父なる神が、どうか、あなたがたの心を励まし、 |
2009年5月 579号・内容・もくじ
神のわざ
五月になって山の木々は一面に若葉が茂り、それらすべてを動かしている生命力を強く感じさせる季節となっている。単に自然に育っていると思っている人たちが大多数であるが、その「自然に」とか「偶然」といったことは人間には、いろいろの事柄の背後が分からないだけのことである。
万能の神であり、すべてを支えている神を信じるならば、いっさいは神のわざであり、偶然などというものはなくなる。こうした若葉の一つ一つも神のわざなのである。
動くことのないように見える植物であっても、その葉のひとつひとつのなかでは複雑な光合成などの化学反応が生じているし、そこで作られた物質は、茎や幹を通って根など必要なところに運ばれていく。そして新芽や花、果実、あるいは幹や根で複雑な化学反応を起こしつつ、幹を太らせ、成長させていく。
沈黙している植物であってもそのように絶え間なく神のわざはそこでなされているのである。
私たちが生きていけるのも、神の守りがあるからで、さまざまの悪に巻き込まれてもそこから神を真剣に仰ぎ見ることによって、その悪のただなかにも神のわざなる励ましや力を与えられる。
人の計画や行動、考えなどいっさいのものが尽きるとき、そこから神のわざがようやく見えるようになることがある。
神は眠ることもなく、まどろむこともない。(詩編一二一・4)
神は、絶えず一人一人を見守り、万物を支え、すべての内にてそのわざをなされているのである。
すべてを教えるもの
先日、名古屋市で開催された青年全国集会において、「信仰とはなにか」ということがテーマとなった。今月号にそのことについて文を掲載した。
しかし、信仰とは何か、ということを議論すればきりがないし、書いても終わることがないであろう。聖書の二千頁にも及ぶ内容は、すべて信仰とは何かということをさまざまの方面から記しているものだからである。
そして、一般的な信仰、民族宗教とか伝統宗教もあれば、仏教やイスラム教もある。そして仏教にも膨大な教典がある。浄土真宗と、日蓮宗、真言宗などでは教典そのものが全く違う。それらもそれぞれ信仰とは何かを説いている。
また、ギリシャ哲学者たちの信仰もある。キリスト教においても、カトリックと東方正教会、プロテスタントでは、それぞれに強調するところが異なるし、違った内容もある。プロテスタントにも多数の教派がある。
このように、信仰とは何かといった議論や説明は、果てしないものがある。そうした説明や議論をしていくならば、一生かかってもそれらを知ることもできず、大きな渦に巻き込まれるようなもので、混乱するばかりとなるだろう。
この錯綜した信仰の世界を浮かびあがらせ、私たちに明確な道を示してくれるものこそ、聖なる霊(聖霊)なのである。
ひとたび聖霊が注がれるときには、ヨハネ福音書で約束されているように、私たちはこうした議論や知識、人間の無限の経験の集大成などにも惑わされず、それらすべてのなかに明確な道がしかれ、永遠に向かって続いているのを見ることができるし、確信を持つことができる。
「私は道であり、真理であり、命である。
…聖霊はあなた方にすべてを教える。」
(ヨハネ福音書十四・6、26)
これらの短い主イエスの言葉と約束はこうした信仰や宗教の複雑きわまりない世界を一挙に交通整理するものなのである。
見えざるものとの戦い
世界的に流行している、新型インフルエンザが大きな問題となっている。少し以前には、テロの防止ということで、航空機の乗客にはかなり検査を厳しくしてきた。しかし、インフルエンザにおいては、感染したばかりで発熱も咳もなにもない場合には、海外から出入りする何万人というおびただしい乗客をチェックすることはできない。
危険物なら目で見えるし、金属物質も探知器械で調べることはできるが、潜伏期間中ならば、発熱などの症状も出てこないから検査にかかってこないので、自宅に帰ってしまい、そこでまた他の人に感染していくことが考えられる。
交通機関の発達によって、短期間に大流行ということが昔よりはるかに簡単に起こってしまう。
外敵など見えるものなら、それが迫ってきたときだけ警戒すればよいが、目には見えないものとの戦いということになると、いつどこで出会うか予測できないゆえに、いつも注意していなければならないし、どんなに注意しても防ぐことができない場合が生じる。
目に見えない危険なもの、ということでは、放射能がある。原子力発電所が危険であるのは、ひとたび大事故が起こると、チェルノブイリ原発の大事故が想像を絶する大きな害悪を及ぼしたことで分るように、やはり目にはみえない放射性物質が大量に出され、そこから出る放射線によって人体に大きな悪影響を与え続けるからである。
人間は、熱や冷たいもの、暑さや寒さ、あるいは強い光など有害なものは、それらを感じて警戒することができる。とがったものや有害なガスにも感知して害を受けないように避けることもできる。しかし、核分裂から生じる放射線を感知したり防御するしくみを持っていない。人間が創造されたときにはそのような強い放射線の存在しない状況であったから、人間はそのようなしくみを持っていないのである。
目には見えない敵との戦いは、心の世界にもある。それは、悪の霊との戦いである。
そしてそのような戦いはずっと昔から言われていた。
主イエスが、「目を覚ましていなさい。いつその時が来るか誰も分からないからである。」と言われた。また、使徒パウロは、キリスト者の戦いとは、人間や組織、国家を相手にする戦いでなく、目に見えない悪の力との戦いであると明言している。
…私たちの戦いは、目にみえる人間を相手にするものでなく、闇の世界を支配しているもの、悪いは目には見えない悪の力(霊)との戦いである。
(エペソ信徒への手紙六・12より)
悪しきものだけでなく、本当に大切なものは、目には見えない。人間にとって最も大切なもの、それは心であり、魂とか霊とか言われるものであるが、それも目には見えない。またそうしたものを人間に与えた存在(神)もまた目には見えない。
このように考えると、最も危険なものも、最もよいものも共に目には見えないのである。そして、ウィルスは、肉眼やふつうの顕微鏡では見えないが、電子顕微鏡では見える。放射能を持つ物質も、計器によって検出できる。
しかし、悪の霊はいかなる方法をもってしても見ることも、検出することもできない。悪の霊はどのような方法をもってしても、私たちの内に入り込むことができる。
それは教育や科学技術、人生経験、人間の努力などによっても防ぐことはできない。
そして、神の愛や聖霊、真実といったものも、いかなる機器によっても測定はできない。また、そうした科学技術や教育、制度などによっても神の愛や聖霊を受けることもできない。
しかし、私たちは、目には見えない悪の力、霊的なものを、目には見えない神の力(聖なる霊)によって防ぐことができる。そしてその聖なる霊は私たちの絶えざる心の目を覚ましていることにより、私たちの内に生きて働くようになる。
新型インフルエンザは、次々と新しい型のものが生じる。これからの世界は、物質的な方面からも目には見えないウィルスや核兵器、原発といったものから出される放射線というものに脅かされることは続くであろう。
そして、悪の力(悪霊)との戦いもまた、世の終わりまで続く。
しかし、神とキリストを信じるものは、いかなることが生じようとも、最終的には、万能の神の力によって勝利が約束されているのであって、そこに永遠の希望がある。
祝福された人―詩編 第一篇
古代の文学作品として、さまざまの国々で詩集が残されてきたが(*)、聖書においても詩集があり、それが中国語に訳されたとき、詩編(**)という訳語が作られ、それをそのまま日本語聖書にも取り入れたものである。そのため、一般的にはなじみのない詩集名となっている。
この詩集(詩編)こそは、数千年前の神を信じる人たちの心のそのままが、一種の化石のように、変ることなく今日まで脈々として伝えられてきたものである。信仰とは何か、ということを最もリアルに、その心の世界の扉を開くようにして見ることができるのが詩編なのである。
(*)例えばギリシャでは、ホメロスの「イリアス」、「オデュッセイア」などの長編の詩、ローマではウェルギリウスのやはり長編の詩「アエネイス」、中国語では三千年ほども昔の「詩経」、日本では時代はずっと下るが、「万葉集」など。人間の心の世界は、詩という形で、美しい言葉と響きを兼ね備えたものとして人々の心に流れ続けてきた。
(**)英語では、詩編のことを、サームズ(Psalms) という。これは、ギリシャ語の プサルモス Psalmos に由来する。この語は竪琴のような弦楽器を演奏するという、プサロー psallo の名詞形であり、「賛美、賛歌、詩」などの意味に使われている。
聖書の詩集と他の国々や民族の詩集とは決定的な違いがある。それは、聖書の場合は、唯一の神を中心とした心の交流であり、信仰と愛が表現されており、また個人の悩みや苦しみを歌いつつ、それが数千年にわたって永遠に用いられるほどに普遍性と永遠性を持っているということである。
また、それと関係するが、単に個人の心の問題にとどまらず、はるか数百年~千年ほども後に生じることの預言ともなったような深い内容をたたえているものもある。
それゆえに、ほかの国々の詩が、個人的なもの、せいぜい民族の共通した心を表現しているものであるが、聖書の詩編は神の言葉となったほどに、永遠性と普遍性がたたえられており、一見個人的な内容と見える詩の背後に神の愛や正義、真実、さらには神のお心が実感されてくるというものなのである。
その詩編の最初に収められたものは、個人の悩みや喜びなどの感情を歌ったものでなく、真理そのものへの感動を歌ったといえる内容となっている。この世には、一見なんの善き法則もないように見えるが、神からの啓示を受けた者にとっては、そこに時代を越えて変ることのない霊的な法則がある。そのことをはっきりと知らされた者にとっては、そうした真理そのものが深い感動の源となって言葉に表さずにはいられなくなる。
詩編第一編は、そうした真理への感動というべきものであり、それが全体の詩編のタイトルという形にもなっている。
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(詩編第一篇)
一節目の最初の言葉は原文では「アシュレー」の一言である。この語は、ヘブル語で「まっすぐに行く」という意味のアーシャールという言葉がもとになっている。つまずいたり、転落したりしないで、まっすぐに神の道を進み行く、ということから、幸い、祝福された、といった意味になったと考えられる。
そして「ああ、幸いだ!」という意味をもった感嘆をあらわす言葉、間投詞のように使われている。最近の代表的な英語訳の一つではHow blessed ! と訳しているものもあり、日本語訳では「いかに幸いなことか」とも訳されている。
以前の口語訳では、
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者のすそに座らぬものは幸いである。」と、幸いという言葉が最後になっていた。原文では最初に書かれているにもかかわらず、日本語訳では最後に書かれているので、新共同訳の訳文のほうがより生き生きと原文に近い表現となっている。
人間にはあらゆる道、生き方がある。職業を例にとっても最も基本的な農業、漁業といったものから、商業、公務員、プロのスポーツ等々じつに多様なものがある。
このように働く場所や職種はたくさんある。しかし詩篇で言おうとしていることは、いかなる職業につこうとも、その人の魂において歩む道は二つしかないと宣言しているのである。
それは神に逆らう者の道、滅びに至る道なのか、それとも生き生きとした命に至る道のどちらかということである。だから職種は数え切れないくらいほどあり、さまざまな道があるけれども、その職業の奥にある心の構え方、持ち方、精神の方向は二つしかない。
このように聖書は、人間の魂の方向性を鋭く見つめるゆえに、とても単純化して表現することが可能となっている。職業はある意味では表面に出たところだけで、表面の奥にある人間の心、根ざしているものは二つしかないのである。
この詩編第一編は、詩篇全体にわたる「門」のような形となっている。
まちがった道、罪深い道、滅びに至る道はこの世には至る所にあるものだから、まずそれを書いている。
神に逆らう者の考え方に従って歩む道、罪ある者の道、傲慢な者と共にある道、こういうものは最終的には滅びに至る。私たちは初めは神を知らなかったので、もしそのまま知らないままだったら誰でも元は神に逆らう道を行っていた。
神に逆らうものの計らいごとに従ったり、また自分も神に逆らうことを考える、いわゆる自分中心で自分の地位や利益を追い、神とは反対のこの世の道を行っていたのだ。
「歩む」とは生活していく、生きていくということで、「罪ある道にとどまる」とは悪いと思っていてもそこから出て行こうとしない、出る気がない、出ることが出来ない、また出ようにもどこに出るべきかが分からないので、出ることができない、とどまらずにおれないということを意味している。
また「傲慢なものと共に座らない」とは、傲慢な者と共に神に逆らうことを考えたり、計ったりしないということである。私たちは神を知らなかったら積極的に悪いことをしなくても、悪しき者と共にとどまり続けることもある。
…神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。(4、5節)
神に結びついていなければ人間の存在そのものが、非常に軽いものとなってしまう。
私たちはしばしばぐらぐらして動揺する。例えば他人の一言によっても心が吹き飛ばされるぐらい、腹を立てたり、ねたんだり、憎んだり動揺したりすることが起こる。
この世の道は最終的に滅びに至るわけだが、そのことを4~5節にあるように風に吹き飛ばされるもみ殻という表現で表している。それは、悪しき者(神に逆らう者)の本質というのは風に吹かれて飛び去るように、とても軽いからである。
例えば盗みをして見つかると、捕えられ、刑務所に入れられて、それまでの職業生活や家庭は崩壊してしまう危機に直面する。それは風に吹き飛ばされるようなものである。
しかし、神は永遠の真理であるから、岩であり、大木であり、また不動の山に例えられる。それゆえに神と結びついていれば、私たちもまた、動かされない重みが与えられることになる。
神の道は、神と結びついているゆえに、この世では人から良く言われようとも、また悪く言われようとも、あるいは病気であろうが健康であろうが、どんなときでも一貫して同じ歩み方を続けることができる。
映画『Passion』の中であったように、主イエスは、散々鞭打たれ、悪口を言われ、ひどい目に遭わされるなど普通の人間には到底耐えることの出来ない猛烈な風が吹いても、主は神に結びついていて、その結びつきは不動なものであったから、吹き飛ばされなかった。そして命まで奪われたのにもかかわらず、かえってキリストと神とにかかわる真理が成就していった。
このことから見ても真理に結びついている者ほど、嵐が来ても飛ばされない。また人間の基盤がどれほど強固であるかは、突然の事故や、他人からの中傷や、非難や悪口に対してどれほど動揺するかしないかで分る。また動揺したとしてもどれほど早く元の平静な状態に戻ってこられるかということによっても分る。
昔の農業は脱穀をする時は風に吹き飛ばして、籾殻をより分ける作業をしていた。農業をしているたくさんの人にとっては、ごく当たり前で日常的な光景であった。
深くものを見る人は、このようなどこにでもある光景から人間の精神的な運命に関する霊的な真理を読み取ることができるのである。
神に逆らう悪しき者は、神の裁きにはたちまち裁かれて立つことができない。神に従うものの集いには耐えられない。神に従う方向へは行けない。と表現している。このように真実で無限の力を持った神に逆らうとどういうことになるのかが、様々な表現で言われている。それは最終的には全ては崩れて消えていく道なのである。
対照的なのが神の教え、すなわち真理を愛している状態、言い換えると神の言葉がいつも心にあるということである。いつも神の方に心を向けていると、神の方からも絶えず良きものが流れ込んでくる。人間も誰かを愛しているということは、その人に心を向けているということであるが、神の教えを愛するということはいつも心を神に向けているということになる。
人間同士の愛でも、その愛が強いほど、昼も夜もいつも相手を思い出すのと同様である。
神から与えられるものが良いことであれば感謝するし、悪いことであっても神が背後でよくしてくださると思う。美しい自然を見ても神の御手を絶えず思う。教えの背後には神のご意志、御心がある。
そういう意味で日毎にみられる青空や白い雲、美しい星空、山や川、自然の草花などを愛するということは、それらを創られた神の御意志を愛するということになる。したがっていつもそれらを見て神のことを思えば神の教えを愛すること、ご意志を愛することにもつながっていく。
そうすると神のもとから、永遠のいのちが伝わってくるから絶えず新たな命が与えられ、実を結ぶことになる。身近な自然を愛するということからも、このように、神のことをいつも思い起こすことに結びついていく。
この世の仕事にはたくさんの条件がある。まず健康でなければいけないし、ある程度学力もいる。最近ではパソコンが使えなければいけない、免許がなければいけないなど至るところで条件がある。
しかし、聖書の世界の比類のないよき点は神の教えを心にいつも持ち、それを愛することだけで、誰でも流れのほとりに植えられた木のようになると約束されていることである。そして神の言葉を愛し続けていくときには、ヨハネの福音書の最後の結論としても記されているように、永遠の命が与えられると約束されている。
…主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
(二節)
昼も夜も口ずさむとあるが、文字通りいつも神のことを口に出して言うというのではなく、瞑想するという意味の meditate が英語訳として多く使われていることからも類推できるが、それはいつも心に神があるという状態を指しているのである。そういう道こそは神がいつも知っていてくださり、その道を守り導き、そして祝福してくださる。
この世界には、実に多様な人間がいるし、さまざまの民族や国家がある。また無数の職業もある。しかし、どんな状況にある人であっても、自分の地位のためや安定のためにではなく、神のために、神の栄光を表すために、神の教えを少しでも伝えるためにするという人がごく少数だけれどいる。たとえ同じ職業に就いている人同士であっても心の方向ははっきり二つに分かれるのである。
詩篇全体が第一編で言われている二つの道を書いており、冒頭に全体のタイトルのように置かれている。神の教えを愛し、口ずさみ、絶えず神の御言葉、真理を思う人は、いかに神に叫び、讃美し、また苦難のなかから救い出され、神の大いなる賜物を受けて、いかに神を讃美するようになっていくか。また敵対するものがいかに滅びていくのか、流れのほとりに植えられた木なのか、あるいは風に吹き飛ばされるもみ殻となっていくのか、といったことをここで対照的に提示しているのである。
それはこの世界全体を過去、現在、そして未来を見つめ、全世界を展望している者のまなざしがここにある。
神の教えというものを単に「知ってる」だけでなく、それを昼も夜も愛する、喜ぶ、それが私たちの道なのである。
しかし主の道を愛していたのに、途中でこの世の道に引っ張り込まれる人もいる。そしてせっかく実を結びかけていたのに、枯れてしまうことも実際にある。
だからあの人は逆らう者の道に行ったが、私は神の道に行っているなどと他人のことを簡単に裁くべきではないということになる。大事なのは自分は神の道を愛しているのか、喜んでいるのかと問い続けることなのである。
新約聖書において、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (テサロニケ五・16)
ここには、この詩編第一編の、「昼も夜も絶えず神の事を思う」という精神と同じ流れがある。いいことがあっても悪いことがあっても、何か意味があり、苦しいことが生じても、この苦しみがなければ自分は強められないから与えられたのだと信じてそのことを感謝する。
この詩編の冒頭の詩の心の源流は、神の御手によってその真理が私たちの胸に刻まれるということであり、そこからこの流れが新約聖書の時代になっても、ずっと流れ続け、そして現在の私たちの世界にも流れは止むことはないのである。
マグダラのマリア
イエスが十字架で処刑されるとき、最後まで従い、さらに墓に行き、安息日が終わった翌日の朝早く香料をもって墓にまで行く、そのように忠実にった人たちとは十二弟子たちではなかった。
十二弟子たちが、家庭も職業も捨ててイエスに従ったのは、特別に彼らの魂に働きかけたものがあったからだといえる。無数にいる人間のなかから、とくにわずか十二人だけ選ばれたという特別な招きがあった。
それにもかかわらず、彼らはイエスが捕らえられたときには、主を裏切って一人の例外もなく逃げてしまった。その直前のイエスの必死の祈りにおいても、弟子たちは、みんな眠ってしまい、イエスが途中で起こしにきたが、それでもなお、再び眠ってしまったほどであった。
それゆえに、イエスが前夜は一睡もしないうえに、さらに兵士たちによって鞭打たれ、そのあげくに重い十字架を負わされてたくさんの人々のいる通りを選んでわざわざ長い距離を歩かされた。
刑場に着いて生身の両手、両足を、大きな釘でもって木に打ち込まれるという想像を絶する苦しみのとき、そばにいて祈りをもって見つめるべきであった弟子たちはそこにもいなかった。
(ただしヨハネ福音書には、名前が記されていない「愛する弟子」が一人いたことが記されている)
そこにいたのは、婦人たちであった。とくに、四つの福音書のすべてに書かれてあるのが、マグダラのマリアである。
このマグダラのマリアについては、聖書においては、イエスの三年間の伝道の間、最も重要であった十字架で死ぬこと、復活のときにとくに記されている。十字架の死とそれに続く復活こそは、キリスト教の中心であり、その二つの中心は、また世界史の長い流れのなかでも、最も大きな出来事であったといえる。
そのような特別な出来事にマグダラのマリアが深く結びつけられて、記されていることに、そうした記事を書いたキリストの弟子たちが受けた啓示を知ることができる。
書き方やその内容が、ほかの三つの福音書(共観福音書)と異なるヨハネ福音書においてもやはりマグダラのマリアのことは記されている。 しかも、共観福音書よりも詳しく記されている。
ほかの三つの福音書は、マグダラのマリアがイエスの葬られた墓にいったのは、明け方(早く)という表現であるが、ヨハネ福音書は、さらに、まだ暗いうちに、という語があり、「週のはじめの日、朝はやく、まだ暗いうちに、」と、より詳しくなっている。
そして、共観福音書ではマグダラのマリアはほかの一、二の婦人たちとともに、イエスのおさめられた墓まで来たところ、墓の入口に大きな石でふたをされていたが、その石が転がされてあり、そこに天使が現れてイエスが復活したことを、マグダラのマリアたちに告げたと記されている。
しかし、ヨハネ福音書では、とくにマグダラのマリア一人に焦点が当てられ、まだ暗いうちに墓に出向いたという。女性が、遺体をおさめた墓に暗いうちから出かけていくということは、よほどの思いがなければそのようなことはしないであろう
新約聖書において、マグダラのマリアについては、 なぜこのような特別に記されているのであろうか。
マグダラのマリアについて聖書が記すことは、イエスが十字架で処刑されるときと、復活のときに最も深い関わりがある女性として現れる。その他では、一度だけ聖書に現れる。それが次の箇所である。
…イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、…そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ八・1~3)
これが、イエスの十字架の処刑のときと復活にかかわる以外のマグダラのマリアに関する唯一の記述である。これは、彼女は何ものであったかをひと言で表している。七つの悪霊とは何か。それは七という数字は一種の象徴的な数であり、本来霊は風のようなものであり、数えられないものであるから、この表現はこの女性が徹底的に悪の霊のはたらきによって支配されていたということを暗示している。
聖書には、ほかに悪の霊に支配されていた人の状況が書かれてある箇所がある。
…イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(マルコ五・2~5より)
このようなひどい状況であったが、主イエスはこの人から悪の目に見えない力を追いだして、その闇の支配から救い出されたのである。
マグダラのマリアもおそらくはこのような恐ろしい闇の力に支配され、絶望的な状態であったと考えられる。彼女はどうにも救いようのない精神の重い病気とみなされてしまっていただろう。しかし、主イエスはそのような闇のただなかに置かれて苦しめられている人をも救い出すことができた。この女性はこのような七つの悪の霊に支配されるまでに、どのようないきさつがあったのかしるされていない。何か特別に苦しいこと、悲しみに打ち倒されることがあったかも知れないし、また大きな誘惑に負けて悪の力に支配されるようになったのかも知れない。いずれにしても、そうした絶望的状態になるまで、家族や周囲の人たちは何とかしてその泥沼のような状態から抜け出ることができるようにと祈り願ってきただろうし、可能な方法をいろいろと試しただろう。
しかし、家族も医者も人格のすぐれた人も指導者もすべてどうすることもできなかった。
そのようなとき、マグダラのマリアは主イエスと出会ったのである。そして長い地獄の苦しみから解放されたのであった。
人はだれでも罪深いものであるが、このマリアもまた過去の罪を赦していただいたことが推察される。
主イエスが言われたように、多く愛するのは、多く赦されたからである。
…だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ七・47)
マリアがほかの弟子たちすら恐れて逃げてしまっていたなかで、恐ろしい苦しみから死を迎えようとしていたイエスを最後までその苦しみをともに担うべく、処刑されている十字架の近くまできて、最後まで見つめていたのであった。
このように、自分を絶望の淵から救い出してくれた主イエスへの感謝と真実な心、そして愛によって行動したのがマグダラのマリアであった。
主イエスへの愛、それは神への愛と同じものであって、イエスがまず神を愛せよ、といわれたことを思いださせる。このように真実にイエスを愛するものには、求めよ、さらば与えられる、という約束の言葉の通り、復活のイエスからの直接の語りかけを受けて、顔と顔を合わせて見るという大きな幸いを与えられたのであった。
彼女は復活したキリストがすぐそばに立っているのを見てもなお、それがイエスだとは分からなかった。ヨハネ福音書では、マグダラのマリアが復活のイエスに直接語りかけられたときの状況が次のように記されている。
…マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見えた。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネ福音書二〇・11~16)
復活したイエスと出会ってもなおそれがイエスであるとは分からなかったが、イエスの「マリア!」という呼びかけのひと言で彼女の目は開かれて、復活のイエスと知ったのである。そしてこれが、歴史上の最大の出来事ともいえるキリストの復活を初めて知らされた瞬間であった。
マリアはイエスが復活するなど、全く信じたことはなかったのがこの聖書の記述でうかがえる。そのようなマリアはしおれることのない、イエスへの、またイエスの背後におられる神への真実な愛をもっていた。そのような愛こそは、最も復活のイエスに近づくことを与えられるのである。
知識や学問でもなければ、血筋や生まれつきの能力でもない。また長い人生経験でもない。それらが全くなくとも、ただ主イエスを愛し、神を愛するという真実な心があるときには、神は近づいて下さるということをマグダラのマリアの記事は示している。
そして、悪の霊にまったく支配されていた状況は、周囲の人たちからも嫌われ、見下され、差別を受けて、だれからも相手にしてもらえなかったであろう。今日でも、心の病の人たちは、ほかの病気の人と違って見舞いに行く人たちも少なく、病院の中で閉鎖された生活を送っていることが多い。
孤独と苦しみ、淋しさ、そして悲しみ等々、言うに言えない闇のなかにあって呻いていた魂がそこから救い出された、ということ、それは天で大きな喜びがあったと考えられる。そうした苦しみの根源に赦されない罪があったであろう。
中風で寝たきりの人を友人たちが運んできて、どうしてもたくさんの人々がいてイエスの前に行けないために、その家の屋根をもはいで病人をつり下ろすという非常手段を用いて、イエスのまえに出ていったとき、イエスは友人たちの信仰を見て、病人に「あなたの罪は赦された」と言われたことがあった。
病気の重い苦しみも罪の赦しが与えられることが、根本的に重要なこととされている。
…悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ福音書十五章7~10より)
悪霊の力から解放される、というようなことは現代の私たちとは関係のないようなこととして受け取られることが多い。しかし、それは私たちを取り巻く闇の力から解放されること、言い換えれば罪を赦されるということと本質的には同じなのである。そしてそれこそ、あらゆる問題の出発点となるのだということがマグダラのマリアについて新約聖書で、特別に重要なこととして記されている理由なのである。
最悪の状態にあって、あらゆる人から見捨てられていたであろう状態から救われ、十字架の悲劇の最後までつき従い、死してもなお主に対する愛を失わず、そこから復活という最大のことを誰よりもさきに知らされて、復活の主と出会うという恵みが与えられたこと、それは「弱きところに神の力が現れる」という使徒パウロの有名な言葉を思い起こさせるものである。
聖書は、そしてその背後にある神は、そのような暗い世界を見つめて下さっているのであり、主の愛のまなざしはどんな闇をも見通して下さっていると信じることができる。
信仰とは何か
誰でも信じている
信じるということは、だれでも無数にしていることである。例えば、今日どこかに行くとして、途中で事故などない、と信じている。空気中に酸素が五分の一で窒素が五分の四あるとか、太陽ができてから四六億年ほどとか、光の速さが秒速三〇万㎞とか…そうした私たちが持っている知識というのはほとんどすべて信じていると言える。ほとんどの場合、自分で確認することはできないのである。
もし何らかの実験で確認したといっても、そのときに使った機器類が正確に示していると信じるということをしているし、確認するときの判断に用いた法則なども真理だと信じることが元になっている。科学の法則そのものにしても、それはいつまでも続く真理なのだ、と信じているのであって、そのような法則の有効期限があるのだ、あるときにその法則は変るのだ、あるいは、もう少し変わった法則になっているなどと考えるならば、実験そのものも意味がなくなっていく。
科学者も法則そのものが変るなどと考えていない。しかし、例えば万有引力の法則とかさまざまの自然科学の真理が永遠である、などということを証明することもできない。そうした法則自体に期限があるのかないのか、といったことも科学では判断できない。そうした法則は永遠であると、ただ信じているのである。
ブッシュ元大統領が、イラクに大量破壊兵器があるという情報を信じて戦争を始め、日本の小泉首相もそれをそのまま信じて後押しをした。このような国際的な問題にしても信じるということがいくらでもある。
アメリカの高層ビルが飛行機によって爆破された事件も、いったい何ものがあのようなことをしたのか、アメリカ政府発表を最初は信じた者も、あとから次々に出てきた、不可解なことによって何が本当なのか分からなくなっている側面もある。
宗教的なものにしても、木や石で作った人間や動物その他の像を神と信じて拝む、神社で拝んでいる人たちも、そこになにかがいると漠然と信じて拝んでいる。明治神宮など明治天皇が神となってそこにいるのだということは何の根拠もないが、そのように漠然とあるいは何となく信じている人たちが参拝に行っている。
もし、万事を本当に疑うのなら、例えば、今から乗ろうとする電車やバス、車が途中で事故になるかも知れないと、本気で疑ったらあらゆる交通機関を利用できず、どこへもいけなくなるだろう。毎日の食事ひとつにしても、そこに有毒物質がはいっていると本気で疑ったら食べることさえできない。
私たちの生活はこのように、万事が実は何かを信じてなされているのである。
私たちの都合のよいことはこのように何でも簡単に信じている。たくさんある神社にしても、どれでもそこに何が神とされて祀ってあるのか知らなくとも、そこに何らかの神がいると信じている。
それにもかかわらず、唯一の神、愛の神がいる、ということは日本人では極めて多くの人たちが信じない。
それは、なぜか。あちこちにある神社の神々を信じても、私たちの現実の生活にたいして何も、○○すべきだ、とか裁きがある、などということは言われない。お正月などに行ってただ家族が健康であることなどを願うというようなことが多いと思われるから、そのような神々を信じても、○○すべきだ、という気持にはならない。いたって気楽にいられる。
しかし、唯一の神というと、愛とか正義、裁きがある、それゆえに、隣人を愛せよとか悪いことをしていたら罰せられるとかいう一種の義務とか、○○すべきだという要求がある。多くの日本人が唯一の神、聖書で言われている神を信じようとしない重要な理由のひとつはこのためである。
何を信じるべきなのか
それゆえ、何を信じるのか、ということが重要になる。
自分に何も要求しないもの、罰も裁きもない、ということは正義でもなく、善でもない、悪でもないものを信じることが至るところにある。
何かを信じるときには、このように実にさまざまのものを無意識的に信じているので、それらの中から何を意識的に信じていこうとするかが重要になる。
多くの場合は、最も安易な道、つまり自分に何らかの利益を与えてくれると思うものを信じる。自分中心なのである。しかし、それは正しいあり方でない。
自分という小さな、罪深いものを中心としているのではよいことはそこからは生まれない。
あるいは、国家が強制して何らかの宗教を信じさせようとすることもある。
例えば、日本ではつい六十数年前までは、天皇は現人神であると学校でも社会でも教えていた。それゆえ、そのように信じさせられていた人が大多数であった。
また、ローマ帝国の迫害のときなど、ただの人間にすぎないのに皇帝を神として礼拝せよという命令が出されることもあった。
このように、周囲の人間や伝統や習慣により、またマスコミなどによって何となく信じるようになったり、あるいは国家権力が強制的に信じさせることもある。
私たちは、単なる習慣や権力で押しつけられたものを信じるとかでなく、また特定の民族や国家しか通用しない神々を信じるのでなく、いかなる人にも通用する正義や愛、真実さ、美といったものの存在をこそ、信ずべきなのである。そしてそれらが人間や人間の考えたこと(思想)や目に見えるもののように、変質したり、滅びてしまったりすることがないと信じることである。
このようなことを信じることは、私たちの日々の生活に直接的に大きな影響を及ぼすことになる。
しかし、太陽の寿命が、あと五〇億年ほどだ、といったことを信じても疑っても大して私たちの生活に関係はない。
また、日本ではあちこちにある神社でまつってあるとする神々を信じても信じなくともやはり生活にはほとんど影響を持たない。
しかし、人間を超えた正義や真実、愛があると信じることは、直接さまざまのことに影響してくる。何かをするときでも考えるときでも、そうした正義に反すること、愛に反することであったら、そのような正義の存在から罰を受けるであろうというように導かれる。また、人間の世の中で憎しみや悪が満ちていても、人間を超えたところの愛や真実があるならば、それを求めようという気持になるし、愛が存在するならその愛ゆえに真実に求めるものにはそのようなよきものを下さると信じることにつながる。
そうした、万人に通用し、永遠でもある真理や愛、正義といったものをすべて持っている存在をキリスト教で神として信じるのであり、私たちが信じるべき存在はそのような意味での神なのである。
語りかける神、迫ってくる神
ソクラテスなど、ギリシャの哲学者たちも、ある種の永遠的存在を感じ取っていたことがうかがえる。
しかし、そうした思想家たちの知っていた世界とキリスト教とを決定的に分けるものとなったのは、人間のほうから永遠的なもの、正義の本質を見つめるというだけでなく、その永遠の存在、神から私たち人間に語りかけ、導き、愛を与え、罪を赦すということである。
親しく語りかける神が存在し、どんな貧しい者、弱い者、小さきものであっても、神の方から見つめ、語りかけてくださるということである。それだけではない、神に敵対するような者ですら、神は時至れば、神の方から語りかけ、その敵対するかたくなな心を砕いて神の愛の元へ招き寄せて下さるのである。
これは信じようとしないような者であっても、最高の幸いを与えられることが有りうるということである。キリスト教の最大の使徒といえるパウロは、まさにその例である。パウロはキリストを信じようとしたのではなかった。キリストを求めてもいなかった。それどころか、キリストやキリストを信じる人たちを憎み、撲滅しようと多くの人たちを率いて迫害をしていたのである
そのような反対者のところへも神はその愛を注がれる。
哲学のように、知能に恵まれ、時間にもゆとりがあるのでなければ、探求できないのではない。
聖書においては、このように、語りかける神、というのが最初から前面に出ている。まず信じる、ということでなく、まず神が語りかけて下さるということなのである。
今、キリスト教信仰を持っている人たちも振り返ってみるとき、自分が何もないところから求めた、というより、まず親や知人、友人あるいは印刷物、本などから知ったという人たちが非常に多いはずである。それらを神の方から提供してくださったと言えるのである。
私自身も全くキリスト教やキリストを求めたりはしていなかった。一方的に神の方から不思議な導きで、まず、苦しみの余りあてどもなく下宿を出て北山のほうにと向かい、たまたまあった山道を登っていて、山の神秘な奥深い世界を知らされ、さらにたまたまその苦しみのさなかに、ふと姉の書棚のなかの一冊の本を取り出したということから、ギリシャ哲学の世界を知らされ、また大学の北の通りにあるたくさんの古書店によく行っていたがそこでたまたま出会った本でキリスト教を知ったのであった。
それらすべては私の意図でなかった。信じる以前に神が私の前途を備えて下さっていたのだった。
このように、信仰が出発点でなく、神の恵み、神の語りかけや神の働きかけこそが出発点にある。
それゆえに、信仰とは、人間の考えや意図とは別に、私たちに不思議な力をもって迫ってくる何かなのである。それはそのように神の恵みによって信じるようになった、ということであるから、信仰とは確かに導かれ、与えられたものだということになる。
私は、信じようとする意志もなく、信じたいという願いも全くなかったのに、人間を超えたところからある力が迫ってきて、信じるように導かれたのである。
旧約聖書の人物の信仰
旧約聖書においてまず出てくるのは、神への信仰とは人間が選んで始まるのだとは記されていない。聖書において第一に現れるアダムとエバたちは、はじめからすでに神を信じている。というより、神が語りかけたのをはっきり知っている。それは信じるということより存在が自明のこととして書かれているのである。園の真ん中の木の実を食べてはいけない、ということは、信じたのでなく、神からの語りかけの言葉を聞き取ったのである。
また、箱船を作ったノアにおいても、まず神からのはたらきかけ、語りかけがあった。ノアに関する最初の記述は、「ノアは主の好意を得た」(*)ということからはじまっている。
この箇所は、「ノアは、主の目において神の好意を見出した。」というのが、原文の直訳であるから、外国語の訳もたいていそのように訳されている。
(*)好意と訳された原語は、ヘーン(chen)で、英語訳では、多くがgrace、またはfavor と訳している。語源的には、ハーナン(chanan)憐れむ、ともつながっている。関根正雄訳では、「ノアはヤハヴェの前に恵みを受ける者となった。」と訳している。
英訳も、 Noah found favor in the eyes of the LORD.といった訳になっているのがほとんどである。ドイツ語訳でも同様の表現となっている。例えば、 Nur Noach fand Gnade in den Augen des Herrn.(Einheits Ubersetzung)
新共同訳では、「ノアは、主の好意を得た」と訳しているが、 「好意」という訳語は、新約聖書の新共同訳や口語訳では三回しかつかわれていない。旧約でも口語訳では、十一回ほど訳語として使われているだけである。しかし、「恵み」という語は、新共同訳では新約聖書だけで、百三十六回ほど用いられている聖書ではとくに重要な語である。
ノアが見出したのは、好意といった人間的な感情を思わせるニュアンスを持った言葉よりは、「恵み」という聖書全体に深く流れているものを見出したのである。
日本語では、「好意」というのと、「恵み」というのとでは、大きく異なっている。ある人に好意をもっているといえば、それは好きだといった意味になる。しかし、このノアの記事では、神がノアを好きになった、などということは全く意味するものでなく、また、逆にノアが神を好きになったとかいうのでもない。このように、神のまなざしのなかに、自分への愛を見出した、という実感からはじまっているのである。
ノアは人生のあるときに、神のまなざしのなかに、恵みを見出したのである。それは、新約聖書にある、徴税人のザアカイが、イエスのまなざしのなかに、神の愛を見出したのと同様である。それゆえに、ザアカイはイエスへとさらに強く引きつけられ、財産をも惜しまないという気持になったのであった。
まず、信じることがあったのでなく、まず神が目を留めて下さった、神が愛を注いで下さったということに目覚めること、それが信仰の出発点なのである。
新約聖書においても次のように言われているのは、このようなことを指している。
…あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(エペソ書二・8)
愛ということにしても、私たちがまず神を愛したのでなく、まず神が私たちを愛して下さったということに気付くことが最初にある。
…わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。(Ⅰヨハネ四・19)
旧約聖書において、「信仰」という言葉そのものは驚くほど少ない。口語訳や新改訳ではわずかに二回である。それは次のような箇所である。
・門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れよ。(イザヤ書二六・2)
・見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。(ハバクク書二・4)
ここにあげた、「義人は信仰によって生きる」というよく引用される言葉も、「信仰」と訳された原語は、エムーナー(*)であり、アーメーンという祈りの言葉や、エメス(真実)という言葉と語源的には共通した言葉である。
(*)このエムーナーは、信仰と訳されることはこの一度だけであって、むしろ例外なのである。この語は、口語訳では、真実(14回)、忠実(5回)、まこと(10回)、忠信(1回)という訳語で分るように、本来の意味は、真実、忠実といった内容をもっている語なのである。(英語では、faithfulness、firmness、steadfastness、fidelityなどと訳される)
なお、新共同訳では、この他に次のような詩編の数カ所があるが、それは他の訳では、「真実」と訳されている。
…主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(詩編十二・2)
それゆえ、義人は信仰によって生きる、という表現は、「正しい人は、神に対する真実によって生きる」というのが本来の意味だということになる。
このように見てくると、今日私たちが信仰という言葉で連想する、特定の宗教団体にはいっているとか、何らかの信仰箇条を信じているということとは大きく異なっているのが分る。
十字架でキリストが私たちの罪をあがなって下さったと信じている、と言えば(毎日の生活で神やキリストのことを思いだすこともしなくとも)それだけでキリスト者であり、キリスト教信仰をもっているということになる。あるいは、聖書には記されていないことであるが、幼児のときに水の洗礼を受けたらそれだけでクリスチャンだという人たちもいる。
このように、信仰をもっているというのは、ごく表面的なことでも使われる。アメリカ人は80%ほどがキリスト教徒である、というとき、それはどこかの教会に所属しているとか、幼児洗礼を受けて今は教会に行っていない人、あるいは神はいるかいないか、キリストは救い主かどうかと問われるなら、いるとか、救い主だと答える人たちも含めていると考えられる。
このように、信仰をもっているとかキリスト者であるといったことは、その内容がとても不確定で、表面的なものも含んでいる。
しかし、神やキリストへの真実をもって生きている、ということになると、はるかに少なくなるであろう。
そして聖書はまさに、その神への真実を最初から問題にしているのである。
信仰の父と言われるアブラハムにおいて、彼の人生のあるときに、神から「あなたの郷里、親族、仕事などを捨てて、私が示す地へ行け」との言葉を聞き取ったということ、そしてその言葉に従って未知の土地に向かって出発したということ、そこに彼の真実があった。彼に語りかけた神の存在を信じるかどうか、でなく、従っていくかどうかが問われたのである。そしてアブラハムは従った。
その長い旅路、道のりでは千五百キロほどもあると考えられるがそのような長い砂漠地帯を越えて行く途中の生活で彼は何を思っただろうか。未知の土地へと向かっていくこと、もしかしたら何もないかも知れない、本当に自分に語りかけたのはすべてを支配されている神であったのだろうか、約束の地に着いてもすでにそこでは別の民族が住んでいるのだから、どのようにして生活していくのか、また途中で盗賊などに襲われたり、食べ物や水がなくなったりしたらどうなるのか、前から住んでいた郷里の生活を続けていたらよかったのでないか…等々いくらでも不安や疑念は浮かんできたであろう。
アブラハムの信仰とは、そうしたすべてを振り切ってただ神の言葉に、神の約束に従っていこうという日々の決断であり、神の言葉をあくまで真実だと信じる姿勢であった。
ギリシャ哲人の信仰
しかし、キリスト教でなくとも、目に見えない真実な存在を見つめて生きた人はいる。日本でも法然や親鸞、日蓮や道元といった人たちがいかに生きたかを調べると、みずからの利得とか栄誉などを全く考えないで、見えざる真理に忠実に生きたすがたがつたわってくる。
また、さらに古く、世界的に大きな影響を与えてきた古代のソクラテスやプラトン、アリストテレスたちも真理に生きたことが多くの著作によって知ることができる。
ギリシャ哲学の代表的人物の一人であり、万学の祖と言われるアリストテレスも、その中心にそのような目に見えない価値あるものの存在を信じ、さらにそれを実感していた。
次に引用するように、目には見えない真実や正義、美といったものを霊的に見ることこそ最高の幸いであるという認識を持っていた。
… 至福な活動たることにおいて何よりもまさる神のはたらきは、「観ること」(*)にかかわるものでなくてはならない。それゆえ、人間のさまざまの活動のうちでも、やはり最もこれに近いものが、最も幸いな活動だということになる。
(「ニコマコス倫理学」アリストテレス著 第十巻第七~八章)
(*)「観ること」という原語は、テオーリア theoria 。これは、テオーレオー (見る、観る)という動詞の名詞形。霊的に観ることであるので、単に「見る」ことと区別するため、観照とか瞑想、観想などと訳され、英語では、 contemplation と訳される。アリストテレスは、ソクラテスやプラトンと同様、この世には真理そのものといったものが存在し、それを霊的に見る、人間に与えられた天的なもの―理性を働かせて観ることこそ、究極的な幸いであると知っていた。
聖書においても、主イエスが、「ああ、幸いだ、心の清い者は! その人たちは神を見る。」と言われている。パウロも、人間が神の国にて復活のからだを与えられるときには、顔と顔を合わせて(究極的な存在を)見る、と書いている。
このように、何を信じるのか、ということについてはそこから単にあるかないかをどちらかにして信じておく、といったことにとどまらず、そうした目には見えない実体を見つめ、そこから現実に魂の最も深いところを満たすものを実感していたのである。
このように、正しい、真実なもの、永遠的なものを信じることから、その先へと道は続いていることは、聖書の世界以外でも、一部の特別に真理に引き寄せられたギリシャの哲人たちは知っていた。
ソクラテスは、正義にかなった主張をしたゆえに裁判にかけられ、死刑という厳しいさばきを受けることになった。しかし、逃げることもできたので、そのように親しい人たちからすすめられたが、それを断った。その理由が、哲学的判断でなく、つぎのようなことであった。
… 私にはいつも起きる神のお告げというものは、これまでの全生涯を通して、いつもたいへん数多くあらわれて、ごくささいなことについても、私の行おうとしていることが当を得ていない場合には、反対したものなのです。
ところが、今度、私の身に起こったこと(死刑という判決)は、これこそ災悪の最大なるものと、人が考えるかも知れないことであり、一般にはそう認められていることなのです。その私に対して、朝、家を出てくるときにも、神の例の合図は反対しなかった。また、この法廷にやってきて、この発言台に立とうとしたときにも、反対しなかったし、弁論の途中でも反対しなかった。しかし、他の場合には話しをしていると、それこそ、方々で私の話を途中で差し止めたものなのです。
このことは、私がこれからしようとしていたことが、何か私のために善いものでなかったなら、どんなにしても起こり得ないことだったのです。
(「ソクラテスの弁明」プラトン著40・A~C)
このように、ソクラテスが無実の罪で訴えられて、死刑の判決が出されてそれを甘んじて受けたのは、哲学的判断でなく、人間を超えたところから聞こえてくる神の声に聞き従ったからであった。
何かまちがったことを言ったりしようとしたときには、必ず内部に不思議なある声があって差し止めたというのである。それが死刑の判決を受けようとした決断に関しては何にも差し止めることをしなかった、それゆえにこの判断は正しかったのだと確信し、死んでいった。
ここには、いのちをかけて目には見えない存在、そこからの声に従おうとする真実がある。それは単にいるかどうか分からない神なるものを信じているというのとは大きくことなっている。
真理のためには、殺されることになっても従うという、ソクラテスの真実な生き方が、弟子のプラトンに大きな影響を及ぼし、膨大な著作を生み出すことにつながり、それがさらにすでに引用したアリストテレスという哲学者をも生み出すことになった。
しかし、こうした真実の生き方と不可分に結びついていた哲学的思索を重ねるということは知的レベルの高い人たちにしか理解できないという大きな限界を持っていた。ソクラテスは、何が真理で、正義とはどういうことなのか、といったことを自分や他人と議論し、吟味し、問答していくことに最大の重きをおいていたから、殺されて死後の世界においても、過去の有名な人たちとそのようなことを議論し、吟味し、理性的に考察することを最大の楽しみとしているとまで言っている。
こうした哲学的議論ができない人たち、またそんな余裕がない人たちはそのような知的議論の世界からは見放されてしまう。これが、ソクラテスやプラトンなどの哲学が世界の思想に大きな影響を与えてきたといえども、現実的には知識人のそのまたごく一部の人にしか愛され、学ばれていない理由ともなっている。
病気や困難な問題で苦しみうめいている人、死の間近な人、食べ物も十分にないような人たちにとって、そのような思索とかはまったく無理なことである。
真理の持つ本質は、普遍性と永遠性であるが、このように、一部の才能ある人たちや時間のある人たちにしか理解できない、ということ自体、普遍性に欠けることなのである。
そのような観点から見るとき、キリストの福音はいかなる人にも及ぶという特質がある。実際、キリストの福音は、現在全世界に及んでいる。訳された言語の数は、二四〇〇にも及ぶ。そして、知的に恵まれていない人であろうと、学者であろうと、また重い罪を犯して死刑にされる直前の人であっても、また文字すら読めないような無学な人であろうと、苦しみのあまり、考えることも読むこともできない重い病人であっても、キリストの福音は受けいれてきた。
そして旧約時代から数千年という長いあいだ、全くその内容を変える必要がなかったのはその永遠性を示すものとなっている。
イエスを神の子だと信じる
新約聖書においては、神を信じることは前提となっている。神を信じるか、信じないかということでなく、イエスを神の子と信じるか否かが問われている。
そのことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書や、最後に書かれたヨハネ福音書においても共通している。それは次の箇所を見ると明らかである。
ヨハネの手紙においても、次のように記されている。
・だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。Ⅰヨハネ 5:5
・イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。(Ⅰヨハネ四・15)
ヨハネ福音書においては、最後の結論のところで、つぎのように記されている。
「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じて命を得るためである。」 (ヨハネ二〇31)
このように、ここでは、復活とか十字架のあがないとかいう表現を取らず、イエスが神の子メシアであると信じることが究極的目的だと言われている。
イエスに対しては、神ご自身が、これは私の愛する子、と宣言された。ほかのどんな人に対しても神ご自身が、このように言われたことはない。(マルコ福音書一・11)
ヘブル書によれば、神の子(御子)とは、単なる人間とか、偉大な人間などとは本質的に異なる存在である。御子とは、世界を創造し、神の栄光を反映し、神の本質の完全な現れであるとされ、さらに、現在も万物を支えておられると記されている。(ヘブル書一・2~3)
これはすなわち、神の子とは、神と等しい存在であるということになる。
ヨハネ福音書においても、ユダヤ人がイエスを非難して言ったのは、「神の子と自称して、自分を神としている」ということであった。この箇所によっても、神の子と言えば、それは自分を神とするということに同じであったのがうかがえる。
また、キリストの使徒のうちで、最大のはたらきをしたといえるパウロの書簡にも次のように記されている。
…しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ二・16)
次のようにも記されている。
…口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者のなかから、復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。
主の名を呼び求めるものはだれでも救われる。(ローマの信徒への手紙十・9、13)
イエスを主であると信じて告白するとは、イエスを神の子として、すなわち神と同質のお方であると信じることを意味している。「主」という原語 キューリオス
kyrios は、旧約聖書のギリシャ語訳では、神(ヤハウエ)の訳語として用いられ、当時のキリスト者たちによって用いられていた聖書(旧約聖書)では、この言葉は、神を表す言葉として受け取られていたのである。それゆえ、ここでも、この世の力、闇の力、滅びの力に打ち勝つ者は、イエスを神の子と信じる者だと言われている。
復活を信じる者とか十字架のあがないを信じる者は救われるという表現ではない。
なぜか。これは、復活や十字架の死によって人類をあがなうということも、イエスが神の子であったからこそできたことなのである。イエスが神の子でない、すなわち普通の人間ならば、自分自身の罪さえぬぐい去ることは決してできないのであり、死によってのみこまれてしまうのであるから、復活したり、万人の罪を赦し、あがなうなどというようなことは全く有り得ないことである。
それゆえ、イエスを神の子である、神と等しい存在であると信じるということは、その死によって万人の罪をあがなったということも、復活という最も重要な真理のすべてを含んでいることなのである。
このように、パウロの書簡やヨハネ福音書、ヘブル書など、多くの新約聖書に含まれる書は、イエスを信じることが救いだということがはっきりと記されている。
とくに新約聖書の中心となっているのは、キリストの十字架における死は、人間の罪を身代わりに担って死なれたのだということである。そのことを使徒パウロもとくに強調している。
…すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ローマの信徒への手紙三・22~25より)
これはキリスト教信仰の中心にあることであるが、日本語訳の表現がわかりにくく、そのために初めて読む人には何となく意味がつたわらないことが多い。「あがない」、「義とされる」、「血によって…供え物」などといった表現は、通常の私たちの会話や本や新聞などの身近なものにはまず出てこない。
義とされるなどという表現を日常会話のなかで、一般の人たちが使うことはまず有り得ないことである。
しかし、これはキリストが十字架で血を流して死なれたのは私たちの罪を赦し、あたかも罪をおかさなかったかのように扱って下さるためであったということなのである。罪とは魂の最も深いところの闇の部分であるからそれが除かれ、犯した罪も赦されるのだということは、人間の最も深いところに与えられる幸いを告げているのである。
私がそれまで全く関心のなかったキリスト教信仰を与えられたのは、この箇所の矢内原忠雄の本によるごく短い説明を読んだことによってである。それはわずか数行の説明で足りた。十字架の上からキリストが、「お前の罪は赦されたのだ」と語りかけて下さっているのだ、それを信じるだけでよい。この簡単なことを私は古書店で立ち読みしていたとき、不思議な力が働いて、すぐに信じることができた。それが一生の転換となった。
もし、聖書を与えられて、この箇所を一人で読んだとしてもわかりにくい言葉の連続で何も心に残らず、そのまま読み過ごしていたであろう。適切な聖書の説明が私の一生を変えることにつながったのである。
そのことが、この「いのちの水」誌とかその他の印刷物を作り続けるという最大の動機となって今日に至っている。私の魂の世界を一新させるためには、修業とか愛、善行、教会、水の洗礼を受けるとかそうしたことの一切は必要でなかった。ただ、このローマの信徒に宛てたパウロの手紙の数節を説明した短い文で、キリストが私の罪の赦しのため、人類の罪のあがないのために死んで下さったという単純なことをそのまま信じることによって、私の精神的な革命がなされたのであった。
福音書には、キリストをごく単純に率直に信じて救われた人たちのことがたくさん記されているが、私自身も何も予備知識もキリスト者との交際やすすめなど一切なく、全くの白紙の状態から、キリストの十字架の死による罪の赦しということを単純に信じて受けいれたことから救いを与えられたのである。
それゆえに私は確言できる。単純な信仰によって救いは与えられると。
明確な信仰が記されていない人の救い
しかし、福音書の主イエスの言葉には、そのような明確な信仰を持っていると書かれていない人の救いも記されている。
極度の貧困にあって、金持ちの捨てたような残り物を拾って生きていたようなラザロという人は信仰があったとは記されていないが、死後すぐに神が引き上げたとある。
…「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。(ルカ十六・19~22)
このたとえ話しでは、ラザロの信仰については何も記されていないが、彼の極度の貧困と見捨てられた状況だけが分る。そのような状況にあっては、外見も見すぼらしく服も汚れてだれもが顔をそむけるような状態であっただろうし、だれからも重んじられず、無視され、捨てられた状態になっていたと推察される。
しかし、このようなひどい状況にある人を、主イエスは取り上げ、その悲惨な生活を終えたときには、天使が信仰の父とされる大いなる人物アブラハムのところに連れて行ったという。
このたとえは、その人の信仰がどうあろうとも、この地上で著しい苦しみに直面させられている人をも神はそのまま救われるということを暗示していると言えよう。
また、本人の信仰の実体がはっきりとは言われていないが、救いを受けるという約束については、次のような主イエスの言葉もある。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
はっきり言っておく。
わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ福音書十・40~42より)
キリストの弟子である人に、水一杯をも与えようとする心があれば、必ずそのよき報い、祝福があると確言された。それはキリストを神の子と信じるとか、復活とか十字架によるあがないなどへの信仰がなければ救われないとは言われていないのである。
これはキリストの弟子だからということで、敬意を持っているということは弟子たちが信じるキリストへの敬意があるからであり、ただそれだけでよき報いが与えられると約束されている。よき報いとは救いが暗示されていると受け取ることができる。
以上のように、聖書全体を見るとき、アブラハムのように、また預言者たちが繰り返し神の言葉として命がけで述べたように、神の言われた約束を信じる、神の言葉に聞く、神の導きにゆだねるということで祝福と救いが保証されている。
そして新約聖書には、むずかしい教理などなにも分からなくとも、ただイエスが愛と真実をもった神の子であり、神と同じような力を持っているお方だと信じるだけで救われることを実例で示されたことが福音書にはいろいろと記されている。
そしてさらに本人でなく、友人の信仰によっても本人が罪赦され、救われるということも書かれているし、死の直前に、イエスこそは死を越えて神の国に帰っていかれるお方だと信じて、私を思いだして下さい、と願っただけで救いを保証された重い罪人もある。さらには、最後に触れたように、とくに本人の信仰の有無すらも書かれてなくて、極度の貧困、困窮にあった人が救われるということも記されている。このように、信仰によって救われるということについてもその内容は、広く深いものを含んでいるのである。
私自身の経験
私は神を信じるとかほかの宗教のことも関心がなかった。たださまざまのことで苦しみにあり、生きていくことができないと思うほどに苦しんでいた。そのときに、まず、山という自然の世界が人間を超えた世界を示していることをはっきり知らされ、ついでギリシャ哲学を示され、さらに、キリスト教へと導かれた。それは自分が選んだのではない。関心を持っていたのでもない。
私を超えたところから、一方的に与えられたのである。
はじめは、一方的な神の恵みからはじまり、それをしっかりとつかみ、その後さまざまの分かれ道に立つときに、神を信じてしばしばより困難な道を選び取った。そこに新たな祝福があり、愛と導きの神が実際に存在することを決断と行動によって示されてきた。
まず、大学四年のときにキリスト教を知って、私が所属していた理学部の同級生たちの進む方向から転換し、キリスト教の真理を伝えることを目的に高校の理科教員となった。そして赴任後すぐに勤務高校で放課後に希望者に対して聖書を学ぶ会を始めた。それは次の高校に転勤後も続けていくことができた。そしてそのときにかかわった人たちは現在でも幾人かの人たちが信仰を持ち続け、さらにその人の家族などに及んでいる人もいる。
高校教員をしているとき、その高校始まって以来の大変な暴力で混乱の極みにある夜間高校に勤務したことがあった。同和問題のゆえに、同僚教員、校長、教育委員会すらそのひどい状況を知っていてなお放置しているままであり、生徒同士の暴力、教員への暴力や器物破損などが日常的に行われているというひどい状況であった。
そのときに、それをそのままに従来のようにその荒廃した状況をそのまま黙って受けていくか、それともそのあらゆる点で学校の限度を超えた状況を改革すべく立ち上がるか、そのいずれを選びとるかが大きな問題となった。
実際に生まれて始めてひどい暴力を受けることも何度かあり、そのなかで、決断していったことが、思いもよらない助けが現れたりして、解決へと向かっていった。
そして差別を受けてきた同和地区の人たちも、罪深いことは、人間はみな同じであるが、神の力が働くことでどんな人も変えられていくのだということを実際に体験させていただいた得難い機会として与えられたことであった。
このようなことも、神を信じて決断して始めて、神はすべてをあげて信じることによって働いて下さるということを、他人の言うことを聞いたり、考えたり本を読んで思い込むということでなく、現実のきびしい状況のなかで、体験させていただいたことであった。
また、十五年前に、キリスト教の伝道のための集会を日曜日を含めて週に四回ほどにもなり、教員との両立が次第に困難となって、数年の祈りと熟慮のあとに教員を退職して、み言葉のために専念することになった。
このときも、安定した収入がゼロとなってどうなるか、まったく不明であったが、集会の支え、またいろいろな方々によって支えられて続けていくことができた。
こうしたことも、神を信じて決断し、より困難な道を選びとって始めて分ることである。
このように、信仰の生活ということにおいては、一方的に与えられるということからはじまり、そこから現実の生活においていかに選びとっていくか、という二つの面がある。
二つの道が前にあるとき、神の示される道を選びとっていくとき、そこに祝福があるということはすでに数千年前から旧約聖書にもはっきりと記されている。それは主イエスも「狭き門から入れ。滅びに至る道は広く、救いに至る門は狭く、その道は細い。」(マタイ福音書七・13~14より)と言われているとおりである。
その道を歩んでいく過程で、さらに聖霊を与えられ、それによっていっそう信仰とは何か、神の国とは何かといったことが示されていく。
…しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ十六・13)
十字架上のイエス
キリスト教は十字架がそのシンボルとなっている。しかしその十字架とは生きたまま大きな釘で両手足を打ちつけられ、想像を絶する苦しみ、痛みのなかで、熱い太陽にも責められ、見守る群衆に取り巻かれ、刑罰としてはたとえようのない恥辱と苦しみにさいなまれつつ長時間をかけて死んでいくという恐ろしい場面が結びついている。
そのような目をそむけたくなるようなものが、なぜキリスト教のシンボルとして世界中でみられるようになったのか、それも大なる不思議であり、驚異なのである。
…既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた
太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。(ルカ福音書二三・44~48)
イエスが十字架の上で、苦しみに満ちた最期の時を迎えるとき、さまざまの出来事が生じた。それらは、神の子イエスを殺すという悪の支配がきわだったときであったが、神のはたらきは、さらにそれを越えて大いなるものであったことを示すものとなっている。
太陽は光を失い
イエスの処刑された時刻は、真昼であった。太陽は最も明るく輝くそのとき、イエスは苦しみうめきつつ息を引き取った。
そのとき、全地は暗くなり、太陽は光を失ったと記されている。
イエスを殺すということは、深い闇の力の支配が表面に現れたことをも意味する。今は闇の支配する時だと主イエスもいわれた。
…わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。
だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。(ルカ二二・53)
そのような闇が支配するように見えるときがある。しかし、それは決して永続的でなく必ず終わる時が来る。
また、闇とは神の裁きをも暗示する。それは、終わりの時に関しての記述として旧約聖書の預言書にもみられる。
…主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、…(アモス書八・9)
それだけではない。これは、イエスの死ということが、宇宙的な大事件であることを示すものである。イエスの死を痛み、悲しむように太陽も反応したのである。
また、イエスを殺そうとする力に対して、神は見えるものでは最も神を象徴するような最大のものである太陽をすら動かして、神がイエスの背後におられるのだということを示したのである。
さらに、ここではイエスを殺すといった最大の悪事をなすときには、深い闇が押し寄せてくるということをも暗示する。
これらすべては、イエスの十字架での死が神の大きな御手の中で生じているということを示すものである。
神殿の幕が真ん中から裂ける
次に、生じたことは、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたということである。このことは、大祭司が年に一度だけ垂れ幕の内側に入って人々の罪の清めの儀式をするということが背景にある。(レビ記十六・11~34)
この重要な垂れ幕が真ん中から裂けたということは、罪の赦しが旧約聖書のような動物の犠牲や大祭司による儀式でなく、イエスがそのあがないを完全に成就されたことを示す。儀式的なことが真ん中から壊されて、廃棄されたということなのである。イエスご自身が大祭司であり、完全なあがないを成し遂げられたのである。
…キリストは、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って、永遠のあがないを成し遂げられた。(ヘブル書九・12)
これは極めて重要なことであった。このことが、後にパウロによって明確に福音としてローマの信徒への手紙、ガラテヤ書などに書かれて宣べ伝えられていった。
福音の根本はこのときすでに成就されていたのである。
神殿の幕屋の垂れ幕が真ん中から裂けた、という現代のほとんどの人たちにとっては何の意味も持たない、古い宗教的なことだとしか思われない表現であるが、キリスト教の中心的真理がここにある。
キリストは生きているときのさまざまの奇跡や愛の言動だけでなく、死のときも万人のあがないという絶大なはたらきをされたということなのである。
私が最初に聖書を手にとったのは、このイエスの死の場面であった。小学校低学年のとき、押入れにあった一冊の小さな新約聖書を何気なく手にとった。それは母が結核で療養していたときにラジオのキリスト教放送で無料の聖書を、同部屋の人でキリスト者がいたので送ってもらって持っていたもののようである。
そこには、ここに記したように全地が暗くなり、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けるなどということがあって驚き、不可解なものを見たということだけが心に残り、そのままそっと元に返したのであった。しかし、その後聖書のことなどは全く心にとどまることなく、母も召されるまで聖書とかキリスト教のことは一切語ったことがなかったために、私はキリスト教とか聖書にはその後もずっと何の関心もないままであった。
そして大学四年の五月の終わりころ、京都の古書店で小さな一冊の本を何気なく手にとって、ぱらぱらと開いて部分的に読んだ。そしてそのなかのある数行によって一瞬のひらめきのようなものが魂に入ったのを感じた。そして私はキリスト教の真理に目覚めたのであった。それがキリストの十字架の死が私たちの罪の赦しのためであると、矢内原忠雄が短くわかりやすい説明を加えている頁なのであった。
このように、私が最初に出会った聖書の箇所も、それから十数年を経てキリスト者に突然に変えられたときも、やはり十字架でのキリストの死のことについての箇所であった。
神は私の意識や歩みを越えて、私の背後を見つめ、十字架のキリストへ、キリストの福音へとずっと導いて下さっていたということをはっきりと感じたのである。
御手にゆだねる
…イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ二三・46)
御手にゆだねる、これは旧約聖書の詩編三一・6にある言葉がそのまま用いられている。別のマタイとマルコの福音書においては、「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」(エリ、エリ、ラマ、サバクタニ)という言葉が、やはりそのまま詩編二二篇の冒頭の叫びと同じであった。
このように、詩編で言われていたことが預言であったのが分る。イエスのこれらの言葉は、闇の勢力が支配するように見えるときにも、神の御計画が成就していくのを示している。
いかなるときでも、神はその御計画の進行を止めることはないのである。
この叫びは、最初の殉教者、ステパノの叫びと共通している。死とは神に私たちの目に見えない本質をゆだねることなのである。
…こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」。(使徒言行録七・50)
イエスの十字架の死は、さらに大きな出来事を生み出すことをローマの一人の将軍の心の転換によって示している。それは後に、ローマ帝国の広大な領域で、イエスを神の子と信じ、神を賛美する人たちが生み出されて世界の歴史に絶大な影響を及ぼすことをはやくも暗示しているのである。
…百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人(神の子)だった」と言って、神を賛美した。(47節)(*)
(*)マタイ、マルコの福音書では、「神の子だった」となっている。
イエスという存在は、死のときであっても、大いなる波のように次々と周囲の人々へ永続的な力を及ぼしていく、天体すらそれに呼応するような驚くべき存在であったことをこのような記事は示すものである。侮辱され、つばをはきかけられ、鞭打たれ、そのあげくに重い十字架を背負わされてよろめきながら刑場へと歩かされた。そして十字架で釘付けとされて恐ろしい苦しみのなかで息を引き取っていった。このような人間をどうして神の子、神と等しい存在とみなせようか。それにもかかわらず、このローマの将軍は、弟子たちでもなかなかそのようには思えなかったのに、イエスを神の子としてはっきり知らされたのであった。
福音書のなかに、ある時、イエスが私のことを何と思うか、との問いかけに、使徒ペテロが、あなたは神の子ですと答えたとき、イエスはそのように信じられるということは、人間の考えでなく、神の啓示によると言われたことがあった。
とすれば、このローマの将軍も神からの直接の啓示によってこのように信じ得たのである。神の啓示はいかに状況が暗くとも、そうしたことに関係なく与えられるのである。
寝たきりであれ、無学であれ、また死に直面しているような人(十字架上でイエスとともに処刑された罪人も)、いかなる民族であっても、健康、病気、能力の有無に関係なく、神の一方的な啓示があるときには、すぐに信仰は生まれる。
イエスの死は周囲にいた多くの人たちも、見えざる影響を与えた。
「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」
これは、少し前、群衆たちは、イエスよりも犯罪人のバラバを助けることに賛成して、イエスを見殺しにしたのであったが、この イエスの死の光景をまのあたりにして、群衆たちは、深い罪の意識に打たれた。
死のときにも、イエスはこのようにさまざまの反応を起こし、人間の魂を打つのである。
賛美の重要性
ここでローマの将軍は、イエスを神の子とはっきり啓示を受けた。そして「神を賛美した」と記されている。このような悲劇的な事態のただなかにあっても、神への賛美は生まれるのである。いつも喜べ、と使徒パウロは言った。主にしっかりと結びついているときには、このように賛美は状況を問わず生まれる。
神への賛美、これはルカ福音書の著者がとくに強調していることである。ルカの書いた使徒言行録においても、次のようなことが書かれている。
…群衆たちも一緒になってパウロとシラスを責めたてた。高官たちは二人の衣服をはぎ取り、鞭打てと命じた。…看守はふたりを一番奥の牢に入れて、足には木の枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。(使徒言行録十六・25)
このような状況では、ふつうなら意気消沈してしまう。鞭打たれるだけでも身心の痛みはひどく、まっくらの牢に投げ込まれて絶望的状態となっているはずである。しかし、彼らはそうした状況にもかかわらず神をしっかり見つめ、賛美すらしたのであった。そしてそこから奇跡的なことが生じて彼らは解放され、看守がキリスト者となるという驚くべきことにつながっていった。
神への賛美はいかなるときにも生まれるということを示すものである。
そして、同じルカの書いたルカ福音書においては、イエスの誕生のとき、天使たちが賛美し、それがクリスマス賛美の源流となった。そして全世界にクリスマスの無数の賛美が生まれていく源流となった。この点でこの福音書を書いたルカのなしたはたらきは絶大なものがあるといえよう。そしてそれをなさしめたのが、背後におられる神なのである。
さらに、このルカ福音書の最後は神への賛美で終わっている。
…彼らは(復活した)イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ福音書二四・52~53)
神への感謝と賛美こそは、私たちの最終的な到達点だと言えるのであって、それゆえルカはこのように重要な場面で神への賛美がなされたことを注意深く記しているのである。
詩の中から
○限りなき 主の御恵みをさし示す 窓からのぞく 柿の若葉よ(水野源三)
・作者の澄んだ心と目には、ごく普通の柿の若葉さえも、無限の神の恵みを感じ取ることができた。樹木の若葉、それは春ともなれば至る所に見られるもので、そこに深い神の愛を感じるという人はごく少ないであろう。寝たきりの生活を余儀なくされた著者であるが、このようなどこにでも見られるもののなかに、最高のもの、すなわち神の恵みを感じ取ったのであった。
心の目さえ開いているなら、ごく身近なふつうのもののなかにも真理の泉が湧き出ているのを実感することを示す短歌である。
主イエスも「野の花を見よ」といわれ、どこにでもある野生の花のなかに深い真理を読み取っておられたのがうかがわれる。
○まだ暗き 長病む部屋に 聞こえくる ひばりの声に 神の愛知る
・著者は、寝たきりであったために、長く自分の部屋でしか自然に触れることができない。ひばりのさえずりはそうした室内に閉じ込められた同様の者の耳にも新鮮に響いてくる。そしてそこにも神の愛を実感したのであった。
ひばりがいる地方では、ごくふつうの日常的なさえずりであり、せいぜいまた鳴いているな、と思う程度であろうが、水野源三にとっては、かけがえのない神の愛をたたえたものとして受け取ることができたのである。
神の愛は、人からだけでなく、こうした草花や若葉、また身近な小鳥のさえずりからも感得できるものなのである。
○ブライアントの詩から
自然を愛し、
その現れる姿とまじわる人に、
自然はさまざまの言葉を語る。
楽しきときには、
自然は喜びの声でにこやかに
美しい雄弁をふるう. そして暗い思いのときには、
しずかにその心の奥に入り、 おだやかな、そして心をいやす同情で、
いつの間にか
憂いの疼きを拭い去ってくれる。
…
はげしい苦しみや、息づまるような暗闇が、
あなたを恐れさせ、心の病になりそうなとき、
出よ、開かれた大空のもとへ。そして自然が語ることに耳を傾けるのだ。
そのとき周囲のすぺてから
大地からも水の流れや大気の深みからも、
しずかな声が聞えてくる。
To him who in the love of Nature holds
Communion with her visible forms, she speaks
A various language; for his gayer hours
She has a voice of gladness. and a smile
And eloquence of beauty; and she glides
lnto his darker musings, with a mild
And healing sympathy,that steals away
Their sharpness, ere he is aware.
… …
Go forth, under the open sky,,and list
TO Nature's teachings, while from all aroundー
Earth and her waters, and thc depths of air
Comes a still voiceー
(「サナトプシス」より。ブライアント(1794~1878)はアメリカの詩人。「ニューヨーク・イブニング・ポスト」紙の編集者、後に同紙の主筆。ジャーナリストとして、、言論の自由、労働者の権利、奴隷制度の廃止をとなえて精力的に活動した。
ロマン派の詩人ワーズワースのように自然をうたったことから、「アメリカのワーズワース」とよばれた。1870年と71年に出版した、ホメロスの「イーリアス」「オデュッセイア」の英訳詩は、現在でも英語による最高の詩といわれている。
(エンカルタ百科辞典より)
ことば
(309)戦いの止む時
勝つことが必ずしも勝つたということではない。負けること必ずしも負けたのではない。
愛すること、これこそ勝つことであり、憎むこと、これこそ負けることなのである。
愛をもって勝つことだけが、永久の勝利なのだ。愛は妬まず、誇らず、たかぶらず、どこまでも忍ぶ。そして永久の勝利をおさめて、永久の平和を来らせる。この世に戦いが止むときとは、愛によって勝利を得たときだけである。
(「聖書之研究」内村鑑三著 一九〇四年五月・原文は次と同様に文語。)
・この文が書かれたのは、日露戦争が開始されて数カ月のころである。国中がロシアに敵対する雰囲気で満ちているなかで、内村はそうした憎しみとか敵対する心はすでに敗北なのだと言ったのである。当時の日本中にわき起こっている風潮に抗して一人、主にある確信を述べている。
ここで言われている愛とは、神の愛である。神は愛であり、神は万能である。それゆえに、そのような愛だけがすべてに勝つ。復活も神の愛ゆえに、信じる者に与えられている。死んだようになった者、病気に苦しむもの、迫害されたもの、踏みつけられてきたもの、そして死んでしまった者等々、すべてを新たないのちによみがえらせて下さるのである。
(310)静けさのあるところ
静けさは天然の内にある。神の造られた天然にある。
また、静けさは聖書にある。神の伝えた聖書にある。
一輪のオダマキが露に浸されてその首を垂れているのを見るとき、また、一節の聖書の言葉がわが心の中の苦しみをなだめてくれる。
この世の悪が四方にその力を振るうとき、私は草花に慰めを求め、旧き聖書にこの世が提供することのできない魂の平安を求めるのである。(内村鑑三 同右)
・私たちの魂はこの世のことばかりに接していると、海の波のように動揺ばかりして深い安らぎを得ることができない。そのために、神は周囲の植物の静けさを提供してくださっている。ペットなどの動物は可愛らしく、心の慰めになることも多いが、心の深い静けさを与えてくれるとは言い難い。動物は、たえず食べ物を提供し、いろいろな面倒な世話を要する。自分が病気がちであればそういう世話で気疲れすることにもなりかねない。
しかし、戸外の小さな野草、樹木、あるいは花壇の花であってもその姿は何も私たちに要求しない。沈黙してその純粋な姿を保っている。植物のよきところのひとつは、そうした静けさをたたえ、見つめるものにも分かち与えてくれるところである。私はかつて重い問題をかかえて疲れと心労にあったとき、一本の大きな松の木にもたれ、その木に手を置いていただけで、深い平安を与えられたことがあった。
また、徳島県の山深くにあるブナの大木の林で、長い時間をそのそばでたたずんでそこから不思議な平安と力を受けたこともある。
(311) 私にとってイエスは、私を生かす生命、私を通してかかやく光、御父への道、
私が人々に示したい愛、人々と分かち合いたい喜び、私の周囲に蒔きたい平和。
イエスは、私のすべてです。
(マザー・テレサ)
To me,Jesus is the Life l want to live, the Light I want to reflect,the Way to the Father,
the Love l want to express, the Joy l want to share, the Peace l want to
sow around me.
Jesus is everything to me.
編集だより
○今月号は、五月五日~六日に名古屋市で開催された、キリスト教・無教会青年全国集会で、テーマの「信仰とは何か」ということでお話ししたのでそのことについて書きました。
今回の準備を通じて、あらためて旧約聖書、新約聖書双方での信仰とは何かということを考えなおし、さらに他の宗教の信仰とは何かということをも考える機会となりました。
今月号に掲載したのは、信仰についての短い記述にすぎないものです。私たち一人一人が、聖霊を受けて信仰の本質に迫り、導かれたいと願います。
○来信より
・「いのちの水」四月号の十一頁の一段目にある問いかけ、「しかし、弱き者、苦しむ者、また社会的には小さき者たちへの愛は増え広がっているだろうか。」に強いインパクトを感じました。
つい最近のNHK・BS「未来への提言」で、USAの著名な経済学者が、「世界の人口は66億人、その中の14億人が極度の貧困で飢え死にの危険にさらされている。国連の定義における極度の貧困とは一日の生活費が25円以下の家族を言う。日本がGNPの僅か0.07%の拠出を継続すれば、14億人全員を飢餓から救出できるのに、日本政府はどうして実行しないのだろうか?
ドイツでも日本に同様の不満を持っている。日本は世界貢献をしている、していると繰り返し言うが一体どんな誇るべき貢献をしているのだろうか?
海上給油等一体誰のために何の意味があるのだろうか? 日本は自らの将来のためにも、世界からの信用を得るためにも 今こそ14億人の飢餓救済に立ち上がるべきである。
日本は伝統的に市民運動が弱いが、市民のNPO活動で政府を動かして行くことはできないものでしょうか。」と言っていました。(九州の方)
・エレミヤは神から御言を託されて、宣べ伝えるエレミヤの苦難と悲哀を思わされます。イエス様にあっては、なお深くあって、霊肉との痛みいかばかりだったことでしょうか。神のことを目標に歩むには、生半可ではいけないこと心に定めておりますが、弱く愚かな自分でございます。
徳島の集会の皆さまとともに、礼拝の録音CDによって聖書の学びと聖霊の交わりをさせていただこうと存じます。本当に嬉しく感謝いたしております。
(東北地方の方)
お知らせと報告
○北海道 瀬棚聖書集会のお知らせ
今年の、第36回 瀬棚聖書集会は、七月十六日(木)~十九日(日)の三泊四日と決定したと、責任者の野中 信成さんから連絡がありました。近いうちにプログラムや申込書ができるとのことです。
毎年テーマが瀬棚集会の人々で話し合って決められて、それに基づいて聖書講話や話し合いもなされてきました。今年は、神様の声を聞こうということ、日常の中で神様の声を聞くという希望を生かして、「主よお話ください」がテーマになったとのことです。
主が私たちに語ってくださるみ声をはっきりと聞き取るときには、力も同時に与えられて何かよきものが進んでいくものです。ことしの瀬棚聖書集会がこのテーマが祝福され、参加者のすべてが、主よお話しください、との祈りと願いをもって参加し、その祈りに主が応えて語りかけて下さいますようにと祈って備えたいと思います。
○イースター特別集会
四月十二日(日)はイースター特別集会でした。こどもたちと共に、賛美やミニ劇、いのちのさと作業所の人たちの賛美、それから聖書講話、特別讃美として、全盲の人と健常者とのデュエット、二人の全盲の人によるギター賛美、手話讃美、そしてコーラス、有志八名ほどによる感話、そして参加者との会食、そのときにも感話などを司会者が随時指名して話してもらうといった交流のときなどが内容でした。
今回の特別集会では、徳島聖書キリスト集会のホームページを見て、香川県から家族で参加された方があり、またいつものように、ふだん参加していない人も加わってキリストの復活の意義、十字架の罪の赦しと復活を与えて下さった神への感謝と賛美、そして私たちにもその復活の命を与えられたいと願い祈るときとなって感謝でした。
(参加者は七十四名。)
○第一回 キリスト教・無教会青年全国集会について
五月五日(火)~六日(水)の二日間、名古屋市の金山プラザホテルにて、初めての青年全国集会が「信仰とは何か」ということをテーマとして開催されました。ちょうど一年前の徳島での無教会・キリスト教全国集会の全員の自己紹介のときに、小舘
美彦さんが、青年の全国集会が必要だ、と開催への志を公言されてから、私自身は青年でないから、参加することはないけれども、そのような集まりがなされればと祈り、願ってきたところでした。
しかし、思いがけないことに、聖書講話の担当ということで、五十歳を超えた者としてはただ一人参加することになって、初めての出会いもいろいろ与えられて感謝でした。
全員の自己紹介、石原野恵さんによる証し、信仰とは何か、との講話(吉村孝雄)、小舘 兄による内村鑑三の信仰論。また、信仰に関する聖句(那須 容平兄担当)、多様な賛美として、ゴスペルを数曲歌うとき(佐藤晃子さん担当)、また、二日目には心にひびく静かな祈りと賛美(の時間中川
陽子さん担当)もありました。
グループを四つに分けて、信仰についての自由な話し合いがなされ、初めての人もまだ信仰の十分でない人も気後れすることなく参加できたようです。
参加者は、千葉、東京、神奈川、愛知、奈良、兵庫、大阪、徳島、福岡の九都府県からで、二七名が参加しました。そのなかには、キリスト教の集会や聖書の学びの会などはまったく初めての人、病気があって今までの全国集会なども参加できない状態であった人、また仕事がとても忙しくて聖書を読む時間も少なくなっているという人、あるいは結婚して二カ月もたたないフレッシュな夫妻での参加の方、まだ罪というのはよく分からないと率直に言われた方、教会に参加しているので、無教会の集会には初めてという人、きょうだいでの参加の方…いろいろな方々でした。
とくに、私たちのキリスト集会の戸川茂雄、恭子ご夫妻が三五年以上も昔、信仰も持っていなかったときに、淡路に住んでいたときの友人の娘さんが、いままでキリスト教の集会には一度も参加したこともなく、知っているひとも誰もいないにもかかわらず、今回の青年全国集会に参加されたことも感謝でした。
主が働いて下さって、このような参加もあったのだと感じました。
だれも今まで無教会としては考えたことのなかった、このような集会なので、参加者もどんなものになるのか、予想しがたいなかで何かに押されるようにして、このようにいろいろな地域から参加されたと思いますが、二日間終わってどなたも参加してよかったという気持のようでした。
やはり神の国のために思い切って決断して一歩を踏み出すということは、主が予想しない形で助けて下さり、導いて下さるということを実際に今回も知らされた思いです。
来年もぜひ開催してほしいという希望が多かったと思われます。主が今後とも、この青年全国集会を見守り、導いて下さり、福音がより多くの若者、青年たちに届くための集まりとして前進していきますようにと祈ります。
なお、この青年全国集会の録音は会場録音で聞き取りにくいのもありますし、一部欠けていますが、大体の雰囲気はつかめる程度の録音はしましたので、USBメモリ、またはCDで希望の方には送付できます。いずれもMP3のファイル形式です。CD、またはUSBメモリいずれも、送料ともで五百円です。