ゆだねられたものを用いること ・タラントのたとえ・ 1999/10
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(マタイ福音書二十五章より)
このたとえ話はタラントのたとえとして、よく知られているたとえの一つです。これは、少し聖書に関わった人はよく知っているのですが、それにもかかわらず、このたとえの意味となると、わからないという人、あるいは、全くの誤解を持っている人が多いようです。
ことに、人間一人一人に与えられるタラントが違う、一人には、一タラント、別の人には、二タラント、他には五タラント与えられている人がいる。それなのにどうして自分だけ一タラントとしか与えられていないのか。
一タラントしかもらわなかった人が怒るのは当然ではないか。自分も一タラントよりもずっと小さい額しかもらっていないといって、不満や不平を持ち続ける人がいます。実際、最近もある人から、そのような疑問を出されたことがあります。
まず、神様が人によっていろいろのタラントを別々に与えることについて考えてみます。私たちの身の回りを見てみると、自然の世界、例えば身近な植物などの世界を少し注意深く観察すると、それが実に多様なものであることに気がつきます。松、杉、クスノキのような数十メートルにもなる大木から、小さな下草、シダや日陰に生える苔のような目立たない植物、またバラやチューリップのような大きく美しい花から、イネ科の草のように花びらのない花、さらには水中に繁る水草など、驚くべき多様性を持っています。
さらに同じシダ類においても、数十センチ程度のシダもあれば、沖縄にあるヘゴの仲間など八メートルに及ぶものもあるわけです。
これらは神からそれぞれのタラントを与えられていて、そのような変化を保っているということができます。それらを比較して松や杉などは大木になるからそのような植物だけが価値あるもので、コケなどは小さく目立たないから不要だというようなことではなく、それらさまざまの植物が互いにいろいろの場所、環境において生育しているのです。
これらは大きな神のご計画のもとで、配置されているということができます。
同様に、人間についてもみんな同じように創造されているのでなく、一人一人異なるものが与えられていること、それぞれに多様なタラントが与えられているのがわかります。 このようなさまざまのタラントを与えられているということは、神の大きいご計画のもとで深い意味があると思われますし、人間についても実に多様な人々がいるのも全体としてみるとき、神がそうした変化のある存在を必要とされているからだと思われます。
五タラントもらった者は出て行ってそれを使ってほかに五タラントもうけた。そして二タラントもらった者も同様にして二タラントをもうけた。しかし、一タラントもらった者はそれを使わないで、かくしておいたというのです。
多くの日の後、主人が帰ってきて、精算を始めた。五タラント預かった者は、ほかの五タラントを差し出して五タラントをもうけましたとあります。
しかし、一タラント預かった者は、主人が「蒔かないところから刈り取る」人だと言ってそれが恐いから、土に埋めて隠しておいたと言い訳をしました。蒔かないところから刈り取るとは、主人は自分では働かないのに、収穫をみんな持っていってしまうというところから来ている言い方です。私たちが働いても結局は死んだら終わりだ、神がみんな持っていくのと同じだというような意味だと思われます。
しかし、この一タラント預かった人の主人に対する気持ちは、特殊な気持ちではなく、誰にでもあることと言えます。それは、神に対する誤解なのです。この一タラント預かった人が、主人に対して、どんなに慈しみをもっているかをわかろうとせず、ただ一方的に悪く思っているだけなのです。それは、私たちが信仰を持たない限り、私たちに何が与えられているかを感謝せずにただ、不満を持っている状態と同様です。私たちはだれでも、自分が与えられているものを感謝するどころか、反対に、自分にはこんなものしか与えられていない、他の人にはあんなよいものが与えられているのに、といって不満や不平がいつも出てきます。そして神からゆだねられた賜物を神の国に用いようとせず、それを地のなかに隠しておくという状態になってしまいます。
主イエスもだれもともしびを灯して隠しておく者はいない。その灯を机の上に置いて周囲を照らすのだと言われました。
この一タラントを預かった者は、主人への反感を持っていたこと、つまり神への反感を持っていたということです。実際、現在の日本人の何と多くの人たちが私たちの主人というべきお方でもある神への反感を抱いていることか、と思います。そうした神に逆らう心の状態こそは、罪深い自然のままの人間の姿です。
しかし、私自身も、ある時に主イエスが心に住むようになってから、自分に与えられたことに対しての感謝がようやく芽生えてきたのを思い出します。
二タラントや五タラントをもらった人たちはキリストを信じるようになった人たちのことなのです。神から預かったものを用いて神の国のためにすぐに働くということは、神を信じているのでなければできないことです。
真に主イエスから大いなる恵みを受けたと実感する人は、このような人たちであって、さらに与えられたものを活かして用いようとするのです。多く赦された者は多く愛するという言葉があります。
また、ヨハネ福音書十五章には、有名なぶどうの木のたとえがあります。そこで言われていることは、「私につながっていなければ、何もできない」ということです。二タラントもらってすぐに働くために出かけていくというのは、主イエスにつながっている人のことです。
つぎにこの箇所で、ほとんどの人が疑問に思うことは、
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」という箇所です。
聖書のことをよく知らない人が、「これはアジアなどのように、富んだ国はますます豊かになり、貧しい国はだんだん持っているものを取り上げられて貧しくなる状況を言っている。聖書はこのような差別的なことを認めているのだ」などと勝手な解釈をすることがあります。たしかに表面的にこの聖書の言葉をとらえるとそんな意味にまちがって受け取る人もいると思われます。
しかし、これはもちろんそんな意味ではなく、神から預かったものをすぐに用いて神の国のために用いようとする信仰のある者は、ますます豊かに与えられるということなのです。
このことについて、主イエスがぶどうの木のたとえで話されたことがあります。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ福音書十五・5)
この有名なたとえで言われていることもほぼ同様です。「持っている者はいよいよ豊かに与えられる」というとき、持っているとは、何を持っていることを指しているのでしょうか。それは、主イエスに対する信仰であり、主イエスのうちにとどまることであり、それは主イエスとつながっていることであり、主イエスを内に持っているということなのです。そうすれば、「いよいよ豊かに実を結ぶように」主が手入れをして下さると言われています。これこそ「持っている者は、さらに与えられて豊かになる」という言葉と同じです。
この世は、目に見える世界のことを考えると、権力や金を持っているものは、貧しい人から奪ってますます豊かになると思われています。貧しい人は持っているものまで奪われてますます貧しくなると考えられています。
しかし、聖書はただ信仰を持って、真剣に求めていきさえすれば、だれでも聖霊が与えられ自ずから、ますます与えられて豊かになることを約束しているのです。
これは、例えば、人生の途中で失明しそれまで楽しんでいた職業や家庭生活、友人との交際、趣味などあらゆるものが失われていった人、また生まれつきの何らかの病気、あるいは交通事故その他で、全身マヒの障害者となっている人など、そのままでは、絶望的なほどになにもできないので、精神的にも落ち込む一方であった人が、キリストの福音に触れて、そこから生きる希望や力を与えられて、歩んでいくようになった人は数かぎりなくいます。かつて、ハンセン病(ライ)は文字どおりあらゆるものを奪われていく最も恐ろしい病気でした。病気の苦しみとともに、学校生活、家庭生活も奪われ、職業や結婚も失われ、隔離されて療養所に行くほかはなくなり、そこでも病がすすむとともに、手足の神経はマヒし、ついには手足の一部も切断、そのうえに失明にまでいたる人もいる恐ろしい病気です。これは文字どおり持っているものがつぎつぎと奪われていく病気です。
しかし、そのような中からキリスト信仰に導かれた人は、目に見えるものが失われていく一方で、目に見えない神の国の賜物、心の平安、生きる力や希望、新しいキリスト者どうしの交わりなどが与えられていったのをそうした人が書き残した記録で知ることができます。
このように心にキリストを持っていると、増し加えられるということは、別のところでも主イエスがたとえで語っています。
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ福音書十三・31ー32)
他方、もしある人が主イエスにつながっていないなら、与えられている能力まで次第に奪われてなくなっていきます。
それは、ヨハネ福音書でつぎのように言われている通りです。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五・6)
この言葉は厳しいように見えますが、実際このことは私たちの周囲にいくらでも見られることです。主イエスにつながっていなければ、日々かつては持っていたはずのよいものが確実に失われていきます。かつては、純真な心を持っていた人もそれがなくなり、かつては生き生きして働いていた人も、働く目標がなくなり、健康を失って、そうした生き生きした心を根底からなくしてしまった人、かつては、忍耐づよく、前途にあるものを求め続け、捜し続ける熱心を持っていた人でも、それらがみな失われてただ食べて生きているだけというような存在となってしまいます。
こうした状況こそ、主イエスが言われた、「枝のように外に投げ捨てられて枯れる」ということです。そして最後は文字どおり火の中に入れられて骨や灰となってしまいます。 持っていない者、すなわち、神とキリストへの信仰を持っていない者は、このようにますますかつて持っていたものまでも奪われていくのです。主イエスの言葉は恐ろしいほどに的中しているのです。
ここで初めに引用した聖書の箇所をもう一度見てみます。気付くことは、五タラントゆだねられた人も、二タラントの人もその与えられたタラントを用いて働いたときには、どの人もつぎのような全く同じねぎらいの言葉を主人から受けていることです。
主人は言った。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」
このことは、何を意味するのでしょうか。もし、私たちが主イエスに信頼し、主イエスを心に持っているときには、どんなに能力が恵まれていないように見えても、またいかに老年や病気などで身体の自由が不自由であっても、持っているその信仰を働かせることができるように導かれる。そのときには、健康なからだをもって、社会的に大きい働きをした人も、寝たきりの人もまったく同じように神から認められ、神の国の賜物を下さるということなのです。人間は外側の業績、目に見えるはたらきを見て評価するだろう。しかし、神はそのような目に見えることでは判断されず、どんなに小さいように見えても、与えられたものを神への信頼の心をもって使うかどうかだけを見ておられるというのは何と幸いなことかと思うのです。