ただ一言を (マタイ福音書八章5〜13) 2000/7
さて、イエスがカファルナウム(*)に入られると、一人の百人隊長(**)が近づいて来て懇願し、
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブ(***)と共に宴会の席に着く。
だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。(マタイ福音書九・5〜13)
(*)ガリラヤ湖の北の町
(**)ローマの軍隊の100人の兵隊の指揮をとる隊長。
(***)アブラハムは紀元前一九〇〇年頃の人。唯一の神を信じて生きた姿が旧約聖書に詳しく記されている。イサクはアブラハムの子で、ヤコブはイサクの子。ヤコブはイスラエルという名をも与えられ、これがイスラエル民族の名称にもなった。
この記事からわかるいくつかのことをあげてみます。
(一)小さき者への心
この百人隊長は、自分自身のことでなく、使用している僕のため、病気で苦しんでいるそのためにわざわざイエスのところに来て、懇願しています。奴隷のような身分であった僕のためにわざわざ、ローマ人でもないイエスのところに行って真剣に願うということは、僕への愛が特別であったことを示しています。
(二)イエスの前での謙遜さ
この百人隊長は、支配している民族であるイエスに対して懇願しています。これは、意外なことです。かつての日本は朝鮮を支配していました。その日本の将校が自分の家で使っている召使いの病気のために、韓国人の所に行って懇願するということはなかなかむつかしいことだったはずです。今もなお、朝鮮半島の人たちへの偏見が相当あることを考えればなおさらです。
百人隊長は自分の家にイエスを迎え入れるにはふさわしくないと思っていたほどに謙遜だった。そのような砕かれた低い心にこそ、イエスは来て下さる。その力ある言を与えて下さる。
このように、他者への愛をもって、そのことのために心低くしてイエスの前に出るとき、イエスは力ある一言を与えて下さる。そしてイエスの言こそは、神の力を帯びているのであって、ただ一言を私たちが受け取るとき、そこには何らかのはっきりした変化が生じるということです。
私もかつて、そうした一言で進路を変えたり、なすべきことを決断したことがありました。そうすると、たしかに不思議なこと、予想していなかったことがおこって良い方向へと事態が動いて行ったことが何度か思い出されます。
日曜日ごとの礼拝や、各自の朝の祈りにおいても、聖書の学びにおいても、また訪問などにあっても、まずイエスの一言を求め、そこから始めるときに、神ご自身がはたらいて下さると信じるのです。
この世には、人間の言葉は洪水のようにあふれています。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、小説、週刊誌等など。しかし、それらは、人間の言葉であるという点で共通しています。言いかえるとそれらは、人間を救う力がないということです。しかし、人間にとって何よりも必要なのは、人間の思いを越えた神の言葉です。神の意志を知ることなのです。
ここに、常識的な考え方とは全く違った世界があります。ふつうに考えると、私たちの意志で物事を考えてするのが最もよいこととされています。他人の意志や考え方についていくのでなく、自分で考え、自分で行動することにまさるものはないと考えているはずです。
しかし、聖書の世界では、そうした常識的な考え方では思いもよらない考え方が示されているのです。
常識的考えとは、神などいないという考え方です。そこでは最も頼りになるのは、自分の考えだということになります。あるいは、優れているとされている人間の考えです。
しかし、神が存在するということになると、全く違ってきます。神とは、人間のいかなる考え方より無限に高く、また深いからです。そして聖書でいう神とは、真実な愛の神であり、完全な正義の神であるのであって、そういったお方がいるのなら、その神の考え、意志が最もよいということは当然だということになります。
どのような事態に直面しても、なお、神の御意志を信じること、自分の意志でなく、神の意志を求めること、ゲツセマネのキリストはそうであったのです。自分の人間としての気持ちがどんなに許さないことであっても、それが神の御意志である場合がある。
そのとき、その神の御意志に従うことこそ、究極的な私たちのとるべき道だということになります。
ここでの、百人隊長の心は、そのような神の意志(ここではキリストの意志)に絶対の信頼をおくということです。
このような絶対的なイエスに対する信頼がどうして生まれたのか、聖書ではなにも語っていません。当時、イエスの生まれ育った国は、ローマ帝国の支配を受けていました。植民地であったわけです。そうした支配を受けている民族のせいぜい三〇歳ほどの少し前まで大工の息子であったイエスに対して懇願するということ自体、不思議なことです。医者でも何でもないイエスに対してこれほどの信頼を寄せるのはどうしてだろうかと思うのです。
そしてイエスがすぐに「私が行っていやしてあげよう」と言われたのに、来ていただくのに自分はふさわしくない、ただ一言を下さい。そうすれば癒されると、驚くべきイエスに対する信頼を表したのです。
ただイエスの一言あれば足りる、ここには、なんと深い主イエスへの信頼があることか。言葉はその人の内にある意志の現れです。その人の一言への信頼は、相手の意志への信頼にほかならないのです。それゆえ、百人隊長が主イエスの真実を心から信じていたことも意味します。私たちは、ある人の真実さ、誠実さを信頼すればするほど相手の一言を受け入れます。政治家などは選挙のときだけ、いろいろな聞こえのよいことを言いますが、多くの人はそれを信頼していないと思われます。
二千年前に実際にイエスが生きておられた時にはそのイエスへの信頼を持つことができました。しかし、目に見える形でのイエスには会うこともできない現在の私たちにとって、この百人隊長のイエスへの信頼の心はどんな意味があるのでしょうか。
目で見える人間のすがたをしたイエスには、たしかに会うことはできないけれども、信じる者の心の内に住んでくださる主イエスがおられる。そして、今も目には見えないけれども聖霊としておられるキリストがおられる。
私たちも、そのようにして今も存在しているキリストを心から信じていくならば、イエスの一言が必要なときに与えられ、それが困難に向かう力となり、前途を導く光となってくれるのです。
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