星とダンテ-2000/10-2
星とダンテ
星はいつの時代にも人々の心を深く引きつけてきました。とくに聖書においてはその最初から、神が光を与えたものとして太陽とともに記されているし、神の力とわざを表すものとして星があげられています。
神ご自身の創造したイエスのことが聖書の最後に明けの明星(金星)として、象徴的に表されています。
ダンテは、西洋の中世の大詩人です。大詩人というのは、彼が書いた神曲によって数しれない人たちがキリスト教信仰の深さ、広さを知らされ、また導かれる人生がいかに重要なのか、神の裁きと愛、神との深い霊的な交わり、神から与えられる喜びや力、そして政治や社会の出来事とキリスト信仰との関わりがいかに重要かといった内容を驚くべき均整のとれた構成で歌っています。
異性間の愛情等など、じつに彼が故郷を追放されて流浪の人となりつつも、長い年月を要して、生涯の終わりちかくなって完成した作品です。これは、一万四千行あまりの膨大な長編の詩です。
しかもこのすべての行にわたって三行一組にして、脚韻を踏んであり、各行の音節も11音節にそろえられています。
これは、最晩年までの十数年という歳月を費やして流浪の苦しみと悲しみのただなかで完成された比類のない作品です。
さらにこの神曲は地獄編、煉獄編、天国編という三つの部分に分かれていて、それらは地獄編が三十四歌、煉獄と天国編は各三十三歌であり、合計が百歌になっているのです。 そしてこれら地獄、煉獄、天国という三つの部分の最後にいずれも、星(stelle)という言葉で終えているのもまた、意味深いものがあります。(*)
星とは、まず光に満ちたもの、堅固なもの(永遠的なもの)、そして清さに満ちたもの、であり、これはつねに最も高きを見つめ、それに向かって歩んでいったダンテの志しがはっきりと表されているのです。
星こそは、いつまでも変わることがないと言われた神に結び付けられた希望の象徴でもあったのです。
(*)参考のため、イタリア語の原文を以下に引用しておきます。日本語文では、星という語は最後にはなりませんが、原文では最後に置かれているのがわかります。
・地獄編の最後の行
E quindi uscimmo a riveder le stelle.
(そして我らは、星を再び仰ぎ見ようとして外に出た。)
・煉獄編の最後の行
puro e disposto a salire a le stelle.
(私は、清められ、星を指して昇ろうとしていた。)
・天国編の最後の行
l'amor che move il sole e l'altre stelle.
(その愛は動かす、太陽とほかの星を。)
新しく生まれ変わる
(ヨハネ福音書三・1〜15より)
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ(*)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえようか」と言った。
イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
(*)ラビとは、ユダヤ人の律法の教師。もともと、ラブというヘブル語は「大きい、偉大な」という意味で、ラビとなると、「私の先生」という意味になる。旧約聖書の教師を指すことが多く、律法の「先生、教師」という意味。
霊から生まれた者も、すべて風のよう、どこから来て、どこへいくのか誰も知らない。
霊から生まれた者とは、キリストによって直接に呼び出された者のことです。そしてキリストを神の子として信じて、神の霊によって導かれる人です。それゆえに、霊から生まれた者も、どこから来たのか、すなわち、どのような過程を経てキリストを信じるようになったのか、本当のところはだれもわからない。パウロのようにキリストを迫害していた者、キリスト教を滅ぼそうと考えて必死になっていたような者すら、突然キリストを信じるように変えられた。
それは、どうしても言葉では、説明のできないことです。パウロの魂の奥でどんな変化があったのか、わからないのです。ただ神の見えない御手がはたらくとき、だれにもわからないような神秘のなかでキリストへの回心が生じるのです。
そして回心した者は、どこへ行くのか、どのようなところへと導かれていくのかは本人にしても他のだれも知らないと言えます。
また、風はじつに自由です。どんなところへも吹いていきます。同様に霊によって生まれた者もまたそのような完全な自由を与えられていると言えます。
この新しく生まれるということは、新約聖書では最も重要なことなのです。だから使徒パウロもしばしば述べています。
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。(ガラテヤ書六・15)
ニコデモは、主イエスが人は神の霊によって新しく生まれ変わらねば神の国は見ることができないと教えたとき、ニコデモは、「どうしてそんなことが有り得ようか」と言いました。この言葉で表されているように、主イエスは一般の人、それがたとえ学者であっても、有り得ないと思われることを成し遂げるお方であることがはっきりと言われています。
ニコデモは、ユダヤ人の神の言の教師であり、旧約聖書を深く知っていて、神の全能とかメシアが世の終わりに来ること、そのときに完全な神の御支配が成就することも信じていたのです。
にもかかわらず、ニコデモは主イエスの言ったことが全くわからず、もう一度母の胎内に入って生まれ変わるのかなどという、子供じみた疑問を出したのです。ユダヤ人の教師が、イエスのことをラビと呼んで最高の敬意を表してわざわざ尋ねに来たのに、相手が母の胎内にもう一度入って生まれることなど言っているはずがないのをニコデモともあろう人はわからなかったのだろうかと疑問になります。こんな幼稚な質問をするというのはどうしたことだろう。
神は万能であると信じている人でも、イエスの「新しく生まれ変わる必要がある」ということは理解できなかったのがわかるのです。たしかに旧約聖書では神の声に聞き従うことは繰り返し強調されているけれども、新しく生まれ変わらねば神の国(神の御支配)を見ることはできないというようなことは言われていないのです。
それほどに主イエスの言われたことは、旧約聖書の世界とは大きく違う世界を指し示していたということです。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(八節)
風そのものはどこから来て、どこへ行くのか見えない。しかし、その風の作用は木々のそよぎや水面上の波などでわかります。
ちょうどそれと同様に、神の霊によって新しく生まれた者もどこから来て、どこへ行くのかだれにもわからないというのです。この意味は、ある人が新しく生まれ変わるのにどんな経過をたどって新しくされたのか、それはだれも予想できない、全く思いがけない道筋で変えられる。それは不連続的であってしばしば突然にして生じる。それほど突然でなくとも、どんな風にして変えられたのかはだれも説明できないということです。そして、ひとたび新しく生まれた人は、どこへ行くのかもわからない。どんなところに導かれていくのか本人も周囲の人もわからないということなのです。
それほどに神の霊によって新しく生まれるということは、深い神秘に包まれたできごとであり、それは神ご自身がなさるわざであるからです。
神によって新しく生まれ変わった人が、本人すらわからないところにと導かれていくかについて、聖書の霊を少し見てみます。風は思いのままに吹く、どこへ吹いていくかわからない。
例えば、使徒となった漁師ペテロは、自分はただガリラヤ湖のごくふつうの漁師であり、ユダヤ人が何百年も待ち望んできた救い主の弟子となって、世界に宣べ伝えるような人になるとはいかなる人も予想しなかったことです。なぜ、ペテロという人が選ばれたのか、なぜ他の漁師でなかったのか、なぜ、他の農業とか牧畜をしている人、商人とか宗教家とかでなかったのか等など、それはまさしく風がどこから吹いてくるかわからないように、それはまったくわからないことです。風がどこからともなく吹いてきたように、ペテロは思いがけなくキリストの弟子とされたのです。
また、選び出された後にも、彼はユダヤ人だけにキリストのことを伝えるつもりでおりました。ユダヤ人以外は汚れているという考えが他のユダヤ人同様にしみこんでいたのです。
しかし、そのような考えをキリストは打ち破って彼が、ローマ帝国全域への伝道者となるようにとさらに導いたのです。そしてそのことがペテロ自身では思いもよらない方向であったことは、ヨハネ福音書の最後の部分にも印象的な書き方で示されています。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネ福音書二十一・18)
このように、風は思いのままに吹く、神の御意志のままに聖霊は人に注がれ、その聖霊は神の深いご計画のままに人を導いていくのです。
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。(12節)
ここで主イエスが地上のことと言っているがそれは何を意味するのかについてはいろいろの見方があります。ニコデモに話したことを指しているから、それは地上に真に生きるためには、生まれ変わる必要があることを述べたので、そうした意味では地上のことです。しかし、キリストが殺されることによって万人が罪から救われること、キリストと同じすがたに変えられること、復活のこと、さらにはキリストの再臨によって万物が新しくされることなどなどといったことは、「天上のこと」と言えることで、そのようなことは到底信じることはできないと言ったのです。
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネ福音書では、ほかの福音書には見られない表現がいろいろあります。「私は・・である」(原語では、 エゴー エイミ・・)といった表現に独特の重要な内容を持たせていることとか、イエスの神性の強調、永遠の命の強調などなどです。
天に上るということ、そして人の子が上げられねばならないということ、が重ねられています。別の箇所では、イエスをただちに信じたナタナエルという人について、その信仰を特別にほめ
た上で、さらに大いなることを見ると約束されたことがあります。それが、つぎの箇所です。
イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
大なる信仰を持つものには、イエスが特別な存在であることが啓示される。それは神の天使たちがイエスの上に上り降りするという。これは何のことか非常に象徴的な表現なのでわかりにくいことです。しかし少なくとも、深い祈りによって書かれたヨハネ福音書の冒頭部分の最後におかれていることからも、ここに重要な意味が込められているのがわかります。
天から、すなわち神から天にあるものがイエスに注がれ、イエスの人間世界に対する祈りが神へと引き上げられる。天と地上世界との絶えざる交流を主イエスは持っている。
これは主イエスが神の子であることを示すものであると言えます。
主イエスは天に上るが、もう一つ「モーセが荒野で蛇を木に上げたように、自分もまた木に上げられねばならない。」といって、十字架に上げられて殺されることを不可欠のこととし、それが単なる処刑でなく、万人が罪から救われて、永遠の命を与えられるためだということを明確に述べています。
ここで、モーセが荒野で蛇を上げたというのは、初めて聖書や、この箇所を読む人にとっては何のことかまったく不明のはずです。
イエスは神の子であるから単に死んで終わりなのでなく、天に上るお方である、このことは現在では当然のように思われています。天に上ること、神のもとにいくことは主イエスなら当然だと思うはずです。
しかし、もう一つの木に上げられるということは、何を意味するのか、それは旧約聖書の不思議な記事をもとにして言われています。
しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。荒れ野で死なせるためか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、力も失せてしまう。」
主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯した。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。
主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。(旧約聖書・民数記二十一章より)
人々がエジプトからようやく救い出されたと思ったのに、つぎは砂漠のなかを歩いて帰らねばならなかったのです。そのとき、砂漠のきびしい環境のなかで人々はモーセに向かって激しく怒ったことがあります。それがこの記事です。人々はモーセにだけでなく神に対しても罪を犯したので、その罪は神ご自身が取り除くしかないのです。
きわめて多数の人々がその罪をどうしたら取り除くことが出来ようか。この問題について神は不思議な命令を下したのです。それは、罪の償いのために何か労働をしなければいけないとか、金を捧げるとか産物を捧げるとかでもなかったのです。
それは驚くべきことですが、青銅で蛇を作りその蛇を木に掛けて、その蛇を見上げて、見つめるだけで、大きな罪が赦されて命を与えられるというのです。
このようにキリストよりも千数百年も古い時代から、十字架上のキリストを仰ぐだけで罪からの救いを与えられ、命を新しく受けることができるということがあったのです。
私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。(イザヤ書四十五・22)
この簡潔な言葉もまた、キリストよりはるか昔に書かれた旧約聖書のなかの預言書であるイザヤ書のなかに記されています。
このようなさまざまの人たちがはるかな昔に預言し、それが主イエスによって実現されたのです。
そのことを主イエスは引用し、それが自分にあてはまると述べました。自分が十字架の処刑をするための木にくぎ付けされ、木に上げられたけれども、それが神の永遠の計画であって、キリストには二種類の高きところへと上げられる事態が生じたのです。
主イエスはナタナエルという人に対して、天使がイエスの上に上り降りすると約束しました。そしてこれは、主イエスを信じる人においても、その程度の多少あっても、実現することです。
ヨハネ福音書では、とくに十字架にあげられることが神の栄光をあらわすものと記されています。
神と同様な存在として天にいくことも上がることであり、犯罪人として最も重い刑罰である十字架刑を受けたのです。この両極端のことがいずれも「上げられる」こととして表現されているのです。
休憩室
○木星
十月も半ばをすぎると、だんだんと夜は寒くなってきましたが、それとともに夜更けてからの空には澄んだ大気のなかで輝く星に心が引かれます。夜十時も過ぎるころになると、東の北よりの空に周囲の星とは一段と明るく際だっている星が見えてきます。それが木星です。今年は、木星と土星、そしておうし座の一等星であるアルデバランとが直角三角形をつくっています。
木星はどんなに星のことがわからない人でもただちに見つけることができる澄んだ強い光を放っています。
一年前の今ごろは木星はおうし座からもっと遠く南の方に離れていたのですが、今年はおうし座のところまで近づいてきて、ちょうど土星、木星、アルデバランの三つの明るい星で直角
三角形を形作る位置に来ています。
また、金星が宵の明星として夕方の西の空に見えるようになってきました。これから数カ月は夕空に輝いて目を楽しませてくれます。
○コスモス
この原語(kosmos)はギリシャ語では、秩序を意味します。整然としているもの、それがコスモスです。目に見えるもので最も整然とした秩序あるもの、それは宇宙の星です。そこで宇宙
のこともコスモスというようになり、さらにきれいにするということにもつながり、化粧関係にも使われ、コズメティック(cosmetic)という言葉も生じたのです。Tペテロ
三・3には、そのような
用い方がされています。
さらに、秋に咲く美しい花でその均整のとれた花の感じからコスモスと名付けられました。
また、新約聖書のヨハネ福音書では、特別な意味をもって書かれています。宇宙から地球へそしてこの世という意味まで生じることになり、ヨハネ福音書ではコスモスというギリシャ語は、「神などいないとするこの世」を指して言われます。私たち自身もかつては、神を知らず、神に背を向けて生きていたのであって、神不在とする「この世」の一員であったわけです。
そうした神に背いているこの世の人々すべてをふたたび真実な神に立ち帰らせるため、そして神のいのちを与えるためにキリストはこの世に来て、そして十字架にかかって死ぬことまでされたのです。そこにキリスト教のすべてが凝縮されています。
こうしてコスモスという言葉はさまざまのところに広がっていく意味を私たちに投げかけています。
返舟だより
私たちの集会のテープを聞いておられる方からの来信です。
○・・・(集会のテープでの聖書の解きあかしにより)こんなに深い意味があったのかと、聖日毎に驚きを共にしています。感謝です。・・(近畿地方の読者より)
・聖書は飽きることのない、唯一の書物であるとある有名なヨーロッパのキリスト教著作家が述べていました。先人の学びや鋭い研究、そして歴史のなかで膨大な量にのぼる注解書、それに加えて私たち自身の経験、さらに最も重要なことはすべての真理を教える聖霊を受けることなどなどによって聖書の意味はいっそう深い真理が示されてくるのだと思います。そのゆえに何度読んでも決して飽きることのない唯一の書物なのだとわかります。
○・・パソコンの件でいろいろのアドバイスをありがとうございました。有効に使いこなす努力をしたいと思います。実は、九十二年に○○県でパソコンの講習を二カ月ほど受けて、一応当
時のパソコンは操作できていたのですが、使途が広がってきた上に、ソフト・ハード共に大幅に向上しましたのでまたじっくり取り組み、聖書の勉強に活用したいと思います。・・(九州の読
者から)
・定年退職の後、時間が十分に与えられるようになって、多くの人たちがパソコンを始めています。しかし、肝心の問題は、時間も購入の費用も十分にあるが、なかなか側でこまかなことまでていねいに教えてくれる人がいないことだといわれます。
パソコンもこの来信のように、聖書の学びを深めるために用いるなら、大いに意味がありますし、印刷された書物は小さい文字で書いてあることが多いのですが、パソコン上では、画面に現れる各国語訳の聖書の文字はいろいろと自分の見やすいように好きなように変えることができます。
聖書を日本語の各種訳を比較したり、多様な外国語訳聖書を比較参照する作業をよくする熱心な聖書の学びをしている人は、書物をあちこち広げるよりパソコンの方がはるかに効率的で、重要な聖書箇所とか文を他の人にインターネットメールによって伝道の目的で送ったり、多種多様な讃美歌、聖歌などのキリスト教讃美に親しむこともできます。その他にもいろいろと多様な応用ができます。
ことにギリシャ語とかヘブル語など聖書の原文をも参照して聖書のより正確な学びをしたいという方には、ギリシャ語の辞書や逆引き辞書をあちこち引いて調べるよりパソコンを用いた方が断然早く、さらに多くのいろいろの情報がわかります。例えば、信仰という言葉がどこに何回現れるか、その箇所をそれぞれ表示するといった語句索引的な用法も簡単にできます。
○・・「はこ舟」のなかで引用されている聖書の箇所はその引用の箇所を実際に聖書を開いてその箇所の前後をよく自分で学ぶことが重要と思っています。「はこ舟」を通して独りで聖書を学ぶ習慣が得られることを願っています。・・(関東地方の方)
・「はこ舟」をたださっと読むだけでなく、そこで引用している聖書箇所を一つ一つ聖書にあたって見ることは、時間のかかることですが、そうして読んだ聖書の箇所が「はこ舟」の本文より強く印象に残るようであったら、神の言がいっそう深く入ると思われます。
徳島聖書キリスト集会集会案内・場所は、
徳島市バス中吉野町4丁目下車徒歩四分。
(一)主日(日曜日)礼拝 毎日曜午前十時三十分から。
(二)夕拝 毎火曜夜七時三十分から(旧約聖書を学んでいます)
・なお、毎月最後の火曜日の夕拝は移動夕拝で毎月場所が変わります。
(現在の移動夕拝は、板野郡藍住町、徳島市川内町、麻植郡山川町、徳島市国府町の四箇所を移動しています。)
☆その他、土曜日の午後二時からの手話と聖書の会、日曜学校(日曜日の午前九時半から)が集会場にて。
また家庭集会は、海部郡海南町、板野郡北島町、徳島市国府町(「いのちのさと」作業所)、
板野郡藍住町、徳島市住吉、鳴門市などで行われています。
また祈祷会が月二回あります。
問い合わせは下記へ。
・代表者(吉村)宅電話(FAX) 08853-2-3017
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