主の平安    2001/9

 キリスト教が与える最大の賜物のひとつは、主の平安を与えられることだと言えよう。自分の罪赦され、しずかに語りかけて下さる主の愛を感じ、揺れ動く状況にあっても心の奥深い一点に、ある光のようなものを感じること、どんなに目に見える世界が動揺しようともどこか静かなものがある、と実感させて頂けることである。
 主イエスは言われた、
「私は平安をあなた方に残し、私の平安をあなた方に与える。私はそれを世が与えるような仕方であたえるのではない。」と言われた。(ヨハネ福音書十四・27)
 この世は、武力とかでそうした平和や安全を得ようとする。しかしそれは新たな不安と恐れを生み出すだけだ。
 本当の平安は、主への信仰の賜物として与えられるのであり、宇宙の創造主である神とキリストからくる。

無限の正義
 アメリカは今度のテロ報復のための戦争を「無限の正義」と名付けた。しかし、その作戦によって、本来は今度のテロに無関係な人の命をも大量に奪うことが考えられるにもかかわらず、それをもって、しかもそれが全世界のどこまで拡大していくか誰も予測できないような重大な事態となる可能性があるにもかかわらず、そのような作戦を行っていくことは、それは「無限の愚かさ」であり、「無限の悪」に変身していくだろう。
 かつての日本もまた、中国やアジアへの戦争を「聖戦」と言っていた。しかし、それはたしかに、数しれないアジアや日本の民衆を殺傷していく、無限の愚かさとなり、無限の悪となっていった。
 今回のようなテロが恐ろしい悪であることはだれしも異論がない。しかし、それに対して私たちはこのような戦争を起こすことに対して強く反対する。
 どこまでも正しいといえること(無限の正義)は、キリストが教えたように、神の裁きにゆだね、武力で報復することなく、敵のために祈る心にある。

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