小さきもの-2000/8-3
大きいものへのあこがれ
聖書では、小さきものという言葉がしばしば見られます。小さいものはいたるところにあります。すべては大きいものから小さいものまで数限りない種類があるわけです。人間においては能力の大きい者もあれば、能力の小さい者もある。すでに小学校においても算数がどんどんできる能力の大きい子供がいれば、他方では分数の意味がわからないで進めない者もいます。音楽演奏やスポーツなどでも、能力の大きい者、小さい者の差は歴然としています。
できるだけ成績の点を大きくして、大きな評価のある大きい大学に進学して大きい会社に入って、大きい金額の給料をもらい、世間から大きい評価を受け、大きい家を建て、大きい車を購入してゆったり生きる。・・
夏の高校野球などもできるだけ大きい得点をあげて、勝ち星を大きくし、優勝という最大の名誉を獲得しようとする。・・そのため、ヒットを全く打てず、大敗したようなチームは見向きもされません。
オリンピックなどになると、国中をあげて、金メダルなど大きい名誉獲得に必死になるという状態です。このように、テレビ、新聞などマスコミも大きいものを宣伝して、国民がそれに引っ張られていくというのが現実で、いかに大きいものが重視されているかがマスコミ報道は如実に示しています。
コンピュータもできるだけ大きい能力のあるものへと激しく変わりつつあります。
そして会社もできるだけ大きく安定した状況へと向けて、合併がしきりに行われています。大は小を兼ねるともいわれ、日常的にも大きいのを好むのが当然となっています。
国家全体が大きいほうへと異常な努力を傾けることもあります。これが戦争です。ヒトラーはヨーロッパ全土を支配下に置こうとしたし、日本も戦前には韓国、台湾、千島などを領土とし、さらに中国の満州地方をも支配してさらに大きい国家となろうとしていました。大東亜共栄圏というような、東南アジアからインド、オセアニア一部までを加えた範囲に天皇中心の支配権を及ぼそうとしたほどです。
このように、人間は子供から大人、国家までつねに大きいものを目指そうと必死になっているわけです。宗教の世界でも、真理とか真実、愛などが目的であるのに、それよりも自分の教派とか影響力を大きくしようという人間的な動機が働くこともしばしば見られます。
こうした傾向に対して、カール・ヒルティは最晩年の著書でつぎのように述べています。
私は生涯にいくどか人間軽蔑者になりそうな時期があった。そうならずにすんだのは、たしかに人間社会の上層の人びとと知り合っていたためではなく、反対に、ささやかな人びとの生活や考え方を深く理解したおかげである。
この世の小さなものに対する関心と特別の愛を持つようになると、現代の病気であるべシミズム(*)に永久にかからなくなる。これに反して、物とか地位などにしても大きいもの、身分の高いものや、うわべだけ目立つものに対する、たとえ秘かにであっても、何らかの憧れが心のなかに残っているかぎり、「この世の支配者」はいぜんとしてその人びとに対して権限を失ったわけではなく、彼らはゆるぎない幸福に達することができない。
なお、言い添えておきたいのは、通常小さなものは、それに深く心をとめると、一般に大きなものよりもはるかに興味ある、愛すべきものだということである。巣のなかで観察された蟻、勤勉な蜜蜂や、鷺などは、ライオンや鷲や鯨などよりもずっと見ごたえがあり、興味深い動物である。
また、小さな高山植物は、派手なチューリップやモダンな観葉植物よりもはるかに美しい。人間の場合もその通りである。この世の小さなものに眼を注ぎなさい。そうすれば、人生は一層豊かに、満足すべきものとなるのである。(ヒルティ著 「眠れぬ夜のために」上 11月17日の項目)
(*) ペシミズムとは、この世では、悪が善よりも支配的であると考えて、この世を嫌悪すること。
何か大きいものにあこがれている心の傾向がある限り、揺るぎない幸いは与えられないとヒルティは断言しています。たしかに聖書は、こうした人間の傾向と根本的にちがった小さきものへのまなざしを特別に重視しているのです。
主イエスと小さきもの
このように見てくるといかにこの世は何らかの意味で、「大きいもの」にあこがれ、それを求めるということがその本性のようになっているのがわかります。
こうした本性を思うとき、キリストが小さきものへの配慮とその重要性を特別に指摘したことは、驚くべきことであったのです。
聖書における小さきものへの特別な関心は、主イエスの誕生のときからはっきりと示されています。それはイエスが馬(家畜)小屋で生まれたということです。当時は夜となれば電灯もないゆえに真っ暗であり、家畜の飼料やさまざまのもので汚れて臭いただなかでイエスが生まれたというのは、いかに神が小さきものを重んじているかを表すものです。 また、イエスの誕生は、地位や財産を持ったこの世で目立った人間にでなく、なんの力もなく、この世では最も小さい存在でしかなかった素朴な羊飼いたちに初めて知らされたということも同様です。
そしてさらにその最期も、重い罪を犯した者たちと共に十字架につけられ、この世でなきに等しいものとして処刑されたのです。
主イエスは三十歳になるまでは、田舎の村で大工の仕事を手伝い、その後の三年間も地位も権力も財産もなく、文字どおり最も小さき者として地上を生きました。
主イエスご自身の教えやたとえにも小さい者への配慮がいたるところで見られます。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ十・42)
ここで「はっきり言っておく」と訳された原語の表現は、「アーメン、私は言う」であり、アーメンとはヘブル語です。このような表現を使っているときには、「真実に、確かなこととして言う、重要な真理を言う」といったニュアンスが含まれているのであって、たんに「はっきり」というよりもずっと重い意味がこもっています。日本語では人に答えるとき、「はっきりと言いなさい」と言うように、内容の重要さとは関係なく、あいまいでないという場合に使われますが、聖書では内容それ自体に重要なことを言うときに用いられています。
キリストを信じる小さい者に水一杯を与えるだけでも、大いなる神からの恵みは必ず与えられるというのです。
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉い(大きい)のでしょうか」と言った。
そこで、イエスは一人の幼な子を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この幼な子のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ十八章より)
ここに引用した主イエスの言葉にいかに小さきものが、重く見なされているかがよくわかります。天の国とは神の国であり、そこにおいては、最も大きい者(*)とは、自分を低くして幼な子のように純真に神を仰ぐ者こそ、最も神の国では大きいと言われたのです。
このような基準で大きさが計られるということは、この世とは根本的に違っています。これなら、たとえ学校き成績が悪くとも、また病気がちであって仕事も十分にできなくとも、あるいは、老人になって何もかも衰えてもなお、幼な子のような心で神を仰ぐのになんの妨げもありません。どんなにこの世で小さくみなされ、捨てられていようとも、なお神の目には大きく価値あるものとして扱って下さるということは、なんという福音かと思います。
(*)偉いと訳されている原語は、メガス megas であり、原意は「大きい」という意味です。この言葉は英語に入り、メガトン級爆弾とかのように使われています。
主イエスがいかに小さき者を重んじられたか、それはつぎの箇所にもよく現れています。
・・お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ二五章より)
ここで王とは、キリストを表しています。
病気で死ぬばかりの者、飢えや渇きで苦しんでいる人たち、衣服も奪われ、着替えるものもなく、寒さに震える者、あるいは、牢に捕らわれてその暗く非衛生的なところで絶望的な苦しみにあえぐ者、砂漠のような荒涼たる土地を旅しているとき、暑さや渇き、食料の欠乏で苦しんでいる者たち、そうしたすべてはじつはキリストのべつの形でもあるというのです。そうした苦しみに追いつめられ、死ぬかと思われるほどの状況におかれている人は、最も小さな存在です。助けなくば、そのまま死んでしまうような者だからです。
そうした最も小さき者へなすことは、キリストに対してなすことだというのは驚くべきことです。
主イエスはこのように、小さきものへの配慮がいかに重要であるかを繰り返し教えられましたが、キリストの十二人の弟子たちも漁師が半数近くいたり、当時さげすまれていた取税人もいてやはり当時の社会では小さな人たちばかりでした。
また、イエスご自身もそのように生きたのが福音書には記されています。イエスがとくに関わったのは、当時は仕事も与えられず、捨てられた状況にあった、盲人、ろうあ者、足のマヒした人、ハンセン病(らい病)の人たちであったのです。彼らはまさに当時の世においては最も小さきもの、無視されていた人たちであったのです。そうした人たちがキリストの力によって、いやされ、新しい力を与えられていくことは、キリストによる新しい時代の到来を象徴するものとなりました。
パウロと小さきこと
二千年のキリスト教の歴史のなかで最も重要な使徒は、パウロです。かれが書いた手紙が聖書にたくさん収められていることからも、その絶大な影響力がわかります。
わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(Tコリント 十五・9)
彼の心には、自分は本当に小さい者だという意識がいつもあったのがわかります。また、別の箇所では、自分のことを「罪人のかしら」であるという表現すらしているのです。パウロの書いた手紙の冒頭にまず自分が何者であるかをつぎのように記しています。
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ロマ・一・1)
ここで「僕」と訳されている原語(ギリシャ語)は、「奴隷」という意味の言葉であり、じっさい聖書でもつぎのように使われています。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ書三・28)
キリストは完全な愛と真実なお方であり、そのお方に全面的に従うという意味でキリストの奴隷という特別な表現をつかい、それを自分の肩書きのように使っているのです。
パウロはキリスト者となる前は、ローマの市民権を持つほどの家柄を誇り、高い教養や、律法の学識をもって指導的人物と自他ともに認めていたと考えられます。
そして大祭司や長老たちも知っているほど、彼は当時新しく起こったキリスト教を迫害する指導的人物となり、自分が大きい人間だと意識していたと思われます。
しかし、そうした見方は、当然にして破られ、キリストのまえにじつに小さい者にすぎないと思い知らされました。そこからパウロの新しい生き方は出発したのです。
そして、彼は、自分がどうしても善いことができない、死んだようなものだという告白をしています。また、そこから自分のことを「罪人のかしら」であると思っていたのが、記されています。
かつてはユダヤ教の指導者であるかのように、キリスト者迫害に関して大祭司のところにまで行って外国まで行って捕らえてこようとまでしました。そのように、自分のことを大きなものとして考えていたことと比べると、キリスト者となったパウロがいかに自分を小さいものだと考えるようになったか、その根本的な変化に驚かされるのです。
新約聖書で最もよく読まれたと言われる、山上の教えの冒頭に、つぎのような言葉があります。
ああ幸いだ、心の貧しい者たちは!
なぜなら、天国は彼らのものであるからだ。
ここでいう心の貧しい者とは、パウロのように、自分がどんなに小さい存在であるか、それを知った人のことです。
この言葉が主イエスの教えの冒頭にあるのは、このことがキリスト教信仰の中心にあるからです。自分の心の醜さや弱さを知ることよって、自らの小さいことを深く知るとき、そこに神の赦しと恵みが初めて注がれるということなのです。
二人、三人が私の名によって集まるところに、私はいるのである。(マタイ十八・20)
ここにも小さきものへの祝福が語られています。一般的にいうと、宗教はともすれば、大きくなってその勢力を誇示しようとしたり、その人々から多くの金を集めて政治団体と結びついたりして変質していきます。主イエスは、たとえ二人、三人であっても主イエスを心から信じて、仰ぐ心で集まるときそこにともにいて祝福を与えて下さるというのです。大切なことは、大きくなることでなく、いかに主イエスを仰ぎ、イエスの持っておられるような真実や愛をみつめて集まろうとしているかどうかだということなのです。
そして小さき者は、永遠に小さきもののままでなく、復活のときには、キリストと同じ姿に変えられる、そして神の命を与えられると約束されています。キリストとは永遠の昔から神とともにおられ、神でもあり、万物の創造にも関わったお方であるゆえ、最大のお方です。そのようなお方と同じようにして下さるというのはそれ以上大きい約束はないと言えます。
彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる。(ピリピ 三・21)
このように、聖書には、この世で、見下され、また悩みや苦しみを持ち続けたいかに小さきものであっても、未来においては考えられる最大のよきものを下さると約束しているので、そこに深い神の愛とご計画を知らされるのです。
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