二つの道 2001/10/2
一般の人と同様にキリスト者にもいろいろな考えがある。同じ聖書を読み、同じキリストを信じているはずであっても、その主張がはっきりと対立する問題がある。
その一つは戦争の問題、武力を使う戦いを肯定するかどうかという問題である。
いろいろな理由をあげて戦争を肯定する人がいる。現在の戦争に賛成しているアメリカの多くのキリスト者たちも同様である。
しかし、歴史を見ればすぐにわかることは、戦争によっておびただしい犠牲が生じているということだ。はじめはそんなにたくさんの犠牲が生じるとは予想されていなくとも、ひとたび始めると、つぎつぎとより大きい効果を求めて拡大していく。戦争を始めた者、指揮する者たちは、少し始めただけでは決して終えようとはしない。
日本が中国に攻撃して始まった中国に対する戦争もはじめはわずかの期間で中国を制圧するなどと言っていた。しかしそれは太平洋戦争へと拡大して十五年ほども継続する長期の戦争となっていったのである。日本も原爆や空襲を受けることになり、全体では数千万という膨大な人々が殺されたり、傷つけられたり
る悲惨な結果となった。こうした事態になるとは、誰も予想していなかっただろう。
また、第二次世界大戦ののちも、一九六〇年代に十年余りにわたって行われたベトナム戦争では、死者は双方で百二十万人、負傷者は二百万人以上となった。こうした人たちの周囲には、家族を殺され、生涯自由のきかない体にされてしまった人たち、将来を破壊され、病気や障害に苦しむ数しれない人々を生みだ
したのである。
また、現在の戦争の場となっている、アフガニスタンではすでに過去には二十年におよぶ内戦で百万人もの死者を出しているという。
今回のアフガニスタンへの攻撃もいつまで続くか分からないと、アメリカの大統領自身が言っている。
我々は歴史の大きい教訓を学んでいるはずであるのに、どうして再び戦争への道を歩もうとするのか。日本の首相は、つい今年の八月に靖国神社への参拝を強行するときの理由として、「二度と戦争しないと誓うためだ」などと言っていたが、その直後にいとも簡単にアメリカの戦争に加わる方針を明確に打ち出してしまった。
こうした戦争への流れに対して、キリスト者はどう考えるべきなのか。
キリスト者とはキリストにつく者、キリストに従おうとする者の意である。
そしてキリストは、つぎのような明白な基準を出された。
あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・43~44)
また、主イエスは誰が一番、神の国では大きいかという議論に答えて、つぎのように言われた。
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったい天の国では、だれがいちばん偉いのですか」と言った。
そこで、イエスは一人の幼な子を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「よく聞きなさい。心を入れかえて幼な子のようにならなければ、決して天の国
に入ることはできない。
この幼な子のように自分を低くする人が、天の国でいちばん偉いのだ。(マタイ福音書十八・1~4)
私たちは、キリストにつく者として、幼な子のように、このキリストの言葉に従い、今回のような報復の戦争はまちがっていると信じる。このキリストの言葉を単純に幼な子らしい心で信じるほど真理に近づく。だが、いろいろ複雑に考えて戦争を肯定するほど、キリストの真理から遠くなっていく。
アメリカがなすべきことは、報復という名の戦争でなく、貧しい国、病気になっても医者にもかかれず、飢えて死んでいくような多くの人々に救いの手を差し伸べることだ。ニューヨークでは五千人以上の人たちが今回のテロで死んだとされる。しかし、世界では、八億の人たちが飢えに苦しみ、食べるものすらまともに与えられない状況で生きており、毎日四万人もの人々が飢えで死んでいるという。しかし、今回のような戦争となってわずか一、二発のミサイルを発射すればそれだけで、数億円は消えてしまう。しかもこのような莫大な戦費は人を殺すために使われるのである。
こうした世界の苦しみや悲しみに真剣に目を注ぐことこそ、アメリカや日本、ヨーロッパなどの豊かな国々が為すべき正しいことのはずだ。そのようなことに真剣に、英知を働かせ、力を注ぎ、費用を費やし、人間を派遣していく国に、どうしてテロをする必要があるだろうか。そのような方向こそ、テロをなくする根本的な道にほかならない。