重荷を担う者はだれか   1999/6

人間は自分の重荷を背負うのに精いっぱいである。苦しみ悩みを自分で担うことも、なかなかできない。むつかしい問題が生じたら、自殺する人も生じるのは、重荷が背負いきれないからである。

 だから、それを正しく担って解決するのでなく、忘れようとする。そのためにいろいろな方法、例えば遊びとか飲食、ことに酒が昔から用いられてきた。

 しかし、遊んで、いろいろの娯楽をしても心の重荷を一時的にはわすれることはできても、いやすことはできない。必ずその重荷が再びのしかかってくる。

 重荷とはいろいろの悩み、つまり病気、人間関係、職業のこと、家庭のこと、自分の欠点、将来のこと、あるいは、心の広い人なら、他国の飢餓や貧困などいろいろある。

 しかし根本的な重荷は、自分が正しい道を歩めない、人を心から愛することができないという心の傾向である。このような心をキリスト教では罪という。だから罪こそは私たちの最大の重荷である。

 そしてその重荷をいかにしたら、軽くできるのか、なくすることができるのかが聖書の根本目的でもある。

 世の中にたくさん出ている本やテレビなどの内容はほとんどそのような重荷を軽くするどころかかえって重くするような内容が多い。

旧約聖書における重荷

 聖書はこの問題についてどのように書いてあるだろうか。

 箱船でよく知られているノアは自分と家族だけが救われたことが記されてあって、他の人の重荷を担うということはなかった。

 しかし、旧約聖書ではとくに重要な人物であるアブラハムはどうだろう。

 彼は神の言葉に聞き従って、はるかな未知の土地へ旅だっていくということによって、神の民、イスラエルの先祖となった。彼はまだ他者の重荷を負うということは十分にはできず、エジプトに食料を求めて行ったとき自分の命を救おうとして、妻を自分の妹であると偽ったことも記されている。

 しかし、そのアブラハムはすでにとりなしの祈りをしていることが詳しく記されている。彼は滅びようとするソドムの町のために必死で祈った。

アブラハムは、進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。

ソドムの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。

正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。

もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

 このように、必死で神に願って、ソドムの町のためにとりなしをしたために、神は最後には「十人の神に従う人がいたら、滅ぼさないようにしよう」と言われたのであった。

 それは、悪い人間たちだからといって見捨てず、何とか救われてほしてという願いであり、祈りであった。祈りとはつねにそれが真実であれば、ある種の重荷を負うことにつながる。

 このように、聖書では他者のため、滅びようとする者への祈りというのが早い時期から現れる。

 つぎに旧約聖書では最も重要な人物といえるモーセについて見てみよう。モーセは、エジプトの王子同様に育てられていたとき、自分はじつはエジプト人でなく、イスラエル人なのだと知った。自分の力で当時奴隷として苦しめられていたイスラエルの人々を助けようとしたが、それは全く不可能なことであってエジプトから遠く逃げていくことになった。イスラエルの地からはるか遠い地で、結婚し、子供も与えられ、平和な羊飼いの仕事をしていた。

 そのとき、神がモーセを呼出してエジプトにいるイスラエル人を救い出すようにと命じられた。モーセはそんなことは自分には到底できない、と強く辞退した。

「私は何者なのか、どうして自分がエジプトからイスラエルの多数の人々を導き出すことができようか」と言った。

 しかし、神の強いうながしにより、エジプトに出向き、イスラエルの民を救いだし、あらゆる困難と危険に直面しながら、砂漠を四〇年の間、民の重荷を担い続けたのであった。(出エジプト記三〜四章)

 このようにして、モーセは旧約聖書で最も、他者の重荷を担い続けた人として知られるようになったが、彼は、決して自分の力でそれができたのでなく、ただ神の全面的な支えによってのみ、可能となったのであった。

 旧約聖書のダビデは今から三千年ほども昔のイスラエルの王であった。彼は、子供のときからすでに神を信じて、何者をも恐れない勇気を持っていて、どんな武将も倒せなかった敵の巨人を石の一撃で倒し、その後も武人としても卓越した能力を現していったために、ついに王となったのである。その過程においても、つねに神を信じてみずからの益を求めようとはしなかった。

 しかし、このようなダビデであっても、その王としての栄光が頂点に達したときに、自分の欲望のために他人の妻を奪い、その夫を策略をめぐらせて死に至らせるなど他人の重荷を担うどころか、他人に耐えがたい重荷を背負わせた。しかし、後に深く悔い改め、かつその罪の罰としての苦難のかずかずを受けて心は深く耕され、その苦しみと神への叫びと、神への感謝が旧約聖書の詩編のもとになったほどであった。

 詩編とは、自分の重荷は神様が担って下さるということを深く知っていた人の書である。

わが神、わが神、なぜわたしを見捨てるのか。

なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉を聞いてくださらないのか。

神は、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、わたしは黙ってははいられない。・・

母がわたしをみごもたときからわたしはあなたにすがってきました。

母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。・・

わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。・・

主よ、あなただけは、私から遠く離れないで下さい。

わが力の神よ、今すぐにわたしを助けて下さい!(詩編二十二より)

 このように襲いかかる激しい苦しみと重荷を必死になって神に訴え、神に担ってもらおうとする叫びがこの詩には流れている。そしてこうした真実な祈りは必ず聞かれ、再び神による平安が与えられる。

 この詩の最後の部分は、つぎのようになっている。

わたしの魂は必ず命を得、

子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、

成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるだろう。

 この詩に続く有名な詩編二十三編は、苦難を経て与えられた深い平安が流れている。

主はわたしを緑の野に休ませ、憩の水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。

死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。

あなたがわたしと共にいてくださるからである。

あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。(詩編二十三編より)

 ここには、死を思わせるほどの苦しみ、重荷からも救い出されて、軽くされた人の経験がここにある。

 旧約聖書のなかで、とくに預言書には、他人の重荷を担うべく神に呼び出された人(預言者)のことが書いてある。

 エレミヤは特別に民の重荷を担い続けた人、命がけで担っていった人であった。

 その重荷がどれほどであったかは、エレミヤ書を見るとうかがえる。

主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がる。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てた。(エレミヤ書二十・9

 人々がいかに神に反しているか、それを指摘し、今後とるべき道を神の言によって指し示したが、人々は、ただそのようなエレミヤを攻撃し、彼を迫害するばかりであった。そうした苦しさに耐えかねて、エレミヤはもう生きていく気力もなくなるほどであったのが次のような言葉でうかがえる。 

わたしの生まれた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。・・

なにゆえにわたしは胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか。(エレミヤ書二十章より)

 このような叫びをあげるほどにエレミヤは人々の重荷を自らが担って、苦しんだのがわかる。

 しかし、たとえ預言者であっても、人間の罪や背信といった罪そのものを消し去ることはできないということは古くから知られていた。

 人間の重荷の根源にあるのが、罪である。罪とは、真実と愛の神に背くいっさいの心の動きや行いを言うが、そうした罪があるからこそ、人々は苦しみ、悩みが生じる。そしてその罪とは、人間の最も奥深いところにあるものだけに、ほかの人間がその罪の重荷を取り去ることは決してできない。

 預言者や宗教者自身がその罪の重荷を取り去ってもらわねばならないのである。

 そのために旧約聖書では、祭司自身が、雄牛を殺してその血を注いで潔めを受けるということが書いてある。(出エジプト記二九章など) 

 そうした罪の重荷を人間の身代わりになって担う方が将来において現れるということが、預言されるようになった。そのことはイザヤ書にはっきりと示されている。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ書五三章より)

 この預言の成就として現れたのがイエス・キリストであった。

新約聖書における重荷

 このような流れを受けて、新約聖書では、イエス・キリストこそが、そうしたあらゆる重荷を担って下さるお方として現れる。

 旧約聖書では、神に重荷をゆだねることを知っている人はイスラエルの人だけであったし預言者というのもイスラエルだけに現れたのである。

 しかし、新約聖書では、そうしたことが世界のあらゆる人へと広げられていった。    「疲れた者、重荷を担っている人はだれでも、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ福音書十一・28

 十字架とは、キリストが万人の重荷を担って下さったというしるしである。

 私たちの重荷は主イエスが担って下さるということである。罪という最大の重荷を担って下さったこと、それは、中風の人のいやしのなかにも現れている。

 古代にあっては、中風になって起きあがることができないという状態は、たいへんな苦痛であった。車も車イスもなく、福祉的制度もない時代であり、日々が耐えがたいような状態であっただろう。

 そのような苦痛に満ちた日々を送っている人をその友人たちが、主イエスが滞在している家の屋根を取り外して、ベッドに乗せたまま、運んできた記事がある。


すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。

しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。

イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ五章より)

 他人の家の屋根であるのにそれを破ってまでして、中風の人をいやしてもらいたいとの願いは強かった。どんなことがあってもこの身体の病気からくる重荷を取り去ってもらいたいという友達の熱意が伝わってくる。

 しかし、意外なことに主イエスは、その病気をいやして直ちに立ち上がらせることもできたのに、そのことを第一にせず、「あなたの罪は赦された」と言われた。

 これは驚くべきことである。私たちの周りでこんなことを考える人はほとんどいないだろう。身体の病が重荷となっているとわかっていて、なお、その背後に実は罪というものこそ、最大の重荷であるという見方がここにある。

 この世界には、愛と真実の神に背いているという罪がずっと根深くある。そこからあらゆる人間の重荷が生じるということを主イエスは知っておられた。

 人類全体の罪の重荷から解放するためにこそ、主イエスは来られた。それが十字架によるイエスの死であった。

「疲れた者、重荷を背負っている者はだれでも私のもとに来なさい。」という招きは、すべての人になされている。どんな人でも何か重荷を持っているからである。

 罪ということがわからない人は、その重荷の根源を知らないが、日々その重荷を感じている。

 中風の人の友人たちは、病気こそ、立ち上がれないことこそ、重荷のすべてだと思っていた。しかし、主イエスはそれよりもっと根本的な重荷を見抜いておられた。

 同様に、私たちが自分で感じる重荷は、生活の問題、職場の人間関係、病気などいろいろとあるだろう。しかし、主イエスはそのような私たちに対して、罪こそ私たちの重荷の根源なのだと言われる。

 さらに、その罪はイエス・キリストのみが取り去ることを知るとき、次のことに気付かされる。

 私たちが他者の重荷を負うと思っているが、じつは私たちの内にいるキリストが重荷を負って下さっているということである。苦しむ他者への祈りが真実であるとは、私たちのつながる幹であるキリストへの結びつきが堅固であるということだが、そのとき、私たちが担おうとする重荷は、実は、その内なるキリストが担って下さる。

 そして他者の重荷に関わる私たちはそうした相手によってもまた、担われているのを感じる。

 子供の難しい病気に直面して、母親が必死にそのために心を注ぐとき、その子供の病気は母親にとって非常な重荷となる。しかし、しばしば、そのたいへんな重荷であると感じていたそのことが、じつは自分をも支えていたのだと気付くことがある。神を知らない場合でも、こうした経験をすることがある。

 私たちが神を信じて、キリストを私たちの内に持っているときには、私たちの心を注ぐところにキリストがともにいてくださるのであって、私たちが祈り支えようとする相手も、そのキリストが支えてくれる。そして同時に、そのキリストは祈る私たちをも支えてくれることになる。

 私たちが誰かの重荷を担うのでなく、私たちの内にいるキリストが担うのである。

 寝たきりの病人はいつも誰かにその重荷を担われている。たしかに医者や、看護婦、あるいは介助する人の助けがなかったら、生きていけないほどに、支えられている。

 しかし、他方では、そのような重度の病人は、その重い病気を信仰によって担っているとき、その存在そのものが他者をまた自ずから支えるのである。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ福音書十五章より)

 私たちがぶどうの木であるキリストにつながっているだけで、そのキリストが私たちの重荷をも、また私たちの関わるひとたちの重荷をも担って下さるのである。

 そのようにして初めて私たちはつぎのパウロの言葉が実現していくのだと知らされる。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ書六・2

 いつも誰かが他者の重荷を担っている。

語らず、言わず聞こえないのに、その響きは天地にあまねく・・

「私はお前を担う」という声が響いている。 

わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書四六・4


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