復讐と祈り  2001/9

 現在の世界がアメリカの方針によって大きく揺り動かされている。六千人に及ぶと言われるニューヨークの高層ビルの崩壊に関する事が毎日のように報道されてその報復としての戦争が近いうちに開始されようとしている。
 アメリカ大統領は敵に対して国民の憎しみをあおり、報復の戦争だと言っている。そして長期戦争になるから覚悟せよという。敵国とみなしている、アフガニスタンは国土の四分の三が標高四千メートルから七千メートルもある山岳地帯であり、かつてソ連は十年ほどもかけても目的を達成できずに、撤退した。
 今回のアメリカの攻撃にしても、相当に困難な戦争になるとわかっているのであり、はじめから長期になるとアメリカ大統領が言っているほどだ。
 長期になればなるほど、一般の人たちが多く犠牲になる可能性が高くなる。憎しみは憎しみを生み、報復は報復を生みだす。そしてどちらの側も自分たち以外の国の賛成と援助を求めて必死になる。そうしてできたつながりはますます増えていく。戦争を続けていくと、こうした敵対感情は増えていく一方となるだろう。捨て身で今回のような危険なテロが原子力発電所になされるなら、チェルノブイリ原発事故で推察できるように、おびただしい被害が生じる。
 あの事故によって、一千二百キロも離れた北ヨーロッパや西ヨーロッパにも多量の放射能を持った物質が降り注いだ。わずか一基の原発によって北半球の相当部分が放射能で汚染されるほどなのであって、日本のような狭いところで原発の事故が起こったら想像を絶する事態となるだろう。
 福井や福島などの原発に今回のような飛行機によるテロで爆発が生じると、日本の広大な領域が放射能で汚染され、その後も相当の年月にわたって住めなくなるだろう。
 報復戦争を押し進めると、命がけで捨て身でテロを実行しようとする人たちをさらに押し進めるようになり、原発を攻撃するということまでやりかねない。。
 こうして本来何にも関わりがなく、まったく敵対感情など持ったこともない人たちが互いに敵となり、殺し合うことを平気で実行するようになる。
 日本も軍事面で具体的に協力すると言い出した。敵には敵対心をあおって憎しみを増大させて、その憎しみの心をもって、戦争に行く。
 報復のための戦争ということがどんなに、悲惨な事態を招いたか、歴史を見ればすぐにわかるのである。
 例えば、第一次世界大戦は、一九一四年、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺されたということがきっかけで始まった。それに対して、オーストリアがセルビアに宣戦布告して、第一次世界大戦へと拡大していったのである。
 ヨーロッパを巻き込んだ、四年間の激しい戦争の結果、戦死者は一千万人、病気や傷を負った人々は一千万〜三千万人、一般の市民の死傷者は五百万人という膨大な犠牲を生み出してしまった。
 皇太子夫妻という二人の命への報復としてなされた戦争から、このように、おびただしい犠牲が広大な領域でなされた。もし、その場合、報復戦争でなく、忍耐強い話し合いをいろいろの国々と熱心になされていたなら、そうした無数の人々の死や苦しみ、悲しみは避けられたのである。
 こうした歴史上の例をみても、いかに報復のための戦争が大きい犠牲を生み出すかがわかる。

 私たちの世界では、個人的な場合や国家の場合でも、悪に対しては悪でもって報復するということが当たり前のように行われている。悪に対処するとき、このような憎しみと敵対心、武力攻撃といった方法しかないのだろうか。
 キリスト教の経典である聖書にはまったく異なる道が記されている。

我々の戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪のさまざまの霊を相手にするものなのである。(新約聖書・エペソ書六・12)

 この言葉でわかるように、私たちキリスト者の戦いは、目に見える血肉でない、つまり特定の人間や人間の集団ではない。そうでなく、目には見えない悪のいろいろな霊だと言われている。
 この深い洞察は使徒パウロがキリスト(神)から受けたものであった。
 敵とは、自分たちに危害を加える特定の人間や組織、そして国家であるというのはふつうの人にとっては当たり前のことだ。そしてその敵に対しては、武力を用いて、戦いを勝利するのだと考えている。
 この当たり前と思われてきた考えや感情を根本から変えるたがキリストの福音である。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。(マタイ福音書五章より)

 このように、敵に対して、憎しみを燃やして、復讐するのでなく、敵のために祈れと言われている。それが敵を愛することに他ならない。
 今回のアメリカ大統領の考えのように、敵を憎んで殺してしまおう、それをかくまっている国家そのものも大がかりな長期にわたる攻撃によって滅ぼしてしまおう、そのためにはまったく無実な人々を殺傷するのもやむを得ないといったアメリカの大統領とかそれを援助しようとする多くの国々の代表者たちの考えはキリストの言われた精神とはまったく異なる。
 その代わりに、キリスト教を信じる者として、国民すべてが亡くなった人とその家族たちのために悼み、あのようなひどい悪をなした人たちの心が変えられるようにとの祈りを呼びかけ、国際的な話し合いや武力を決して用いない方法による解決方法を真剣に模索するなら、いま、生じようとしている戦争、その影響は場合によっては全世界にも波及しかねないほどの重大事態、そこから無数の人たちが苦しみ、殺され、傷ついていく、そのようなことを防ぐことができるのである。
 大量の殺人にほかならない戦争をも決してしないという前提に立って、物事に対処すべきなのである。そうでなければ、報復戦争をして無実な無数の人たちを殺し、傷つけるならそれこそテロの一種であり、今回のビル破壊をした人たちと同列の罪にある者になってしまう。
 キリスト者(英語ではクリスチャン)とはキリストにつく者という意味である。キリストにつく者なら、当然、キリストが教えられたことにも従おうとする者のはずだ。
 そしてキリストの精神こそは、だれをも殺さず、神の力を待ち望みつつ、悪人を殺すのでなく、悪人を支配している悪そのものが滅ぼされて、その人間が、変えられるようにとの願いを持たせるものだ。
 使徒パウロもつぎのように、キリストの真理を述べている。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてある。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(新約聖書・ローマの信徒への手紙十二章より)

 ロシアを代表する作家、思想家であり、宗教家でもあったトルストイの代表的作品、「アンナ・カレーニナ」という大作の巻頭にこの箇所からの引用が書かれてある。
「復讐は我にあり、我これ報いん」
 というのがそれである。
 トルストイはなぜ、この大著の巻頭にこの言葉をあげたのだろうか。それはすくなくともいかなる人間の考えをも越えて、神はすべてを見通し正義に反することには裁きを与える存在であることを言いたかったのであろう。
 彼は、悪に対して、武力をもって報復することに対して、徹底して反対した。それはキリストの根本精神に反することだと一貫して主張していた。トルストイは彼のいろいろの著書でこうした考えを聖書に基づいて強い調子で述べている。その一部をつぎにあげる。
 キリストは簡単明瞭に言っている。
「あなた方は武力や暴力を用いることで、悪をなくすることができると考えている。しかしそうしたことはただ、悪を増やしていくだけである。あなた方は数千年の間ずっと悪によって悪を滅ぼそうとしてきたが、滅ぼすどころか、増やしてきたではないか。
 悪を本当に滅ぼす道は、ただ一つ、それはいっさいの差別なしに、万人に対して、悪に報いるに、善をもってすること、これである。
 私が語り、行う通りにせよ、そうすればそれが真理かどうかがわかるであろう」と。
 しかも、こう言っているだけでなく、みずからその全生涯と死をもかけて悪に対する無抵抗というこの教えを実行しているのである。(「わが信仰はいずれにあるか」河出書房新社刊 トルストイ全集第十六巻29p)
 このトルストイの聖書に基づく主張に共感したのが、インドのガンジーであり、さらにそのガンジーに影響を深く受けて、実践したのが、アメリカのマルチン・ルーサー・キング牧師であった。キング牧師は、あらゆる差別、暴力に対しても決して、暴力でもって復讐せず、一貫してキリストの言葉にあるように、祈りと神の力に頼ること、裁きは神がなされるという信仰によって、悪に対処してきた。そしてそれが大きい運動となって全アメリカに伝わっていったのである。
 キリストは「誰に対しても悪に、悪を返してはならない」と言われた。それは悪に対して悪をもって報復すれば、ますます悪の力ははびこりその悪に多数の人たちが飲み込まれていくことにつながるからである。しかし、神の力とその裁きを信じて、悪に対して善をもって対処するなら、そこで悪の力にすでに勝利したことになる。ここにこそ、悪に対するための永遠の真理がある。
 真理は、その時代の多数の人が認めるとは限らない。キリスト自身が、当時の宗教界、社会的な指導者たちによって憎まれ、ついに十字架上で処刑された。
 それ以後の長い時代においても、キリストの真理はきわめてしばしば踏みつけられ、無視されてきた。
 それにもかかわらずこのように少数の人によってその真理は保持され、伝えられ、信じられてきたのである。真理はそれ自の力によってどんなにこの世がまちがった方向に押し流されていくようにみえても、なお、不動の岩のように存在し、この世の奥深いところを、時代を越えて流れていくのである。
 私たちはそうした真理をとるか、真理に反した流れに押し流されるかのいずれかを選ばねばならない状況にある。
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