神の声-2000/10-1
今月の聖句
悪をもって悪に報いるな。かえって祝福を祈れ。
あなた方は祝福を受け継ぐために呼ばれたのである。(Tペテロ 三・9より)
神の声
人間や歴史を真に変えるもの、それは神の声である。
はるか数千年も昔、生きてはたらく唯一の神がおられるということをはっきりと知らされた人(アブラハム)が現れた。その時から歴史は大きくその人の信仰を軸として動き始めた。
それは、「生まれ故郷を離れて、私の示す地に行け!」という短い神の言葉であった。
その後、やはり世界の歴史に絶大な影響を及ぼすことになったモーセが現れた。彼も、自分の力で物事をやっていこうとするとき、ただ遠いところに逃げていくだけであった。 しかし、羊を荒野にて飼っているときに神の声が聞こえ、神からの呼びかけを受けてから、彼は数千年を経ても変わることなき、刻印を歴史に残すことになった。
そしてパウロも同様であった。キリスト教を敵視して滅ぼそうとして全力で行動しているさなかに、イエスからの声があった。
その声を深く聞き取ったことから、パウロはキリストの福音をヨーロッパの宗教とし、さらには世界の宗教とするのにはかりしれない影響を及ぼすことになった。
そして地味ではあるが、そうした例は、私のまわりでも今まで多く見聞してきた。私も大きく変えられたのは、大学での学びによるのでも、経験でもなく、また両親や友人との議論とか研究でもなかった。思いもよらない神からの語りかけが私の方向を根本から変えることになった。
それは今も続いている。私はつい近ごろもそうした人に出会ったことがある。この世界のどこかで確実に神は語りかけ、新しく神の国を知らされた人たちが今も生まれているのである。
嘘と真実
政治の世界にはじつに嘘が多い。最近も、日本の首相自ら、北朝鮮による拉致疑惑問題を行方不明者として第三国で発見されたようにして(嘘をついて)処理しようとしていることをイギリス首相に話して大きい問題になっている。しかもこうした嘘をもとにしたやり方を国家が公然とやることより、秘密であるべきことを不用意に話したという軽率さが問題とされている。
政治家というと、汚れているとのイメージを持つ高校生が多いとのアンケート結果を見たことがある。そうした汚れは、嘘からくる。不信実から来る。そして、そうした汚れた政治家たちを選ぶ国民もまた汚れていると言えるだろう。
政治だけでなく、この社会にはいたるところで嘘がある。これが人間の世界の現状なのである。
もし私たちが聖書の世界を知らず、生きて働く神とキリストのことを知らないならば、ついにその不信実の大波に飲み込まれてしまうであろう。
しかし、こうした海のような偽りの世界に浸されながら、決して嘘のない世界を知ることができるのは、なんという大きい恵みであろうか。
聖書にもそうした嘘や不信実の現実が数千年前から記されている。しかし、新聞とかのマスコミなどと根本的に違うのは、不信実のただなかにあって、闇夜の星のように、神の真実が一貫して記されていることである。私たちは、この世をどんなに知っても真実はいよいよないのを思い知らされるだろう。しかし、聖書の世界を深く知れば知るほど、そこには計り知れない神の真実が流れているのを知らされる。
私の愛する子
主イエスが、福音を宣べ伝え始める出発点に立ったとき、神からつぎの言葉が言われた。
「あなたは、私の愛する子、私の心にかなう者」(ルカ福音書三・22)
主イエスに言われたこの語りかけは、伝道の生涯が始まろうとするそのときに言われたのであり、それは、重要な意味を持っている。イエスのこれからの活動は、神の愛を受けてそれによって行われるという宣言なのである。神の愛を受けるのでなければ、イエスもなにもできない。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。(ヨハネ福音書五・19)
この言葉は愛とはべつに大した関係があるとは思われていない。しかし、子であるキリストは父なる神のすることを見るのでなかったら何もできないというのは驚くべき言葉である。
人間はいちいち神のすることを見ないでも、すべていろいろとやっているではないか、キリストはどうして自分から何もできなかったのか、不思議なことだと単なる疑問しか感じないのが普通だろう。
主イエスは父なる神の深い愛のなかにあり、神の愛によって神と一つになっていたからこそ、神のなさることを見て、その通りにすることができたのであった。神の愛のなかにいるのでなかったら、そもそも父なる神のすることを見ることができない。神の愛のうちにいなかったら、神ご自身すら見えないし、信じることもできないのである。
もし、神の愛のなかにいないなら、自分勝手な考えですることになり、それでは神からの力も洞察も与えられない。
主イエスは、このように、最初に神との深い結びつき、神の愛のもとに深く置かれていることが直接に告げられて、そこから宣教の生活を始められたのであった。
この言葉を受けたときに、聖霊がイエスの上に下ってきたと記されている。聖霊が注がれたことと、神からのあなたは私の愛する子という語りかけは深く結びついている。聖霊を受けているということは、すなわち神からの愛を受けているということであるから。
そして神から愛する子との言葉を受け、聖霊を受けた上で、イエスは、さまざまの誘惑を受けるという試練の場に立ったのである。そしてその聖霊と神の愛によってサタンの誘惑にも打ち勝つことができた。
イエスの生涯の最初に神の愛が注がれているとの宣言は現代の私たちにとっても重要な意味を持っている。それは、愛こそはあらゆる人が求めているものであり、愛なくば人間は人間らしく生きることはできない。そしてあらゆる問題の解決の根本は制度とか設備、時間、場所でなく愛である。
愛がなかったらいっさいは無であるとパウロは言った。それは、神の愛がいっさいを生かす源であるからだ。
私たちは元気なときには、だれかに愛されているように思っている。両親、友達、上司、異性、職場の同僚などいろいろである。しかし、ひとたび病気になったりすると、いかに愛されていなかったかを思い知らされる人も多い。また老年が近づくとやはりだれからも愛されずに見捨てられることが多くなる。
学校生活でも、生徒は友人や先生から愛されていないと実感するとき、非行に走ろうとする。一人でも愛してくれる者がいたら、さまようことがない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きると言われた。それは、神の言こそ、私たちを導き、私たちの罪を赦し、私たちを励ますものであり、新しい力を与えるものであるからだ。そしてその私たちを生かす神の言のもとにあるのが、「あなたは私の愛する者」という語りかけである。
使徒パウロがキリスト者たちを激しく迫害していたとき、そこに復活のキリストからの光が突然射してきて、パウロは倒れた。そしてその神の光のもとでいかに自分が致命的な誤りを犯し
ていたかに目が覚めた。パウロはキリスト者たちを殺すことにまで加担していたのであった。そうした取り返しのつかない罪をも、主は赦して下さった。主イエスからの「サウル、サウル!」
という個人的な呼びかけと、天からの光のなかに、パウロは、「あなたは私の愛する子だ」との語りかけを聞き取ったのである。 (サウルとはパウロの以前の名前)
また、性に関わる罪を犯した女を打ち殺そうする人たちが、イエスはこの女の罪をどうするのか、とつめよったとき、あなた方のうちで自分に罪がないと思う者からこの女に石を投げつけよ
、と言われた。そしてだれも石を投げつけることができないまま人々は立ち去ったという記事がある。
その後、主イエスは、その女に対して「私はあなたを罪に定めない。」と言われ、「もうこれからは罪を犯さないように。」と戒めた。
この女は、まわりのすべての人が、自分に対する敵意と軽蔑、そうして冷たい好奇心をもって見つめているのに、ただ一人、イエスだけは、全く異なるまなざしをもって見つめているのを知った。その目には、「あなたは、私の愛する者である」との深い意味がこもっていたのを読みとったことであろう。
キリスト教の本質は、「主イエスが十字架にかかって死んだのは、私たちの罪をぬぐい去って下さるためのものだったのだ」と信じることにある。
不思議なことだが、このような単純なことを心から信じることによって私たちの心は楽になる。
神がイエスへの信仰によって罪を赦して下さるということは、すなわち神が私たちを愛しているということである。
人間同士でも、相手の罪を赦さないということは、相手に怒っていることだと言えよう。
使徒ペテロは十二弟子たちのうちでもとくに重んじられた弟子であった。しかし彼は主イエスを三度も知らないと言い張って否定する事になった。そのような悲しむべき罪を犯したが、そのときに主イエスはどうされただろうか。
主は振り向いてペテロを見つめた。ペテロは今日、「ニワトリが鳴くまえに、あなたは三度私を知らないと言う」と言われた主の言葉を思いだした。そして外に出て、激しく泣いた。(ルカ福音書二十二・61〜62)
主は、イエスなど知らないと何度も言ったペテロを、単に怒る目で見つめたのでなく、「お前のそうした心を私は以前から知っていた。それでも、あなたは私の愛する子なのだ」という深い
思いをこめて見つめたのであろう。
このように、神から愛されているとの実感によって人は重い罪からも救われ、新しい力をも受けることができる。
「人の心は愛したいと思い、愛によって幸いを得たいと願っている。神も人間をそのように創造された。人がこの愛に関する深い願いを、移りゆくものによって満たすことができると考えるなら、それは大きな誤りである。
そして最高の善き存在である神を求めようとしないで、自分に与えられた時間をそのような愚かな考えを追求することで空しく失っている。
しかし人間は神によってこそ、本当の愛と清い喜びを見いだして完全な満足が与えられるであろうのに。」
(十五世紀末のイタリアの聖カタリナの言葉より。彼女は神との深い霊的交わりを与えられていたことで知られている。)
人間は、神によって創造されたときから、愛によってのみその魂が満たされるようになっている。しかしその愛とは神の愛であって、人間や地上のもの、金や栄誉、人間の賛辞や地位など等への愛では決してない。そうした人間的なものに対する感情をふつうは愛といっているが、そうしたものが私たちを満たすと考えることは愚かなことであり、根本的なまちがいなのである。
神によってのみ、神の愛を受けて、神への愛に生きることこそあらゆる不満を変えて私たちが喜びとすることができるし、人間の最もふかい愛への願いを根本から満足させてくれるのである。
今も私たちが神を仰ぎ、耳を傾けるとき、一人一人に向かって「あなたは私の愛する子」という呼びかけが静かに細い声でなされているのを聞き取ることができる。
アーメンとは何だろうか
礼拝において祈りのなされたあとで、参加者が「アーメン」と言い、また讃美歌の後で「アーメン」という言葉が付加されていますが、それはどんな意味なのか、ほとんどの日本人は知らないままで終わってしまうことと思います。私自身もまだ、キリスト信仰を与えられていなかったとき、なんか変わった言葉だと不可解な思いをわずかに感じたあとはなにも考えることなくずっと過ぎていったのを思い出します。
これは、ヘブル語(*)で、心から同じ考えであることを表したり、真実な気持ちをそこに込めるときに使います。
ヘブル語には「アーマン」という動詞があります。アーマンは「堅固にする」「支える」といった意味が基本です。
アーメンというのは、それから来た副詞で、「真実に」といった意味です。なぜ、この言葉が礼拝とか、讃美歌のあとに言われるかというと、礼拝で語られた神の言葉や祈りの内容に心から同意するとき、そこで語られたことを聞いている自分においても、礼拝に参加している人の内にもしっかりと内容が刻まれるようにとの真実な祈りをこめてアーメンというのです。
たしかに、他の人の祈りや語られた神の言に対して、私もそれに心から同意しますとの気持ちを込めてアーメンというとき、その祈りや語られた神の言は、祈ったり語ったりした人だけが勝手にしているのでなく、共同のものとして堅固にされるわけです。
とくに祈りの時に、一人の人が祈ったその祈りをみんながアーメンと言うと、他の人も「それと同じ内容の祈りを祈ります」という意味になり、同じ祈りをしてその祈りを堅固にするということになり、その同じことを心を一つにして祈りますという意味になります。
アーメンのもとになっているアーマンが堅固にするという意味で使われている例をあげてみます。
例えば、「わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。」(列王記上十一・38)」
というように用いられています。
そしてこの言葉こそ、つぎのように旧約聖書で「信じる」と訳されている代表的な動詞なのです。
「アブラム(アブラハムの以前の名前)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記十五・6)
そしてこのアーマン(aman)から派生した言葉であるエメス(emeth)とかエムーナー(emunah)は、日本語風に書くと、全然別の言葉のように見えますが、原語のつづりでは、少し違うだけの言葉です。このエメスは旧約聖書では最も重要な言葉の一つになっています。それは、神の本質を表す言葉としてしばしば用いられているからです。
例えば「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、・・」(出エジプト記三四・6)のように、記されています。ここでのまことと訳されている原語エメスは、他の箇所では、「真実」とも訳されている言葉です。
アーメンという言葉がこのように、真実性、堅固性、永遠性という重要な意味を持っているために、この言葉はつぎのように神ご自身を指す言葉としてすら用いられているほどです。
それゆえ、自分のために祝福を求める者は、真実(アーメン)の神によって自分の祝福を求め、自分のために誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、私の目から隠れてしまうからである。(イザヤ書六五・16)
ここでは、原文では「アーメンの神」いう表現になっており、神のご性質として根本的に重要なのが、この真実性、堅固さであることがこのような表現を生み出しているのです。
このアーメンという言葉は、新約聖書でも多く使われています。
主イエスは、しばしば「アーメン、アーメン、私は言う」と話し初めて、とくに重要な内容のことを語るときに用いられています。
これは、日本語訳聖書では、「まことに、まことに汝らに告ぐ」(文語訳)とか、「はっきりと私は言う」(口語訳)などと訳されていますが、たんにはっきりと言う意味ではなく、文語訳のように、これから言おうとすることが、特別な重要性を持つ内容であり、その真実性を強調するときに用いられています。これは、この語の元の言葉であるアーマンという言葉が「堅固にする」という意味である故です。これから語ろうとする内容が揺るがない、堅固なもの、すなわち永遠の真理であり、そのことを強調している表現なのです。
そして新約聖書の最後の黙示録では、イエス・キリストのことを「アーメン」そのものだと言ったうえで、「誠実、真実な」とわかりやすく言い換えています。
アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方(キリスト)が、次のように言われる。・・(黙示録三・14より)
このように、見てくるといかにアーメンという語とその派生語が聖書では重要であるかがわかります。単なる形式的な言葉、儀式的な言葉では決してないのです。
イエスがアーメンそのものであるということは、イエスによってあらゆる良き約束がすべて成就するのであり、それほどにイエスの言葉は真実であり、堅固なものであり、私たちの確固たる希望の源泉であるということなのです。
(*)ヘブル語は今から数千年も昔の古代イスラエルの言語で、長い間旧約聖書の言語として書物の中で残ってきました。実生活の中では使われなくなっていたいわば死んだ言語でしたが、今から百年余り前にユダヤ人のエリエゼル・ベン・イェフーダーという人が、日常語としてよみがえらせて現在のイスラエルも使っています。
誘惑を受けること( 創世記三章より)
創世記には最初に創造された人間が、ヘビに誘惑されるという記述があります。これは有名な記事ですが、すこし考えてみるといろいろわかりにくいことがあります。
聖書は単なる神話のようなことは決して書かない。そこには、いつもこの世における事実、真実が記されています。
ヘビに誘惑されるということは、この世における事実を象徴的に述べているということです。この世には、強力な誘惑する力があって、どんなに豊かになっても、誘惑されて間違った道へと引っ張られてさまざまの悲劇が生じるということをヘビとか、食べるのを禁じられた木などを用いて描いているとも考えられます。
ヘビは数限りない与えられていることを感謝するように仕向けることをせず、満たされていないこと、足りないことを取り出して不満を生じさせたのです。
私たちが罪を犯すことも、また与えられているものに正しく感謝しないことがもとにあります。
ヘビはこのエデンの園において、真ん中に食べてはいけない木を置いたことを人間が不満だという気持ちになるように仕向けたのです。
まず、ヘビは神が言うはずのないこと、どの木からも食べてはいけないと言ったのかと問いかけます。どの木からも食べてはいけないのであったら、飢えてしまうのであり、そんなひどいことを命令するはずがないのです。しかし、ヘビは神とは厳しい、冷たいお方なのだということをまずもちかけています。
つぎに、食べてはいけない木の実を食べるなら、必ず死ぬと神が強く言ったのに、ヘビは決して死なないと逆のことを断言したのです。
かえってこの実を食べると神のようにあらゆることを知るものになるとまで言いました。
このように誘惑を受けた後で、その木を見ると、いかにも美味しそうで、目を引きつけ、賢くなるようにとそそのかしていました。それまではそんなに思わなかったのにどうしてこのヘビの言葉を信じたらそのような気持ちになったのでしょうか。
これは人間の心理を巧みに言い表しているところです。真実に反する欲望というものは、冷静に見ればすぐにその本質がわかるけれども、私たちが誘惑を心に受けてしまうと、よくないものであってもそれが素晴らしいもののように見えてきて、ますます引き込まれるということなのです。
少年が酒やタバコに引っ張られるのは、もともとそれらが美味であるとかでなく、たんに友人からの誘惑によってそれがなにかよいもののように錯覚していくのです。いじめなども、同様で、自分だけではする気持ちがないのに、悪い友達からそそのかされて一緒にするようになると、ますますそこに引き込まれていきます。
ダンテは、神曲の煉獄編第十九歌において、誘惑を受けて魂が引き込まれていくことを巧みに描いています。
夢のなかに一人の女が私に現れた。口はどもっていて、目は斜めになり、両足は曲がり、両手はともにもがれていてなく、肌の色は青ざめていた。
私がその女を見つめていると、ちょうど太陽が上って夜の寒さに萎えて冷えてしまった手足を暖めてよみがえらせるように、その女は、舌がなめらかになり、みるみるその姿勢はまっすぐとなった。そして青ざめていた顔には、生気がよみがえり、恋する女のように紅みを帯びてきた。
こうして舌がなめらかとなった女は、すぐに歌い始めた。
「私は、歌う女のセイレン。海のただなかで船乗りたちの行く手を惑わすほどのたとえようのない歌声を持ち、この声で、古代の英雄をも正しい道から引き離し、私のもとに引き寄せた。私の声を聞くものは私から立ち去る者は稀だ。それほどに私の声は聞く者を満たすのだから。」
そのとき、一人の機敏で聖なる女性が現れた。そしてその誘惑しようとしていた女セイレンを混乱に陥れた。
「おお、ヴェリギリウス、ヴェリギリウス(*)よ、この女はいったいだれなのか?」とその女性はきびしく言った。
ヴェリギリウスは、その清い女性をしっかりと見つめたまま、セイレンに近づいた。彼はその誘惑する女セイレンを捕えると、その胸を開き、衣を引き裂いて私にその女の腹を見せた。そこからは、耐えがたい悪臭が立ち上ってきた。私はそのひどい臭いで目が覚めた。(ダンテ作 神曲煉獄編十九歌より)
(*)古代ローマの代表的詩人
ここで言われていることは、創世記のこの箇所とよく似たことだと考えられます。この誘惑する女とは、人間のいろいろなものへのまちがった欲望の象徴です。そうした欲望は本来醜いものであり、だれもが目をそむけるものであるのに、それに引かれて目を注いでいるとだんだん心が引っ張られて、よいもののように見えてくるというわけです。
人間が欲望やその目的物を見つめていると、それがだんだんここのダンテの書にあるように、人間に誘惑の力を強くしていくというのです。人間が見つめるまでは、醜い正体をさらしていたのに、人が見つめるととたんにその欲望は元気が出てきて人間をとりこにしてしまう。
昔の神話にセイレンという女がいて、その心を引きつける歌声によって、名高い勇士すら、その声に引き寄せられて進路を間違ってしまったというのをダンテは用いています。 この女の悪い力に会うと、ダンテを導いた理性の象徴であるヴェリギリウスでさえも、惑わされそうになった。しかしそこに天からの声が聞こえ、その声に叱責されたので、その天の女性の方をじっと見つめていくとき、初めてそのセイレンなる悪しき女の魔力から逃れ、その女を捕らえて動けなくし、正体をも明らかにしたのです。
ダンテは詩人であるばかりでなく、哲学者でもあり、政治家でもあり、当時の科学にも深い素養を持っていた人だった。彼の肖像画には、そのようなダンテのきびしい理性的な表情が描かれています。
しかし、そうしたダンテであっても、なお、セイレンという誘惑する女の強い引力には負けてしまいそうになった。ヴェリギリウスすらも同様だったのです。それほどに誘惑の力は強いものであり、だからこそ、エバもその力に抵抗できずに引き寄せられてしまったといえるのです。
ダンテを導いていた先生であり、理性の象徴であるヴェリギリウスでさえ、引き込まれそうになったその力にいかにして立ち向かうことができたか、それは、天からの聖なる声を聞き、それを見つめるという単純な方法によって可能になったのです。
アダムとエバたちは、神が禁じていたことをどうしてこんなにも軽々と破ってしまったのか、しかもその実を食べると必ず死ぬと言われているのに、どうしてそのような悪事をすることができたのだろう。
どうしてアダムは何にも言わず、神の命令をも破ってしまったのだろうか。ヘビに誘惑されるまでは、この禁じられた木のことは全く破ろうとする気持ちすらなかった。しかし、ひとたびヘビが現れると、いとも簡単にそれまでに忠実に守ってきた戒めを破ってしまったのです。
なぜ、裸が恥ずかしくなっていちじくの葉で腰を覆ったりしたのだろうか。それは、だれでも性に関して罪を犯しやすく(本能であるゆえに)、またその罪が自分や相手の人格を破壊することにつながり、さらには、その関係の結果生まれてくる新しい命をもしばしば断つことにつながるからだと考えられます。
禁断の木の実を食べるということは、性の関係を持つことであると説明する人がいます。しかしこれはもちろん全くの誤った考えです。というのは、神は、「産めよ、増えよ」と言って、子を産むことに祝福を置いたからです。
神は、この実を食べると必ず死ぬと言われたのに、アダムとエバは死ななかったように見えるのはどう考えたらよいのでしょうか。
もし、この木の実を食べなかったら、アダムは命の木の実を食べて死ぬことはなかった。しかし、この木の実を食べたことによって死ぬ存在となった。また、この罪を犯した直後に神がアダムとエバのいるところに来たとき、彼らは神の顔を避けて園の樹木の間に隠れてしまった。
このように、神に背くということが霊的な意味における死であったといえます。
現代も、人間がいつも神の言葉に従わず、神の顔を避けて隠れているという状況になっています。このように最も愛と真実にあふれる神の顔がかつては見えていたのにわざわざ見えないところに行くというのが、神のさばきを受けたということになるのです。
このようにして創世記という聖書の巻頭の書で、人間が神に逆らい、せっかく与えられた数々の自然の恵みを無にしていく状況が記されています。
聖書のすべては完全な真実を持たれるお方(神)に背を向けて生きる人間の現実を描くとともに、いかにしてそのような縛られた状態から回復するかを書いている書物だと言えます。
そして創世記の時代からはるか後になって、キリストの時代になってようやくこの神に背を向けた状態から立ち帰って神と正しい関係になる道が開かれたわけです。
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