権威なき時代に 1999/10

 近ごろは、学校でも授業が成り立たない学級崩壊という現象が増えているという。最近も、ある中学生から、生徒が授業中に携帯電話を使ったり、おしゃべりしたりするクラスの現状を聞いたことがある。

 教育において教師の権威がなくなり、教師が児童、生徒と同じレベルになって単に、子供の友達のような状況となりつつある。

 現在、権威喪失の時代にあって、日本ではふたたびまちがった人為的な権威を教育の場にも導入しようとしている。国旗、国歌を敬えとかの命令によった国家的権威を児童・生徒の心のなかに持ち込もうとしているのもその一環である。

 しかし、そのような本質を外れた発想では、かえって児童・生徒の精神的空白と混乱を増し、ゲームや俗悪なマンガ雑誌あるいは、性的快楽などに興じる人間をふやし、あるいはあやしげな宗教教祖などを崇拝したりするまちがった権威がはびこるだけである。

 人間的な権威、たんに年齢が上だとか、立場が違うとか、地位が上であるとかの権威などはいまも昔もいくらでもある。そしてそうした権威は、かつては、制度や法律などで人為的に作り出され、あるいは伝統や長年の習慣として続いてきた。

 江戸時代には士農工商といった身分差別を徳川幕府作り出したし、戦前では、天皇に生きている神であるという最高の権威をあたえ、それに従うことが強制されていた。また、両親や教師の権威も当然のこととして続いてきた。

 戦後は、民主主義の考えが浸透し、人間はみな同じであるということが当たり前となって、かつて人間が造りだした制度による権威は相当失われていった。それとともに、およそ権威など存在しないのだという誤った考えが浸透していった。

 しかし、今も昔も権威は揺るぎなく存在している。それは、人間が造った権威でなく、宇宙の創造主である神が持っている権威であり、真理に立つ権威である。私たちが真理に結びついているとき、自ずから権威は生じる。

 それは真理は地位や教養、あるいは年齢にかかわらず宿ることができる。主イエスは、わずか三十歳ほどであったが、周囲に驚くべき権威を持っていた。

 そのことは新約聖書にも多くの箇所で記されている。

あなたがたは、キリストにおいて満たされている。キリストはすべての支配や権威の頭である。(コロサイ書・二・10

人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。(ルカ福音書四・32

人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ一・22,27

 主イエスの時代にも、祭司長とか長老、聖書学者、ローマ総督などいろいろの権威をもった者がいた。そしてそうした人間的権威によって、イエスを捕らえて殺してしまった。
 けれども、かれらの権威は時の流れとともに跡形もなく消え去った。そして後に残ったのは、キリストの権威だけであった。キリストの権威は神から来ていた。神は永遠であるゆえに、主イエスの権威もまた永遠であり、過去二千年を経てもなおその権威は揺らぐことなく続いている。
 権威の失墜した現代において、キリストが持っておられる本当の権威こそ、私たちに必要なものなのである。

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