下さらないことがありましょう。…(「ヘボンの手紙」八六頁 一八六四年四月四日の項)
この手紙が書かれたのは、江戸時代末期であって、遠い異国にあって風俗習慣もまったく異なるところで、ヘボンが最も大切にしているキリスト教信仰が厳禁されていて、キリストを伝えようとすることが発覚すればたちまち捕らえられるような幕府の束縛や身の危険が感じられるような状況のなかである。
ヘボンは、さまざまの人たちの治療を経てたくさんの人々との接触が与えられ、日本語の習得もすすんでいった。それが七年七カ月という歳月を経て、日本で初めての和英辞書が出版されることになった。一八六七年、それは徳川幕府が倒れて明治という新しい年がはじまろうとする歴史的な状況のときであった。
この辞書は中国の上海で印刷されることになったが、印刷製本も困難なものであったから、非常に高価なものとなったが、一度に数十冊を購入していく武士とか崩壊寸前の徳川幕府も三〇〇冊も購入していったとかで、明治の時代になっても売れ続けた。
現在では、英和辞書、和英辞書の類は数えきれないほどある。そしてだれでもそうした辞書によって英語の学力をつけていったのであるが、こうした和英辞書の日本での最初のものがヘボンによる辞書であった。まもなくそれには英和辞書も付けられてそれがその後三〇年ほどは比類のない辞書として尊重されたというが、それによって日本の精神を広く世界に向かって開く絶大なはたらきをすることになった。西洋医学がオランダ語によって日本に伝わって鎖国下のなか、貴重なヨーロッパの学問への窓となったが、英語という世界語の辞書によって世界に窓を開くことにつながったのであった。
ヘボンの最大の目的はもちろん日本語と英語の橋渡しをすることによって聖書を日本語に訳し、キリストの真理を伝えたいということであった。
それゆえ和英・英和辞書の完成のつぎは、聖書の日本語訳という事業に他の宣教師たちとともに着手する。最初に手がけた新約聖書の日本語訳の分担は、四つの福音書、ローマの信徒への手紙、コリント信徒への手紙、テサロニケ書、ヤコブ書といった大半の部分をヘボンが担当し、使徒言行録やガラテヤ書など一部を同労者であったブラウンやグリーンといった人たちが担当した。
そして五年半の労苦の結果、一八八〇年に日本で初めての新約聖書の全訳が完成した。さらに、その後は旧約聖書の完成に向けて日々変ることなき熱心な努力が捧げられ、七年後に旧約聖書の日本語訳が完成、新約聖書と旧約聖書の完成に十一年の歳月が費やされた。
ヘボンは最初から日本語訳を目的としていて、そのはじめから数えると三十年近くもかかってついに聖書を日本語に訳するというおおきな仕事を完成したのであった。そしてこの翻訳には多くの人がかかわったが、最初から最後までかかわったのはヘボン一人であったという。
まさに神は、この仕事のために、あらゆる困難をも家庭の悲劇をも経験させ、その類まれな能力をも用いて日本にキリストの福音を日本語でもたらすという霊的、かつ歴史的な事業をゆだねたのであった。
現在の日本では中学の義務教育で全国民が英語を学ぶし、そのときに英語の辞書を何らかのかたちで用いる。その英語教育の根本になる辞書をずっとさかのぼっていくとこのヘボンの英語辞書に行き着くのである。
また、明治以来無数の人たちが聖書を日本語で読んできた。信じる人にならないまでも、聖書はおびただしい日本人に読まれてきた。その源流をたどってもやはりヘボンが主となって訳した聖書にたどりつく。
こうしてその生涯をかけ、命がけで日本に来たヘボンを「私の言葉にしたがって私が示す地に行きなさい」と命じた神、その神の祝福が日本人のあらゆるところへと流れていったのがわかるのである。
これは、単にヘボン一人のことでない。聖書はつねにそうした特別な人だけのことでなく、どんな人にも生じる内容なのである。神を信じ、その神の言葉に従っていくことこそ、さまざまの困難や悲しみも伴うこともあるが、それらを越えて神の祝福は与えられ、その祝福は本人だけにとどまるのでなく思いがけないところへと広がり、流れていくということなのである。
このヘボンについての記述には、「ヘボンの手紙」有隣新書、「横浜のヘボン先生」(いのちのことば社))、「ヘボンの生涯と日本語」(新潮社)、「S・Rブラウン書簡集」他を参考に用いた。
ことば
(280)死者への祈り
先祖のための祈りはおやめなさい。というのはそれが正しいと言っている聖書の箇所は一つもないからです。まず、自分の罪のことを考えなさい。罪は息絶えることを望んではいないのです。
ですから、生きている人のために祈らねばなりません。
死者は、主の御手のうちにあります。主の御名は、憐れみ深く、恵み深く、忍耐深く、大いなる恵みと真実に満ちている(出エジプト記三四・6)ということで満足するのです。(「悩める魂の慰め」ブルームハルト(*)著六四頁 一九七五年 新教出版社刊)
人が死ぬ直前にどのような思いを抱いて死んだのか、それはだれにも分からない。そしてその人が生きている間にどのようなことを思い、苦しみ悩み、また見つめ、そして行ったか、そのこともだれも分からない。人間の本当の思いは、結局のところどんなに身近な者であっても分からないのである。しかし、神はそうしたすべてを見抜いた上で、その人を死後の世界へと導かれる。
善いことをしたように見えても心のなかではどんな思いがあったのか、また逆に悪いことをしてきた人も死に近づいてどのような心になっていったか、それも神のみがご存じであるから、私たちはどんな人に対しても、死後はどうなると裁いたりすることはできない。ただ、万能の神、愛の神が最善にして下さることは確実なのであるからその神に信頼をすることだけが求められている。
悪の力、罪の力はつねに私たちを誘惑しようとする。それゆえブルームハルトは、そのような罪の力に負けないように祈ることをすすめている。私たちの勝利とは罪の力に勝利することだからである。
それゆえ祈りは、死者でなく、今生きている人のためになされるのが主の祈りの意味するところでもある。「御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。」というのもそのことである。
(*)ブルームハルトは、一八〇五年ドイツ生まれ。牧師。スイスのバーゼルでも教えた。ヒルティ(一八三三年生まれ)もスイス人でほぼ同時代の人。ブルームハルトはその子とともに大きな影響をキリスト教世界に与えた。神学者バルトもその影響を受けた一人として知られている。ブルームハルトは、深い祈りの人であったとともに、病をいやす特別な賜物を与えられていた。
ヒルティは「…今日では、おそらくこの時代の最もよい神のしもべと思われるブルームハルト…」としているし(眠られぬ夜のために上 七月三〇日)、ヒルティが最もよく理解した人の一人として、キリスト、ヨハネ、ダンテ、トマス・ア・ケンピス、タウラーなどとともにあげている。(同三月二六日の項)
(281)キリスト教の極致
キリストは今なお活きて私たちとともにいて下さる。キリスト教の極致はこれである。
キリストがもし、歴史的人物に過ぎないのならば、キリスト教の倫理がいかに美しく、その教義がいかに深くとも、そのすべては空の空である。
キリストがもし今もなお活きて存在しておられないのなら、私たちは今日、ただちにキリスト教を捨ててしまってよいのだ。
キリスト教の存在しうるかどうかは、ひとえにキリストが今も活きてはたらいておられるかどうかにかかっている。
キリストは今もなお、生きて存在しておられる。主は私の祈りを聴いて下さる。主はご自身を私に現して下さる。主は神に関する深遠な真理を私に示して下さる。主はまことにわが牧者である。
私は今は主を見ることができないが、何よりも確実に主の実在を感得する。
主が私とともにいて下さるがゆえに、私は一人であっても寂しさはない。主が私に代わって戦って下さるがゆえに、私は世がこぞって私に逆らっても恐れない。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇八年二月 原文は文語)
・キリスト教とは単なる教えでなく、活きてはたらいておられるキリストを我が内に迎えることである。そのために、私たちの悪しき思いや行いを清めていただく必要がある。キリストが十字架にかかられたのはその清めと赦しのためであった。それを魂に受けるとき、活きたキリストが来て下さる。そのキリストを伝え、またそのキリストに動かされてなすことが伝道であり、神の国のはたらきとなる。
お知らせ
○無教会全国集会2008徳島
すでに前月号でもお知らせしましたように、無教会(キリスト教)全国集会が今年の五月に徳島で開催されます。この全国集会では、初めての方、まだキリスト教を十分知らない方、そして何らかの重荷や問題を抱えている方々にも主が直接にはたらいて下さって、聖なる霊と神の言葉を示して下さり、新たな力を与えられるような集会になるようにと願っています。
そのために、聖書講話、証し、讃美、祈り、グループ別や全体会などすべてにおいて、短い時間ですが、そのそれぞれを主が用いて下さることを期しています。全国集会としては初めてですが、参加者全員による短時間の自己紹介や発言もそのためです。また、視覚、聴覚、身体、知的といったさまざまの障害者の方々もともに集う集会となっています。
人間がいかに企画しても、最終的には主の祝福と導きがなかったら何もよきことにはならないので、私たちとしては、ただ主がこの全国集会を導き、祝福して下さることを祈り願っています。(一部未決定の部分、あるいは変更される部分もあります。)
(1)主題「神の愛とその導き」
(2)日時 二〇〇八年
五月一〇日午前一〇時~一一日午後五時
(3)場所 徳島市南昭和町1の46の1 センチュリープラザホテル TEL 088-655-3333
(4)会費 宿泊費(一泊4食)と参加費 一万三千円。
学生 七千円 子供 五千円
(5)申込期限 4月20日
(6)申込先 〒773-0015
小松島市中田町字西山91の14 吉村 孝雄
電話 050-1376-3017 E-mail
(7)申込方法 参加申込書を郵送し、会費は郵便振替で同時にお送りください。郵便振替番号などは「いのちの水」誌の奥付と同じです。
プログラム
5月10日(土)受付9時~
10:00~10:40
開会・挨拶 徳島 メッセージと讃美 武 義和
10:50~11:50 神の愛と導きに関する証し・信仰上の意見(1)玉栄 千春(沖縄)
・上泉 新(北海道 瀬棚)
・桑原 康恵(東京・ろう者)
12:10~13:20 昼食 自由
13:30~14:00 讃美の時間 ・手話讃美・デュエット ・コーラス 徳島集会と県外の有志の方々。聴覚、視覚障害者含む
14:10~15:20 聖書講話
旧約聖書における神の愛と導き秀村 弦一郎(福岡聖書研究会代表) ・
新約聖書における神の愛と導き小舘 美彦(東京・登戸学寮長)
15:50~17:50 自己紹介・近況報告 一人30秒以内で全員による。18:00~19:30 夕食・自由時間
19:40~21:00 神の愛と導きに関する証し・意見(2)
・戸川 恭子(視覚障害者・弱視) 徳島
・深山 政治(「九十九の風」編集責任者)千葉
・田口 宗一(盛岡スコーレ高校 教員) 岩手 他
21:00~23:00 「若者の会」・有志 (他の参加者は自由時間)
担当者 那須 容平 (大阪・高校講師)
5月11日(日)
6:30~7:00 早朝祈祷会 7:10~8:50 朝食、自由
9:00~9:20 讃美の時
手話讃美、ギターによる讃美
コーラス
9:30~10:30 神の導きとその愛にかかわる証言・感話
・勝浦 良明(人口呼吸器装着の重度の障害者)
・石原 昌武・つや子(沖縄西表島)・
10:40~11:50 主日礼拝 旧約聖書における神の愛と導き 吉村 孝雄
新約聖書における神の愛と導き 関根 義夫(精神科医・浦和キリスト集会代表)
13:40~15:40 グループ別集会
①神の愛と導きに関する各自の今までの体験、または書物や知人などの体験を語り合う。
②聖書の内容と、神の愛と導き。(聖書においてどのような箇所に神の愛と導きが記されているかを話し合い、み言葉をより深く心に留める。)
③御言葉に聞く(テーマに沿った聖書の箇所を皆が読んで、感想を出し合う)
④祈りと讃美・伝道
⑤職業、日々の仕事
⑥平和と憲法・社会問題
⑦高齢化社会と老い、死
16:00~17:00 閉会集会 各地の参加者による短い感想
交流集会のお知らせ
○以上のほかに、遠隔地からの参加者は前夜から徳島に来られること、閉会後も一泊される方々もいますので、その方々と地元有志の者との交流集会が行われます。
○前夜の交流集会 5月9日(金)午後7時30分~9時30分(会場のホテルにて)
○閉会後の交流集会 5月11日(日)午後7時30分~9時(徳島聖書キリスト集会場)
○なお参加申込書をE-mailで送付する場合は、次の項目を記述してください。
氏名、職業(定年の方は前職)
所属集会(教会)、〒住所、電話(固定、携帯の両方)FAX、Eーmail 、参加日時(部分参加の場合は、その日時)、食事の希望10日の昼、夕、11日の朝、昼。また、前日9日から徳島に到着される方は宿泊のホテル、到着時刻、11日(日)も宿泊される方も宿泊場所名。さらに、B5にして横書きで4行程度になるように、心にある聖句、讃美の歌詞、感話、意見、自己紹介なども書いて送ってください。
これらは、従来での徳島での四国集会などの会と同様に今後の主にある交流のために名簿に掲載しますので、とくに何らかの理由のために掲載を希望されない方はその旨を明記下さい。
また、無教会全国集会2008徳島に参加申込書をE-mailで送付する場合は、次のリンクから
直ぐに申し込みが出来ます。
無教会全国集会2008徳島参加申し込み書へのリンク