天に至る階段 (創世記二十八章) 1999/11

 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。

とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。

すると彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。

見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。

あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がって行くであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ヤコブは眠りから覚めて行った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

そして、恐れおののいて言った。「ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
(創世記二八章より)


これは創世記においても特によく知られた部分の一つです。天が開けて天に至る階段が見え、天使たちがそれを上り下りしていたということは、子供の聖書物語でも必ず入っている内容で、昔の牧歌的ともいえる風景だと感じます。また、昔から絵画にもよく描かれており、ウィリアム・ブレイクもこのことを主題として印象的な絵を残しています。

 しかし、これは単なる昔の現実離れした童話などのたぐいでは決してありません。聖書には一見、何ら特別な信仰的意味がなさそうに見える箇所でも実は、今の私たちに深い関係のあることが多いのです。

 ヤコブとは旧約聖書では最も重要な人物の一人です。ヤコブの子孫からイスラエルの十二部族が生まれ、そのうちのユダ部族が残ってユダヤ民族という名称のもとにもなっています。

 そのヤコブとはどんな人であったか。それは聖書的な人物とは思えないという人もときどきいるように、私たちがふつう思い描くような聖者的人物とは違います。兄が外で猟をして空腹で帰って来たとき、長男の権利を食物を兄にやるのと引き替えに横取りしたとか、母の強いすすめで、兄から父の重要な祝福をだまし取ってしまったり、よい感じのすることではないようなことが記されています。

 そのために兄から激しい憎しみを受けるようになり、兄は「ヤコブをなんとしても殺してやろう」と考えるまでになったのです。そのままにしておくと兄弟殺しが生じるのを知った母ははるか遠くの親族のところまで逃げるようにと命じて送り出したのでした。

 ヤコブが夢の中で、天の階段を見たのはそうした逃避行のさなかであったのです。

 この時には、背後には殺そうとまで憎んでいる兄がありました。慣れ親しんだ家庭はもはやなく、あるのはただ、荒涼とした大地のみ。前途は遠く、未知の土地であり、途中にも何がおこるかわかりません。

 昔の旅とは苦しみと直接に結びついていました。

travel(旅行)とtravailとは同語源の言葉です。travail
産みの苦しみ、苦しい労働を意味する言葉です。これらの言語からも昔の旅が苦しみと同一視されていたのがうかがえます)

 何らの安全の保証もなく、将来の確たるものもなく、あるのは岩石や土の広がる荒野のみ。どこにも心を休めるようなところはありません。しかし、そうしたところに神は最も重要な啓示を与えたのです。

 ヤコブ自身もまさかそのような神の直接的啓示が与えられようとは思わなかったのです。人生の荒野のただなかにおいて神はしばしばその深い姿を現してくださいます。主イエスがもうこれから十字架にかけられて殺されるという時、血の汗を流して必死で祈られました。しかし、その時に天使が来て力づけたとされています。

 天に至る階段とは、以前の訳でははしごと訳されていました。しかし、この原語は旧約聖書では一度しか現れない言葉であって、ここでは階段がよりふさわしいと考えられています。

 天からの階段を天使が上り下りしていたなどといって一体今の私たちに何の関わりがあろうか、と多くの人々は思うでしょう。こんなおとぎ話のような古代の物語が今の私の苦しみや悩みを一時的に童話的内容にふれて気晴らし程度にはなっても、深い意味はなにもない、日曜学校の子供の話にはよいかも知れないが、自分には何の意味もないと多くの人は思ってしまうはずです。

 しかし、それはヨハネ福音書におけるキリストの言葉をみると、そんな子供向けの話ではないのがわかってきます。

 というのは、キリストを信じる者に与えられるよいことと言えば、一般の人々はどんなことを思い浮かべるでしょうか。健康、周りから好かれること、やさしい人間になる、力強い人になる、愛を持った人間に変わる、学ぶ意欲を強められる等々が思い浮かぶかもしれません。

 しかし、意外なことにヨハネ福音書において主イエスはふつうに予想されるそうしたことと全く違ったことが与えられると言われているのです。

 「ナタナエルは答えた。・ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。・イエスは答えて言われた。・いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。・

更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
(ヨハネ福音書一・4951

 主イエスを神の子と告白することは、信仰の根本です。神の子というのは単に神が作った子供という意味ではありません。神と同じ本性を持ったお方」といった意味を持っています。このことはどうしてわかるかというと、主イエスが神の子だと言ったら、当時のユダヤ人が「おまえは自分を神と等しい者としている」と言って神を汚したと言い、イエスを殺そうとまでしたことからもうかがえるのです。

 キリストが神の子であるというのは、人間みな神の子などと言われるような用法とは根本的に違った意味で言われているのです。

 ナタナエルという人が主イエスの短い言葉で、直ちにイエスがそうした意味で「神の子」である、すなわち何百年と預言されてきた救い主であると直覚したのです。ヨハネ福音書では事実上の最後の章にこう記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
(ヨハネ福音書二十・3151

 これを見てもいかにヨハネ福音書においてイエスを「神の子」と信じることが重要なこととしてみなされているかがわかります。それほど重要なことに対して、なぜ主イエスは「それよりももっと偉大なことを見る」と言われたのでしょうか。ナタナエルはイエスを神の子と信じることができたが、なおイエスはイスラエルの王であるという信仰にとどまっていました。単に大工の息子であって何の権力も見栄えもない人を見て、イスラエルの王だと直感的に召命されたのは確かに特別に啓示を受けた故だと考えられます。しかし、主イエスは単にイスラエル民族の王であるにとどまらず、人類の王なのです。こうした不十分なナタナエルの見たイエス像に対して 「もっと偉大なことを見る」と言われたのであろうと思われます。

 ヨハネ福音書において、イエスを神の子と信じる者に与えられる大いなることが、ヤコブの見た天に至る階段のを上り下りする天使たちの姿に結びつけられています。

 なぜこれが主イエスを神の子と霊の目で見ること(信じること)以上の大いなることであると言えるのでしょうか。

 人の子とはキリストのことです。キリストの上に天使が上り下りするのを見るとは、キリストの上に神の本質が天から注がれ、キリストを通して地上の願いが天に運ばれることを象徴していると理解することができます。

 また人の子キリストに結びつく者、すなわち一人一人のキリスト者にもこのことはあてはまると考えられるのです。私たちのキリストに生じるよいことは、キリストに結びつく人間にも生じることです。キリストの上に、天使が上り下りするのと同様に、キリストを信じる私たちの上にも天使が上り下りするのを見る(霊的に体験する)ということになるのです。これには、次のような意味が象徴的にこめられています。

 私たちの祈りや願いは天に運ばれて聞かれ、御心に留めて下さる、あるいは私たち人間の持っている様々の汚れたものが天に引き上げられて、処理され、清められるということも思わされます。十字架のあがないとは私たちの罪をイエスが身代わりに背負い、処理して下さったことです。それは言い換えれば、地上の罪を引き上げて取り除いて下さったということなのです。

 そして天から下って私たちのところに来るのは、聖霊であり、復活した活けるキリストにほかなりません。こう考えると、ヤコブの階段の夢は十字架のあがないと聖霊を注がれること、生きたキリストが私たちのところに来て宿って下さることをも思い起こさせる豊かな内容をたたえているのがわかります。十字架のあがないと復活のキリスト、聖霊、これこそキリスト教の中心です。だからこそ、これが「大いなること」だと言われているだと思われます。
 私たちの上に、この地上にたえず天使が上り下りして私たちの祈りを運んでもらい、地上の罪を運び去って頂きたいものです。 

 この箇所に関して、ヤコブの見た階段はそれがイエスご自身であり、ヤコブの夢によって神ははるか後に現れるキリストを預言しているのだとも言われてきました。確かに主イエスは、私たち人間と神を結ぶ架け橋ともいうべき存在だと言えます。

 キリストが和解となり、隔てになっているじゃま物を取り除いて下さったことはつぎのように記されています。


「ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、   彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。   

 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、    」 (エペソ書二章より)

 長い人類の歴史において神と人間とはあまりにも遠く離れていました。聖書はキリスト以前の時代がいかに神と人間が遠く離れていたかを詳しく記しています。その大きいへだてを取り除いてくれたのがイエス・キリストであったのです。

 神と人間との隔てを取り除かれるとき、人間同志の深い対立も解消されていきます。ユダヤ人と異邦人との根深い対立もキリストが来て下さったことによって根本から解消されるとパウロが述べているのです。 

 ヤコブはこの天からの階段の夢を見て次のように言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
(創世記二八章より)

 神など到底いるはずがないと思われるような荒涼とした砂漠のような所で、しかも孤独のただなかにいるヤコブのところに、神は現れた。神は私たちの日常生活においても、こんなひどい状態のなかに神はいるはずがないと思われるような状況においても、むしろそのような所だからこそ現れて下さる。これはなんと私たちに励ましを与えてくれる約束でありましょう。

 私たちの人生の砂漠においても病気や家庭の問題、人間関係等などいろいろの状況に追い込まれます。こんなところに神などいるはずがない、そう思われる時においても神はむしろそのただなかにいて下さり、現れて下さるということはすばらしいことです。

 そして「ああ、ここにも神はいて下さったのだ!」ということを知ることは私たちが知る最も深い喜びの一つであります。

 そしてヤコブが「なんと畏るべきところだろう!」と叫んだように、私たちも神との出会いにより、思いがけないところで神に出会うことにより、私たちは神は畏れをもって対すべきお方であるのがわかります。

 神は愛である、といってもなれなれしく対することはまちがっています。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ福音書四・24)と主イエスが教えました。神はすべてを見抜き、必ず背くもの、悔い改めない者には裁きを与えるということを知った者にはなれなれしくはできません。また罪深い自分をも赦し、さらに見えない神の賜物をもって自分を満たしてくれるのを体験したならば、私たちはただみ前にひざまずくだけです。

 こうした心はおよそなれなれしくするとかいう感情とは異質なものです。

 宇宙の創造主である神に対する畏れを知らない心は、自分が大きいと思っているからでありましょう。

 ヤコブはかつては兄をだまし、また父をもだますほどに厚顔な者でした。しかし、荒野の一人の苦しみにみちた旅によって初めて自分の小さいこと、神の無限と万能を思い知らされたのです。

 私たちも自分がひとかどの者であるとか、自分は偉いのだといった高ぶりが潜んでいます。そうした傲慢は苦しみや痛みを通してはじめて砕かれていくのです。ヤコブの天の階段の経験はそうしたことも私たちに暗示しているのです。

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