神は導く 1999年8月
私たちが目には見えないが、この宇宙を創造し、いまも愛をもって一人一人の人間をみつめ、導いて下さる神を信じるとき、私たちは不思議な経験を与えられる。神がいないと思われるような災いや悪事がいたるところで行われているにもかかわらず、私たちの行く手に思いがけない出会いを与えられ、機会が目の前に現れることが生じる。
人生の危機にあるときに、思いがけない人が現れてその道のないようなところに道が開けたことが何度かあった。
また、自分自身はまったく求めてはいなかった方向へと導かれてそこに神のはっきりとした導きとはたらきを知らされたこともいろいろとあった。
聖書に現れる人物は、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデなどみな自分の計画や能力で生きていった人ではなく、みな、生きて働く神の導きにゆだねた人であった。
キリストの最大の弟子であったパウロもそうであった。
キリスト教はヨーロッパの宗教と思われるほどに深い結びつきがあるが、キリスト教をヨーロッパに根づかせたのはパウロである。しかし彼がヨーロッパに行こうとしたのは、自分の考えや判断からでなく、神からの導きがあり、それにゆだねたのであった。
ふつうには、自分の考えで生きることを最善のことのように言われる。しかし、それがいかにできないかを聖書ははっきりと示している。使徒のペテロが主イエスの最期が近づいたとき、「私はたとえ殺されることになっても、先生に従って行きます」と誓った。しかし、実際には、三度も主イエスなど知らないといって否認してしまったのである。
自分の考えや判断で歩んで行こうとする考え方が砕かれ、神の導きにゆだねるところから、キリストを信じる者としての歩みが始まる。
死と生の宣言
私たちはみな、死ぬという宣告を受けた者である。重い病気とかガンになった者が死の宣告を受けるのでなく、どんなに健康であっても、すべて同じように死の宣告を受けたものである。人間は必ず死ぬのだから。
しかし、それと同様に、また神は信じるものに、永遠の命の宣言をして下さっている。
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ福音書五・24)
はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(ヨハネ八・51)
ダビデ王の生涯のクライマックス
ダビデは今から、三千年ほども昔のイスラエルの王である。彼は、幼少のときから信仰あり、かつ勇敢で、竪琴を引くなど音楽にもすぐれた才能を与えられていた。
彼は、王国のためにすばらしい働きをして、敵に勝利していったのに、当時のサウル王のねたみを受け、命をねらわれて追跡をさんざん受けるが、いっさいの武力による反抗もせず、ただ神にゆだねて砂漠をさすらった。そしてさまざまの出来事ののちに、不思議にもダビデ自身はまったくサウル王への攻撃などしなかったのに、神の導きによって、ダビデ自身が王となったのである。
しかし、それだけ信仰のつよい人であったのに、周囲を平定して国が安定してきたときに、部下の妻を奪い、その夫を他の部下をつかって死ぬような状況へと追いやってしまった。こんな人間がどうして聖書に記されているのかとだれしも不思議に思うだろう。
しかし、このように人間の本質がどんなに弱いかを記しているのが聖書であり、そのような醜さや弱さからいかにして救われるのかを記しているのもまた聖書なのである。
ダビデの子には、母親が違うアムノンとアブサロムという二人の男子があった。また、アブサロムには、タマルという妹がいた。この兄妹は、ダビデを父とし、母も同じであった。
アムノンが成長したとき、彼は全く人間的な欲望にかられ、母親違いの妹であるタマルを辱めた。その結果タマルは生涯、結婚することもできず、恥ずかしめられた女として日陰のように生きて行かねばならない状態となった。
このような悲劇も、ダビデがかつてバテセバという名の美しい女性とその夫に対して不正なことをしたことに対するさばきであり、報いであった。
タマルの兄であるアブサロムはそれを心に秘めて後での復讐を誓った。
二年の間、機会をうかがっていたアブサロムは羊の毛を刈る行事をして、その際に王子全員を集めた。そしてアムノンに襲いかかって暗殺してしまった。
異母兄妹同士の姦淫が行われ、兄弟同士で激しい憎しみが生じて、跡継ぎであった長男は異母兄弟によって殺されるという異常な事態が生じた。このようないまわしい事態も、ダビデがウリヤを人を使って死に追い込んだということへの裁きであった。
そのことを知っていたゆえに ダビデはこうした恥ずべき事件に対しても毅然とした態度をとることができなかった。
さらにアブサロムは王である自分の父を差し置いて、しかもその地位を奪おうとしている。このように子としては最大の反抗をしているのに、ダビデは何一つそのアブサロムに対して怒らなかった。それどころかアブサロムを攻撃して滅ぼそうともしなかった。
しかもアブサロムは王に対する攻撃をする前には、
「主への誓願を果たすため、ヘブロンに行かせてください。僕はアラムのゲシュルに滞在していたとき、もし主がわたしをエルサレムに連れ戻してくださるなら主に仕える、と誓いました。」(サムエル記下十五・18)
と言って、信仰に関わるような嘘を言って父親をだましたのである。そのような態度にも関わらず、ダビデは何一つ怒った言動を見せていない。
ここには、自分の犯した罪の裁きを受けていることを思い知らされている弱い一人の人間の姿があるだけである。
しかもアブサロムの攻撃の手が伸びていることを知って、ダビデが直ちになにをしたかというと、逃げることであった。抵抗せず、戦わずである。こんな弱気に見えることはあるだろうか。敵の兵隊ならば、次々と戦いを起こして勝利に導いたその武将が、自分の子の反乱に対しては何一つ怒ることも攻撃することもしなかったのである。
ダビデはかつて、サウル王からねらわれた時も同様に何一つ抵抗せず、攻撃をも加えなかった。
ダビデの勇敢な性質、武人としての優秀性などは、ここでは全く見られない。それどころか誰よりも力がなく、弱々しい者と見える。
しかし、このような弱さをそのまま表していくところに神の導きはある。
これらの章を見てダビデがいかに重い罪を犯した弱い人間であるかがよくわかる。家庭の重大問題、王国を揺るがすような大問題であるのに、それに対して思い切った処置を取れなかったのである。
かつてサウル王に命を狙われていた頃にも、砂漠同様の荒野をあちこちさまよった。(サムエル記上二三・13〜)ここでは、自分の子に王国を奪われ、殺されようとして荒野をさまよった。聖書はダビデについて彼がいかに、外国をたくみに攻撃して征服したかということより、いかに彼が苦しんだか、そのなかからいかに神のみに頼ることを学んでいったかを告げようとしているのである。
子どもの一人は恥ずかしめられ、兄弟同士の殺人が生じ、王国は実の子供によって奪われ、人々もまたアブサロムに従っていく。そのような状態の中で少数の家来とともに王宮を逃げていく。
このとき、ダビデにとっても思いがけないことが生じた。それは外国人の一団がダビデに従って来るというのであった。
王はガト人イタイに言った。「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。
昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。わたしは行けるところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたを慈しみとまことを示されるように。」
イタイは王に答えて言った。「主は生きておられ、わが主君、王も生きておられる。生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが僕のいるべきところです。」(サムエル記下十五章より)
自分の家来であった人たちが敵となったアブサロムに従っているのに、外国人であり、一時的に寄留している者であるのに、ガト人はダビデに深い敬意と服従の気持ちを表したのである。自分の子が反乱を起こし、実の父親であるダビデの命をねらっているのに、思いがけなく外国人が命がけでダビデに従っていくという申し出をするのであった。
このように、神を信じる者には、思いがけない出来事が生じて、追いつめられても不思議な道が開けて守られていくということがはっきりと記されている。
ガト人たちの一団は六百人ほどであったが、彼らが従っていくというダビデは逃げていく王であり、王位を奪われているのである。そのような弱い、滅んでいくように見える王に命がけで従っていく者があろうとは、ダビデは想像もできなかっただろう。
その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。ダビデ王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ。(23節)
ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。(30節)
王は、神の言葉を刻んだ神の契約の箱を持ってきた祭司に次のように言った。
王は祭司ツァドクに言った。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。
主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」
このような絶望的な状況において、ダビデは神を全面的に頼るようになっていた。もし、神が顧みて下さるならば、必ず再び自分を王宮に連れ戻してくれると信じていたのである。自分の武力でアブサロムを攻撃して滅ぼすという方法は決してとらないなら、いかにして再び自分が王宮に帰ることができるのか、それはだれもわからなかった。敵を武力で攻撃しないでどうして再び王に返り咲くことができるのか、そんな道はありえないはずであった。
しかし、ダビデはそうした人間のあらゆる予想や考えを越えたところで、もし神の御心ならば、神は再び自分を連れ戻して下さると信じることができたのである。
わが子同士が憎しみを持ち、殺そうとまでしており、わが子の一人は父親の王位を奪い、しかも王である自分を殺そうとまでしている、そして自分は息子から逃げ延びていく、今後の命もどうなるかわからない、そのような絶望的な状況のなかで、ダビデはふたたび神に命がけで頼っていくようになったのがわかる。
こうした最もみじめな状態のときこそ、ダビデの本当の姿が示されている。聖書にいう偉大とはこうした偉大さである。
聖書はダビデを私たちにとって身近な存在として、またあるべき姿として示しているといえよう。それは、深い悔い改めである。悲しみである。家庭と王国に生じたこのいまわしいことに対して、引き起こした人間たちに怒ることなく、憎むことなく、ただ自分の罪による裁きを知って深い悲しみに泣いた。
そして自分の力で取り返そうとか復讐しようともせずただ、神にすべてをゆだねた。人間にしてもガト人のイタイにはこんな状況で従ってこようとする者であったが、反乱した王(アブサロム)のもとに帰そうとした。少しでも多くの兵を引き連れて行くという考えもなかった。「ただ、行ける所に行くだけだ。」それは神が導かれるままにゆだねるという心がある。
家族の平和も、王国もすべてを失い、今後どうなるかわからない、荒野での逃避行によって死ぬかも知れないという事態となり、ダビデのこれまでの歩みがすべて崩壊する状況になった。にもかかわらずこの逃避行の記事はダビデの人生の歩みのなかでもとりわけ、読む者の心を打つものがある。
周囲を平定して安定した王国の最高権力者となって豊かな生活をするようになったときでなく、このようなすべてを失って、荒野に逃げ延びていく状況において、ダビデの生涯のクライマックスがあったのである。
私たちの人生のクライマックスとは、この世の名声とか権力や金がたくさんできることでなく、最も深く神に頼る心の状態になったときであるからだ。
ダビデほどの勇気あり、才能に満ちた王であったのに、かくも激しく崩れ落ちていったところにすべてはダビデの能力でなく、人間の計画でなく、神がすべてを把握しているということを示そうとしているのである。
そしてその中からダビデがすべてをあげて神に叫び、頼っていくとき、その深いくらやみから神はダビデを救い出されたのであった。