眠りこんだ弟子たち 1999/10

 イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちとともに食事をしたあと、
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(マルコ福音書十四・3234

 神の子である、イエスが「ひどく恐れて、もだえた」というのは、私たちには驚かされるような表現です。そんなことが主イエスにあるのだろうか、死人をよみがえらせ、ライ(ハンセン病)のような重い病人をいやし、中風の人をも一声で立ち上がらせることすらできた神の子が、そんな恐れやもだえて苦しむようなことがあったのかと思われます。
 ここで、「ひどく恐れて」と訳されている原語のギリシャ語はエックサムベオマイという語で、マルコ福音書だけに四回用いられている言葉であって、この原語は驚くという言葉の強調形であるから、他の三回はすべてつぎの例でわかるように「非常に驚く」という意味で使われています。

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。(マルコ十六・5
群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。(同九・15

 そのため、このゲツセマネの祈りの箇所でも、「非常に驚いた時のように、心が乱れた」という意味が含まれていると考えられます。この箇所の他の福音書の並行箇所でもこの言葉は用いられておらず、マルコしか使わなかったということは、著者のマルコがいかに主イエスの苦しみ、悩みが並外れて深かったかを示そうとしているようです。
 あとの福音書記者(マタイ、ルカ)たちはこの言葉の持つ強い表現になじめなかったからではないかと思われるほどです。
 主イエスの生涯の中で最も激しい苦しみともだえにさいなまれていたその時、一番近くにいて三年間もともにしてきた弟子たちは、一人残らず眠っていた。しかも三度も見に来たがそのいずれも眠っていたと記されています。
 ここに、いかに主イエスが孤独のなかで、生涯最大の苦しみを戦っていたかが浮かび上がってきます。そしてひどく恐れ、もだえるほどに苦しんだということから、私たちと同じ弱さを持っておられたということがわかるし、このような点において、イエスは神の子であるとともに、人の子でもあられたということがよく感じられるのです。
 このことからつぎの聖書の言葉が思い浮かびます。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブル書四・15
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。(ヘブル書五・2

しかし、このようなゲツセマネの祈りにおける苦闘によって、主イエスは最終的な勝利をサタンに対しておさめることができたと考えられます。
 この箇所をしずかに読むときに、多くの人が感じる疑問は、弟子たちはどうして、すべてが眠りこんでしまったのだろう。裏切ったユダを除いて十一人もいたら、一人くらいは、目を覚ましている者がいるだろうと思われるのに、ということではないかと思います。
 主イエスが弟子たちと共に過ごす最後の夜に、主は、「弟子たちの一人によって裏切られる」と言い、「今夜、ペテロすら、明け方までに三度もイエスを知らないと否認する」と預言しました。しかし、そのような重大な時であるのに彼らはみんな寝てしまったのです。
 ここに、弟子たちがいかに弱いかがはっきりと記されています。この記事の目的は、一つには弟子たちの徹底した弱さを記すためであったのです。ペテロは命がけでついていくと誓いました。
「あなたと共に殺されることになっても知らないなどと言わない。」(31節)とまで言ったペテロでしたが、いとも簡単に、眠りこけてしまったのです。
 弟子たちに言われた言葉「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(十四・34)という言葉は、このゲツセマネの祈りのときに、弟子たちに言われた言葉であって、今の私たちには関係がないと思われる人が多いはずです。
 しかし、主イエスは、この「目を覚ましていなさい」ということを、他の箇所でも、繰り返し言われています。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。・・
だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。
目を覚ましていなさい。」(マルコ十四・3236より)

 なお、この「目を覚ましている」という原語はグレーゴレオー(gregoreo)といいますが、この言葉の重要性から、人名としてグレゴリウスという名が作られ、その名のローマ教皇は六世紀から十九世紀まで十六人もでており、またグレゴリウスという名のキリスト教思想家も多くいることも、この言葉の重要性を人々が認識していたからと思われます。
 さらにこの箇所はつぎのようなことを知らされます。
 ペテロは三度、主イエスを否認すると預言され、三人の弟子を連れていき、三度弟子たちのところに来て、祈りを促(うなが)された。このように、三という数字が多く用いられているのは、こうした悲劇的なこともすべて神の大きいご計画のなかにあったことを示していると考えられます。
 神は、人間の目から見て、はなばなしい勝利と見えることでなく、かえって、弱い、情けないような実態のただなかにその勝利をすすめていかれるということです。
 弟子たちも、主イエスご自身も最も深い弱さをまざまざと現したそのようなときにこそ、最も重要な勝利がおさめられたのがわかります。

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