報復戦争の波    2001/12/2

 飛行機を用いたテロで巨大なビルが破壊されて三千人余りが死んだことの報復として、アメリカはアフガン攻撃を始めた。それはまったく憎しみには憎しみをという感情をむき出しにしたものであった。そしてテロを支えていた組織と言われるタリバンを追いつめている。そして、一部の者はそれを見て、アメリカの武力攻撃は成功したなどと思っている。 
 しかし、そのアメリカの考え方と同様な考え方によって、イスラエルはパレスチナを攻撃し、戦車、戦闘機などを動員しての本格的な戦争の様相を帯びてきた。これを指導するイスラエルの首相は、その戦争を「テロとの戦いである」と言ったし、「これは容易な戦争ではない。短い戦争でもない。だが、我々は勝利する。」とも言ったと報道されている。直接にパレスチナ自治政府がテロをやったわけではないにもかかわらず、パレスチナへの戦争を始めたが、この考え方はアメリカが、タリバンが直接にニューヨークのビルを破壊したわけではないのに、タリバン攻撃をしているのと同様である。
 シャロン首相は、アメリカのブッシュ大統領が言ったのと同様な言い方をし、武力攻撃を加えているのである。
 憎しみは憎しみを生み、暴力は暴力を生む。アメリカのアフガン攻撃は、イスラエルとパレスチナにも新たな憎しみの火をつけたことになった。それだけでない。中国政府もチベット自治区や新彊ウィグル自治区の独立への動きを軍事力で弾圧しようとする動きをも正当化させたり、インドネシアでも、一部の州の独立運動を武力で弾圧する口実にされている。
 こうして、憎しみには憎しみをもってし、テロにはさらなる軍事力という一種のテロで対抗するというアメリカのやり方は、世界のあちこちに憎しみや報復、武力弾圧の波となって伝わりつつある。
 どのような理由があっても、暴力に対するに、暴力で向かうなら決して究極的に善きものは生まれないのである。
 平和へのたゆまない努力、話し合いという方向を決して捨ててはならないのである。しかし、現実の世界を見ると国際連合とか国どうしの話しあいもなされてきたのに、いとも簡単に少数の人間によって武力への道が開かれてしまう。
 暴力(軍事力)では本当の解決にはならないこと、さらに人間の話しあいですら、安心できる解決にならないことを知った者は、古くから聖書によって伝えられてきたキリストの道こそが究極的な平和の道だと知らされる。それがどんなに小さいことのように見えても、真理はそこにある。ここにこそ、あらゆる問題の解決がある。


奇跡について

 奇跡とは、本来生じないようなことであり、だれにでも生じることがないこと、不可能なようなことが生じることだと思われています。例えば、水がぶどう酒に変わったり、水の上を歩くとか、天から火が降ってきたり、治るはずのない難病が突然いやされるとか、死んだ人が生き返ったりするなど、です。
 しかし、聖書をよく読むと、キリストが行った奇跡というものは、実はほとんど生じることがないようなきわめて稀な出来事でなく、その逆であって、霊的なことに置き換えてみると本質的には誰にでも生じるようなことなのです。
 例えば、五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、主イエスが祈って、祝福すると、それが男だけでも五千人が満たされるほどになったという記事があります。
 これなど途方もないことだ、普通なら絶対に生じないようなことだ、こんなことはあるはずがない、聖書は起こるはずがないことを書いているなどと思ってしまって、聖書を読む気がしなくなるという人もいるかもしれません。
 しかし、これはよく考えてみると、歴史のうえでもつねに見られた出来事であったのです。
 キリストの福音そのものが、このパンの奇跡だということができます。大工の息子として、暗く汚れた家畜小屋で生まれたイエスはまったく取るにたらない存在であったのです。しかしそのイエスが五千人どころか無数の人々を満たし、さらにそれが消費しつくされることなく、次の世代へと受け継がれて行ったのです。これはまさに、五つのパンと二匹の魚が男だけでも五千人という多数を満たし、残ったものでも十二のかごにいっぱいであったということを意味しているのです。
 また、私たちがキリストの祝福を受けるとき、どんなに小さいものであっても、多くの人々に届くものとなることをも指し示しています。私たちが祈ること、書くこと、なすことが主イエスの祝福を受けるならば、だれも予測できないような大いなる働きをするようになるということなのです。
 実際、キリスト教の二千年の歴史というのは、五千人のパンの奇跡の連続であったのだとわかります。小さな人物、無視されてしまうような出来事をも神は用いて、そこから数しれない人たちの救いと祝福につながっていったからこそ、キリスト教は厳しい迫害にもかかわらず決して滅びることなく続いてきたし、世界に広がってきたのです。
 また、死人をよみがえらせるということも、本来絶対できないことだ、あるはずがないことだと思いこむ人がほとんどです。しかし、聖書では、ふつうの人間は死んだと同様なのだという見方を持っているのです。真実の愛や、正しさを持っているのか、ということを厳密に問いつめていくならば、だれもそうした真実な愛、貧しい者、醜い者、悪い者などへの心からの愛や祈りが持てない状況にあるからです。それは魂が死んだ状態にあるからであって、そうした愛とか、正義とかができないのです。
 だから、そのような死んだ状態にある者がキリストの霊を受けるときには、その不可能であったことが可能となり、死んだ状態のものが、生き返ったことになるのがわかります。それが死人がよみがえるということが誰にでも生じるはずのことだという意味です。
 キリストは実際に万能のお方であり、死んだ者をも生き返らせることができました。しかしそれはそのたった一人だけに生じることでないということを指し示すことが目的であったのです。
 キリストが海の上を歩いたということも、キリストにだけ起こったことでなく、じっさい、ペテロもキリストをしっかり見つめているときには海の上を歩くことができたが、まわりの風と波を見たとたん、沈み始めたのです。海というのが、悪の力を象徴として意味されていることがわかれば、これは迫害の時代のキリスト者たちの経験を示していることだとわかりますし、またそれはあらゆる時代のキリスト者たちの経験ともなってきたことです。
 キリストは確かに文字どおりに海をも歩くことができた。しかしそれはキリストだけがこんなわざができるといってその特別な能力を誇示するためでなく、キリストを信じる人がだれでも、それと本質的に同じことができるという約束であり、預言でもあったのです。
 私たちもまた、キリストだけを見つめていると、たしかにこの世の悪を踏んで歩んでいくことができます。海の上を歩くとは、海によって現されている悪の力に支配されず、逆に悪の力の上を歩む、神の力によって前進していくことができるという約束です。
 また、生まれつき全盲の人の目を開けたということも、私たち自身がキリストの力を受けるときには、神のこと、永遠の命のことなどに対しては全くの盲目であったのに、そうしたことが見える(分かる)ようになってくること、そしてさらに私たちがそれを他者に伝えることができると、その相手の人もまた霊的世界に対する目が開けていくことがあります。
 このように、聖書で奇跡と言われていることは、じっさいに古い聖書の時代にその通りに生じたことであるけれども、私たちのただなかに、生活の中で生じるという約束なのだとわかります。

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