狭い門より 1999/11
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ福音書七・13〜14)
狭き門というのは、フランスの作家ジイドの小説の題にも用いられたり、大学入試は狭き門であるなどというマスコミでの用語とともに、広く知られています。しかし、それが聖書の言葉であるということ、そしてその意味についてはほとんどの人がはっきりとは知らないようです。
私たちが生きていく過程で、二つの門があり、二つの道があると言えます。一つは狭い門であって、そこから続く道は細い、しかし、他方の広い門とそこからの道は広くそれは多くの人が通っているというのです。
狭き門とはどんな門であるかについては、聖書ではそれが有名大学入試が狭き門であるといわれるような意味では全く言われていないのです。それは、その狭い門が「命」へと通じていると言われていることからわかります。ここで「命」というのは、生物としての命でないことは、わかります。犬や猫などの動物が持っている命はなにも狭い門から入って達する必要などありません。生まれたときから持っているものです。
ですから、ここでいう命は、別の箇所で言われている「永遠の命」であり、神が持っているような命のことです。それは目には見えないものでありますが、肉体が死んでも残るような命なのです。そのような命があるからこそ、主イエスは、つぎのように言われたのです。
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ十・28)
ですから、狭き門とそこから続く細い道とは、この聖句の少し前に出てくる「まず、神の国と神の義を求めよ。」という言葉と深いつながりがあるのがわかります。神の国と神の義を求めるとは、人間の自分勝手な欲望とか自分中心的な考えで物事を追求していくのでなく、宇宙の創造主であり、完全な真実と正しさ、そして愛を持っておられる神の御支配や、そのような神が求められるものを第一に求めていくことです。
まわりの人々の考え、テレビ、新聞、雑誌などにあふれている考え方にそってものごとを考えていくのでなく、それら全てを越えたところの神の御意志に照らしてものごとを考えていく姿勢を言っているのです。
みんなが目に見えない神などいない、真実と愛に満ちた神などいないといっているただなかで、そのような神を信じていくこと自体が、狭き門から入ることであり、そのような神を信じて生きることが、その門から続く細い道を歩くことにほかならないといえます。
逆に広い門から入るということは、神などいない、だから金とか富、地位、あるいは世間の評価などが第一に重要だといった考え方、嘘をついても見つからなかったらよいのだ、まず自分中心に考えて行動することだ、などといった考え方を持って生きようとすることは、みな広い門から入ろうとすることであり、広い道を歩くことになります。
しかし、そうした考え方で生きるとき、滅びに至ると言われています。それは、私たちの内にある純真なもの、正しいもの、真実な心といったものは、確実になくなっていき、ついにはあとかたもなく消えてしまうということです。
そして最後は死んでしまったら、そのような魂は、死後になんらかの裁きを受けることになると思われます。さばきなど受けることはないという人も多いのですが、そのような人は、実は生前からすでに裁きを受けているわけです。なぜかというと、そのような考えでは、心に清い喜びとか、平安、あるいは、内から湧き出る泉のようなものを決して経験することはできないからです。そしてそのような喜びや平安こそ人生で最大の宝であり、なににも代えることのできない宝だからです。
永遠の命が与えられると、こうした内なる喜びや力などが生まれると約束されています。そうしたものは、神から来ているのであって、肉体が死んでもなくなるのでなく、かえってそのような清い喜びの満ちたところに移していただけるという確信が与えられのです。
いくら富や権力があっても、真実な神に背を向けているなら、そのような喜びや平安は決してその人の心に訪れることはありません。それが、すなわち裁きです。
大学入試での狭い門というのは、それを通っても決して、聖書で約束されているような「命」すなわち永遠の命へとは通じていません。数学や英語などの教科の成績がよかったら、また、有名会社に入りさえすれば、狭い門を通っていくことだという考え方がふつうですが、それこそ広い門から入ることであり、広い道を歩んでいくことにほかなりません。
こうした狭い門そこから続いている細い道のことは、聖書では多くの箇所で、いろいろの表現がみられます。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ福音書十五章より)
私たちは、何かに結びついているし、何かの中にいつも置かれています。例えば、周囲の流行とか、考え方、政治や伝統、習慣といったものが気付かないうちに、私たちを包み込んでいます。
そうしたものに包み込まれて、考え方も感じ方もそれらの中からなかなか出られないという状況になっています。
しかし、主イエスは、そのような大多数の人たちがつながれているものでなく、主イエスにつながっているようにと言われています。それは、ほとんどの人がかえりみない生き方であるけれど、それこそ狭い門から入ろうとすることであり、狭い道を歩むことになるというのです。
門は、狭く、道も細い。しかし、その行き着く先には、無限の広く深い世界が待っているのです。この道を歩んでその約束通りに「命」を与えられた使徒パウロは、その広く深い世界のことを次のよう述べています。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(ピリピ書三章より)
狭い門とは、言い換えると「神の意志」を求めていく生き方であると言えます。いくら信仰熱心にみえても、それが自分の人間的な欲望とか名誉心とか、他者を見下す気持ちにつながるのであれば、それは、神の御意志でなく、人間の意志でやっていることになります。 このことに関して主イエスはつぎのようなたとえを話されたことがあります。
ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でなもないことを感謝します。
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。」(ルカ福音書十八・10〜14)
このたとえで示されているパリサイ人とは、どん欲でも不正でも、この取税人でもないといったし、毎週二回も断食して、全収入の十分の一を捧げているというのだから、外見的には、熱心な人であったと思われます。しかし、その熱心は、神の御意志を求めるのでなく、自分が自慢したり、誇るためであったのです。そのような心は人間的な自分中心の意志に従っているということになります。
しかし、そのような立派にみえる行いはできていないが、心から「神様、罪を犯してしまう自分を赦して下さい」と心から悔い改める心を神は喜ばれるというのです。それは、そのように心砕けて神に悔い改める心は、神の御意志にかなった心です。
山上の垂訓という、聖書で最も有名な箇所のしめくくりとして、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と述べて、神の御意志を行うことの重要性が述べられています。
狭い門か広い門かを選択する機会とは、私たちが朝起きたときから始まっています。まず目覚めて私たちが最初に心に思うことは、何であるのか、神の国の方向に心を向けようとするか、それとも、自分の人間的な思いや、日常の雑事とかに心を向けていくかということです。
そのとき、まず神の国の方に心を向けるなら、すでに一日の初めに狭い門をくぐったことになります。
そして一日の初めに目を通す印刷物が新聞なのか、それとも聖書やそれに類する書物なのかによっても、一日に歩む道が決まってくるわけです。後者の聖書などをまず目に留めることや、そこからたえず神を仰ぎつつ一日を歩んでいくとき、その狭い門から続く狭い道を歩んでいくことになります。
このように考えると、私たちは、だれでもが強制されることなく、自分で狭い門と細い道を選んでいくことに気付きます。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(ヨハネ十・9)
この主イエスの言葉にあるように、私たちが狭い門を選ぶということは、主イエスを信じて主イエスを仰いでいくことであり、そうすれば自ずと狭い門を通り、狭い道を歩いていくことになるというのがわかります。そんな窮屈なことはいやだという人も多くいる、というより大多数だと思います。
しかしそのような狭い門を通っていく者は、右にあげたヨハネ福音書における主イエスの言葉が示しているように、「門を出入りして、牧草を見つける」のです。広い世間の人たちがあるく道を行くときには決して与えられない牧草、すなわち目に見えない賜物を下さるということです。その命の牧草の味わいをしっかりと実感したもの、そしてその牧草によって新しい力を与えられ、喜びをも知った者は、決してその狭い道を捨てて、世間一般の広い道を歩もうとはしなくなると思われます。
生涯この道を歩き続けた人で、それを後悔した人はかつて一人もいないとある、有名なキリスト教思想家は書いていました。
狭い門から入れ、この言葉は、同じ山上の垂訓で、別の表現でも言われています。それは、「まず、神の国と神の義を求めよ。」(マタイ福音書六・33)です。
そしてこの言葉は、さらに有名なつぎの言葉、「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、開かれる。」(マタイ七・7)ともつながっていると考えられます。
求めよ、そうすれば与えられるなどといっても、与えられないではないか、私はずっと前から○○を求めているのに、全然与えられないとかいう批判をよく耳にします。たしかに、一千万円を今、下さいなどといくら求めても与えられるはずはなく、病気に苦しむ人がすぐにいやして下さいと求めても癒されず、そのまま病気が重くなって死んでいったということもいくらでもあります。
しかし、それは求めるものが間違っているからです。神の御意志と関係なく、金や病気いやし、入学とかのことを求めても、与えられないのは当然です。
ここで言われているのは、狭き門を入っていく人、そしてそこからの細い道を通って行こうとする人が、彼方の光を見つめつつ、求め、探したたくときに、その細い道を歩くために必要な力や導き、平安などを与えられ、狭い道であるのに、広く開かれた世界へと導かれるという約束なのです。