戸口に立つキリスト 戸口に立って (黙示録三・14〜22) 2000/2
『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
耳ある者は、(聖なる)霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」』(黙示録三・14〜22より)
ヨハネの黙示録は、多くの人々にとって不可解な書物です。この書物を読んで心が励まされるとか、慰められるという人は他の新約聖書のようには多くないのです。しかし、わかりにくい表現があるからこそ、他の聖書からは得られない真理もまた記されているのです。
黙示録という名称からして、「沈黙して、示されたものを記録したもの」といった意味を感じます。しかし、黙示録のもとの題(ギリシャ語)は、apokalupsis
といって、これは、「被い、ベールを取り去る」という意味です。
(apo 〜から、kalupto 被う、かぶせるの意で、apokalupto とは、ベールを取り去るという意で、その名詞形がここで使われている語。)
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。(マタイ十一・25)
この例では、「黙示録」と訳された原語の動詞の形が、用いられています。真理を幼子のような者に示したという意味です。これは、ほかの人にはベールがかかって見えないが、幼子のような者にはそのベールを取り去って見えるようにしたと言う意味になります。
このように、黙示録などというと、暗闇とか沈黙とかが混じりあってなにか神秘的な暗いイメージを連想しがちですが、じつは神が人々にかかっているベール(被い)を取り去って、他の人には見えない真理を示した(啓示した)
という書物なのです。
この黙示録の最初に、小アジア(現在のトルコに含まれる)の七つのキリストの集会に宛てた手紙が記されています。この地方は、初期のキリスト教の中心となった地方なのです。
それらのうちの最後が今回引用した箇所で、ラオディキアという町のキリスト者たちに宛てたものです。
この手紙では、まずこの手紙を書き送るように命じた主イエスがご自分がどんな存在であるかを知らせるという形をとっています。
まず、「アーメンである方」と言われています。アーメンという言葉は、ヘブル語で新約聖書では百二十八回も用いられていますが、日本語訳の聖書を読んでいると、どこにそんなにアーメンという言葉があるのかと不思議に思われるはずです。
このアーメンという言葉は、例えばつぎのように、「はっきり」という訳語で用いられているのです。
・イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり(アーメン)言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。(マタイ八・10)
・はっきり(アーメン)言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ十・42)
以上のように、アーメンという語は、主イエスがとくに重要なこと、真理にかかわることを話すときに、用いられています。
この言葉は、数千年も昔から使われていた言葉で、このヘブル語のもとになっている言葉は、アーマン(aman)という語であって、これは「堅固にする」という意味を持っています。それでこのアーメンという語も変わることのない、堅固な、真実なという意味になります。
この世で最も堅固なもの、変わることのない存在は神ご自身です。だから、旧約聖書でも、「アーメンの神によって祝福され」という言葉がでてきます。(イザヤ書六十五・16 これは、日本語訳では、「真実の神によって祝福され・・」となっています。)
このように、主イエスに対して「アーメンである方、誠実、真実な証人・・」と言われているということは、いかにこの黙示録を書いた長老ヨハネが主イエスの真実さ、変わることなき、誠実さを深く感じたかを指し示すものです。
つぎにイエスのことを、「神に創造された万物の源である方」というように言っています。主イエスがいかなるお方であるのか、それは古代から大きな問題でありましたが、現在でもその重要性は変わりません。
黙示録の著者は、第一章で、神のことを「私はアルファであり、オメガである。」
(黙示録一・8)と言っています。そして最後のほうの二十二章では、主イエスが「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録二十二・13)と言っています。
このことからも、著者ヨハネは、神とイエス・キリストとを同じ本質をもったお方であり、キリストもじつは神ご自身の現れなのだと言おうとしているのがうかがえます。
ここでラオデキアの教会(聖書では教会とは建物の意味でなく、キリスト者の集まりを意味する)に特に言われているのは、「なまぬるさ」ということです。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(15〜16節)
なまぬるさというのは、飲物でも嫌われる、同様に神もキリスト者のなまぬるさを嫌われるというのです。黙示録が書かれた当時の迫害の時代にあってはとりわけ、信仰をはっきりとさせ、熱心であろうとするときには、きびしい迫害を受けることを覚悟していなければならなかったのです。それゆえ、「熱くある」ということは、相当な覚悟を要することでした。
そうした当時の状況においてどうしてキリストを知った者であるのに、神への熱い心を持てないのか、その原因をキリストはつぎのように述べています。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。(17節)
私たちが自分に満足して自分が持っている能力や、財産、生活で満足しているとき、そこには、キリスト者であっても熱心が生まれないというのです。神への熱心、真実への愛とは、自分自身が惨めなもの、哀れな者、貧しい者、目の見えない者であることを深く知ったところから始まるというのです。
これは多くの人たちの常識とは逆です。たいていの人は、自分の弱さを見ないで、自分の力や能力、あるいは努力を信じるということ、すなわち自信を持つということで力を得ようとしています。
しかし、そのような自分の弱さに顔をそむけて自分のうわべの強さだけを見ようとする姿勢からは決して本当の永続的な力は与えられないのです。
学校とか一般の生活のなかでよく自信を持てと言われます。しかし、自信とは文字どおり自分を信じることです。それなら自分の何を信じるのかということになります。自分の能力か、判断力か、自分の経歴か、自分の経験、自分の財産、自分の健康か・・、自信を持つとはこのようなものを信じることです。
しかし、病気でたえず苦しんでいる人、寝たきりでいつ死ぬかもわからない人はどうして自分の能力とか健康、財産に自信を持つことできるでしょうか。
あるいは、死とか老後に対して、あるいは突然の事故や、ガンの宣告などに対して揺るがぬ自信を持っているなどと確言できる人はいったいいるでしょうか。
死を迎える苦しみのとき、いったいいかにして人は、自分を信じることができるのか、そのような時に自分を信じるとは何を信じるのでしょうか。神とかを認めず、信じることもしない人にとって、死とは無になることであり、無になる自分を信じるとは意味のないことと言わねばなりません。
このように、自信(自分を信じる)ということはよく考えてみると到底持てないはずのものです。学校で先生から自信を持て、とよく言われますが、その先生自身もじつは弱い人間にすぎないのであって、いつも不安とかおそれを持っている存在にすぎません。
「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者であることがわかっていない」これは、現在の私たちにもそのままあてはまることです。このことを深く知ることからキリスト教は始まるといってもよいほどです。
自分が正しいことも、真実なことも、愛にかなったこともまるでできないことを思い知らされたとき、自分のなかにはなんら頼るべきものはないと知ったその心こそ、新約聖書の最初に置かれているマタイ福音書の最も有名な山上の垂訓の冒頭にある言葉にほかなりません。
「ああ、幸いだ、心の貧しい者は!なぜなら、天の国はその人のものだからである。」 このように、新約聖書の最初から、最後の黙示録にいたるまで、一貫して聖書はこのように自分自身の弱さや貧しさを深く知ることを特に重要なこととしています。失われた一匹の羊のためにキリストは来られたという言葉があります。それは、正しい道がわからなくて迷い込んだ人という意味だけでなく、自分の弱さを深く知らされた者のためにキリストは来られたということでもあります。
そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金をわたしから買いなさい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買いなさい。(18節)
私たちにとっての真の豊かさとは、物質的豊かさでなく、精神の世界にあります。それは現在の日本は歴史上で最も物質的に豊かとなりましたが、精神的に決して豊かになったとは言えず、むしろその逆であることは数々の驚くべき事件とか現代の風潮などで感じられることです。
正しいことに対して敏感であり、清い心や真実な心を重んじる風潮は退化していると思えるほどです。
それは、子供たちから青年、大人一般が読む週刊誌やマンガ、雑誌などを一つとってもはっきりとわかります。それらに見られる内容が破壊や殺人、闘争など、さらに性に関わる刺激的なものがはんらんしていて、そうしたものを読むことは、そのような世界が読む人の心にいつもあることを思わせるものです。
こうした状態は黙示録に言われている状況とよく似ています。私たちにとって精神的に真に豊かになるために、どうしたらよいのかそれが「火で精錬された金」を買うことだといいます。精錬とは金属から不純物を取り除くことであり、金はどのような薬品にも、自然の風化にも侵されないでその品質を保つ物です。だからその意味は、いかなる不純物も混じっていない、永遠に変わらないものというような意味になります。
聖書において、それは神の国の賜物であり、聖霊によって与えられるものであり、またイエス・キリストご自身でもあります。
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・16)
と言われている通りです。
また、「裸の恥をさらさないように白い衣を買う」とは、罪に汚れたままの姿でなく、それを清めてもらいなさいということです。裸のままとは、人間の自然の本性のままということで、それは自分中心であり、利己的な醜いものです。それを清めて頂くことをこのように白い衣を着るという表現で言い表しています。他の箇所でも、
彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(黙示録七・14)と記されています。
私たちにとって白い衣とは、キリストが十字架で死んで下さったことを信じることによって受けられるものなのです。
つぎにヨハネは「見えるようになるために、目薬を買いなさい」と言っています。この手紙が書かれた小アジアのラオデキア地方は、実際に目薬で知られていたといいます。そのようにだれもがイメージを浮かべやすい言葉を用いて語りかけているのです。
見えるようになる、これこそ、すべての人がじつは願っていることです。私たちは、人間の本当の生きる目的が見えない、自分の将来がどうあるべきかが見えない、人の心が見えない、自分自身が何であるかも見えない、自分の罪深い本質も見えない、私たちの周囲を取りまく自然のなかに込められた意味が見えない、死んだらどうなるのかその先が見えない、神の国や神の力も見えない等など、私たちの悩みや苦しみの原因はよく考えてみると、すべてこのように「見えない」というところに原因があります。
そこでヨハネはこのように見えるようになるために、「目薬」を買えと勧めるのです。私たちにとっての目薬とは何かが問題になります。
キリストは見ることについて次のように言われました。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書三・3)
新たに生まれるためには、心を人間から方向転換して神に、キリストに向けることであり、そこから神の霊(聖霊)を受けていくことです。聖霊こそは、神ご自身の現れであり、神の万能のまなざしの一部を私たちも頂くことができるからです。
戸口にて戸をたたく
私は戸口に立ってたたいている。だれでも私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者とともに食事をし、彼もまた、私とともに食事をする。(20節)
これは、神への真実な姿勢がゆるみ、信仰がなまぬるくなっている人々に対しての呼び掛けです。すでに信仰を持っていながら燃えるような何かを感じなくなってしまうということは、よくあることです。それに対してキリストはつねに戸をたたいていると言われます。
かつて主イエスは「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」という有名な約束を語りました。しかし、私たちが門をたたくその前から、キリストはいつも私たちの心の戸をたたいていると言われています。ここに神の私たちに対する愛があります。
目に見えないキリストあるいは神が私たちの心の戸をたたいているなど、どうしてわかるのかという人がいると思います。そのたたく音を聴こうとすることが「祈り」です。私たちは今も生きて働くキリストが私たちの心の扉のすぐそばにいて下さって、その戸をたたいて下さっているのを知らないとき、私たちが他人の関心を引こうとして、いわば他人の心をたたき続けます。自分に関心を持ってほしい、自分を好いて欲しい、自分の友達、あるいは後押しする者になってほしいなどなどです。人間社会のさまざまの醜い出来事は政治の世界も含めてたいていこうした他人の心を自分に引き寄せようという考えと結びついています。
しかし、もし私たちが心の扉を開くなら、キリストは私たちの心の内に入って下さってともに住んで下さる。そしてともに食事をするとまで言われています。ともに食事することはつよい結びつきの象徴として言われています。食事を共にすることはよく聖書に出てきます。主イエスが十字架につけられて処刑される前夜に最後の夕食をしたことは、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の絵画によって広く知られていますが、そのほかにも復活したイエスも弟子たちとともに食事したことがルカ福音書(二四章に二カ所)にもヨハネ福音書(二十一章)にも記されています。
主イエスとともに食事をする、すなわちそれは単に現在の私たちが目には見えないけれども、生きているキリストと深い交流を与えられるということにとどまるのでなく、世の終わりに与えられる神の国において、豊かな神との交わりを与えられるという終末的な希望と約束をも指し示しているのです。
勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。(二十一節)
さらにキリストは、戸を開いてキリストを受け入れる者をキリストがついている王座にともに座らせるとまで約束しています。これは驚くべき約束です。キリストとともに目に見えない食事をすることを許された者は、最も高いところに引き上げられて祝福の世界に招かれるということです。
このことは、たんに将来の約束であるだけでなく、現在の私たちにもその一端を味わうことが許されているのです。
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