休憩室  1999年8

アジアンタムと言えば、鑑賞用のシダとしては最もよく知られているものの一つです。しかし、それはほとんどが園芸用のもので、自然に生えているものは見たことがない人が大部分と思います。最近、珍しいシダを、手話と聖書の集まりのときに持って来られた方がいました。

 それはかつて私が県内の標高千五百メートルほどの山に登っていたときに、途中の山深い谷間で見つけたことのある
ハコネシダという美しいシダに似ていました。調べてみるとそれはその仲間のホウライシダであり、日本のアジアンタムと言えるものだとわかったのです。(なお、ホウライシダの学名は (アディアントゥム)という語を含んでいますがこれは、「水にぬれない」という意味を持っています。このシダの葉が水をはじいてぬれないからです)

 シダの仲間は花を咲かせることもなく、地味で判別が難しいものも多く、花瓶に飾られたりすることもほとんどないので、大多数のシダは知られていませんが、アジアンタムとか、シノブ、タニワタリ、イワヒバなどといった少数のシダ類が鑑賞用として飾られています。

 こうしたシダのうちでも、ホウライシダのように美しいシダが市内の民家の庭に自然に生えてきたのは珍しいことです。思いがけないところに、予想もしないような植物が生えてくる、それは胞子とか種が人間の予想できないようなところから運ばれてきて、いろいろの条件がかなったときに、発芽して成長していくのです。

 神は人間についても、予想できないようなところに、大きい働きをする人物を起こしたり、だれもが注目しない地味なところにとても優れた人を起こしたりします。

 主イエスも当時の人が「ナザレから何のよいものが出ようか」と言っていた、田舎のナザレ地方の出身であったのです。

 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。(神の)霊から生まれた者も皆そのとおりである。
(ヨハネ福音書三・8

 ギリシャ語では風も霊も同じ(プネウマ)です。風が思いのままに吹くように、神の霊(聖霊)も、神のご計画のままに吹くのであって、人間のあらゆる予想を越えたところに吹くのです。あるところで、美しい花を咲かせ、力強いキリスト伝道をする人を起こし、みんなが見下しているところにも、驚くべき出来事を起こすのです。

最近、讃美歌と童謡の関わりに関して目にとまることが何度かありました。以前、手話と聖書の小さな集まりで、讃美歌「主われを愛す」(四六一番)を讃美していたとき、参加していた方が、この歌はどこかで聞いた事がある、なにかの曲に似ていると言われ、ああ、「しゃぼん玉とんだ」と似ていると言われたことがありました。

 たしかに、この讃美歌の二段目の「おそれはあらじ」という箇所のメロディーは、”しゃぼん玉とんだ”という曲の「こわれて消えた」という箇所とまったく同じメロディーだし、全体として似ているのはわかります。

「しゃぼん玉とんだ」を作詞した
野口雨情は、十七歳のとき、内村鑑三の「月曜講演」を聞いたし、内村の執筆していた「東京独立雑誌」を読んでいたのです。作曲者の中山晋平とキリスト教との関係は不明ですが、作詞者とキリスト教の関係が作曲者にもなんらかの影響を与えたということ(例えば、讃美歌の紹介など)は十分考えられることです。

 また、「赤とんぼ」の作詞者は三木露風ですが、彼はキリスト者でした。かれの母は熱心なキリスト者であり、その影響を受けたと思われます。また彼女は、再婚しましたが、その相手の人もキリスト教徒であり、裁判官であったのに、教会堂を建てた人であったということです。また、「赤とんぼ」の作曲者は山田耕作ですが、山田はキリスト教の大学である関西学院大学卒業ですから、こうした広く親しまれた童謡の背後にもキリスト教の流れがしずかに脈打っているのが感じられます。

「赤とんぼ」という曲は、NHKの「日本のうた ふるさとの歌」のアンケートで六十五万通の応募のなかで、第一位に選ばれた曲であったということです

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