ことば 2002/3
(124)キリストがヨハネ福音書のなかで、ニコデモとの対話(*)において語っているように、神の霊は思いのままの時に、思いのままのところに、風が吹くように行くのである。
あなたがその霊を呼ぶことはできない。(神の)霊があなたを呼ぶのである。
いつでも、そのような呼びかけがあれば、一切をさしおいて直ちにそれに従う覚悟をしていなければならない。というのは、それは、夜の静かな時ばかりでなく、時にはちょうど多忙をきわめている瞬間にも、訪れることがあるからだ。
その時こそ、「しもべはききます、お話しください」と言うべき時であり、その度ごとに、あなたが真と善とにおいて、大きな躍進をとげる時である。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために下 三月十二日の項より)
(*)風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。(ヨハネによる福音書三の八)
(**)サムエル記上三・10
○新約聖書が書かれているギリシャ語では、「風」も、「霊」も同じ言葉、pneuma (プネウマ)である。神の霊(聖霊)は、神ご自身の御計画に従って、ある人に、ある集まりに注がれる。人間的な手段ではそれを呼ぶことはできない。
しかし、待つことはできる。キリスト教が弟子たちによって初めて宣べ伝えられるというその出発点において、弟子たちは聖霊が与えられるように祈って待ち続けるようにとキリストから命じられた。彼らはその言葉に従って祈りをもって集まり、そこで祈りを続けているときに神からの聖霊が豊かに注がれたのであった。(使徒行伝二章)
(125)聖霊を消してはならない
「聖霊を消してはならない」(テサロニケ前書五章十九節)。
聖霊は自分一人が楽しむために我らに与えられるのではない。聖霊はその力によって神の事業をなすために我らに注がれるのである。聖霊を注がれてそれに従おうとしない者は聖霊を隠す者である。神の恵みを拒む者である。そのようなことをすれば、聖霊はついに自分を離れ去って、私はふたたびその恵みを受けることができなくなってしまうであろう。(「聖書之研究」一九〇五年 内村鑑三)
○キリストの最初の弟子たちも、聖霊を受けたとき、ただちにそれを用いて神の国のため、福音宣教を始めたのであった。神の国のために用いさせて頂くことを、つねに願って求めるとき、聖霊は与えられ、そのわざは祝福される。