見よ、わたしは万物を新しくする。 (黙示録21の5) 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1の29) |
・2014年1月 第635号 内容・もくじ
すべてを新しくする | 闇の中を導くキリスト | 神の憐れみを受けた者 |
二人三人集まる所には | 老年の意義 | すべての恐れから救い出す |
いのちの泉 | お知らせ |
この世は次第に古びていく。人間は年を取るにつれて老化していく。ほかの動物、草木も同様である。
太陽そのものも長い時間で見れば、老化していく。最終的には光を失っていく。
そうした長大な年月を考えると万物は、古びていく。
しかし、それに対して、聖書は万物を新しくするお方があることをはっきりと告げている。
…見よ、私は万物を新しくする。 (黙示録21の5)
このひと言を本当に信じることができるかどうかで、私たちの生活も、人生もまた大きく変る。
それはいかなることがこの世に生じても、それら一切は、神の時が至れば、根本的に変えられる。しかも新しく変えられるというのである。
その前味ともいうべきことが、人間の復活である。
死んだら終りでなく、あるいは骨になって墓にいるのでなく、あるいは一時、よく歌われたように
風や雲、星になったりするのでもなく、まったく新しくされて、神の国にてキリストの栄光のようなものとなって永遠の命を持った存在と変えられる。
私たちの信じる神は、どこかの地方とかだけにいるようなものでなく、宇宙そのものを創造し―それゆえ当然、この世界の科学的法則の創造者でもある―、現在も支えている万能のお方である。
十字架のキリストの死による万民のあがないも、復活も、再臨もみな、このひと言、「私は万物を新しくする」ということに含まれる。
それほどこの一言は大いなる内容を持っているのである。
そしてこのことを信じるためには、学問や研究、あるいは科学技術のさまざまの産物がなくともよい。
そして重い病気であっても、大きな罪を犯したものであっても、みなただ、神とキリストを信じるだけで、この万物を新しくしていただける神の大いなる御手のうちに移され、歩むことが許されるのである。
キリストが生れたことを記念するクリスマスの絵、それは羊や馬などに囲まれた牧歌的な光景と共に思いだされる。しばしば教会の前の庭などにもそのような馬小屋で乳児のイエスを取り巻くヨセフとマリア、羊飼いたち、あるいは贈り物を携えた東方の博士たちの光景が描かれている。
それは、微笑ましい のどかなこの世離れした世界、あるいは子ども向けの世界のようなものとして受け取られることが多いのではないだろうか。
しかし、聖書が記そうとしているイエスの誕生は、決してそのような牧歌的な光景や子ども向けの物語ではない。
イエスは生れた直後に、当時の王であったへロデから命をねらわれる。だが、御使いによってその危険を知らされて、両親は遠いエジプトへと逃げていく。
その直後、へロデ王は、だれがイエスか分からないために、付近の赤子を皆殺しにしたと伝えられている。このように、イエスは最初から、悪の力、闇の力のただなかで誕生したのであった。
それは 現代においても、同様であり、いかに悪の力が覆っていても、そのただ中でキリストは生れる。キリストは来てくださる。
キリストを内に宿す人間を神が造り出されるのである。
それゆえに、このことは希望となる。そして悪がどんなに凶暴であってもそこから不思議な、驚くべき道によって、神は導き出される。
たとえ捕らわれ殺されてもその人の霊は復活して神のみもとに迎えられる。悪の支配のただなかを通って神のみもとへと導かれるのである。
ルカ福音書におけるイエスの誕生は、すでに述べたように羊飼いたちに囲まれ、、のどかで平和なできごとのように見える。
しかし、この場合も、家畜小屋というのは真っ暗、汚れて不潔であり、そのなかにある、飼料入れ(飼い葉桶)など、およそ人間の子どもが誕生するのにふさわしい場ではない。
このことは、、闇に包まれ、汚れたところにも、イエスはその闇の力との戦いに勝利しながら来てくださることを意味している。
さらに、イエスの母マリアに対しては、この世の救い主となるような比類のない子どもを産んだということで、人々から褒めそやされるのでなく、かえって、「剣で胸を刺される」と言われた。(ルカ2の35)
イエスを最も身近に置いた母親は、そのように偉大な息子によって周囲の人たちからの敬意や評判によって心地よい状態に置かれたり、立派な息子を持ったというひそかな自慢の心などが生れたりすることがないようにと、厳しい試練に直面するのだという。
剣で胸を刺される―このなみなみならぬ表現によって、イエスを与えられるということは、比類のない恵みであるが、他方それは、実にけわしい道になるということである。
そしてこのことは、単にマリアだけに起こることでない。
現代の私たちの心の内に、イエスを迎えて住んでいただくことは最高の喜ばしいことであると共に、そのことは周囲からの厳しい試練にさらされることが有りうるということをも意味している。
実際、長い歴史のなかで、イエスを内に迎え入れただけで、捕らえられ、家族も分断され、厳しい迫害に直面した人たちは数知れない。
しかし、それらの人たちも、その闇のなかから、主に導かれて御国へと歩んで行くことができた。
ルカ福音書では、イエスが初めて会堂で聖書をもとに、イザヤ書の記述は、いま成就したと言われ、ついでユダヤ人は預言者を迫害する歴史であったことを述べたとき、人々は怒り、イエスを崖から突き落とそうとしたことが記されている。
このように伝道の最初から、闇の力によって圧迫されることが記されている。
…「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて行かれた。」
この短い記述は、意味深長である。現代の私たちもまさにそのことが生じるからである。
キリストを信じているからといって困難が生じないのでない。また闇の力が迫ってこないのでもない。はっきりしていることは、そうした困難から必ず導かれて逃れて行き、御国へと歩んでいくことができるということである。
そして私たちを苦しめる最終的な死ということも、その死という闇を通って光と命の御国へ導かれていくことを確信できるのである。
私たちは自分のことを言うとき、いつも何を念頭に置くだろうか。社会人なら現在の地位、学生なら大学のこと、退職後なら、かつて何をしていたか…とかが多いだろう。
使徒として重要な働きをしたパウロは、自分のことを言うとき、「キリストの僕」(*)と言った。そしてまたこの箇所のように、「憐れみを受けた者」とも言っている。
(*)僕というのは「奴隷」という意味の原語、ドウールスである。
パウロは、自分が福音を伝えるという最も重要な務めを委ねられたのは、自分が優れているからでも、自分の努力でも、また他人、組織からの命令でもない。
それは神の憐れみを受けたゆえであるという深い実感を持っていた。
それは次のような箇所で知ることができる。
…私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているので…(Uコリント4の1)
…私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者だった。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けた 。…私は罪人の中の最たる者である。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリストがまず私に限りない忍耐を示して下さり、私がキリストを信じて永遠の命を得ようとしている人たちの模範となるためである。 (1テモテ1の13、16)
…未婚の女性について、わたしは主の命令を受けてはいないが、主の憐れみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。 (1コリント7:25)
このように繰り返し、自分は神の憐れみ―罪の赦しを受けた者だと言っている。
その罪の赦しがなかったら、何もできない者、大いなる罪人で裁かれてしまう者でしかなかったというのが実感だったのである。
私たちも絶えず、自分の力とか人間の支えによるのでなく、キリストの憐れみ、罪を赦されて、導かれているということに存在の基礎があるのを覚えて歩みたいと思う。
祈りは、一人でなすことができるのはもちろんのことである。
旧約聖書において、とくに詩篇の相当部分は、一人で神に向って全身の力を込めて祈っている姿が記されている。
…主よ、私の言葉に耳を傾け、聞いてください。
我が王、わが神、
助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
あなたに向って祈ります。
主よ、朝ごとに、私の声を聞いてください。(詩篇第5篇より)
そしてそこから聞き入れられて、主の平安を与えられたことも多く見られる。
…主に向って声をあげれば、
聖なる山から答えて下さる。
主が支えてくださる。
(詩篇第3篇より)
主イエスが、祈るときには、戸を閉めて祈れと言われたからと、こうした詩篇に見られるような、一人でする祈りだけのことを考えている人たちも多いようである。
しかし、このイエスの言葉は、当時人前で見てもらおうとして信仰熱心だと思わせるために偽善的な祈りを大通りなど人がたくさんいる場で見てもらうための祈りをするという現代の私たちには考えられないような人たちがいたから、そのようなまちがいを指摘するために警告として教えられたのであって、単独の祈りだけをとくに教えられたのではない。
イエスは他方では、以下に述べるように、複数による祈りの重要性を強調されたのであった。
そして新約聖書のさまざまの箇所でそのことが見られる。
それは旧約聖書の時代からあった単独の祈りに対して、キリストの時代になって新たな祈りの姿が加えられたと言えるのである。
…また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ福音書18の19〜20)
これは複数の人たちが心を合わせて祈ることの重要性をはっきりと示している。一人だけの祈りのことはすでに弟子たちもよく知っている。ユダヤ人ならだれでも祈りの重要性は熟知していた。すでに述べたように、通りに立って大声で祈るような人すらいたことが記されている。
しかし、何らかの困難に直面したとき、二人三人、あるいはそれ以上の多くの人々が共にそのために祈ったということは、旧約聖書においてはわずかしか記されていない。(*)
他方、そうした祈りでなく、神への感謝、賛美の共同の祈りは、詩篇に多く見られる。ハレルヤ(主を賛美せよ)という言葉である。(**)
(*)その一つは次のような状況でなされた。 キリストより五百数十年前に、バビロンに捕囚となっていた人たちが、エルサレムにかえってくることができた。そして神殿が再建された。その後だいぶ経って、学者エズラがペルシャからエルサレムに帰ることになった。その長距離にわたる旅路のはじめにあたって、エズラは共に帰っていく人々とともに、食事を断って、帰還する人々全体のため、また大切な神殿のための貴重な持ち物の数々のために、真剣に祈ったことが記されている。(エズラ記8の21〜23)
(**)ハレルヤ とは、ヘブル語のハーラル(賛美する)という動詞の二人称複数の命令形ハーレルー に、ヤハウェの省略形である ヤハ から成る。直訳は、「(あなた方)ヤハウェを賛美せよ」となる。すなわち、呼びかける相手が複数の人たちに呼びかけ、命令し、勧めるという意味を持っている。そこから、ヤハウェ(神)を賛美しましょう、という勧誘ともなり、さらに、神はすばらしい! という賛美そのものにも使われるようになった。英語では、Praise the Lord となる。 この言葉は、詩篇、とくに146篇以降に多く現れる。新共同訳では、ハレルヤ と原語の発音をそのまま用いているが、口語訳、新改訳は「主を、ほめたたえよ」と訳している。
詩篇にはとくに、人々への賛美への勧めという形での祈りは、多く見られても、個人的な問題を共に祈るということは見られない。
キリストの時代となって、多くのことが新しくされていったが―例えば、神を「父」と親しく呼んで祈るということは、旧約聖書の時代には見られなかった―二人、三人ともに祈ることの重要性も、キリストによって初めて示されたのである。
それは、キリストを信じる人は、キリストの体であるからだ。からだの一部が痛めば、ほかの部分も痛みを感じる。一部が喜ぶなら、他の部分も喜ぶ。
このことから、誰かが切実な祈りを持っているなら、ほかの人も同じからだの一部としておのずから、切実な祈りを捧げるようにと導かれる。そのように導くのがキリストの霊、聖霊である。
二人、三人あるいはより多くの人たちがともに心を合わせて祈ることは、そのようにキリストの御心に他ならない。
聖霊が最も豊かに注がれたのも、単独の祈りのときでなく、使徒たちや、信じる女性たちの集りで熱心に祈り続けていたときであった。
(使徒言行録1の14、2の1〜4)
使徒パウロはもう死ぬかと思われるほどの苦難に遭った状況の一端をその手紙で記している。
…あなた方について私たちが抱いている希望は揺るがない。なぜなら、あなた方が苦しみを共にしてくれているように、励ましをも共にしていると、私たちは知っているからだ。…
… 私たちはひどく圧迫され、生きる望みさえ失ってしまった。そのため、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。…あなた方も祈りで援助してください。
(Uコリント1の7〜11より)
コリントにあるキリストの集会の人たちは、パウロと苦しみや励まし、慰めを共にしているのがパウロにははっきり分かっていた。このことは、言い換えると、同じキリストにつながるからだとして
痛みを共有していたのを示している。それは、そのあとで、パウロ自身が願っているように、祈りで助け合うことである。
共同の祈りの重要性がここにもはっきりとうかがえる。
このことは、実際に会って、ともに祈り合うことだけでなく、会うことのできない遠くにいる人たちとともに祈ることも含んでいる。祈りは霊的なものであるゆえ、たとえ会ったことのない人たちへの祈り、名も知らないような人たちへの祈りであっても、神はすべての人の名を知っているゆえに、私たちの乏しい祈りをも満たしてくださる。
パウロも、ローマに行ったことがなかったから、ローマという大都市にいた多くのキリスト者たちの大部分は未知の人たちだったと考えられる。しかし、かつて別の地で知り合った信徒たちの一部がローマにいることは知っていた。そうした人々を含めその地の未知の信徒たちのために、「私は祈るときにはいつもあなた方のことを思い起こし…、」と述べている。
そして、できるならば、直接に会って互いに励まし合いたいと書いている。
(ローマの信徒への手紙1の9〜12)
パウロは、ローマのすでに知っている人たちや未知の多くの人たちのことを祈り、また共に励まし合うとはすなわち、祈りをもってすることであるゆえに、共に祈り合うことのできる日を待ち望んでいたのが分る。
そして、聖霊が与えてくださる愛によって次のように願っている。
「どうか、私のために、私とともに神に熱心に祈ってください。」(ローマ15の30)
これは、新約聖書で最も重要な書簡であるローマの信徒への手紙に見られる共同の祈りの姿である。
それとともに、大抵の手紙の冒頭には、次のように記されていることも共同の祈りを示すものである。
・…神のご意志によって使徒となったパウロと兄弟ソステネからコリントにある神の集会へ…(Tコリント1の1)
・…パウロと、兄弟テモテからコリントにある神の集会へ…(Uコリント1の1)
・…パウロと私と一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤの諸集会へ…(ガラテヤ書1の1)
こうした手紙の書き出しは単なる挨拶ではない。パウロは共に福音のために働くテモテなどの同労者たちと日頃から祈っているその共同の祈りをコリントやガラテヤなどのキリストの集会に届くようにとの祈りをもって書きはじめているのである。
それは、共同の祈りによって自分たちも、また相手の集会の人たちもともに強められ合うことを願っていることを示すものである。
私たちもこうした主イエスの教えや使徒たちの教えに従って、一人で祈ることはもちろんであるが、複数の人たちとともに祈ることを続けていきたい。そして実際に顔と顔を合わせて祈り合うことができればそれにこしたことはないが、そうできないことも多いゆえ、遠くにある人たちをもその名を覚えて祈り合うという祈りの世界を深め、広げていくことを願っている。
そしてそれは主のご意志にかなったことであるから、必ず祝福を受けることなのである。
年寄ることは孤独、仕事がなくなること、病気が多くなり、死も近づく…等々、好ましいことは何もなくなっていく。
聖書においては、老年の重要性についてどのようなことが示されているか、ここでは、その一つを取り上げたい。
イエスの誕生のとき、万民の救い主であることを知らされたのは、羊飼いであり、また東方の知者であった。
それとともに、初めて幼児のイエスを神殿に連れて行ったときに、長く信仰の歩みをしていた老人、それと祈りに集中していた84歳にもなる老齢の女預言者が、乳児を見て神からの啓示で、その乳児がメシアだと分った。
メシアに出会うという特別な恵みは、長く待ち続け、祈り続けた老齢の人に与えられた。
神からの啓示は、年齢によらないことが示されている。
この宇宙を愛と正義をもって支配し、真実をもって導かれる神を信じること、そしてその神が送られたキリストを信じることは、聖霊によらねばできない。そのような神を目には見えないにもかかわらず、「天のお父様 」といって祈ることができるのは、聖書に記されているように、聖霊が与えられているからである。
そしてその聖霊をさらに豊かに与えられるためにはどうすればよいのか。それは、絶えず目を覚まして、主を仰ぎ、祈りの生活を続けることである。
このルカ2章に現れる二人の老人は、そのような人であった。
当時には旧約聖書を研究する律法学者や祭司たちも多くいた。しかし、そうした学者や地位ある人たちには、イエスの誕生は知らされず、イエスがメシアとして生れたことも分からなかった。
そのなかで、老齢の祈りに深く、真実に歩んできた老齢の人にイエスこそはメシアであると啓示された。
ここに、老齢の意味がある。旧約聖書の続編にも、本当の長寿とは、霊的なものであり、「老年の誉れは長寿にあるのではなく、年数によって測られるものでもない。
人の思慮深さ、汚れのない生涯こそ、本当の意味の長寿である」と記されている。
(知恵の書4の8〜9)
ヨハネによる福音書を書いたと伝えられてきた使徒ヨハネは、福音書を書くころには高齢となっていて、絶えず繰り返して教えていたのは、「互いに愛し合いなさい」という言葉であったという。それはたしかに、ヨハネによる福音書でも繰り返されている。
このように、老年の重要な意義は、キリストの言葉を繰り返し伝えること、自らその証しをすることである。
福音そのものは、使徒たちによって、聖霊が注がれた後に自然と力があふれ、宣教するようになったのである。そしてその宣教の中心であったのは、キリストが復活されたという証しであり、イエスの十字架の死は万人を救うためであったということである。これも証しである。
このように、最も重要なこととして伝えられたことは、老年になってもそれを語り、証しすることに妨げはない。
老齢となった者にも、重要な仕事がある。それは、祈りであり、祈りによって神の力を受けつつ、キリストの証しを続けていくことである。
どのようなときも、わたしは主をたたえ
わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
わたしの魂は主を賛美する。
貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
わたしと共に主をたたえよ。
ひとつになって御名をあがめよう。(詩篇34の2〜4)
人生の目標
日々、神を賛美することができるようになるという、私たちのこの世での最終的目標、それこそは万人にとって重要なことである。
それゆえに、詩篇150篇全体の最後の部分(146篇〜150篇)にその結論というべき内容をもった詩が集められている。
そしてそれがこの詩の冒頭にも記されている。
「どのようなときも、わたしは主をたたえる。」
神がいかにこの世を愛と真実をもって支配し、導かれているか、いかに無数のことが神のわざであるか、いかに暗いことが生じようとも、最終的には必ず神は勝利してくださる…そうした神の業を知って、それを証しし、たたえることは、神からの直接の啓示を受けていなければできない。 神をたたえることができるのは主が素晴らしいということを知っているからで、知っているということは、それをいつも周囲にも証していることにつながる。
賛美は一つの証しでもある。「どのようなときも」とあるが原語では「全ての時」で英語で all times である。(*) パウロが「いつも神を喜べ」と言われたが、ここにもすべてのということが使われている。
(*)英訳では I will praise the LORD at all
times. あるいは .
I will extol
the LORD at all times
この世においては、自分が何をしたか、ということを表すのが目標になっている。しかしこれは本当のありかたではない。
そうではなく、神が何をされたのか―自分や他の人や歴史の中で、神が何をなさったのか、自分に対してどんなことをしてくださったのかを表すことが人間の最終目標であり、これは本来誰でもできることである。
この世で人から注目されるようなことをなすのは、能力などがないとできないが、神が自分に何をしてくださったかということを証することは何も特別な能力がなくとも、だれにでもできる。
自分の人生の中で、神に励まされた、救われた、力づけられたことを証しすること、あるいは他の人に働いた神のわざ、神に力づけられた人のことを証しすることも多くの人にできることである。
また自然界のさまざまなことは神の業だと知って、神を賛美することは誰でも可能なことである。
旧約聖書は新約聖書と全く違うように思う人がいるが、そうでなく、詩篇やイザヤ書などの中には新約聖書と深い共通点をもった内容がたくさんある。
この詩の最初に、神をほめたたえることに関して、3通りの表現―主をたたえる、賛美を歌う、賛美するが見られる。これは原語が違うからで賛美にもいろいろな言葉がヘブライ語にはある。
3節に「貧しい人よ、それを聞いて喜べ」とある。その「貧しい人」というのは、日本語の意味では、経済的に貧しい人のことである。しかし、原語のヘブル語では、もっと広く、「圧迫された人々、苦しむ人々」(*)などを意味する。
(*)これは、「アナウィーム」で「アーナウ」圧迫するという言葉から来ているので、この原語は、旧約聖書では、oppressed「圧迫された人」と訳しているものや、圧迫されているということは苦しんでいるので、afflicted「苦しみ、悩む人」、suffer「苦しむ人」とも訳されている。
それゆえ、この箇所では、口語訳は 「 苦しむ者」 英訳では、 the afflicted ―苦しむ人々(RSV)、あるいは、the humble 身分の低い、―不当な苦しみをも甘んじて受ける謙遜な人 という意味にも訳される。中国訳では、困苦的人。
当時は社会保障という制度がなかったので、当然貧しい人はいくらでもいたから、それはそのまま苦しむ人でもあった。
この箇所を、訳語のままに「貧しい人」に呼びかけられていると受け取ると、現代の日本人は多数がアジアの発展途上国や貧しい国々と比べて豊かな生活をしているから、自分とは関係のないことだと思われやすい。訳語によって私たちの受け止め方は大きく変る。
しかし、この原語の本来の意味からすると、貧しいだけでなく、一般的に何らかの事態に圧迫され、苦しみ、悩む人たちをも意味するので、そのように受け取ると、今の日本でも、そのような人はいたるところにいる。
老人になるというだけでも、病気や孤独、なすべきことがなくなる等々、さまざまな苦しみに直面するし、病気の苦しみ、圧迫にある人たちは数知れない。
この詩は、そのような無数の人たちに呼びかけられているのであり、その人たちも神の業に目を開き、それを知り、そして喜ぼう、賛美しましょうと言われているのである。
共に賛美すること
4節に「私と共に主をたたえよう。一つになって御名をあがめよう」とあるが、キリスト教では旧約聖書の時代から、一人で歌ったり、一人で黙想するのでなくいつも「共に」ということを言って、共同体を大事にする。
イエスも単独で行動されず、何の地位も力もない無学な漁師たちが半数近くをしめるような12人の弟子たちと共に行動された。
一人ではとても賛美する気持ちになれなくとも、集まって賛美することで、私たちはしばしば心が引き立てられ、主が近づいてくださるのを実感することができるし、この世とは異なる風―聖霊の風を受けることもできることが多い。
共に苦しみ、ともに喜び、そしてともに祈り、共に賛美する―キリストが来られてからは、信じる人たちは、「キリストのからだ」であるゆえに、このようなことが可能となる。
恐れからの解放
… わたしは主に求め
主は答えてくださった。
恐れから(*)常に救い出してくださった。(5節)
(*)新共同訳では、「脅かすものから」と訳しているが、この原語は、一般的に「恐れ」を意味するので、口語訳、新改訳ともに「恐れ」と訳しているし、英語訳も大多数は、all fears (すべての恐れ)と訳している。 He delivered me from all
my fears.
「私の全ての恐れから救い出してくださった」というのが原文の意味である。この詩篇でわかるように、こうした経験を三千年も前からしっかり持っている人が存在し、この確信は三千年たっても消えることなく、この世に受け継がれてきた。
どんな苦しみのときであっても、そこから主に祈り、叫んでいくときには、必ず救ってくださる、あるいは答えてくださるという確信というものがこの詩篇には満ち溢れている。それぐらい神の助け、救いというものはあらゆるところで存在しているのである。
私たちのこの世は何らかの恐れ、不安で満ちている。子どもは子どもなりに不安や恐れをもっていることも多い。いじめがある、勉強や遊びで遅れる、仲間外れ、あるいは家庭の不和、親の愛がない等々、さらに大人になっても絶えず何らかの不安や恐れはつきまとう。人生の最後になっても、最大の恐れともいうべき死というのがたちはだかってくる。
この意味で「恐れ」を取り除いてくれるということはきわめて重要なことになる。そして人間を超えた力で当然おそってくる自然災害や、事故、犯罪など、それは人間の力では止めることができない。
そのようなことでなくとも、たえず、人間関係や病気、仕事その他で悩みや不安は生じる。それを本当に除き得るのは人間を超えた力による他はない。
この詩の作者は、そのような恐れから本当に救うのは、神であることを自分の体験から知っていた。それをここで証ししているのである。
讃美歌としては世界で最も広くキリスト者以外にも知られている、アメイジング・グレイスamazing grace (*)というのがある。その中でも、恵みが私に神を本当の意味で恐れることを教えてくださったが、一方でその神の恵みが、数々の恐れから私を救ってくださったとある。(**)
(*)この讃美歌は、アメリカの第二の国歌だと言われたり、マルチン・ルーサー・キングが主導した、黒人差別に反対する大きな国民的運動の中でも歌われた。
また、先ごろ亡くなった南アフリカのマンデラ元大統領が長い投獄生活から解放されたときにも、周囲から自然にわき起こったのがこのアメイジング・グレイスであったという。
その歌詞は、奴隷貿易の船長として長く働いて後に悔い改めて牧師となったジョン・ニュートンによるものである。その詩には、彼自身の体験が深くこめられている。(**) T'was Grace that taught my heart to fear.
And Grace, my fears relieved. (「Amazing Grace」の2節より」)
…彼らは主を仰ぎ見た。そして輝いた。(*)(6節)
(*)この文は、新共同訳では、 「主を仰ぎ見る人は光と輝き」。
They looked unto him, and
were lightened(KJV) 仰ぎ見るの原語は完了形だが、命令形に訳して、「主を仰ぎ見よ、そうすれば光を得る(輝く)」とも訳される。(口語訳はこの訳をとっている)
私たちは人間や、人間が起こした悪いことを見ていたらだんだんと暗くなる。人間を見ている限り、私たちは輝いたりしない。しかし神を見たら輝き、光が与えられる、あるいは光が見えてくる。このような経験をはるかな昔から与えられてきた人たちがいる。
修道院というのは、本来は、この世から離れて深く祈り、そしてその光を受けようということであった。そこで実際に光を受けた人たちが多く生れた。そして、そこから学問、研究などが広がっていった。私たちは修道院というと世の中と関係なく、ひきこもっているというイメージが強いが、実は古代においては修道院からさまざまなよきものが広がっていった。現在の病院なるものも、修道院付属の治療所から発展していったという側面もある。
聖書を研究的に学ぶということも重要であるが、他方、深い瞑想、祈りによって神の光を直接に受けるということも重要な働きを歴史的には生み出した。
キリスト教の一つの派としてのクエーカー(*)も、真剣な祈りにより、神から与えられた内なる光が見えてきて、聖霊に満たされることをとくに強調した流れであった。
(*)ジョージ・フォックス(1624〜1691年)によって起こされたキリスト教の一派。クエーカーといわれるが、正式名称は、キリスト友会。新渡戸稲造は日本人では初めてのクェーカー信徒。現在のクェーカーは、信徒数は少なく、その影響力は小さくなっているが、それは、黙祷、内なる光を重視し、書かれた神の言葉としての聖書を学ぶことを軽視することもその原因だと考えられている。
これは、主イエスがあなた方のうちに住むと言われたことと深い関わりがある。
内なる光をしっかり見ることができたら、不思議な力が備わってくる。
クエーカーも周りがみんな奴隷制度に賛成した中にも、クエーカーはしっかりした洞察力を持って、最も早くから反対し続けた。このように神の光を受けると時の流れ、人間に押し流されない。そして、正義の戦争はある、国のために戦争するのは当然だだといった風潮の中に、戦争はいけないことだと終始一貫して主張したのもクエーカーだった。内村鑑三の非戦論も彼がアメリカに滞在していたときに、クェーカーのキリスト者との関わりがあり、そこから影響を受けたという側面もある。
今日もこのような祈りの中で神の光を得よう、御言葉を得よう、聖霊を受けようとするのは、広い意味ではキリスト教の礼拝はみなその目的を持っている。なかでも、その方面を強調して黙して祈ることの重要性、そこからみ言葉を受けることを強調する人たちも生れてきた。
「キリストに倣いて」というトマス・ア・ケンピスによるとされる著作にもその深い祈りの姿があり、それによってジョン・ウェスレーは大きな影響を受け、それがメソジスト派という大きなキリスト教の流れの一つにもなった。
そのウェスレーに影響を受けたのが、アメイジング・グレイスを作詞したジョン・ニュートンでもあり、またイギリスの奴隷貿易を世界で最初に廃止するために20年という歳月を戦ったウィルバーフォースもまた、そのウェスレーやジョン・ニュートンに学んだ人である。
日本においても、元今治教会牧師、榎本保郎も祈りを深めようとして、アシュラムというスタンレー・ジョーンズ(*)という宣教師に学んだ礼拝様式を取り入れた。
(*)1884〜1973年。アメリカのメソジスト派の宣教師。インドでキリスト教を伝え、その経験を元にアシュラム運動を始めた。
こうしたさまざまの信仰のあり方も、元は聖書にある。主を仰ぎ見ると光を得る。
主イエスも、「私に従う者は内なる光、命の光を得る」と言われた。(ヨハネ8の12)
こうした言葉の源流に、この詩篇の言葉、「私を仰ぎ見る者は、光を得る。(輝く)」がある。
旧約聖書はキリストを指し示す、それはこの詩篇についても言えることである。
私たちはこの世に生きるかぎり、人間やその集団である社会を見ることは避けることができない。職業についているということは、すなわちこの世のただなかで生きることであり、この世のことをしっかりと見ていないと仕事はできない。そのうえに、周囲に氾濫するテレビや新聞、雑誌、インターネット等々、すべて人間を見ることばかりである。そしてそのような人間を見る、ということばかりしていると、確実に私たちの奥深い魂の部分は暗くなる。 この世はそれ自体光を持っていないからである。
そのような状況にあるからこそ、この詩篇に言われているように、主を仰ぎ見て、神の光、キリストの命の光を受け続けていきたいと願うものである。(以下次号)
今から60年ほども昔、わが家には、泉があった。私の家は山を少し登ったところにあって、山の地下水が山肌からにじみでてくるところに水を溜めるようにコンクリートで作ったものだった。その山の面からは澄みきった水が湧き出てそれをそのまま飲めるのだった。もちろん塩素消毒などもしない。わが家の下のほうの家もみなそのようにして泉を用いていた。
しかし、梅雨や台風の雨が少なかったときには、その泉は水が出なくなり、近くのより深い井戸のあるところまで行って共同で使っていた。
そのような直接に山肌から湧き出ている水を使っていた記憶がはっきりと残っていたこともあって、聖書に「泉」という言葉は、かつてのそうした清いあふれ出ている水を思いださせてくれる。
聖書を知ってから分ったこと、それは、泉といっても目に見える泉でなく、目には見えない泉があること、そしてその目には見えない泉とは、キリストそのものだということである。
すでに旧約聖書から、神こそは、目には見えない水を飲むことのできる泉であるゆえに、その泉に来るようにとの呼びかけが記されている。
…渇きを覚えている者は皆、水のところに来たれ。
(イザヤ書 55の1)
目に見える水があってもなお満たされない魂の渇き、それは神のもとにて、霊的な水を受けて飲むまでは満たされない。
その渇きは、詩篇には数多く記されている。詩篇全体は、そうした渇きをいやしてくれるものを神に求める真剣な叫びであり、そこから豊かに与えられた心の世界をも描き出しているものである。
…神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂は、神を、生ける神を求めて 渇く。 (詩篇42の1〜2)
こうした渇きの根源は、人間によってはいやされない。一時的には人間との交際や趣味娯楽の類によってまぎらわすことはできよう。しかし、人間の最も深いところにある渇きはそうしたものによっては癒されない。
こうした旧約聖書の箇所は、キリストを指し示している。旧約聖書の時代にもたしかにこの詩篇の作者たちのように、真剣に求めて、神からの命の水を受け取り、それを飲んでいやされた人たちはいた。
しかし、それは少数であった。
キリストが来られてから、この旧約聖書で指し示されていた命の水のことが世界の人々へと知らされるようになった。
主イエスはヨハネによる福音書において、このことを強調されている。主はサマリアの女に対して、次のように言われた。
… もしあなたが『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。 (ヨハネ4の10 )
ここに、私たちが生ける水を受けるには、願うこと、求めることの重要性が言われている。
この言葉に続けて主イエスは次のように言われた。
…しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる」。 (ヨハネ4の14)
主イエスから、いのちの水を受けるときには、その人の内に一つの泉が生れる。そしてそこから水が周囲にも湧き出るが、その水は、本人にも永遠の命を与え、そこから湧き出る水を飲む周囲の人々も永遠の命を受けることになる。
人間の魂が一つの泉となる―何とすばらしいこと、驚くべきことだろう。これは本人にとってもまた周囲の人にとっても、人間として最も祝福された姿だと言えるだろう。
この絶大な価値のゆえに、主イエスは、ふたたび次のように述べておられる。
…イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネに7の37〜38)
人間の現実がいかに醜く、弱さに包まれ、汚れた存在であるかを思い知らされた者にとって、このようなことは、空想的だと思われるかも知れない。現実の人間は、清い泉どころか、しばしば自分中心とか物欲、虚栄心、人間への過剰な思い入れ等々、悪しきものが次々と出てくるような存在だからである。
神は、そうした人間の現実とはまったく異なる小さな泉を地上の到る所に存在させておられる。それは自然である。
夕空の美しさ、赤く映える雲や山際の赤く染まった空、そして赤く輝きつつ山の向こうに沈んでいく太陽、その後の夕闇に浮かびあがる星々たち。それらはたしかにそれぞれが泉なのである。
汲み取ろうとする者には、天の国の水の一しずくを受けることができるから。
また、植物とその花は、一つ一つをよく見るときには、人間のような罪深いものは何もなく、小さな1ミリほどの野草の花でも、実に精巧に美しく創造されている。
また、高山においては文字通り清冽な水があふれ出ているような美しい花も見られる。
樹木や野草などからは、何一つ、耳に聞こえるような言葉は聞かれない。しかし、無言の中から私たちに向けて神はたしかに静かな水をあふれさせている。
私はもう45年以上も前に、山には、こうした泉からあふれるものがあるのを感じて、惹かれるようになった。
たしかに、大空も雲、そして山々の姿、そして渓流やそこに見られる魚たち、樹木の生き生きとした姿、あるいはどっしりとした大木からしずかに流れている力あるもの…等々はみな泉であった。
…私は目をあげて、山々を見る。
わが助けはどこから来るか。
天地を創造された主から来る。
主はあなたを見守る方
昼の太陽も私を傷つけることなく
すべての災いから守られる。 (詩篇121より)
この詩の作者は、山々を見つめることによって、そこからのいのちの水を受け、そして魂の助けはその山々を創造した神から来る、泉の根源は神にあるということを啓示されたのである。
私は遠くの山々を見るだけで、そこから命の風が吹いてくるように感じることがあるし、実際に山々を歩くことで、山には目には見えない「泉」が湧いていると感じる。
主イエスは、「野の花を見よ !」と言われたが、それは主が野草の中に「泉」を見いだされていたからである。魂の目で見つめるときに湧いている水が見えてくる。
聖書の最後の書である黙示録―これはローマ皇帝の厳しい迫害のもとで書かれた文書である。そのような暗い危険な世の中にあって、黙示録の最後の部分にやはりいのちの水のことが現れる。
…新しい天と地を見た。…彼らの目の涙をことごとくぬぐいさってくださる。もはや悲しみも嘆きもない。
神は、私に言われた。渇いている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21章より)
…天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。(黙示録22章より)
聖書の最後の書の、その終りの章に現れるのが、神とキリストから流れだす「いのちの水の流れ」であった。
これは暗示的である。神とキリストこそ、この世界にあって、永遠の泉―いのちの水の流れの源―なのだということを、重ねて強調している。
人間の根本問題は、心の内にこうした泉を持たないことである。心の奥に正しい道に反する思いがあり、そうした思いや考えに従って行なっているときには、私たちの内には「泉」はない。従って清い水がわき出ることもない。知識や技術は教えるなら伝わっていく。しかし、いのちの水の流れ、その源たる泉は教えることができない。
ただ私たちの罪が赦され、清められてはじめて生れる。主イエスが来られたのも、私たちの一人一人が泉を持つためなのである。
福音書の最初に次のように記されている。
…私たちは、この方(キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。」(ヨハネ1の16)と記されているのも、キリストこそ泉であるからだ。
この世に生きるとき、しばしば生きる力を奪い取られるような苦しみや汚れ、背信が満ちているのに思い知らされる。測り知れない人たちがこのために、自らの命を断つことにもなり、そうならずとも、生きる目的を失い、この世には善悪のはっきりしたものなどない、といった考え方に流され、確たる精神的基盤をも持つことができなくなっていく。
寝たきりとなった人や、重い病気となって入院したまま、あとは死を待つばかりといった人たちにも与えられるもの―それこそが、すでに旧約聖書から言われていた、渇いている者よ、来れ。そしてただで水を飲め…と言われていることがあてはまる。
聖書もそれ自体が、泉である。そこから数千年にわたって、いのちの水が湧き続け、世界に流れているからである。
〇文集「野の花」を追加希望される方は、残部がありますので申込ください。一部二百円です。送料共。
〇「いのちの水」誌のバックナンバーを希望される方が折々にあります。「いのちの水」誌と改称する以前の「はこ舟」誌の時代からの、旧号は、1970年台のものから大部分がありますので(古いものは一部欠損あり)、ご希望のものをお送りすることができます。インターネットを使っておられる方は、そこでも読むことができますが、印刷したものが落ちついて読めると、印刷版を希望される方があります。
〇キリストの神性について、ヨハネによる福音書やヘブル書、コロサイ書などからの講話CD(吉村孝雄の講話)。
エホバの証人の間違った理解に引き込まれないようにと、キリストの神性が聖書にいかに記されているか説明したものです。エホバの証人でなくとも、キリストの神性を信じない、あるいは分からないという方々のためにもと作成したものです。 最近、私の知人の複数の人がエホバの証人の勧誘を受けていることが分かり、さらに、最近参加したキリスト教の集会において、キリストの神性という根本に関わる重要な真理を軽視、あるいは信じない人がいるのが分かり、その重要性をぜひとも知らせなければと思わされたのです。
ヨハネによる福音書やヘブル書の冒頭を見ても、そのことの重要性は明らかであり、このような真理を軽視することは、聖書―神の言葉全体を軽視し、それに代えて人間の考えや意見を主とすることにつながるからです。
〇私たちの徳島聖書キリスト集会の毎週の日曜日の主日礼拝の全部の内容を録音したCD(MP3版)も希望者にお送りできます。(毎月第一週に前月の録音CDを発送。費用は、一か月分収録のCD五百円、送料共。)
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