待ち続ける神 028-01-07-1
神は私たちが繰り返し断っても、なお待ち続けていて下さるお方だ。神が私たちを招かれているのに、なお、背を向けて、罪を犯し続けていた。
それは神からの招きを断っていたことだ。
それでもある時、ふと気付いて神に立ち帰ったら、神は喜んで迎えて下さった。大いなる愛を注いで下さったと感じた。
それによって、神は自分をずっと待ち続けて下さっていたのだと実感する。キリスト者はだれでもこうした経験を心に持っているだろう。
放蕩息子の有名なたとえ話も同様だ。父の心に背を向けて、長い間、悪い遊びに明け暮れし、どうにもならなくなったとき、やっともとの父親のところに帰ろう、たとい奴隷のようになってもか
まわないと覚悟して帰った。そうすると、思いがけず、父は遠くから走り寄って、最大限の歓迎をして受け入れてくれた。
息子が父親の心に背いて放蕩のかぎりをしていたことは、父親の愛を断っていることであった。しかしそうして長く父の愛に背を向けていた息子をもずっと待ち続けていたのが父であり、神の
心なのである。
だれからも待たれていない人は多くいるだろう。だれも遊び相手がない、親からも冷たくされる子供、あるいは家でこもりきりとなっている人、病気となり、老年となって帰るところもない、子供も
いない、いても相手にしなくなった、だれも待っていてくれる人などいない、しかし、そのような人たちでも喜びをもって待っていて下さるお方がいる。それが神であり、主イエスなのだ。
仕事や学校が終わって帰宅したとき、だれも待っていない家、あるいは、家族はいても自分を待ってくれてはいない場合と、だれか待っていてくれている人がいる場合とでは大きく違った気
持ちになるだろう。このごろの子供の心がすさんできているのも、一つには、夫婦がともに外で働いていて、家に帰ってもだれも待ってくれていないという状況が影響しているとも言われている
。
地上の命が終わるとき、だれも知らない、死の世界へと一人引き離されていくような状況となる。しかし、そこでも神は大手を広げて復活の新しい命を与えようと待っていて下さる。
キリスト教にいう神は、どんな人でも、神に立ち返ってくるのを待っていて下さる神なのである。
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