日本の宗教的伝統について    029-01-9-3

盆・供養・墓などについて
八月はお盆の月、日本では正月と並んで最大行事となっていますが、その起源や意味について考えてみます。
 お盆は、正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」のことで、略してお盆といいます。盂蘭盆とは、サンスクリット語の"ウラバンナ"を音訳したもので、「(地獄や餓鬼道に落ちて)逆さづりにされ苦しんでいる」という意味で、そのために供養を営むのが、盂蘭盆会なのです。

 釈尊(釈迦)の高弟であった目連(もくれん)という人が、神通力で亡き母の姿を見たところ、母親は、餓鬼道に落ちて苦しんでいた。 何とかして救いたいと、水や食物を運んでも、その母の口元に運ぶがたちまち炎となって消えていく、そこで釈尊に尋ねると、「七月十五日に、御馳走を作り、僧侶たちに与え、その飲食をもって、供養するように」と教えてくれた。その通りにすると、目連の母親は餓鬼道の苦しみから逃れて、無事成仏することができたという。この記述が、盂蘭盆会の始まりといわれています。
 しかし、仏教の経典はきわめて多いにも関わらず、このお盆の起源を書いてある経典は「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」ただ一つで、しかもこれは偽経の疑いがあり、おそらく中国で書かれたものと推定されている。そして、仏教の出発点であったインドの仏教教団ではお盆の行事を行ったという証拠もないとのことです。(「日本の仏教」110P 渡辺照宏著 岩波書店刊)

 このように、本来の仏教にはないような内容であるのにそれが、仏教行事の中心として日本では今も生きているという奇妙なことになります。
 本来の仏教とは、「真理に目覚めた人になるための教え」です。仏陀とはサンスクリット語(古代インド語)の「ブッダ」という言葉をそのまま「仏陀」という漢字になおしただけの言葉です。
そしてブッダというサンスクリット語は「目覚める」という意味です。だから仏(ぶつ)(*)というのも、本来は、生きているときに真理が何であるかを見きわめて真理に目覚めた人のことであって、死んだら自動的に仏になるというのは、仏教の教えではありません。先にあげた、「日本の仏教」においてもつぎのように書かれています。

 また、死者のことをホトケ(仏)というのも、日本的な考え方である。この言葉は、サンスクリット語のブッダ、漢語の仏陀に相当することは間違いない。(*)すべての人が死んだら仏陀になる、(ホトケになる)ということは仏教の考え方にはない。(117P)

(*)仏という漢字を「ホトケ」とも読むのは、ブッダというサンスクリット語と、それを漢字に移した仏陀という言葉とが結びついたことがその由来だと考えられています。ブッダのブがホとなり、ダがトとなり、それにケが加わってホトケとなったということです。

 それは、日本の固有信仰が背後にあります。日本の固有信仰では、人間は死んだ後に十分にまつってもらった霊は、次第におとなしくなって個性もなくなり、ひとつの祖霊となっていくと考えられています。しかし、もしまつってもらえなかった死者は災いをもたらす死霊(しりょう)とか怨霊(おんりょう)といわれるものになってしまうというのです。このことからも、どんな悔い改めもしようとしない悪人でも人間が死んだら自動的に、同じような平和な「ほとけ様」になるなどというのは、本来の仏教でもなく、神道でもない、単なる通俗的な信仰だとわかります。このことについて、専門家の書いた文章から引用しておきます。
  
 死んだ者の霊は、家族や子孫とかによって死者儀礼(食物などを供える供養)が定期的に行われた場合にのみ、その死者の霊は「祖霊」となって、死んだ人間は、名前や人柄、業績などは忘れられ、個人的特徴はなくなり「先祖」となる。・中ヲ
 しかし、死んだあと、子孫によってまつられなかった死者の霊は、どのようになると考えられているか。そのような霊は、死霊(しりょう)と呼ばれたり、「餓鬼」とも呼ばれる。なぜ、餓鬼というかといえば、そのような霊は、子孫に供養を捧げてもらわないために、常に飢えているというのである。
 また、飢えた死霊をそのままにしておくと、災いをもたらすことがあり、病気になることもある。だから家族は定期的に死者供養をしなければならないと考えられていた。(「宗教と科学」第七巻110~112Pより 岩波書店刊」)

 これでは生きているときの生き方がどうかでなく、死後の無意味なまつりごとによって「祖霊」(神)というものになるか否かが決まってしまう。金持ちとか子孫を多くもったものとかが、死後の供養を十分にしてもらえるので、祖霊(神)になるということになる。
 だから、子供が生めなかった人などは、死後、まつってもらえないことになり、祖霊になれないで、怨霊となってしまうことになる。
 このように、多くの死者儀礼(法事など)をし、金をかけるほど、死者の霊がおとなしくなって、祖霊になっていく、もし法事などしなかったら、怨霊となって生きている人にたたってくるという信仰から、貴族たちが時間と金をかけて死人の法事などに力を入れるようになってしまったのです。それが現在までずっと続いています。
 現在も、仏壇で死者にご飯などをあげるのは、そうしないと怨霊となって生きている人にたたってくるからであったのです。これは本来の仏教でなく、日本の固有の宗教であり、古代の原始的な宗教のなごりだと言えます。
 このように、法事は仏教の重要な行事と思われていますが、実は、古来の日本の神道の原始的な宗教がその内容なのです。ですから、ある仏教学者(*)もつぎのように述べています。

法事とは、葬儀が終わったあと、まだ不安定な状態にある死者の霊魂を、安定化させるために行われる儀式である。したがって、その背後には、死んだ直後の死者の霊魂は不安定であり、生きている者にたたりや災いをもたらすかもしれないといった感情があり、法事をすれば死者の霊魂は安定化し、たたらなくなるといった一般の感情や考え方がある。
 しかしこのような考え方は、日本独特のものであり、本来のインド仏教にはなかった。それゆえ、「法事」というものは、きわめて日本的な仏教行事だと思ってまちがいない。
(*)増原良彦。仏教思想家、宗教文化研究所長。

 また、京都での最大の夏の祭である祇園祭も、その起源は怨霊を鎮(しず)めるためでした。夏は、気温も湿度高く、台風襲来もあり害虫もはびこるために、さまざまの病気が広がる季節です。そして都市には人間が集まり、病気や災害の被害も集中します。昔の人は、そうした災いが起こるのは、怨霊のためだと信じていたのです。そこで、その怨霊を慰め、鎮めるために華やかな祭が行われるようななったのです。もともと、怨霊とは、死んだ人のうち、法事などをきちんとしてもらえなかった霊がうろついて生きている人に災いをもたらすと考えられていたのでいっそう華やかに大々的に祭を行うようになったわけです。
 
 また、やはり京都の夏の風物詩のように言われる、大文字の送り火もその起源は、盆の期間に家に来ていた(と思われていた)祖霊を送り出すためです。祖霊を迎えるときも、暗いので
、明かりを頼りに帰ってくるのだと考えて、迎え火をもやし、また帰るときも、暗かったらきちんと帰れないという発想から送り火を焚(た)いたということなのです。 これも今まで見てきたとおり、本来の仏教でなく、日本の昔の民間信仰がもとにあります。
 祖霊は火を焚かねば暗くて家に帰ってくるいということを考えても、そのような頼りない祖霊なら、人間がすがって頼るなどとうていできないはずです。これは、古代の素朴な類推からでたものだと言えます。
 このように、仏教でないものが仏教だとされ、しかもそれが一番大切な行事だとされ、日本人はそうしたあいまいな考え方や信仰をもって、仏教だと思いこんできたのです。宗教とは、そのようなあいまいなものだという観念がしみこんでしまったのです。
 最近、マスコミを賑わした小泉首相の発言、「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる。ひとにぎりのA級戦犯が合祀されているということだけで、死者に対してそれほど選別しなければならないんだろうか。」ということも、首相の宗教意識がごく表面的だということを示すものとなったのです。
 亡くなるとみんな仏様になるなどというのは、すでに見たように、仏教の信仰内容にもなく、神道でもないのです。仏教では、真理に目覚めた人をブッダ(仏陀または仏)というのであり、神道でも、死後のおまつりなどをよくしてもらった場合にだけ、たたることをしない静かな祖霊になるという内容だからです。
 こういうどの宗教でもないようなことが、日本人の国民感情だなどと、首相が公言するということは、日本人の多数が死とは何か、仏教とは何か、神道とは何か、ということをきちんと考えてこなかったということを示しています。

墓について
 また、こうした問題について深く考えてこなかったということは墓についても言えます。墓は仏教には絶対不可欠だと思いこんでいる人がほとんどです。この点について、最近多くの仏教の啓蒙書を出している仏教学者の考えを下に引用します。

 本来、インドの仏教では墓は不必要であった。最近の日本人は、いささか異常なまでに墓にこだわっている。いっぽうで墓地不足がいわれているのに、他方では基づくりが奨励され、墓参りがすすめられる。
 墓に対する基本的知識の欠除が、問題を複雑にしているようだ。仏教はインドに発祥した宗教であるから、仏教の葬法は基本的に火葬である。インド人は古来、火葬を採用しており、仏教は火葬をあたりまえのこととして採用したからであるところで、火葬というものは、ほんとうはいっさいの遺体をなくしてしまうのだ。遺体は肉と骨とから成るが、肉のほうは火葬にすれば消滅する。骨のほうは焼けずに残るが、インド人は焼け残った骨をすべてガンジス河に捨てた。
 現在でもインド人は、いっさいの骨をガンジス河に流してしまう。だから、墓をつくる必要はないのである(余談ながら、現在の日本では、火葬をして遺骨を残すためによけいな苦労をしているらしい。火力が強いと、遺骨は全部灰になって残らない。そこで火力を調節して、わざわざ遺骨を残すように焼いているのである)。
 インド人は遺骨をガンジス河に流し墓をつくらない。………
 さて、問題は、われわれの日本である。じつは日本の伝統的な葬法は土葬であった。土葬の場合は、死体に対する恐怖の感情が抜きがたくある。いったん埋葬した死者が、ひょっこり起き上がってくるのではないか…といった心配がある。
 それで、死体を縄で縛ったり、あるいは死体の手足の骨を折ったりする。さらには死体に大きな漬物石のような石を抱かせて埋葬したり、埋葬した上に大きな石を置いたりもする。死者が地上に出てこないようにするためだ。
 じつをいえば、墓の起源はこの石なのである。…
 ところが、近年になって、日本では火葬が普及した。しかし、日本の火葬はインドのそれとはちがって、遺骨を残す火葬である。ほんとうは遺骨を残さず、すべてを焼き尽くしてしまえばいいのであるが、土葬の慣習のあるところに火葬が入ってきたものだから、遺骨を墓に埋めないと日本人は落ち着かないのである。それで、わざわざ遺骨を残して、墓に埋葬する「しきたり」になった。
 そうなると、こんどは墓が大切にされる。墓参の習慣がつくられ、あげくは「墓相」といったものまでが登場する。馬鹿げた迷信である。…
 わたしは、このような迷信がはびこるのも、日本の火葬ではなまじ遺骨が残るからだと思う。遺骨を残さぬようにするか、インド人のように遺骨を海か川に捨てる「しきたり」に変えたほうがよいと思う。…
 仏教は、死者が死後にどのような状態でいるかを、正しく啓蒙する義務を負っているのだ。
 たとえば、浄土宗や浄土真宗であれば、死者は極楽浄土に往生したのであって墓の下にいるわけではないと、人々に教えなければならない。したがって墓をつくる必要はないと教えるのが仏教の役目である。ところが、日本の仏教は、そのような仏教本来の役目を放棄して、日本人の「しきたり」にあわせて教義をつくる傾向が強い。その結果、仏教は「葬式仏教」となり、また、寺院は墓の管理の仕事をするようになった。(「仏教のしきたりがわかる本」増原良彦(筆名 ひろさちや)著 なお、著者は、東京大学インド哲学科卒業、同大学院修了、仏教思想家、気象大学教授を経て、宗教文化研究所長。仏教に関するわかりやすい本を数十冊書いている。)

 次にお盆には、僧侶が檀家を一軒一軒まわって御経を読む棚経(たなぎょう)といわれる習慣があります。これはどんのことから始まったのか、案外知られていません。現在では多くの人が盆に祖霊が帰ってくるからそのようにするのだと思われていますが、これは江戸時代に、キリスト教を徹底的に滅ぼすために、すべての家がどこかの寺が属するように命じ、家族の名前と属する寺の証印を押して代官所に提出しなければならなかったのです。そして、檀家が仏教徒にまちがいないかを僧侶に確認するように、命じたことから始まっているのです。要するにキリシタン迫害のために、監査する目的から、僧侶が一軒一軒をまわるようになったのです。
 前述の仏教学者もこの習慣はキリシタン迫害から始まっているために、「この習慣の起源はあまり感心できるものではない。…夏の暑い盛り、全部の檀家を一軒一軒まわる僧侶のほうもたいへんだろうし、あまり意味のない習慣はやめてもいいのではないだろうか。」と言っています。そもそも祖霊が帰ってくるというように信じるのは、本来の仏教でなく、日本古来の神道の習慣であって、それを僧侶があたかも仏教の重要な仕事であるかのようにしていること自体も矛盾したものです。さらにこうした矛盾したかたちの上に、大急ぎで一軒一軒をまわって意味の説明もない御経を唱え、お布施を受け取って帰るというので、口には出さないけれども多くの人がこれが本当の宗教だろうかと疑問を持つことにもなっています。
 また、盆のときには、精霊棚(しょうりょうだな)といって、盆の間、家に帰ってくるという死者の霊をもてなすために、臨時に作る供養棚があります。仏壇の前に置いたり、縁側に置いたりするのです。しかし、仏教といっても、日本で最も多くの信徒を持つ教派の一つである、浄土真宗では、死者は浄土に往生しているから、霊がお盆に帰ってくるなどということはないとして、精霊棚は作らないのです。

 以上のような、仏教と神道の入り交じった習慣を信じるなら、たえず死人の霊という本当にあるのかどうかも定かでないものを信じて、そうした霊が悪いことをするのではないかとおびえることになります。そして供養されない死人の霊は、生きている人に病気や事故などでたたってくるというのです。そして金持ちが多くの費用を使って僧侶を呼んだりご馳走したりしてもてなすと霊はおとなしくなるなどということを信じるなら、いかにも金中心だということになってしまいます。そのような金によって動くような霊を信じて何の益があるでしょうか。
 これに対してキリスト教では、死人の霊がたたるなどということはいっさいありません。人間はすべて生きていても、死んだ者もみんな、万能の神、愛と真実の神の御手の中にあって、生前に神の前に悔い改めたかどうか、どれほど神の御意志に従って生きたか、といったことによって、すべてを見抜いておられる神が裁かれるのです。そしてどのような罪を犯したとしても、心からの神への悔い改めによってその人は救われる、永遠の命を与えられて神とともに生きるようになることが約束されています。
 ですから、日本では非常に多く使われる、「慰霊」ということ、死んだ人の霊を慰めるなどということは、新約聖書でもまったく記されていないのです。私たちは死んだ人については、愛と真実の神がその万能をもって、最善にして下さっているのだと信じて委ねることだけが必要なのです。
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