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緑の牧場に  (詩編二十三編)  2000-7-3

主はわが牧者、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを緑の牧場に休ませ、憩(いこい)の水際(みぎわ)に導き、わが魂を生き返らせて下さる。

主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
たとえ死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださるから。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

あなたは、わが敵の前で、わたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追いかけてくる。
私はいつまでも主の家にとどまるであろう。

 この詩は、旧約聖書におさめられている多くの詩編の中でもとりわけ愛され、深い共感をもって読まれてきた詩です。
 例えば、イギリスの十九世紀の代表的なキリスト教伝道者の一人であったスパージョン(*)は次のように言っています。

 これは、ダビデの聖なる牧歌である。・中ヲ彼は枝を広げる木の下に座り、まわりには、自分が養っている羊たちがいる。・中ヲ私たちは、ダビデが心からの喜びに満たされてこの並ぶもののない牧歌を歌っているのを思い浮かべるのである。あるいは、この詩が後のときに作られたものであるなら、私たちはダビデが一人きりの祈りのなかで、若き日によく休んだことのある、荒野のなかの牧場において流れる谷のほとりに導かれたのだと確信するのである。
 これは、詩編のなかの真珠であり、その柔らかく純粋な輝きはあらゆる人の目を喜ばせるものがある。・中ヲこの喜ばしい詩においては、信仰深い心と詩的感情とは一つになっており、その優雅さと霊性は比類のないものだと言えよう。(「THE TREASURY OF DAVID」 Vol.1-353p)

(*)スパージョンは、十九世紀イギリスの伝道者。詩人的傾向をも深く備えていた。十九歳で牧師となり、初めは100人にも見たなかった出席者がまもなく千五百人を越え、さらに六千人を収容する大会堂の建設に至るまでとなった。彼が教会で語った聖書のメッセージはつぎつぎと書物となって発行され、現在も需要が続いている。詩人的傾向のつよかった彼は、旧約聖書の詩編の注解に特別な力を注ぎ、「ダビデの宝庫(THE TREASURY OF DAVID)」として、自分の解きあかしとともに、内外の多様な注解書や著作家からの引用を集め、英語版では全三巻、三千ページ近い大冊となって発行されている。右にあげたのは、その著作の中からの引用。

内村鑑三もこの詩について、やはり「真珠」であるとし、つぎのように述べています。

 詩編第二十三編は旧約聖書中の真珠である。キリスト者であってこの詩がその口よりおのずから流れるように出てくるのでなければ、まだ深く聖書を味わったとはいえない。この詩は新約聖書における「主の祈り」とともに、信徒がつねに心に命じて暗唱すべきものである。(「聖書の研究」一九一九年六月)
 また、内村も若いときに親しんだ、注解者として有名であったアルバート・バーンズもその注解のなかで、「この詩はつねに実に見事な美しさをもった詩だと見なされてきた」ど書いています。

 この詩編は、無数の人々から愛され、また心を新たな思いにさせてきた詩、高い評価を受けてきた詩であり、少しでも私たち自身のものとするために、より深く学びたいと思うのです。
 牧者とは、羊飼いのことであり、羊を草や水のあるところへと導く者です。この詩の作者が住んでいたところは、ユダヤ地方であり、日本とはまったく違った乾燥地帯であって、草が生えているのは一部のところであり、まばらに一面の砂漠同然のようなところにも羊がいます。そのようなところでは、適切な牧者がいないなら、羊は草のまったくない場所に行ってしまい、水もなく、死んでしまいます。
 以前に読んだ聖地の記事にも、つぎのように書いてありました。(今から五十年ほど昔に書かれたもの)
「羊の一群が羊飼いに伴われて移動しているのが見えた。しかし、どこに草があるのだろうといぶかしく思ったほどに、付近は羊たちが食べる草すら見あたらない。それで辺りをずっと見回すと、はるか遠くにようやく少しの緑が見えた、そんなわずかな草のために遠いところまで連れていくのを見た。」
 聖書でなじみのある土地の雨量をみると、エルサレムはやや多く五六〇ミリ程度、ベエルシバや、エリコはそれぞれ年間雨量は二〇〇ミリ、一四〇ミリという状態です。
 日本では、例えば高知市は年間で二六〇〇ミリを越えるし、東京都でも一五〇〇ミリほども降ることから考えると、いかに聖書の舞台となった地方は雨が少ないかがわかります。
 日本のような雨の多い地方では、この詩が作られた地方がいかに乾燥していて、緑の草原がどんなに貴重であるか、また水がどんなに大切であるかがわかりにくいのです。
 緑の牧場、水際へと導いて下さる神は、まさしく最も重要なものを与えて下さるお方であるということが示されているのです。

 「主が私の牧者、導き手である。だからこそ、私には乏しいことはない」と詩人はこの詩のはじめで述べています。この詩の根本的内容は、この初めの言葉に凝縮されているのです。何が私たちの導き手となるか、それで私たちの主がは決まるのです。
 ほかのあらゆる導き手には、一時はよいものであっても、必ずその後にばかりついていくと何かよくないものが生じてくる。しかし、神が導き手であるなら、深い満足と喜びを与えて下さるがゆえに、私には乏しいことがないと断言できたのでありましょう。
 それではなぜ乏しいことがないのかをつぎの節でくわしく述べています。

主はわたしを緑の牧場に休ませ、憩(いこい)の水際(みぎわ)に導き、わが魂を生き返らせて下さる。

 この詩の作者は、自分の生きてきたその歩みが神によって導かれてきた人生であることを知っていたのがうかがえます。私たちの一生とは、導かれる人生なのです。
 私たちは結局、自分の意志や力で生きていくか、それとも自分以外の人間や組織、慣習などのままに動かされて生きていくか、それとも人間を越えた真実な神に導かれて生きて行くか、そのいずれかであることを知っていたのです。
 本当の人生とは、そこに静かな満足と平安が与えられるものであり、神によって導かれる人生こそがそれであると言えます。
 朝、起きてまず神によって新しい一日が導かれるようにと願うことによって始まり、仕事のただなかにおいても神の導きを見つめつつ働く。そして夜には、神による一日の導きを感謝しつつ床につく。そしてこうした神の導きは、どこまでも範囲は広がって行きます。聖書に示されている神は、宇宙万物の創造主であり、時間や空間を越えたお方であるため、その導きとは、宇宙万物をも含み、そして過去から現在、そして将来にむかって働くものです。
 自分を導いて下さる神は、決して自分だけを導くのでなく、神を信じて従うあらゆる人たちを導いていくのであり、そうしたすべての人々を一つの群れとして導き、神の国への歩みをすすめていくのです。

わたしは良い羊飼い(牧者)である。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。・中ヲ
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(ヨハネ福音書十・14〜16より)

 乏しいことがない、それは言い換えると魂を深く満たしてくれるということです。これは、キリストの時代からあとにさらにはっきりと語られるようになりました。
 ヨハネ福音書ではその初めの重要な箇所に、イエスは「恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ一・14)と述べて、さらに「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(同・17)と言われています。
 私には何も欠けることがない!
 このことを、はっきりと断言できる人はどれほどいるだろうかと思います。一時的には言える人はいくらでもいます。自分にふさわしい仕事を持ち、よき家庭、友人に囲まれ、幸いな結婚に恵まれているような人、あるいは、心が狭く、人生の苦しみや闇を知らない人がその狭い範囲で自分は幸福だと思っていると乏しいことは何もないというかも知れません。
 しかし、そのような甘い感情は、いったん事故や病気、人間関係の悪化があるといともかんたんに壊れてしまいます。
 この詩の作者は、決してそのような甘い感情にひたっているのではないのは、少しあとに記されている言葉でわかります。死の陰の谷を歩みとあるように、この世には、恐ろしい苦しみがある、死を望むほどの重荷があるということを経験してきた人だとわかります。

「私には欠けるものはない」この言葉は、この詩人よりはるか後の時代に、キリストの使徒パウロが述べています。彼は、実際にこの詩人と同様に、神(キリスト)によって導かれる人生となってこの深い満足を語っているのです。

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
わたしは貧に処する道を知っており。富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。(ピリピ書四・11〜12)

 どんな外的な境遇にも満足すること、欠けるものはないという実感を持つことができるということは、キリストによって満たされていたからだったのです。わが内にキリストが生きていると語ったパウロにおいては、どんなに外側の境遇が欠けているように見えてもそれを越えて満足させてくれるお方が導き手であったからです。
 パウロもまた、「主はわが牧者である。そのゆえに私は乏しきことはない。」と証しすることができた無数の人たちのうちの一人となったのです。

あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。

 なぜ、羊飼いの鞭や杖がこの詩の作者を力づけ、慰めを与えるのだろう。それは、よき羊飼いの鞭は、決して羊を苦しめるためでなく、まちがったところに行こうとするのを止めて、正しい道、安全な緑の草原への道に導くためであるからです。羊飼いを心から信頼しているとき、その鞭ですら、恐れることでなく、よき所へ導くための愛の現れなのだと知っていたのがわかります。
 また、鞭と訳されている原語は棒状のものをも意味するため、これは野獣から羊たちを守ることも意味していると考えられます。どんな危険に出会おうとも、神は必ず守って下さるという信頼によって、私たちは力づけられて前進していくことができるのです。

 緑の牧場にて命の糧なる草を食べ、水際にて水によって新しい力を得たゆえに、この作者は、かつての暗い谷、死の陰の谷をも導かれる神を強く自覚しました。そこから、つぎは家庭的な場面と移って行きます。

あなたは、わが敵の前で、わたしに食卓を整えてくださる。

 水際へ、緑の原へと導く者であった神は、また時には死の陰の谷へと導かれる。鞭をふるって間違った方向へ行こうとするのを止め、また杖をもって襲いかかる者を退け、あるいは間違った道へ行こうとする羊をやはり止めて下さるお方です。
 そしてさらに、五節では、神は家へと導き、私をもてなして下さるお方として描かれています。
 しかし、単にのんびりとした家庭的雰囲気ではなく、「敵、あるいは私を苦しめる者」を前にした状態であっても、神は、私への食卓を整えて下さると言います。
 ここに、神からの祝福や賜物は、目に見える世界でどんなであろうとも、それを越えて与えられるものだと言おうとしているのです。
 敵のまえでも、牧者たる神は信じる者によきものを与えてくださる。それによってその人は、その敵のために祈ることができる。主イエスが敵のために祈れと教えられましたが、それは、この詩の作者の体験と共通のものを感じることができます。

わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

 現代の私たちには、頭に香油を注ぐということは何を意味するのか、わかりにくい表現です。また杯をあふれさせるということも同様に現代のたいていの人にはよくわからないか、もしくはまったく間違って受け取るだろうと思います。
 香油を注ぐとは、神の持っているよきものを直接に与えて下さるということです。神が持っている力、すなわち洞察力、悪に打ち勝つ力、真実さや愛、正義への勇気などなどです。
 メシアとか、キリストという言葉は本来の言葉の意味は、油を注がれた者という意味なのです。神ご自身の本質を注がれた者という意味になります。ですから、旧約聖書の時代には、王とか大祭司などが油注ぎを受けることができた人です。それに対して新約聖書においては、油注がれた者というのは、ひとえにキリストを指す言葉となりました。
 杯を溢れさせる、それは、神が私たちの心の奥深くに神の霊を注いで下さるということを象徴的に述べている表現です。杯とはぶどう酒を入れる容器です。酒はほかの食物とちがって、人を酔わせるというふしぎな作用があります。それは、人間の精神に大きな影響を及ぼすために霊的なものの象徴として言われることがあります。
 神は私たちに聖なる霊をゆたかに注いで下さるということなのです。

 若いとき、壮年期には、さまざまなところに行き、多くの経験を重ねます。神はそうしたいろいろの機会、場所において、信じる者に緑の原や憩いの水際にたとえられるさまざまの安らぎを与えてくれます。
 それだけでなく、人生の途中に深刻な悩み、苦しみといった狭い道(死の陰の谷)を歩いて行かねばならないこともあります。
 しかし、そうしたさまざまの経験を経てたどりつくのは、神が接待する者となって下さって私たちを祝福し、ねぎらって下さる目に見えない家庭だということなのです。
 これはまた老年になったり、長期にわたる病気になって社会のなかで職業をもって生きて行けなくなるときのことを暗示しているとも言えます。
 わが家にて主イエスが共に住んで下さるなら、ほかに必要なものはなくなります。老年や病気になって何もできないように見えてもなお、神は目には見えないけれども、杯になみなみと神の国のよきもので満たしてくれているのが見えてくるような思いになります。 人生の終わり頃になって、自分の杯にはなにもない、だれも満たしてくれない、いやなことばかりだという気持ちになる老人も多いと思われます。
 老年となって病気や老年の苦しみがいわば、敵となって攻め寄せてくることもあります。そんなとき、日々神に向かい、祈りをもって神に語りかけるとき、しずかに自分の前に出された杯には、神の国のよき賜物がなみなみとつがれているのを見るという預言であるとも考えられるのです。

命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追いかけてくる。
私はいつまでも主の家にとどまるであろう。

 ここでは、意外な言葉が使われています。それは、「恵みが私を追いかけてくる」(*)という箇所です。私たちはこの言葉に新鮮な驚きを感じます。なぜなら、私たちの経験とはまさに逆であるからです。私たちはだれでも今まで生きてきたなかで、いつもよいと思うもの、幸福と思うものを追いかけてきた人生であったはずです。にもかかわらず、よきものは逃げていく。
 しかし、ここでは、恵みのほうが私を追いかけてくるというのです。振り向けば、敵が追いかけてくる、悪意をもった人が迫ってくる、病気やいやな人間関係がうしろを追いかけてくる、絶望がどこまでもついてくるという人もいます。
 老年になるということは、死が追いかけてくるのを実感することです。老年の寂しさ、苦しさはかつて若い元気なときには思いもよらなかった苦しみや病気、親しい者との分かれ、孤独などなどがいっせいに自分を追いかけてくるように感じるということです。そしてついに死に追いつかれて、消えていくのが人間なのです。
 このような私たちの経験してきたことに対して、この詩人はいかにちがった世界を歩いてきたことかと驚かされます。
 それは、恵みと慈しみが私を追いかけてくるという驚くべき実感なのです。後を追ってきた恵みが私たちに豊かに注がれるとき、それは神の家に、神とともにいることになります。

(*)ここで「追いかける」と訳されている原語(*)は、ダーラフ(daraf)といい、これは、「追跡する」とか「迫害する」といった訳語としても用いられており、口語訳の「伴う」よりも強い意味を持っています。例えば、「彼と僕たちは、別れて敵を襲い、ダマスコの北まで追跡した。」(創世記十四・15)

主の家に私は帰り、生涯そこにとどまる。

 神によってよきものを魂に注がれつつ生きてきた者は、主のおられるところに住み続ける。生涯そこにとどまるのです。
 この詩は、神に導かれる生涯を簡潔に、しかもこの世に対して深いまなざしをもって歌ったものです。こうした生涯は自分だけの力、人間の考えや計画によって生きる人生とは根本的に違ったところに行くのがわかります。自分の力にたよって生きた人生ならば、晩年に向かうにつれて確実その力は衰え、希望もなくなり、夕暮れのように暗くなっていき、ついにこの世から消えていく他はありません。
 しかし、神を信じ、神にに導かれて生きた者は、ますます神の国が近づくのを感じつつ、永遠に主の家にとどまりつ、主と同じ姿に変えられていくことが約束されています。
 キリストが現れて以来、私たちはたとえ目で見える命が失われても、復活して神やキリストとともに永遠に生きることになったのです。
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