文字サイズ大きくするボタン文字サイズ中「標準に戻す」ボタン      

教科書問題    2001/6

 「新しい教科書をつくる会」が、歴史事実を曲げて教科書を造りそれを、多額の費用を使って宣伝し、教育委員会が採用するようにと働きかけているとして大きい問題になっている。
 中国やアジアの国々を侵略して、日本が支配しようとする目的のもとに戦争を始めたにもかかわらず、それをアジアの解放のためであったなどという主張は、事実を明らかに曲げたものである。
 最近、日本が中国にしかけた戦争の実際の記録映画を見たが、上海事変といわれていたものがいかに本格的な戦争であったか、そして三五〇万人の大都市に、日本が航空機を使って爆撃し、多くのビルが倒壊し、家が焼かれ、数しれない人々が傷つき、死んでいったのを見た。その後で戦場となった所が、南京であり、そこで有名な大虐殺が行われた。
 しかし、大虐殺は決して南京だけでなかった。上海を陸と空から攻撃し、大都市を飛行機で襲って火災にし、破壊していったことでどれほどの人たちの生涯が取り返しのつかない状態となり、また命も失われたことだろうか。そんなことはまさに虐殺に他ならない。手足は損なわれ、家は焼かれ、家族はばらばらになって、住む所もなくなった人たち。右往左往するおびただしい人たちの上に、倒れかかる高層ビル、燃え上がる町並み・中ヲそのような恐ろしい殺戮行為がなされていたのに、日本人のいったいどれほどがその真相を知っていただろうか。
 虐殺とは辞書によれば「むごたらしい仕方で殺すこと」だと書いてある。とすれば、砲弾にあたって、手足を打ち砕かれ、内臓を損傷され、また建物の倒壊で体を挟まれたり埋まったりして、地獄のような苦しみにさいなまれつつ死んでいった人たちは、まさに虐殺されたことになる。南京だけでなく、上海でも大量の虐殺は行われたのである。
 そしてさらに言えば、戦争とはそのように人間をどんなに苦しめて殺そうとも、平気になってしまうものであり、戦争そのものが、虐殺をさせるものなのである。
 最近このような戦争のときのフィルムを直接に見ることができるようになってきたが、それでも実際に見る人はごくわずかであろう。
 こうした激しい戦争であったことは、私なども最近までは知らなかったことであった。私は大学入試に日本史を選んだし、当時は理科系であっても数学、英語などと同じ配点であったために、相当に詳しく学んだつもりであった。
 しかし、「事変」という呼称にごまかされて、その残虐性などもまったく教えてもらうこともなく、参考書も何冊か学んでもごく簡単にしか書いていないのであった。
 ときどき言われるように、特定の場所でだけ、虐殺があったのでなく、戦争とは要するに他国の何も罪のない人々、本来は敵味方などなかった、たがいに知らない人々を虐殺することが目的の行為なのである。
 兵士も普通の市民も同じ人間であり、一人一人は神の前に同じ重さを持っているはずである。だれがむごたらしく殺されても同じように虐殺である。
 このようなことをほとんど何も知らないままで、日本人は成長している。つい五〇年余り前まで、そのようなことをしてしまったのに、そのような侵略行為をなんら反省も悔い改めもしないで、逆にそのような戦争を肯定し、自分たちは正しかった、アジアの解放のためだったのだなどということは、いかにも不正な態度である。
 
 一九九五年八月十五日、当時の村山首相は、つぎのような談話を発表した。

「・中ヲ今、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
 私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫(わ)びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧(ささ)げます。
 敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。・中ヲ」

 この首相談話は、今から読んでも当然のことであって、こうした過去の罪を認め、それを反省し、悔い改めるのでなければ、かつてのようなおびただしい悲劇を生んだ戦争を再び始めるかも知れないということになる。
 しかし、この「新しい教科書をつくる会」の会長は、この村山首相談話を「左翼容共政権の政治政策であるがゆえに偶然にできたものだから、破棄すべきだ」と言ったという。
 ここには、罪を認めようとしない、従って悔い改めようとしないかたくなな、傲慢さがにじみでている。
 キリスト教とは悔い改めの宗教である。罪を認め、その赦しを乞い、そこからのみ本当の新しい出発ができる。悔い改めて神に立ち帰ることによってのみ、私たちは正しい道を歩いていると言える。
 しかし、この教科書を作って宣伝している人たちはそのような悔い改めを拒否する人たちである。
 このような姿勢をもった人物が主導した教科書が文部省の検定に合格し、しかもそれを多くの自民党の人たちが後押ししているというような状況がある。
 かつての戦争のようなあれほどの悲劇を起こしてもなお、そのことを深く認識できない人たちが多くいるのはまことに残念なことである。私たちは、あくまでキリストや使徒たちの教えを原点としつづけていかねばならない。
区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。