自然界の精妙さの意味
身近な植物について、教員であったころ、折に触れて生徒たちに教えはじめてから、もう二十年ちかくになる。私は大学では化学(生化学)を専攻したのであって、植物学を学んだものではない。また、高校や盲学校の高等部などで教えていたのは、数学、物理、化学などであったので、教えるといっても、専門的なことでなく、たんに身近な植物の名前からその性質や形状、分布などに触れるに過ぎないが、そのために植物世界のふしぎさ、精妙さに驚かされることが多くなった。
花を見ても、人々がまったく目に留めない雑草といわれているものであっても、それを手にとってルーペでよく見ると、驚くほどの美しさや微妙な模様、形を持っているのによく出会う。
それらの美しさや複雑な形に接するたびに、心が動かされる。つぎにこの模様や形は何のためなのか、と考えてしまう。そんな精緻な模様などなくても、この植物は立派に育っていく。アケボノソウなど、小さい花びらのなかにさらに複雑でしかも美しい模様が入っているから、これは一体だれのためなのか、と考え込むのである。
葉の形も植物によってじつに様々である。微細な毛が一面に生えている葉もあれば、光沢があって輝くもの、ツバキのように固い葉もあるが、ヒヨドリジョウゴのような柔らかい葉、ヒイラギのようにトゲのある葉もある。葉にとげがなくとも、ヒイラギは何の不自由もなく生きていけるはずだ。トゲを切り取っても生育には何も影響もしない。また同じヒイラギでも老木は葉のトゲがなくなり、別の木かと思われるほどになる。
また、幹にしても、松の木は成長すると、幹の表皮は独特のかたちとなってはがれ落ちていくし、幹が全面にするどいトゲで覆われているタラノキ、逆にヒメシャラのように、数ある周囲の樹木のただなかで、美しいなめらかな赤みがかった木肌をもっている植物もある。
これらの植物の花の美しさやかたちの複雑さは、人類が出現する、はるか以前から存在していた。その美しさを理解し、受け取ってくれる存在は何一つなかった。あたかも人類が現れてその美しさをくみ取ってくれるのを待っていたのかと思われるし、こうした無限の変化あるすがたは、人間がそれを受け取って、創造主たる神へのまなざしを持つようになるのを待ち続けていたかのようである。
そしてそのとき、初めて植物たちもその目的を達したことになるのではないかという気がするほどである。
植物は人間が生きていくには、絶対的に必要である。毎日の米、パンなどの主食や野菜、果物はもちろん、肉や卵、魚もみんな植物が元である。牛や鶏など動物たちの餌の元をたどるとすべて植物になるからである。またその上に人間が生きていくのに不可欠な酸素は、植物が作っているからだ。
こういうことは、学校の理科教育でも学ぶ。しかしそれだけでない。美しさや力、またそこからそれらを創造した神へのまなざしを持つように導くこともまた、植物たちはその役目としているのである。口から入る食物は植物が作っている。心に直接に入っていく目に見えない食物とでもいうべきものも、また植物に啓発されて気付くということも多いのである。
そして植物以外の自然、頭上の青く広がる大空、いのちあるかのような変化と動き、澄んだ光を投げかけていく星たち、また様々の色を見せる雲たち、そして山々や渓谷、すべてそうした自然はそのような無限の美しさや変化がなくとも単調な色や形であってもよいはずなのである。しかし、それは毎日変わっていくほどの変化をたたえつつ、ときには息をのむほどの美しさをも見せることがある。
これらも人間に働きかけて、それらの美しさと力と無限の多様性をもって、人間の心を動かし、それを受け入れる者の心を神へと引き寄せる働きを持っている。
演劇の舞台で人間はさまざまの衣装や表現をこらして演技をする。それを見てくれる観客に、その演劇の意図が伝わり、心動かされるようにという目的があるからだ。
ちょうどそれとよく似たことが言えるだろう。神は、この世界、宇宙を一つの舞台とし、そこで自然界のものに、さまざまの衣装を着せて美しくし、また植物の成長や海や山の変化という演技をさせ、そして人間の前に提示しているのである。それだけでない。時間の流れ(歴史)の中でも、大いなる演技が見られるように神はなされている。
神がその全能をもって創作した宇宙という舞台を私たちが心して見入るほどに、ますますその奥にある創造者たる神のお心やご意志が感じられてくるように造られているのである。
そうして神のご意志を教えられつつ、私たちもまた一人の「演技者」として、神という総監督の指示に従って生きていくことが期待されているのである。
すべての人を引き寄せるもの(ヨハネ福音書十二・27~36より)
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。(ヨハネ福音書十二・27~36)
主イエスが、十字架にかけられる時が近づいたとき、大きな動揺と苦しみが訪れた。当時の政治や宗教の有力者たちから憎まれ、捕えられ、辱められ、そして十字架につけられて群衆の前でもだえ苦しみながら死んでいく、弟子たちも裏切り、逃げていく…そのようなことを思い浮かべるとき、人間としての弱さをも持っておられた主イエスが重い心となり、苦しみつつその道を歩もうとされたのがうかがえる。
今、わたしは心が騒いでいる。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
心騒ぐ、主イエスともあろう方が、心騒ぐ、動揺するといわれている。それほどにこの十字架で処刑されるということはイエスにとっても大きな試練であり、困難なことであった。このヨハネ福音書における言葉は、ほかの福音書でのゲツセマネの祈りと共通している。他の福音書はゲツセマネの祈りを書いてある。しかしヨハネ福音書ではそのゲツセマネの祈りのことが記されていないが、その代わりにここにその苦しみの一端が記されている。
「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみ、苦しみ始められた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
そして少し進んで行き、うつぶせになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。(マタイ福音書二十六・36~39より)
神の子であり、救い主であるから人間のような苦しみや悲しみはなかったのではない。私たちが感じるような苦しみや悲しみをもさらに深く体験されたからこそ、真の救い主であり、また共にいて下さる友でもあり得たのである。
主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。(新約聖書・ヘブル書二・18)
このような動揺の中からイエスは神を仰いで、御名の栄光をあらわして下さいと祈っている。自分が殺されるという直前になってもなお、このように主イエスの最大の願いは、神の「御名の栄光が現される」ことであった。
聖書においては、神の名とは、神の本質そのものを意味する。神の名を信じるとは、神を信じるということであり、神の御名を宣言するとは、神ご自身の本質を宣言することである。(*)
(*)例えばそれは、次のような箇所にも現れている。
主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、罪と背きと過ちを赦す。…」(出エジプト記三十四・5~7より) この箇所では、神が御名を宣言するということは、すなわち、神が憐れみ深く、忍耐強く、罪を赦すといった神ご自身の本質を宣言することと同様だとされているのがわかる。
神は、モーセに同胞を救うためにエジプトに行くようにと命じられた。そのとき、モーセは、「彼らはその神の名は何か」と尋ねるだろう、その時に何と答えるべきかと、神に問うた。その時、
神はモーセに、「わたしは存在する。わたしは存在するという者だ」と言われ、また、人々にこう言いなさい、『わたしは存在する』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記三章より)
ここでも、神の名とは、神の本質を意味するということが示されているのがわかる。
神の御名の栄光が現されるようにというのが、主イエスの地上で最後まで持ち続けた願いであった。
その意味は何であろう。ヨハネ福音書では、イエスが十字架につけられることをも「神の栄光を現す」ことであるといわれている。
ふつうは最も恥辱と苦しみの象徴でしかない十字架が神の最大の栄光の現れであるという。だから御名の栄光を現してくださいとは、十字架の道を取らせて下さいとの願いであり、ゲツセマネにおいて、御心のままにして下さいという祈りと同様な内容を持っているのがわかる。
こうして主イエスが激しい心の戦いに勝利したとき、神の声があった。
その内容は「私は、すでに栄光を現した、今からもさらに栄光を現す」という約束であった。この神からの言の意味はイエスの三年間の伝道においても、さまざまの奇跡や行動によって神の栄光を現した。ラザロと言われる人を死んで四日も経っているのに、復活させたことはその代表的なわざであった。同様にこれから迎えようとしている十字架の死と復活によってもさらに神の栄光が現されるという意味である。
しかし群衆はそのような深い意味は全く分からなかった。たんに無意味な音、雷のようなものが鳴っていると思ったり、一部の人々がせいぜい天使の語りかけだと思ったほどであった。
十二人の弟子たちは、三年間も主イエスと共にいて、数々の奇跡や驚くべき愛のはたらきに接していたのであるから、十字架で処刑されることや復活ということをすぐに理解して、受け入れられただろうと思われる。しかし実際はそうでなかった。主イエスが自分はまもなく、十字架刑に処せられて殺されること、しかし三日目に復活するということを確言したときにも、ペトロはイエスをわきへ連れてきて、「主よ、とんでもない。そんなことがあってはならない。」といさめたことがあった。そして主イエスから厳しく叱られたのである。
当時の宗教的あるいは、社会的指導者や弟子たち、さらに群衆たちがいかに理解しようとしなくとも、主イエスは真理を語られた。人間に迎合することでなく、真理に鈍感なこの世に対して、警告と救いのメッセージを述べ伝えることが主イエスの使命であったからである。
今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。(三十一節)
主イエスが追放されてこの世から追い出されるのに、この世の支配者が追放されるとは一体いかなる意味だろうか。主イエスご自身が、捕らえられて裁かれようとしているのに、「この世が裁かれる時」だと言われる。普通に読んでいてとても理解できる言葉ではない。
それは人間を支配している最も強い力、罪の力が追放されるということである。同時に、罪の報いは死であるといわれているように、死の力をも追放することであった。罪の力と死をもたらす力こそは、「この世の支配者」のうち最も強大な力なのである。キリストの十字架とはその根元的な力を追放することであった。
そしてそのとき驚くべきことが生じる。十字架とは当時の人たちにとっては、現在のように、キリスト教のシンボルとして特別な意味を持つものでは全くなかった。それは単に最も気持ちの悪いもの、悪と残虐な刑罰そのものを連想するものにすぎなかった。それは恥辱と陰惨、苦しみや悲しみの象徴であった。
しかし、そのようないまわしいことのシンボルであった十字架が、神の力を持つようになり、あらゆる人を引きつける強大な磁石のようなものになるというのである。
人間を引きつける物は数々ある、音楽や美術、スポーツの能力、文学的才能、あるいは、美貌、権力、金、食物などなど。しかし、この箇所で言われていることは、キリストが十字架に付けられるならば、今後その十字架は、あらゆる人を引きつけることを止めない力となり、決定的な力をもって人間を引きつけるようになるというのである。そしてこの預言通りに、キリストの十字架は世界中で人を引きつけるシンボルとなってきた。過去二千年の間、最も人間の魂を深いところで引きつけてきたのは、まさにキリストの十字架であった。そのような長い年月にわたって生じていく事実を、このキリストの言葉はすでに予告していたのに驚かされる。
じっさい、過去の大きい働きをしたキリスト者を振り返ると、パウロも然り、ルターも然り、内村鑑三もまた同様であった。彼らはキリストの単なる教えに引かれてキリストの僕となったのでない。教えだけでは決して生涯にわたってキリストの僕となることはできない。
キリストの教えをいくら覚えても、自分がいかに敵を愛することができないか、隣人への愛がないか、正しいことも言えないということを思い知らされるばかりである。そのような高い水準の教えなど到底できない、あんなことは単なる理想だと、自分の弱さ、醜さのゆえにキリストの教えから離れたくなるであろう。単なる教えだけでは、その魂を永続的にキリストに結びつけることはできない。ただキリストの十字架がそれをなすのである。自分がいかに弱くても善いことができなくても、それを赦し受け入れてくださり、さらに新しい力を与えて下さる十字架に付けられたキリストこそ、私たちを永続的に引き寄せるものなのである。
内村鑑三はこの十字架に強く引き寄せられた人の一人である。彼の生涯の力はここから生まれ、広く深い活動の源泉はこの十字架にあった。それゆえ繰り返し十字架の重要性を述べているが、ここでその一部をあげてみる。
わが信仰
わが信仰は単純、かつ簡単である。すなわちイエス・キリストが、わが罪を救うために十字架の死を遂げられたということがそれである。なぜ私の罪を救うために十字架にて死んだのか、その説明を私は十分にすることはできない。また、私は自分がどうして罪人となっているのかについても知らない。
しかし、私はただ自分が罪人であるのを知っている。また、私はなぜキリストの死がわが罪を救うのかも知らない。私はただそれが私の罪を救う唯一の力であることを知っている。私は自分に罪があるという事実を知っている。また十字架によって救われたという事実を知っている。しかし、罪の原因とか救いの哲理とかは私がよく知るところではない。
まことに私の信仰は事実を信じる信仰である。教理の説明または信条の事ではないのである。(「聖書之研究」一九一〇年五月号)
同一の福音
年は改まった。しかしわが福音は改まることはない。わが福音は十字架の福音である。罪のあがないの福音である。…われは今年も明年も明後年も、私が世に生きているかぎり、同じこの福音を唱えたいと思う。(同右 一九〇七年一月)
このように、内村鑑三はキリストの十字架こそは、キリストの福音の中心であり、それが自分の罪からの唯一の救いであることを、生涯にわたって宣べ伝え続けたのである。
私自身もまた、キリスト教という信仰に初めて接したのは、この十字架の福音を説いた書物の、わずか数行によってキリスト教信仰を与えられて今日に至っている。罪の赦しの福音は単に赦しを受けただけに終わるのでない。そこからそれまでになかった新しい希望と、力が与えられ、それまで見えなかった見えざる世界が見えてくるように導かれていった。
そしてこの冷たい宇宙のただなかにあって、その中心に罪深い自分をも見つめ、愛して下さる存在があるという驚くべき事実に目が開けたのであった。私はいまも十字架に引き寄せられつつある。そしてこのヨハネ福音書にあるキリストの一言、「私が地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せる。」の深い意味を感じるのである。