使徒のはたらき(八) 1999/6
最初のキリスト教徒たちの生活(使徒行伝二・42~47)
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒行伝二・42~47)
ここにキリスト教の最初のすがたが見られます。
彼らの生活には四つの柱があり、それは次の通りです。
(一)使徒の教え
(二)相互の交わり
(三)パンを裂くこと
(四)祈ること
これらを一つ一つ考えてみます。
(1)彼らが心を注いでいた「使徒の教え」ということは、現在の私たちにとっては、聖書の学びだということになります。使徒たちが主イエスから受けた教え、生きて働くキリストから受けた教えは聖書となって私たちの前にあります。それは神の言であり、神の言を第一に置くということです。聖書はそのまま読んだのでは、意味がわからないことがしばしばあります。
例えば、聖書のなかで最もよく読まれてきた箇所の一つである、山上の垂訓にある「心の貧しい者は幸いだ」ということにしても、日本語では心の貧しい者とは、心の豊かな人の反対となり、愛することもなく、飲み食いのことばかりしか念頭にない、思いやりがない、自分の利得しか考えない、自然を愛する心や音楽を味わうこともできないような人間を意味して使われてます。
私がいろいろのところで聖書について語るとき、とくにまだ聖書を読んでいないとか、教会に行ったことがないという人にこの箇所の「心の貧しい者」というとどんなイメージがありますかと尋ねると、たいていの場合、すでに述べたような意味の答がかえってきます。
そんな「心が物欲で固まった、うるおいのない人間が死んだら天国に行くのだ」というように受け取ってしまうのです。これでは大きなまちがいで、真の意味はそれとは根本的にちがった意味だと言わねばなりません。
このような誤解を避けるためにも神の言は学ぶ必要があるわけです。自分の考え中心でもなく、他人の考えにならうのでもなく、永遠の真理である神の言そのものの意味するところを、正しく受けとめるために日々神の言を学んでいくことが求められています。
(二)相互の交わりについて。
信仰は神と自分のことであり、一人でもできます。事実、どこの教会や集会にも属さないで一人で聖書を読んで信仰を守っている人もいます。しかし、聖書はそのような一人だけで信仰を持って、ほかのキリスト者と交わらないというような信仰を支持していないのです。
主イエスご自身、完全な神の力を持ち、いかなることにも耐えて神の道を歩むことのできるお方であったにもかかわらず、十二人の弟子を選び、いつもそばにおいて、ともに歩まれたのです。
そして神を信じる人の集まり(*)が「キリストのからだ」であるといわれているほどに、重要視されています。
(*)これは聖書では「教会」と訳されていますが、原語はエクレシアであり、これは「神から呼び出された人の集まり」を意味するのであって、建物を意味するところは一カ所もありません。
また、主イエスは「二人、三人私の名によって集まるところに、私はいる」と約束されました。ここにも、キリストの名によって集まることの重要性が述べられているのです。 また、ヨハネ福音書で最後の夜に教えた言葉として伝えられている内容に、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの戒めである。」というのがあります。(ヨハネ福音書・十五・12)
ここで、とくにキリストの弟子たち同志の愛を重んじているのがわかります。
パウロも、キリストを信じる人の集まりを一つの「体」とたとえています。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分である。(Ⅰコリント 十二・25~27)
この箇所も、キリストを信じる者同志がいかに深く結ばれているかを示しています。キリスト者は一つの体であるから、互いに配慮しあっているし、一つの部分が苦しむとき、また、喜ぶときにもすべての部分が共にその心を同じくすると言われています。
このような記述を見るとき、キリスト者は一人でいてよいのだということは考えられないことに思われます。
こうしたキリスト者のあるべき姿がキリスト教の最初の群れにすでに見られたと、使徒行伝のこの箇所で言われているのです。
そしてこのことは、現在の私たちにもそのままその重要性はあてはまります。同じキリスト教の集まりに属していながら、そのなかの一員が苦しみ、あるいは喜びを感じているのにそれをともに感じようとしないことは、本来のエクレシア(キリストの集会)にふさわしくないということです。
そしてそのような心であるということは、そもそもキリストとも深く結びついていないということになります。キリストと結ばれているとき、キリストは愛であるから、自ずから他者の苦しみや喜びにもともに感じるということになるからです。
(三)つぎにパンを裂くことが言われています。これは聖餐としてキリスト教会に受け継がれてきました。地上で弟子たちと共にする最後の夕食のとき、主イエスがパンとぶどう酒についての特別な意味を言われたのは、福音書の記事の方がよく知られていますが、使徒パウロも主が言われたこととして、つぎのように伝えています。
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(Ⅰコリント 十一・23~26)
パウロ自身は最後の夕食のときに同席していませんでしたし、そのときはまだ主イエスのことも全くしらなかったと思われます。しかし、キリスト者を迫害していくさなかに神からの光を受けて、キリストから直接に呼び出されてキリスト者となった以後、生きてはたらくイエスからこの言葉を聞き取ったのだと考えられます。
聖餐に使われたパンとぶどう酒は当時の食事としてはごく自然なものでした。それがキリストのからだであり、キリストが人々のために血を流して生み出された新しい契約のしるしであると言われています。
これは信仰によって感謝して受けるなら、霊のキリストとの交わりを与えられ、イエスが私たちのために流された血によるあがないをよりつよく私たちの心に刻みつけることになると思われます。
もはや集会に参加できなくなるほどに体が衰弱していき、聖書の学びなどできなくなった苦しみのとき、重い病気のとき、死が近づいたときでもキリストとの霊的な交流が与えられて、力づけられ、新しい命が与えられていく機会となり得るのです。
内村鑑三の愛する娘ルツ子が重い病となり、もうあと数時間で臨終というときに、内村がルツ子を含めた親子三人で聖餐をしたのも、こうした意味があったからだと考えられます。
キリストの集会に参加すること、野山の自然に親しんで、神の英知と万能を学ぶこと、聖書を学ぶこと、キリスト者同士の交流、祈りなどなどいろいろのことによって私たちはイエスとの交わり(霊的な交流)が与えられます。聖餐のパンとぶどう酒もそうした一つの霊的な賜物が与えられるための一つの恵みの道だということができます。
(四)最後にあげられているのは、「祈り」です。すでにあげた三つのものすべてに祈りを欠くなら、それは最後の完成がなされない不十分なものとなってしまいます。聖書の学びも祈りなくば、知的遊技となり、信徒同士の交流も祈りなくば、人間的な情の交流となり、神から引き離そうとするものにすらなってしまうでしょう。
また、聖餐のパンとぶどう酒も祈りなくば、そして神の祝福なくばそれは無意味な儀式にすぎないものとなってしまいます。
私たちの日々のすべてに塩味をつけ、前進させ、力を与え、汚れなきもの、透き通ったものにしてくれるのが祈りです。
主イエスは、「まず神の国と神の義を求めよ」と言われました。いろいろの場合にまず祈ることは、神の国と神の義をまず求めようとすることだと言えます。
ペテロはキリストが捕らえられたとき、一度は逃げて、三回も主イエスを知らないと言ったようなよわい者でした。しかし、彼が全くべつの人物となったかのように生まれ変わった力に満ちた存在になったのは、聖霊が与えられたからであり、その聖霊はみんなで真剣に祈りを続けていたときに注がれたのでした。
祈りのなかで浮かび上がる十字架を仰ぐことによって、罪を潔められ、祈りによって聖霊を、また神の言を与えられ、力づけられます。祈りによって私たちはこの悪に満ちた世界のかなたに永遠の光が輝いているのを見ることができます。
以上のように、今回あげた短い箇所によって、最初のキリスト者たちの生きた様子がうかがえるのです。