神を仰ぐまなざし

 私たちは人間に取り囲まれている。そしてそこではさまざまの言葉があふれている。そしてすぐ近くにいる人間とも、多くの言葉を交わすだろう。しかし私たちの心の最も深いところでの一致は得られない。
 人間と人間は決して全面的に一致するようにはできていないのである。そもそも人間同士は決して、相手の心や考えの奥深くを見抜くことができないのだから、たとえ親子、夫婦でも、また同じキリストの集会の一員であっても、完全に心が一致することはできないのは当然だと言えよう。
 こうした心のすれ違い、誤解、無理解などは、どんな人間関係であっても、程度の多少はあれ、だれにでも経験されていると思われる。
 恋愛関係にある男女はたがいによく分かり合ったという錯覚を持つ。しかし実際に結婚すると、いかに相互が違っているかを知らされることになる。そのために離婚も多くなる。昔から結婚は恋愛の墓場であると言われている通りである。
 人間同士は神抜きで向かい合うためでなく、私たちすべてが、まず神(キリスト)のほうに向かうことを期待されている。夜空の星があのように心惹く輝きを持っているのも、自然の数々のすがたがかくも清く美しいのも、私たちがそれらを創造した神の方向へと心を向けさせるためのように思われる。
 神を見つめ、そして神からのまなざしを感じるようになって初めて私たちは人間をも正しく見つめることができるようになる。
 神を仰ぐ心は、神に留まろうとする心であり、神からのまなざしを感じるとは、神からの命の光が私たちに向かって注がれているのを感じることであり、神ご自身が私たちのところに来て下さって、私たちの内に住んでくださるということにつながっていく。
 このことが、有名なつぎの言葉の意味でもある。

わたしの内に留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの内に留まっていよう。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしの内に留まっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ福音書十五章四節)


キリストの改革

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。(マタイ福音書二十一・1217

 この箇所は、驚くべき記事である。
キリストというと柔和な、やさしい、愛の深いお方であると誰もが考えている。しかし、この箇所に見られる主イエスは、およそそうしたイメージとは異なっている。
 ヨハネ福音書によれば、主イエスは、縄で鞭を造って、売り買いしていた人々をみんな追い出したとある。場所は、エルサレムの神殿である。この神殿は、完成するのにヨハネ福音書によれば、四十六年も要したというものである。(ヨハネ二・20)そのような壮麗な神殿には、各地から多くの人々が集まってきていた。そのような状況のなかで行われた主イエスの行動は、驚かされるものがある。
 しかもヨハネ福音書では、この主イエスが神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出した記事は、ヨハネ福音書全体の最初にあたる部分(二章)に記されている。その上、縄で鞭をつくって、追い出したとこまかく記されている。

イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し(ヨハネ福音書二・15

 これは、主イエスの使命がどこにあったかを、目を見張るような行動で象徴的に現したということができる。当時の神殿を中心とした宗教は、儀式を行うことを主として、権力や金の力と結びついてしまっていた。それは形式的な宗教となり、主イエスのはげしい言葉、「強盗の巣」ということが当てはまっていたことが推察できる。主イエスはそうした形式的な宗教を、根本から一層して、真実な心をもとにした新しい礼拝のかたちを導き入れることにあった。
 このような、実力行使というべき行動は福音書のなかでもここだけである。それだけに、ヨハネ福音書の扱い方なども含めて、主イエスは、この象徴的行動にいかに深い意味をこめて行ったかが暗示されている。過ぎ越しの祭りという最大の行事のために、ユダヤ以外からも多くの人たちが集まっていたのであり、そのような人混みのただなかで、突然行われたこの激しい行動をもし私たちが現場にいて目撃したとすれば、ものも言えないほどに驚いたのではないだろうか。世の人から捨てられ、無視されていたハンセン病とか生まれながらの盲人やろうあ者、歩けない人たち、病人などに神の愛をもって近づき、そこに深い痛みをもって彼らの苦しみをともに担い、いやされたイエス、そのイエスがこのような社会的に公然と、また権力者たちの激しい憎しみや敵意を買うことになるような行動をされたのである。
 そこには、神からの命令によって何としても、このまちがった宗教を退け、本当の霊的な信仰のかたちを作り出すのだという決意に燃えていたのが感じられる。神からの熱心の火であった。主イエスのさきがけとして来た、洗礼のヨハネが、「自分の後から来るお方(イエス)は、聖霊と火によって洗礼を授ける」(マタイ福音書三・11)と予告した通りであった。また、イエスより五百年あまりも昔の預言者が、神からの命令として受けたつぎのような言葉を連想させるものがある。

彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。(旧約聖書・エゼキエル書二・67より)

 大勢の人々、祭司たち、有力者たちは以前から主イエスに敵対感情を抱いていて、殺そうとはかっていたのである。そうした状況のただなかで、このような人々を圧倒するような行動がなされるなら、どのようなことが起こるか、それは理性的に考えればただちにわかることであった。しかし主イエスはそうしたことをすべて見通した上で、ただ神の言葉にしたがって行動したのである。

わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。(ヨハネ福音書五・30

 主イエスは神殿に群がっている群衆たちや商売人たちを前にして、かれらの信仰における姿勢をつぎのようにきびしく非難された。

『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。
 神殿が強盗の巣となったという。つまり、そこは祈りを捧げるところでなく、宗教を材料として商売をして金をもうけるための場となってしまった。本来金儲けをする場でないのに、そのようなことをしてだれも何とも思わない、それは金を奪い取るようなものだとして、強盗の巣という厳しい表現になったのである。 私たちの周囲でも、このような言い方をするならば、じつに多くの場が「強盗の巣」のようになっているのに気付く。宗教も多くはまさに、金を信者をだましてまで奪い取るようなことをしている。仏教の戒名を付けるといって、多額の金銭を取るなどというのは、まさにそうした例であり、政治の世界でも最近のニュースで取り上げられて明らかになった、外務省の腐敗ぶりはひどいものがある。しかし、これも氷山の一角であろう。有名な牛乳関係の会社がやっていた偽装もやはり、一種の強盗のようなやり方である。しかし、これもまた、ほかのさまざまの種類の会社もまた同じようなことを以前からやっていたのでないかと言われている。
 そればかりでない。日本全体が、アジアなど発展途上国から、資源や自然の美しさ、労働力を奪い取ってきたという側面がある。フィリピンにはかつてゆたかな森林で覆われていた。しかし、近年は日本への木材の大量輸出のために相当部分が、はげ山になってしまった。また、以前はそれぞれの家がバナナを栽培して自分たちの食料としてつくっていた。しかし、日本への大量消費に合わせて、広大なバナナ畑となっていき、自然は破壊され、人々の生活スタイルまで壊されていったという。それは日本の豊かな生活やぜいたくのために、フィリピンの国の自然や生活までが奪い取られていったといえよう。
 神殿のような信仰の施設の根本は、「祈り」である。祈りとは、神に向かう心の基本姿勢であり、神を信じたときから、祈りは生まれる。その神が生きて働いておられる、いまも私たちを見守っておられるということを信じたなら、その神に向かって語りかけ、その神からの憐れみと赦しをおのずから受けたいと願うようになる。それは信仰と一つである。信仰なくば、そのような姿勢はなく、信仰あれば、必然的に生まれるのである。
 神を信じて二人、三人がキリストの名のゆえに集まるときには、そこに主イエスもともにいると約束されている。祈りはその場におられるキリストに向かう心なのである。
 しかしそれは決して形式的、強制的、あるいは見せかけであってはならない。そのようなものは祈りではなく、人間に宗教的だと思ってもらうためのポーズにすぎないし、それは神などいないとみなしていることにもなる。なぜなら、本当に万能の神、すべてを見抜いている神がおられるならそのような、見せかけのための祈りなどできないからである。
 私たちの集会や集会場もまた、「祈りの家」となるのが基本である。そこでは人間的なおしゃべりとか、議論の場となってはならず、あるいは勉強すら主体でなく、神にむかうまなざしを深め、神からの語りかけとして聞く姿勢、そして神にむかって心を注ぎ出すという「祈り」が不可欠の内容となる。
 讃美も、祈りの一つの形である。それは神からの聖霊を待ち望むためであり、自分の思いや祈りを運ぶものである。
 また、み言葉の解き明かしは、神からの言葉を聞く姿勢でなされるのが正しいということになる。
 さらに、代表者の声を出しての祈り、讃美、解き明かし以外に、各人が黙して、直接に神の言葉を聞くために、神に向かい、神に心を注ぎだし、神からの語りかけを聞こうとする時間も不可欠となる。
 この神殿のまちがった風習、習慣をきびしく非難した主イエスの行動のすぐあとに、「枯れたいちじくの木」の奇跡がある。

道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。(マタイ福音書二十一・19
 
 これは不可解な記事として、聖書を初めて読み始めたときには受け取られるだろう。私もそうであった。実がないからといって、枯らしてしまったのはなぜなのか、と疑問がわいてくる。
 しかし、これはすでに述べた神殿が「強盗の巣」と化してしまったことへの、主イエスの厳しい非難と同様の象徴的意味が込められた行動なのである。
 「葉のほかは何もない、実がなっていない」これは、当時の形式的な宗教を表している。神殿は、数十年もかけて、建設した。それは数キロ離れていても大理石の輝きが遠望できるほどであったという。また、祭司たちも多くいて活動していた。しかしそれは形式的、儀式的であり、命がそこになかった。それは要するに葉ばかりで、真実なる礼拝という実がなかったのである。そのような形式宗教ばかりに、こだわって真の神への礼拝に背を向け、神から送られたキリストをも敵視し、迫害していくならば、そうしたかたくなな心をもった者たちは裁かれ、実がならないようにされるということなのである。
  こうした新しい信仰のかたちを、世界に導入することがキリストの目的なのであった。そのために人間と神との間を隔てているもの、罪を取り除く必要があったのである。そしてそれが十字架にかかって処刑されるということの意味なのであった。
 現代でも宗教というと、教祖とか指導者の命令通りになんでも従うというイメージが強い。祈りの仕方も多くの宗教によってはひざまづくとか特定の姿勢、唱える言葉、あるいは時間などが決められている。しかし、キリストによる信仰の形は、神ご自身に導かれること、神ご自身と同じ本質を持つ聖霊によって、また今も活きて働くキリストによって導きを受けてそうした祈りやかたちはまったく自由な道が開かれたのであった。
 これが主イエスが、つぎのように言われた意味なのである。

まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 (ヨハネ福音書四・23

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