本当の自由を与えるもの    029-01-8-2

さまざまの自由
 自由とは何か、真の自由を持っているかどうか、それはあらゆる人間の問題の根底にある。小さな子どもから、大人、老人、そして一つの民族や国家に至るまで、すべて自由を求め、追求している。その過程で、争い、戦争が生じる、そして差別や殺人その他いろいろの罪も伴っていく。それは、自由をまちがったところに求めるからである。
 自由とは、何かについてむつかしい議論をせずともだれでもすぐわかる一面を持っている。部屋に閉じこめられたら自由でないことはきわめて当たり前のことである。携帯電話も自由に話せる、距離や時間、場所の束縛から自由になって話できるということであって、自由を求める要求に応えるところがあるので、たちまち広がったのである。
 科学技術も人間をある面で自由にしていった。例えば、病気は医学という科学によって相当克服された部分がある。しかし、他方では、薬剤の間違った投与、耐性菌の発生、まちがった診断、治療などによって新たな病気もたくさん作られることになった。
 また、車社会となったが、それもどこにでも行けるという自由を与えていった。しかし、他方、車によって、よい空気の中で生きる自由が奪われ、道路建設のために、田園や田舎の自然がつぎつぎと破壊されていきつつある。戸外で自由に遊ぶという自由もなくなった。交通事故で1万人ほどが死んでいるか、怪我をして生涯を自由を奪われる人も、何万人となくいる。
 そうした身近なところから、また世界の大事件となったこともある。いろいろな国で革命や反乱が起こることも何らかの自由を求めての動きである。例えば日本の明治維新も徳川幕府の支配が自由をあらゆる面で縛るものであったから、そのような束縛を脱して、自由を得たいという願いがあったはずである。
 ロシア革命によって、ソ連となったのも、ロシアの皇帝政治の圧迫からの自由を求めるという意味があった。しかしそれはまもなく、新しい束縛、スターリンのはげしい弾圧となって以前にも増して自由を奪う状況となってしまった。
 アメリカそのものの建国も、その出発点には、イギリスの迫害から逃れて、信仰の自由を求めて荒海をはるばる命がけで渡ってきた人たちがいる。わずか百八十トンの船に百二名が、二カ月余りもかけて、アメリカの北東部海岸にたどりついたのであった。そのようにしてたどり着いた人たちのうち、半数以上は、寒さと飢えのために、その年の冬を越すことができずに死んでいった。そうした犠牲の上に、それまでとは違って自由を重視する国が成長していった。

 日本において個々の人間は、封建制度の束縛から自由となったし、豊かさによって貧困による束縛からの自由を得た。また女性は男性と対等となり、育児や家庭の束縛から脱していった。
 また、そのように重要な「自由」は憲法によっても保証されることになった。現在の憲法において、思想及び、良心の自由、信教の自由、表現、学問の自由など、あるいは、居住・移転・職業選択の自由など多くの自由権が保障されている。
 そうした自由権の保障のおかげで私たちは毎日の生活のなかで、戦前とかもっと古い時代と比べるとき、自由であることの幸いを十分に受けているといえる。
 しかし、人間とは弱いもので、このように自由を受けていても、心から自由だと感じている人は、どれほどいるだろうか。戦前のように、平和主義を主張するだけで、危険な人物と見なされ、神社にいって神々を拝まねば日本人でないかのように非難される、そのような自由のない状況にあれば、何とかしてそのような不正な圧迫から逃れたい、そのような間違った法律などを 変えて欲しいと切実な願いとなる。
 しかし、日本では太平洋戦争の敗戦により、そのような状況が根本から変えられて、日本の歴史始まって以来の自由が保障されるようになった。そのような自由を日々心から感謝して生きている人はどれほどいるだろうか。ほとんどは当たり前として何にもその自由について感謝している人はいないのではないだろうか。
 そしてなにか自分の心が縛られている、心からの自由が感じられないという人は実に多いだろう。そうした束縛を脱した人々は、そこで得た金や時間をあらたな欲望や快楽を得ることにも使うようになり、そうした欲望の奴隷となっていく人もまた増大していったからである。
 例えば、離婚は相当自由にできるようになった。結婚関係が自由を束縛するものとして感じている人は相当に多いだろう。結婚とはある意味で束縛であり、当事者を縛るものだからである。特定の人間とずっと生涯ともに過ごさねばならないこと、これは考えてみるとずいぶん自由を縛るものだと思われる。そして離婚して勝手にまた別の異性と関係をもって自由に生きたほうが楽しいという人も多くなってしまった。
 しかし、こうした方向を押し進めた結果、アメリカでは、夫婦の二組に一組が離婚し、子供の三人に一人が血のつながった父親と暮らしていないという驚くべき状況となってしまった。このような家庭の崩壊が生じるのは、夫婦の双方、または片方が自分勝手な自由を求めたからであると言えよう。結婚という束縛からの自由を求めていった結果、こうした家族の崩壊が進んでいくことになった。
 このように、表面的な自由を求めていくときには、家族関係を壊し、その家族から成り立っている社会の基礎をも壊していくことにつながっていく。こうした家庭の崩壊が、若者の心をもむしばみ、暴力や異性関係の乱れ、そこで生まれる子供への非人間的な扱いなどとなり、それがまたその子供たちの将来に暗い影を投げかけていく。
 このようにして、個々の家庭に属する者も、心からの喜びとはほど遠い心の状態となる。自由とは心の清い喜びがなければ感じないからである。心にさわやかな喜びがあるということは、自由を感じているということである。
 しかし、自由ということを、自分の欲望や自分中心の考え通りにすることだとして、そのような行動をとるとき、たちまちそうした自由は束縛へと変わっていく。例えば、道。路を自分の自由に走りたいといって、速度を無視して、信号も無視して走ることを繰り返しているなら、たちまち逮捕されて、運転免許も取り上げられるだろう。
 酒を自由に飲みながら楽しい気分でドライブしたいといってそのような自由をそのまま実行していたらこれも、まもなく逮捕されてやはり運転できなくなり、社会的にも職業をも止めさせられることになるだろう。
 こうしただれでもわかる例で考えても分かるとおり、自由というのは、自分の思うまま、欲望のままにするとすぐにそのような自由もなくなるということである。これは、そうした自分中心に自由にすることがまちがっているからである。
 こういう自由が真理でないのは、このように実際に実行していけば、たちまちそうした自由が奪われてしまうということからもわかるが、それとは別に、そうした自由からは決して心には清い喜びは生じない。それは、そのような自分中心的な自由は、もっと奥には、自分自身の欲望に縛られているからである。

アメリカの黒人奴隷と自由
 アメリカの綿花栽培で白人たちが自分たちは苦しい労働をせずに、自由な生活を楽しみながら利益を得るために、アフリカの黒人を捕らえてきて、奴隷として働かせた。彼らはだまされ、脅迫されて捕らえられ、狭い船に乗せられて運ばれてきた。長い年月にわたって、アフリカから千五百万人もの黒人たちが、船に詰め込まれ、男は足をクサリでつながれて、動物のような扱いを受けて運ばれた。暑いところからであり、多くの黒人が病気で途中に死んだ。
 そうしてたどり着いたアメリカで、長時間を奴隷としてこき使われたが、これも白人たちの自由を楽しみたいという欲望が根底にあった。このような間違った自由の追求も歴史には多くあるが、その一方で、真理から来る自由を求めて勇敢に行動した人も多くいる。 そのうちの有名な例として、黒人に自由をもたらすために命をかけて戦ったマルチン・ルーサー・キングのことを考えてみよう。
 彼が、今から四十年近く前、一九六三年八月二十八日にワシントンで行った演説はあたかも神が背後にいて語らせたかのような真理と力がこもっている。そのとき、二十五万人もの人たちが行進をしてワシントンに集まってきたのであった。それはアメリカにおいて、人種差別を撤廃するための運動の歴史のなかで最も大規模なものとなった。そのとき、キング牧師は、つぎのような演説をした。(なお、引用した部分の訳文は一部省略、簡潔にした)

私はあなた方とともに今日の大いなる出来事に共に加わったことを喜ばしく思っている。今日のことは、私たちの国の歴史において、自由のための最も偉大な行動として、歴史を流れていくであろう。
・中ヲ
今日もまた明日も我々は、困難に直面している。
しかしそれでも私は夢を持っている。
それは、いつの日にか、この国が立ち上がって、「すべての人間は平等に創造されている」という信条を生きるという夢を持っている。
・中ヲ
わたしは一つの夢を持っている。子供たちがいつの日か、その肌の色でなく、その品性によって評価される国で生活するときが来るという夢を持っている。

あらゆる谷は高くせられ、あらゆる山と丘とは低くせられ、
高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。
こうして主の栄光があらわれ、すべての人がともにこれを見る日が来る、(*)
そんな夢を私は持っている。
これがわれわれの希望である。
この信仰をもってわれわれは絶望の山から希望の石を切り出すことができる。この信仰によって、我々の国の著しい混乱を変えて、兄弟愛の美しいハーモニーと変えることができる。この信仰によって、共に働き、ともに祈り、ともに戦い、共に獄に入れられ、自由のためにともに立ち上がろう。
 私たちはいつの日か、自由になるということを、この信仰によって知っているのだから。
 このアメリカのいたるところから「自由」を鳴り響かせよう。ニューヨークの山の頂上から、ジョージアの山から、テネシーの山から、丘という丘から、ミシシッピの小さな塚からも自由を鳴り響かせよう。
 私たちがあらゆる町や村から「自由」を鳴り響かせるとき、私たちが待ち続けてきたその日を早めることができる。
 その日には、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、カトリックもプロテスタントも手を取り合って、あの古い黒人霊歌を歌うのである。

ついに自由になった!
ついに自由になった!
全能の神様、ありがとう。
私たちはついに自由になった!(**)

(*)イザヤ書四十・4~5
(**)
Free at last. Free at last.
Thank God Almighty,
we are free at last.

 この有名な演説はたしかに神が背後にいて、語らせた雰囲気がある。自由への激しい願い、そしてその願いは、神の言に重ね合わされて、神が必ず未来において実現して下さるという確信をもって語っているのが感じられる。
 聖書ではこうした究極的な自由は「終わりの日」あるいは、「その日」という表現であらわれる。現実の世界でいかに時間を要するとも、神は必ず実現される。そしてその実現の状況を啓示によって仰ぎ見ることをゆるされたのがこのキング牧師であり、その啓示を神からの権威をもって語ったのがこの演説なのである。
 このように、自由を求める祈りと願いは、神の言と結びついたとき、初めて強いものとなる。それは神がそのはたらきを助けるからである。
 キング牧師が繰り返し強調していること、「自由」を鳴り響かせようとの呼びかけは、主イエスが、その伝道の生涯の初めにおいて、述べられたこと、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせる」という内容と響き合っている。
 キリストが宣べ伝えた、自由の宣言は、時代を超えて、最も苦しい差別に長く苦しんできたアメリカの黒人指導者によって同じキリストの権威をもって、再び宣言されたのであった。

ルターと自由
 ルターの宗教改革もまた、信仰の自由を求める戦いが発展していったものであった。救いのためには、ただキリストに対する信仰のみでよいとする信仰上の自由が出発点であり、原点であった。ここから、ただキリストのみが真の大祭司(神と人を結び付けるお方)であり、キリスト者もそのキリストを信じて結びつくときに、だれでもが神と人を結び付ける存在(祭司)となるのだという真理を明らかにした。そうして人間であるローマ教皇の支配も受けることもない自由が与えられること、そのような真理を記している聖書こそが人間を自由へと導くのである。
 彼は、宗教改革の代表著作の一つ「キリスト者の自由」という書物を書いてこうした、真の自由を告げ知らせたのであった。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人(なにびと)にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。

 この意味は、キリストを信じて、キリストに結びついた者は、すべてのものに支配されないし、従属しない、かえって、あらゆるものの支配に影響されないで、すべてのものの上に立っている。そこに自由がある。
 それは、キリスト者が結びついているキリストご自身が、いっさいを支配する力を持っておられるからである。たとえいかに地位が低くても、彼自身は、ほかの者に魂は支配されない。この最も代表的な例はキリストご自身であった。キリストは社会的地位は何もなかった。大工の息子としての三十年間ののちわずかに三年間を自発的な食物の提供などを受けて、福音伝道のために費やしたのであり、最も低いところで生活されたことになる。しかし、主イエスは、いかなる王や権力者の支配の上におられた。当時の領主であったヘロデに対してもある時には、つぎのように「キツネ」と呼んだことすらあった。

ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしている」。
そこで彼らに言われた、「あのキツネのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終える。しかし、きょうもあすも、またその次の日も、わたしは進んで行かねばならない。(ルカ福音書十三・31~33より)

 また大祭司という宗教界の最も高い地位の者によって最高法院で尋問されたとき、つぎのように答えている。

イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
イエスは言われた。「・中ヲわたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子(キリスト)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。
そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。」(マタイ福音書二十六・63~66)

 このように、いずれの場合も、主イエスは自分が殺されるほどに相手が敵意を持っているということを知っておられたが、なおこのようにはっきりと真理を語られた。これは、すべての上に立って支配されている王であることを示している。
 そして、あらゆる病や死ですらも、支配されていることをしばしば示された。それゆえに、そのようなキリストを信じてキリストに結びつく者は、同様な力を与えられる。キリストはすべてのものの上に立つ君主のようなものであると約束されている。

 他方では、キリスト者はすべての人に仕える僕(しもべ)であるという。本来、君主のようにすべての力の上にあるというのは、すべての人に仕えるというのと正反対であってとうていこの二つが結びつくとは思えない。
 しかし、キリストご自身は、この二つを完全に備えたお方であった。たしかにキリストはあらゆる支配権力、死やサタンの力、罪の力にも勝利された。「私は世に勝利している」とヨハネ福音書で言われた通りである。
 他方キリストは、つぎのようにも言われた。

人の子(キリスト)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ福音書十・45)
 このように、人に仕えることは、支配とは逆のことであるのに、主イエスだけはこの二つを完全に調和させておられたのであった。
 私たちがもしすべての上に立つ、霊的な力を与えられていなかったら、他の人に仕えるということは、自由のないこと、自由とは反対のこととなり、仕えることだけでは到底キリスト者として生きてはいけないだろう。
 まず私たちは他者に仕える以前に、すべての上に立つ力を与えられ、従って自由なものとされているからこそ、その自由な心をもって他者に仕えることができる。
 こうした自由を人間に与えるためにキリストは世に来られた。すでにキング牧師の項で引用した箇所であるが、再度つぎに引用する。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ福音書四・18~19より)

 これはイエスが自分が育ったナザレに来て、安息日に会堂に入り、そこで朗読された聖書の箇所である。これは預言者イザヤの言葉であった。そしてこの預言の言葉が、「今日、あなた方が耳にした時、実現した」と主イエスは言われた。これは主イエスの伝道の最初の出来事として、ルカ福音書に記されている。
 人間はいたるところで自由を奪われ、束縛され、苦しんでいる。しかしその束縛の根源は何であるのか長い間わからなかった。その根源を示したのが、キリストであり、その福音であった。
 人間を最も深いところで縛っているのは、不正な王や支配者、あるいは誰かほかの人間や差別的制度でなく、また病気や老年でもない。貧困ですらない。それは、罪である。
 私たちはそんな罪などというものが人間を縛っているとは考えたこともないが、そうした思いもよらない根源的な問題をいつもキリストは人々に示してきたのであった。
 罪が私たち人間を縛っている、そう言われてもすぐにそうだと思う人は少ないだろう。罪とは、神に敵対する思いであり、神とは真実や正義、そして愛であるから、それらに敵対する心のなかの思いが罪だといえる。私たちがだれかに対して不信実なことをしたり、憎んだり、また不正なことをして金を受けたりすれば、それは罪である。神が最も偉大で全能であるのに、自分をいつも一番大切なものと考えるときそこにも罪がある。自分中心に考えるとき、人は必ずだれかから認められなければ満足できない。いつもだれか他人の評価を一番に気にする。これが他人によって縛られるということである。
 あるいは、清い正義などない、神を信じても喜びなどないと思う者は、自分中心の一つの道として快楽を求めるようになる。それは快楽というものに縛られることにほかならない。
 こうした例でわかるように、罪は必ずなんらかのもので私たちを縛るようになっている。そしてそのような罪の思いそれ自体が私たちの心を狭く、汚れたものとするので、心に平安がなくすさんだ状態となる。それが私たちの魂の真の自由を奪ってしまう。
 このように、人間はだれでも制度や他の人間、あるいは貧困や病気などによって縛られるのであるが、もし、人間が罪に縛られないなら、そのような苦しい状況にあって、本来なら自由を奪われたという渇きや不満、怒りしかないところでも、深い自由を実感させるものとなる。
 これは、多くの重い障害者や病人、ハンセン病のような極限の不自由を味わわされた人であっても、なお、キリストに結びつくときには、深い霊的な自由を与えられ、実感していたのが、彼らの書き残した印刷物などによってうかがうことができる。
 主イエスは言われた、
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書八・31~32)

 この短い一言は、人類が数千年求め続けてきた自由へのはげしい願いを最終的に解決するものであった。
 この主イエスの言葉と同様なことをパウロもこう言っている。

主の霊のあるところに自由がある。(Ⅱコリント三・17)

 ほかの表面的自由は、すでに述べたように、いくら奴隷制度がなくなっても、こんどは、快楽や自分の欲望(罪)に従って生きることになると、そうした欲望の奴隷となり、霊的自由を根底から失ってしまう。日本においても、戦争中から、戦後にかけての貧困がなくなり、現在では世界でも有数の豊かな国となり、家庭や学校給食、レストランなどいたるところで食物は過剰となり捨てられている有り様である。
 そのような豊かさがどれほど、心の自由となったであろうか。むしろ逆に自己中心の考えや欲望に動かされて生きる若い世代の人たちが急速に増え続けている。
 科学技術により、病気なども多くのものが克服された。しかし元気になって自分の欲望中心に生きることで魂の奴隷状態となっていく傾向が強くなっている。
 こうしたあらゆる外側の自由に対して、キリストは人間の根源からの自由を与える道を示して下さったのである。
 最後は死の力からの自由である。死が近づくとその力にすべての人は縛られていく。死から脱することは本来不可能であった。しかしキリストはそのすべてを閉じこめる死の力すら打ち
勝って、死から真の自由、究極的な自由への道を開いて下さったのである。死の後に、完全な自由を持っておられるキリストと同じ姿に変えられるということこそ、私たちの前途には完全な自由が待っているという約束なのである。
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