打ち倒される時に 1999年9月
キリスト教史上の最初の殉教者であったステパノは、周囲を取りまく多数の人々が、激しくわめいて彼を取りまいているただなかに、彼は引きずられ、まわりの暴徒たちによって石を打ちつけられて殺されることになった。
主イエスのことを証言し、人々が過去に預言者たちを迫害してきたことを述べただけで、人々は怒りだし、とうとうステパノを殺すところまでいってしまう。そのような場面を私たちが想像するとき、どこに神がいるのかと感じられるかもしれない。無実な人を襲い、よってたかって引きずっていき、石で撃ち殺すというような場面のどこに神はいると思えるだろうか。
しかし、不思議なことに、そのような最も神はいないと思われるようなところに、神と主イエスはその姿をステパノの前に現したのであった。それまでのだれもが見ることができなかったほどにはっきりとである。
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。
人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(使徒行伝七章より)
主イエスに従う人が、憎しみを受けて打ち倒されるとき、そこに神などいないと思われるとき、静かに神はその姿を現されている。人が倒されるとき、主イエスは立っておられる。
キリストを信じるとは、不思議な世界である。自分という人間が、弱さのゆえにまた罪のゆえに倒れるとき、そのときにこそ主はわが内に立って下さるというのである。
キリストが弟子たちとの最後の夕食を終えたのち、ゲツセマネの園においてゲツセマネの園において、生涯で最も深く厳しい祈りをされた。そのとき、弟子たちはみなそろって眠りこけてしまった。しかし、そのようにして人間が弱さのゆえに倒れるとき、主イエスは一人で霊の戦いに立たれ、神の力によって最大の戦いを勝利されたのであった。