神はわが力(詩篇四六編)    2001-7-2

神はわれらの避けどころ、また力
苦しみ悩みのとき、必ずそこにいて助けて下さる。
それゆえに、私たちは決して恐れない。
地が姿を変え、
山々が海の深みに移るとも

一つの川がある。その流れは、神の都に喜びを与える。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
朝早く、神は助けを与える。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は崩れる。

万軍の主はわれらと共におられる。
ヤコブの神はわれらの避けどころ。

来たれ、そして見よ、主のなされることを。
主は驚くべきことを、この地においてなされる。
地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き矢を折り、盾を焼き払われる。
「静まれ、そして知れ、わたしこそ神だということを。
わたしは国々において高く、この地で高くされる。」

万軍の主はわれらと共におられる。
ヤコブの神はわれらの避けどころ。

 この詩は、百五十編が収められている旧約聖書の詩集(詩篇)の中でもとくによく知られているものの一つであり、「かつて書かれた最も雄大な信仰の詩の一つである」とも言われる詩です。
 従来の讃美歌には、この詩を元にした讃美歌が二つ収められており、いずれもよく愛唱されているものです。そのうち一つは、宗教改革者、マルチン・ルターの作詞、作曲したものとして広 く知られています。これは、命の危険にもさらされていたルター自身の信仰と確信がよく表されているものです。 
 「この詩はルターの讃美歌(「神はわがやぐら」讃美歌二六七番)によってキリスト教信仰の最高の反響を見いだしたばかりでなく、旧約聖書の詩と信仰を最も力強く証しするものに数えられ る。」(ドイツ旧約聖書注解 ATD)とも言われています。
 この詩は作られて以来、さまざまの人の心に触れて、こだまのように深い共感を生み出してきた。それらの内でルターの讃美歌はキリスト教信仰の形をとった最も価値ある表現となったという ことです。
 これは、実際無数の人々の心を励まし、支えとなったと考えられます。ここでは、戦前の韓国において、キリスト教迫害を受けた韓国のキリスト者の文からあげておきます。これは、戦前に おいて韓国で、学校の教員や生徒たちが神社参拝を強制されたとき、一人の女性キリスト者の教師がその強制を拒み、神社礼拝しなかったときの経験を記したものです。

 突然大きなどなり声が上がった。「気をつけっ!」こだまとともに山の上の大群衆は、列に沿って直立した。号令はまた大きくひびいた。「まことの生き神であらせられる天皇陛下と、天照大 神と、皇大神宮、八百万(やおよろず)の神に向って最敬礼!」 大群衆は・中ヲいっせいに最敬礼をした。一番前に立っている私は、だれもが見える所で、直立したままで顔を高く空に向けていた。
 波立っていた不安のなやみや恐れは、いつの間にかきれいに去って、ただ静かである。はっきりした意識が「責任は果した」とささやぐように感じられた。…「イエスさま、すべてはこれで終り ました。私は私としてせねばならないことをしました。このあとのことはみなあなたにおまかせします。ひたすらあなたにきき従う道しかなくなりました。」・中ヲしかし山をおりて来るにつれ、心に はまたいつのまにかやみが襲って来た。高官や、警官や刑事たちは、もちろん私の直立不動の姿勢をはっきり見たはずである。さて今から私を引っ張って行って、叱ったり、なぐったり、蹴っ たり、目玉がとび出るほどほっぺたをぷんなぐったり、またきたない言葉でイエスのみ名をけがし、のろい狂うであろう。…
 あの威張りちらす男たちに、鞭でうたれて果たして忍ぶことができるだろうか。思わず身ぶるいがした。・中ヲ あの狼のように残忍な警官たちの鞭はどんなに痛いだろうか?果たして耐え切れるだろうか、死ぬことはすこしも恐しくない、しかし死なずに拷問を受け通して行かねばならないのだから怖 い。このからだでどれくらい耐えられるだろうか、歩いている足もとがふらふらとなって、目まいがした。拷問のため半殺しのまま彼らにまいってしまうようなことになれば、どんなことになるだろう。
目先がまっくらになって、道が見えなくなるような気がした。
 しかしすでに戦いは始まった。今になってしりぞくことはできない。いやでもおうでも闘う道しかない。私は罪だらけの人間であり、弱虫である。私にいったいなにができるというのだろうか・中ヲ 。
 このとき、私は心をさらに開いて、イエスさまを仰いだ。そしてヨハネ福音書第十四章のお約東の言葉を思い起した。・中ヲこれらのみことばを暗唱しているうちに、私の心は真暗な闇に火が ついたように、明るくなって来た。私はまた青い大空を見上げた、雲がいつもと違ってほほえむように見えた。そしてにわかに歌が心に湧きおこった。

 いかに強くともいかでか頼まん
 やがては朽つべき人のちからを
 われとともに戦いたもうイエス君こそ
 万軍の主なるあまつ大神(讃美歌二六七番二節)
 
 マルチン・ルターの作ったこの歌をうたいながら、私は彼の説教を聞いている気がした。彼の真理のための戦いは、当時最も勢力のあった法皇を相手どったものであった。虐殺と迫害のもっ
とも恐しい暗黒時代であった。…(「たとい そうでなくとも」安 利淑(アン イ スク)著 9~10P)

 このように、迫害を受けることが確実な状況となってきて、今後身に受けるであろう、苦しみ、困難を前にして恐れでひるむときに、浮かんできたのが、主イエスの言葉であり、またこのルター の讃美歌であったのです。
長い歴史のなかには、現在のように、人権というものが認められていない時代が長く続き、そのような状況においては、支配者の間違った政治を批判すると、現実に命の危険が迫り、捕らえら れ、長期にわたる暗くて陰うつな牢獄に閉じこめられ、ひどい扱いを受けることになるということが現実に多くみられたことです。
 
 「神は私たちの避けどころ」と冒頭に言われています。ルターの讃美歌をもとにした、従来の讃美歌二六七番では、「神はわがやぐら」と訳されていましたが、「やぐら」といっても現在の多く の人々にとっては、「火の見やぐら」とか「やぐらこたつ」しか思い出せず、意味がよくわからないので、新しい讃美歌21では、最初に「神はわが砦」(三七七番))となっています。

 なおこの讃美歌の英語訳も、砦とか要塞を表す fortress という訳語を用いています。ルターの讃美歌の原文は、Ein' feste Burg ist unser Gott で、「我らの神は堅固な城(または避け所、安全な場所)である。」

 この詩で第一に言われていることは、絶えず敵が襲ってくる危険のただなかにあって、そうした危険から身を守り、避け所となってくれるのが神である、ということです。
 また、砦とは、守りと攻撃の両方に用いられるものです。敵が遠くから近づいているときには、すみやかにその敵を発見し、味方を守り、適切な攻撃をするためのものです。
 「神がわが砦」といえば神が、敵(悪)から守り、私自身が悪に攻撃されて滅ぼされないように、神ご自身が悪を攻撃して、私を守って下さるという意味になります。
 聖書にいう神を信じるとは、つねに悪との戦いの日々となるということです。神ご自身が「万軍の神」といわれるように、万物を支配しておられ、その力をもって悪と戦うという性質を本質的に持 っておられるのです。
 宗教や信仰というと、単に一時的な個人的な安らぎを求めたり、自分の願いをかなえてくれるためのものだと考えている人が多いのです。しかし、そうした個人の平安も、じつは悪の力が克 服されて初めて与えられるものです。私たちの心の内に、悪の力、罪の力が強い場合には、たえず、心は動揺するのは当然です。
 主イエスも最後の夕食のときに教えた言葉の最後に、「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平安を得るためである。・中ヲ私はすでに世に勝利している。」(ヨハネ福音書十五 ・33)と言われて、キリストが、すでにこの世の力(悪の力)に勝利しているからこそ、信じる者は、やはりその勝利を得て、平安を与えられるのだと言われています。
 この世はいつの時代にもいたるところに悪があります。そうした悪を放置して、認める神であるなら、そのような神は不正な神であり、万能の神ではないことになります。
 私たちが個人的な平安を与えられるためにも、まわりに悪があり、私たちの心のなかに憎しみや妬みや利己的な欲望などの汚れた心があれば、平安はないわけです。
 だから個人的な平安を与えられるためにも、悪を滅ぼすことは当然結びついてきます。
 「苦しみ悩みのとき、そこに神の助けが必ず見いだされる」(原意) これは、どこにも助けがないと思われるときに、主が最も力ある助けとなって下さるのが見えてくる。あるいは、具体的な助けを送って下さるというような意味です。
 人間の助けは、しばしば失われ、頼りにならない。人間は弱く、不信実であるからです。しかし、神は変わることなき助けであり、力となって下さる。
 アブラハムがかつて神の言葉に従って、イサクを捧げよと言われたとき、その言葉の意味がはかりかねましたが、それでもすぐ翌朝早く出発して、相当の時間をかけて、目的地にたどり着い たことが書いてあります。そこで、いよいよ息子を捧げようとしたとき、小羊がそばにいるのを見いだしたことが書いてあります。そこで、アブラハムは、その場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は見て おられる、主は私たちが本当に必要とするものを備えて下さっているという意味)と名付けたと書かれています。

私たちは恐れない、
たとえ、地が変わり、山が海の深みに移ることがあろうとも
 
 全地を創造した神に深く結びつくほど、私たちもまたそのような大きい力を受けて、この世につきものの恐れに押しつぶされないで生きていくことができる。天地を創造した神は、いかにこの 世が動揺しようとも、神はそれらいっさいの上に立っておられる。それゆえ、もし私たちがそのような神に信頼し、結びつくときには、私たちもまた動揺することのない、力と確信を与えられるこ とをこの詩は歌っているのです。
 聖書の最初の言葉は、神が天地を創造されたということ、神の言によって創造されたということです。私たちは小さく狭い考えにとらわれますが、聖書はつねにこの世の根源の力、天地創 造をもされた神の力へとさかのぼって見つめているのがわかります。
 命まで奪われるというような迫害の時代には、だれしも恐れでいっぱいになっただろうと思います。少数の人たちがそうした恐れをも超えて、この詩にあるのと同様な力と勇気を与えられて進んでいったのです。
 しかし、そのような強靭な勇気や恐れなき姿勢とまではいかなくとも、私たちの日常生活の中で直面するいろいろの恐れを取り除いて下さるということは、神を信じる者はだれでも、経験する ことができます。そしてたいていの人にとって、毎日のそうした恐れを除いてくれるお方がともに歩んで下さるということが、大きい平安を与えてくれるのです。
 しかし、神を信じないなら、恐れるのが当然となります。自分の思ったことを言ったり行動したりすれば、どう言われるか、どんなに思われるか、友人や親族からも捨てられるのでないか、地位 がなくなったり、生活できなくなるのでないか、また、周囲のどんな悪人に襲われるかわからないし、病気のこと、将来の老後のこと、また死の彼方には何があるかわからないからです。
 そして人間の弱さのために、他人を助けることはごく少ししかできない、神を信じないなら、そのような弱々しい人間である自分や他人という人間にしか頼ることはできず、人間をはるかに超 えた力にはひとたまりもありません。
 
 このような、苦しみ悩み、混乱と、恐れの世界を示した直後には、まったく異なる情景が記されています。
 それは、聖書の初めから終わりまで、さまざまの箇所で現れる川あるいは水の深い意味です。

一つの川がある。その流れは、神の都に喜びを与える。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。

 この世の混乱と恐れを引き起こすような出来事、悪の力が支配しているようなただなかに、それとまったく対照的な静けさがある。水の流れがある。それがこの節です。
 それは神のいのちの世界であり、揺らぐことのない世界です。神は岩であり、不動のお方です。それとともに神ご自身がゆたかなうるおいと命に満ちた存在であることがこのような表現で示さ れているのです。
 神の都、それはエルサレムを指しています。そしてエルサレムは標高八百メートルほどの山の上の町であり、雨量も少ない地方であり、六月から九月にかけては全く雨が降らない。そのよう な状況のただ中において、エルサレムに川の流れがあるというのは深い象徴的な意味を持っているのがわかるのです。
 この水があふれ、流れるという記述は聖書では、創世記のはじめから見られます。エデンの園には、一つの川が流れ出て園をうるおし、さらにその川は四つの大きい川となって流れ出て、 世界をうるおすようになっていることが記されています。(創世記二章)
 また、旧約聖書のエゼキエル書にはやはり、エルサレムの信仰の中心地(神殿)から水が流れ出るということが記されていす。

彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁 の下を流れていた。・中ヲ 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。・中ヲ川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水は聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。(エキエル書四七章より)

 ここで言われている神殿はエルサレムにあり、すでに述べたように、かなり高い山の上の町であり、雨量も少ない所であることを考えると、いっそう驚かされる記述です。エゼキエルは特別に 深い神との交わりのなかで、霊的にたかく引き揚げられ、ふつうの目には見えない命の水の流れをありありと見ることを与えられたのです。
 神とともにあるときには、神ご自身の源泉から、いのちの水が湧き出るという事実は、新約聖書でも強調されています。
 ヨハネ福音書でも「私を信じる者は、その内部からいのちの水がわき溢れる」との主イエスの言葉が記され、聖書の最後(黙示録二二章)にも、「神と小羊(キリスト)の玉座から流れ出て、水 晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。」とあります。
 
 神がともにおられるならば、命の水にうるおされ、しかも動かされることはないけれども、真実の神、正義の神に従おうとしないで、不正なことを追求する国や人々にたいしては、動揺がその 報いとなり、神の時が来るならその一声にてそれまでの悪への裁きが行われる、そして国々には大きい混乱が生じることになります。

朝早く、神は助けを与える。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は崩れる。

 神は、私たちを待っていて、神にすがろうとする者を助けられる。それをこのように、「朝早く助けを与える」と表現しています。
 多くの他の民や国々は歴史のなかで、さまざまに揺らぎ、崩れていきました。神のさばきをうけて、どんなに強力な国であったようにみえても、歴史の中では裁かれ、溶けるように、また崩れ
るように消えていったのです。
 そうした過去の歴史で生きて働いた神は、現実の敵の攻撃においても、また働いて下さる。過去だけの神でなく、今も生きた助けを与えられることが強調されています。
 天地創造という究極の出来事へと立ち帰るまなざしを持っているこの作者は、また長い人間の歴史をもたえず振り返り、そこに神の導きと裁きを読みとることができたはずで、神の一言によっ て、そうした裁きは歴史のなかで現実に生じてきたし、今もそうであることをこの詩の作者は知っていたのです。

万軍の主はわれらと共におられる。
ヤコブの神はわれらの避けどころ。

 神のことを「万軍の主」というのは、現代の人にとっては、不可解な言葉と感じられることが多いはずです。しかし、これは、旧約聖書では、二五〇回ほども現れるし、とくに預言者では、イザ ヤとかエレミヤなどはそれぞれ五十六回、七十一回など、驚くほど多く使われているのです。
 この「万軍」と訳された言葉が最初に出るのは、創世記で「天と地のすべての万象」という語の「万象」です。それは、太陽、月なども含めた天の星々や天地に存在するいっさいをも含めた 言葉として、さらにイスラエルの軍勢をも意味することがある言葉です。
 この世は悪の力が満ちているように見えるが、本当は、神は天地万物を支配している万能の神であることを強調する表現なのです。
 それらをも、悪との戦いの軍勢としている。天の星たちは単に輝いているだけでない、それは神のしもべとして、悪と戦う力を表しているものだこの時代の人々は信じていたようです。
 こうした天地のいっさいを創造し、支配して悪との戦いをされ、勝利される神であるからこそ、万軍の主という言葉この短い詩のなかで、二回も繰り返されているのです。

来たれ、そして見よ、主のなされることを。
主は驚くべきことを、この地においてなされる。
地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き矢を折り、盾を焼き払われる。
「静まれ、そして知れ、わたしこそ神だということを。
わたしは国々において高く、この地で高くされる。」

 神を信じる者は実際に神のなされる働きを見るようにと招かれています。過去になされただけでなく、現在も生きた働きをされる神は現実に働いておられるからです。
 いつか神の時が満ちたときには、神は最終的には、地の果てまで、戦いを終わらせるし、あらゆる武器を廃絶されると言われているのです。
 ここに、世の終末へのまなざしがあります。私たちのあらゆる願いや祈りが聞かれ、魂の深みに刻まれたような悲しみや苦しみなどもすべてが消えていくときを待ち望むのです。
 「静まれ!」この神からの命令は、いまの私たちにも言われています。私たちは、日頃の目に見える世界の混乱したただ中から離れ、静まるときに初めて、過去や現在、そしてはるかな未 来になされる神のわざをも示され、確信へと引き戻されるのです。
 終末のときには、完全な平和が訪れ、神は全地においてあがめられると言われます。
 新約聖書の最後の書物においては、それは新しい天と地の出来事であり、古い天地は過ぎ去ったのちのこととして記されています。
 この詩はこのように、天地創造という根源にさかのぼり、歴史において働かれた神は現在においても働かれる確信を述べて、さらに終末への希望に満ちてこの詩を終わっています。 
 悪のいかなる強靭な力が襲ってこようとも、それにはるかにまさる神の力への不動の確信が、この詩の随所に刻まれています。
それは神があたかもこの詩の作者を用いて、後の時代のこの詩を読むあらゆる人に同様な確信と力を刻もうとしたかのようです。

 この詩篇四十六編をもとにして作られたルターの讃美歌(讃美歌21の三七七番)をつぎにあげておきます。(従来の讃美歌では、「神はわがやぐら」讃美歌二六七番)

1)神はわが砦、わが強き盾、
  すべての悩みを 解き放ちたもう
  悪しきもの おごり立ち、
  邪(よこしま)な企てもて 戦いを挑む

2)打ち勝つ力は 我らには無し
  力ある人を 神は立てたもう
  その人は主キリスト、万軍の君、
  われと共に 戦う主なり

3)悪魔世に満ちて 攻め囲むとも
  我らは恐れじ 守りは固し
  世の力騒ぎ立ち 迫るとも
  主の言葉は 悪に打ち勝つ

4)力と恵みを われに賜わる
  主の言葉こそは 進みに進まん
  わが命 わがすべて 取らば取れ
  神の国は なおわれにあり
 
 なお、ルターの原作に触れるため、最初の部分だけを参考にあげておきます。
これは、右にあげた讃美歌21の一節の初めから二行目まで「神はわが砦 わが強き盾 すべての悩みを解き放ちたもう」の原文です。

Ein' feste Burg ist unser Gott,
ein' gute Wehr und Waffen,
er hilft uns frei aus aller Not,
die uns jetzt hat betroffen

堅き砦、それは我らの神
よき守りであり、武器となって下さる
神は我らを襲う、あらゆる困難から
我らを助けて自由として下さる
区切り線
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