山・神の勝利の力
先日、何年ぶりかで、徳島県南部で続けている集会の帰途に、山に上った。いつもはそうした時間的余裕がないので、できないことであったが、その時は少々の時間を取れるようであった。それで付近の植物を調べようと思ったのだった。県南部には私の住んでいるところとは違った植物がしばしば見られるからである。
しかし杉の樹林帯で日が当たらず、そのため野草がほとんどなく、もう少し上って調べて見ようと思い、進んでいってとうとう頂上まで上ることになった。
六百メートルにもならない山であったが、頂上からは延々と北方につらなる山がそれこそ波のようにうねってみえた。
快晴の秋空のもと、青くかすんだ山々、遠くに近くにと広がる山なみ、久しぶりにみるその揺るぎない壮大な光景に心が引きつけられてしまった。そのとき、私の心に浮かんだことは、神の力であった。悪に勝利する神の力がはるかな山なみと重なり合って感じられたのである。
山と神の勝利、それは本来何の関係もないことだ。しかし私の心には澄み切った大気のなかに海のようにひろがる眼前の山なみを目にして、そのように清い美しさは、神が悪や汚れに勝利した姿と浮かんだのであった。
私は大学一年の後半のころから山の深い味わいに目を開かれていた。その泰然としたすがたは、このすべてがうつろいゆく世にあって別世界の存在を暗示するものであったし、山々にみなぎる清い雰囲気と力ある姿は、弱く醜い人間の心やその世界とは際だった対照をなしていた。
あなたは大能を帯び、そのみ力によって、山々を堅く立たせられる。(詩編六五・6)
私は、山に向かって目をあげる
わが助けは、どこから来るか
天地を創造した神より来る (詩編十二・1)
主よ来たりたまえ
クリスマスから新年にかけての季節は、多くの人が何らかの期待をもって迎えることが多いだろう。何か新しいものが与えられたい、という願いをもってこのときを過ごすことも多いはずである。過ぎた年に心身を苦しめることがあった人はそれをぬぐいさってくれるものを求めるだろうし、今年こそは今までにないよきことが生じるようにとの願いをもっている人も多いだろう。 しかし、単に年が新しくなったからといって、よいことが生じるとは限らない。逆にいっそう不安や困難が待ち受けているかも知れないのである。 そうした不安定な状況にあっても必ずよいこと、新しいことが期待できることがある。それは、キリストが私たちのところに来て下さることである。主イエスが来て下さるとき、過去の失敗も罪も清めてくださるうえ、それらをも善きに変えてくださる。そしてどのようなことが生じようとも、それに耐える力、勝利する力を与えて下さるからである。 クリスマスも、じつは、そのキリストが世に来て下さったことを感謝し、受けた恵みを分かち合い、さらにいっそう私たちの苦しみや闇のなかに主イエスが来て下さるようにと願う時である。
年が改まったという一時的な新しさでなく、キリストが来られるとき、すべては本質的に新しくなる。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった。」 (Ⅱコリント五・17 )
長く待ち望んでいた主よ、早く来て下さい
人々が罪に縛られているのを解放して下さい
主よ、主よ、人々を救って下さい!
主よ早く来て下さい。平和の花が咲く国を建てて下さい
主よ、主よ、人々を救って下さい!
万能の力をもった王である主よ、早く来て下さい
悪が支配しているかのようなこの世界にきて、御支配なさって下さい
主よ、主よ、人々を救って下さい! (讃美歌九十四番より)