ことば 2002/5
(128)喜びの心の源
一般に現代の人たちに欠けているのは、とりわけ、喜びの心である。その他の点ではすぐれた人たちですら、喜びの心がない。…喜びの心を妨げるのは、いつもその人の自愛心や我意や、あるいは何らかの怠惰である。
神への完全な従順こそ、喜びをうる条件である。
喜びの心は、神へ従順であることの偽りない証しであり、それはだれでも立てられる証しである。(ヒルティ著 「眠れぬ夜のために・上」の序文より)
・ここで言われている喜びは、ふつうの娯楽や交際、旅行などの楽しみや喜びでなく、それらとは全く別のところ、神から来る喜びのことを指している。娯楽や交際などのことが全くできないような人でも、例えば病床にあるような人でも、与えられ得るような喜びをいっている。そして聖書で約束されている喜び、使徒パウロがガラテヤ書で「聖霊の実」としての喜びに触れているが、それもこのような性質の喜びである。
(129)聖書と聖霊
聖書知識だけでは人を救うことはできない。聖書知識に加えて聖霊の力をもってして人の霊魂は救われるのである。聖書そのものは死せる文字である。…
聖書を学ぶ理由は、聖書によりて救われるためでない。聖霊を身に招くためなのである。聖霊が、聖書知識に点火して、死せる霊魂を活き返らせるのである。(内村鑑三著「聖書之研究」一九〇七年三月号より)
・聖書に関する知識だけでは、魂の救いに至らないのは、キリストの時代に聖書の細かな知識をもっていて人々に教えていた律法学者やパリサイ派の人たちがかえってキリストの真理を受け入れることができず、逆にキリストを殺そうとするほどに誤ってしまったことはこれを示している。この内村の言葉は、パウロの次のような言葉がもとになっている。
(私たちは)文字に仕える者ではなく、霊(聖霊)に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。(Uコリント三・6)
(130)そこでは、私たちは安らぎ、見るであろう。私たちは見て、そして愛するであろう。私たちは愛し、そして讃美することになろう。これが、終わることのない終わりに私たちの目にすることである。(「神の国」第二七巻30章 アウグスチヌス著)
There we shall rest and see, we shall see and love, we shall love and
we shall praise. …(EVERYMAN'S LIBRARY 「THE CITY OF GOD」の英訳文)
・これはアウグスチヌス(*)の大作、「神の国」の最後の部分の一節である。私たちに与えられる最終的な恵みと祝福はこのように、主の平安のうちに憩い、主のみ顔をくもりなく見ることが与えられる。それは何らの妨げなく主との交わりに置かれるということであり、さらに神へのまったき愛のうちに生きることになり、神をかぎりなく讃美するような状態であろう。それは終わることのない終わり、つまりそのような状態は世の終わりに訪れるが、この終わりの祝福された状態はもはや終わることがなく、永遠に続くという意味である。これらのことは、聖書に記されてている。その一つをあげておく。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときに
は、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Iコリント一三・12 )
(*)古代の指導的なキリスト教著作家(教父)として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人。その理論は中世思想界に決定的な影響を与
えた。著書「神の国」「告白録」「三位一体論」など。(AD三五四〜四三〇)