聖書における平和 その一(旧約聖書から) 02-6-4
だれでも本来は平和を求める。人間が争ったり、武器をもって戦いをするのも、そうした戦いで、平和を乱す者を滅ぼしたなら、そのあとで何らかの平和が来ると思っているからである。また、平和とは戦争がないことだ、と簡単に考えている人も多いだろう。しかし、国家間の戦争がなくとも、人間が心の中で、たがいに憎しみを持っているなら、それは決して平和な状態とは言えない。
平和のために一切の戦力を放棄すると宣言した、日本国憲法は世界大戦の大きな教訓から生まれたものであった。戦力の放棄こそは、最も直接的に平和を維持する道であり、それが他国へも影響を及ぼすであろうと期待された。
去年、アメリカの高層ビルが、飛行機によって崩壊させられてから、世界はいっそう平和の問題を切実に論じることになった。平和を守るために武力を増強するのだという国もあり、そういう方向へ進もうとする日本のような国もある。しかし、これは全く平和とは逆行する道であることを多くの政治家たちは知らない。
このように、平和については、個人的な心の問題から、家族や周辺の社会における平和、さらに日本国全体や国際間の平和などいろいろの領域で論じられている。
しかし、こうしたいかなる平和論も、決して達することができないところに、聖書の平和論がある。それはこの世の平和に関する議論とは大きくかけ離れた内容を持っている。だからこそ、キリスト者はとくに聖書は平和についてどのように教えているのか、すなわち神は永遠の真理の書たる聖書においていかに平和ということを指し示しているのか、それを私たちは学びたいと思う。
旧約聖書における平和
旧約聖書のはじめに置かれていて、旧約聖書全体の基礎となっている、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記といった書物について、すでに繰り返し聖書を読んできた人にとっても、平和というイメージは少ないのではないかと思われる。
しかし、創世記においてすでに平和への道が暗示されている。第七日目を神がやすまれて、聖別したとある。このことは、新約聖書の時代以降では、主の復活を記念する日と結びついて、それが主の平和を継続的に与えられるための重要な場となっていった。
新約聖書には、私たちの救いを、「神の安息にあずかる」(ヘブル書四・3)という言葉で表現している箇所もある。神の安息にあずかるということは、神の平和を与えられるということである。
そして、エデンの園においてすでに、平和への道と逆の不安への道が示されている。それは善悪の木(*)を食べることが、不安への道であり、動揺への道だということである。アダムとエバが神が命じられたように、エデンの園にあるあらゆるよい木の実を食べることで満足していたならば、その後の動揺と不安、裁きはなかった。このエデンの園からの追放によって、彼らの子供であるカインはその動揺と不安を受け継ぎ、そこからアベルを殺すという大罪を犯してしまう。
そのことが、カインの前途を預言したときに言われている。
「お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれない。今日、あなたがわたしをこの土地から追放し、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すだろう。」…
カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。(創世記四章より)
この箇所を注意深く読むとわかるが、この短いところに何度も「さすらう」という言葉が出てくる。これ以外にも「さまよい」という言葉もある。神に背いた人間の特徴は、このようにたえず、さまよい、さすらい、動揺するということなのである。現代においても、神の平和を持たない者は、このように精神的にたえず、さまよい、さすらっていく。他人がなにかを夢中になって始めるとおのずからそこへと引き込まれ、またそれが飽きると別の人に引かれていく、特別な事件が生じたり、病気になったり、あるいは死が近づいてくるようなときに、人間はどこに魂を安住させるか全く分からなくなる。
魂はもともと主の平和など持っておらず、さまよっているものなのである。行く目的も定かでないなら、どこに向かって進むべきか分からないのは当然であろう。
こうした神に背くという罪は後の人間にもふかく刻まれていくことになり、それが戦争にもつながっていった。
このように、聖書はその冒頭から人間に真の平和が与えられているのに、人間が神に逆らってその平和から追放されたことが記されている。
旧約聖書の言葉では、「平和」は、シャーロームという。(***)旧約聖書のヨシュア記やサムエル記には、しばしば激しい戦いが記されている。ヨシュア、ダビデなどの時代はたえず周囲の民との戦いがあった。そこでは戦いのない社会的な平和ということもはるか将来のことであり、霊的な平和ということもあまり記されてはいない。
つぎに引用する箇所も、イスラエル民族全体を「あなた」と言っていて、民族全体に与えられる平和を祈っている。しかし、これは一人一人の個人にとってもあてはまる真理である。この箇所で言われているのは、個人や民族、国家全体を問わず、その祝福は神によるのであり、私たちへの恵みや、平和も神から来るということである。単なる人間の話し合いや自分の国を武力で守るなどといったことからは、神の喜ばれるような平和は決して来ない。
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安(シャーローム)を賜るように。(民数記六・24〜26)
The LORD bless thee, and keep thee:
The LORD make his face shine upon thee, and be gracious unto thee:
The LORD lift up his countenance upon thee, and give thee peace.
旧約聖書のはじめの部分には、後の時代に現れるような深い霊的な平和ということは現れない。これは平和の原語である、シャーロームという言葉は、創世記から申命記にいたる重要な五書にはあまり現れず、もっと後の時代の霊的直感の深く与えられた詩人、預言者がこの神とともにある平和を知らされていった。(**)
(*)エデンの園にあった、食べてはいけない唯一の木は、「善悪の木」と訳されることが多いが、もとになっている原語は、単に日本語のように道徳的な善悪を意味するのではない。善と訳された原語は「トーブ」であり、「悪」と訳された原語は「ラァ」であるが、それらは、それぞれ口語訳では五十種類ほどの訳語が当てられている。例えば、トーブ
については、愛すべき、祝い、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、結構、好意、幸福、好意、高齢、ここちよい、財産、好き、親しい、幸い、親切、順境、親切、正直な人、善、善人、宝、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、深い、福祉、ほめる、まさる、恵み、安らか、愉快、豊か、喜ばす、りっぱなどと訳されている。
「ラァ」については、悪、悪意、悪人、悪事、痛み、いやな、恐ろしい、重い、害、害悪、悲しげな顔、危害、逆境、苦難、苦しい、苦しみ、汚れた、そしる、つらい、悩み、罰、破滅、不義、不幸な、滅び、醜い、物惜しみ、悪い、災いなどである。それゆえ、「善悪の木の実を食べる」とは、「(神を抜きにして、神に背を向けて)好ましいこと、好ましくないことなどの総体、すなわちあらゆることを知る」という意味を持つことになる。実際、神などいないという考え方に立って、科学的なこと、社会的、人間的なことを知り尽くしていこうとしてもますます将来への不安とか希望のない状態がわかるだけであって、その困難な状況を前にするならば、その人の精神はますます暗くなっていくであろう。
(**)シャーロームという名詞は、「平和」という訳語だけでなく、安心、安全、安否、穏やか、勝つ、幸福、親しい、栄える、繁栄、無事、平和、和解、やわらぎ、勝利、健やかなど、三十通りもの訳語があてられている。また、この動詞形である、シャーレームとかシャーラムという言葉は、「完成する、栄える、成し遂げる、平和、平安、真実、正しい、全うする、満ちる」などやはり三十通りほどもの訳語がある。
これを見ても、旧約聖書でシャロームという言葉を私たちの現代の言葉のように、「平和」という意味にだけ限定することができないのがわかる。こうした多様な意味の背後にあるのは、「完成する、全うする」という意味であって、そこから「平和」とか「安全、幸い、繁栄」といった意味が生じてきたと考えられる。神は完全なお方であり、神と結びつくとき何でも、完全への道へと導かれる。
(***)シャーロームという原語の使われている頻度は次のようである。
創世記12回、出エジプト3,レビ記1,民数記2,申命記5回であるのに対して、詩編27回、イザヤ書26回、エレミヤ書28回となっている。最初の五つの書物のうち、創世記はやや多いが、単なる挨拶的な意味で用いられていることが多い。シャーロームという言葉は、その内容が霊的、詩的な直感によって記された詩編や預言者などの文書に多く用いられているのがわかる。
イザヤ書の中から
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4)
この有名な箇所は、今から二七〇〇年ほども昔に生きた預言者イザヤによって書かれた。イザヤの生きた現実の世界は、大国アッシリアが自分の国に攻めて来ようとしている危険な状況であった。そこでは、このような剣を打ち直して、鋤とする、国と国がもはや戦争をしないなどということは、およそ考えられないことであった。いつの時代にも、たえず強い国が弱い国を滅ぼしていく戦争はあった。
そしてそれから二七〇〇年経った現在でも、そのような状況は変わることがない。しかしそうした現実の世界のただ中で、この預言者は、ここに引用したような平和の状況が訪れることを知らされていた。それは、政治や社会的な知識の分析や総合ではない。学問的な結論でもない。
ただ、必ず歴史はそのようになる方向に進んでいくという、神の国からのメッセージをこの預言者は聞き取ったのである。
わたしは唇の実り(*)を創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。
わたしは彼をいやす、と主は言われる。
神に逆らう者は巻き上がる海のようで、静めることはできない。その水は泥や土を巻き上げる。
神に逆らう者に平和はないとわたしの神は言われる。(イザヤ書五七・19〜21)
(*)唇の実りとは、神への讃美を表す。
このように、以前は国家や民族的な平和という意味でしか現れなかった平和(平安)という言葉が、イザヤ書の後半部では、霊的な平和、魂の平安といった意味でも現れてくる。そしてこの箇所の少し前に、つぎのように言われている。
わたし(神)は、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書五七・15)
心が砕かれ、痛み、悔い改める心が神へのまなざしをしっかりと持つとき、神はそのような魂に神の命を与えられる。その時初めて、その人は神の平和を持つことになる。この世で与えられる真の平和とは、そうした苦しい戦いを通り、自我が壊され、神以外のどこにも救いがないことを知らされて、神への叫びと祈りをもって見上げるとき、初めて上より与えられるものなのである。
エレミヤ書の中から平和
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
わたしに出会う、と主は言われる。(エレミヤ書二九・11〜14)
これはイスラエルの人々が罪を犯して、神に逆らい続けた結果、遠いバビロンに地に捕囚として連れて行かれた。その絶望的状況にある人々にエレミヤがエルサレムから書き送った手紙の一節である。バビロンという遠い国に捕らわれて行くというような民族解体、滅亡の危機にある人々に対して、神の御計画は決して、滅ぼすためでない、希望と平和の計画なのだと確信をもって告げている。そうした神のご意志をエレミヤだけははっきりと聞き取ったのであった。
当時の状況は、人々の目には、最も平和とはかけ離れたものであり、このエレミヤの言葉は人々にとっては驚くべき言葉であっただろう。預言者というのがその名の通り、神の永遠の真理の言葉を預かった者であり、その真理は当時の人々に当てはまるだけでなく、数千年の歳月と国土の制限を越えて、現在にいたるまで、私たちに呼びかける内容となっているのである。
私たちの前途にもさまざまの絶望的状況が生じるかも知れない。しかし、そうしたただなかにこのエレミヤと同じような、深い神の御計画が告げられ、そのような不幸にみえることも、決して災いのためでなく、シャーロームのため、平和のため、平安のためであること、将来には必ず神のもとによき結果となっていくのだと教えられる。
このように、聖書でいう平和(シャーローム)というものは、人間のあらゆる絶望的状況にもうち勝って、神から与えられるものである。そのことを知り、そこに希望を置くときに、人々はいかなる苦境にもうち負かされない力を与えられてきたのである。
旧約聖書では、神ご自身が武力による戦争を命じられることがしばしばあった。それゆえ、当然のことながら、武力による戦争が悪であるとは言われていない。しかし、それはすでに述べたように、ある時期までのことであって、「その時」という未来のある時点においては、あらゆる武器は廃棄されて、鍬(くわ)や鋤(すき)という、農耕具に変えられると預言されている。「その時」とはいつなのか、それは人間の予見することもできない時である。
そうした未来のいつかは分からないが成就する平和とは別に、社会的、また政治的な平和とは違った、心の深い平和(平安)への道がイザヤ書の終わりに示されている。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とが)のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ書五三・5)
ここで「彼」とは、はるか後に現れる救い主、メシアを預言的に指している。私たちが真の平和を与えられるためには、武力とか政治の変革、あるいは私たち自身の努力とか心の持ち方とかではない、まったく別の道が必要なのであった。それはそれまで誰も考えたこともない方法によってであった。
それは愛の神、万能の神と同じ本質をもったお方を、傷つけ、苦しめ、刺し貫くといった驚くべき仕打ちを与えることによってであった。こんな方法で平和がほかの人に来るといったい誰が想像したことがあっただろう。ふつうの人間をこのようにしたところで、他の人間全体、後世にいたるまでの世界の人間すべてに平和を与えるなど、考えることもできない。普通の人間なら、自分の心の平和すら保つことは容易でないからである。
混乱と憎しみ、そして飢えや貧困、抑圧などなど、平和とはまさに逆の状況が満ちているこの世界において、そうした闇のただなかに、神の国からの平和をもたらす道が示されたのであった。
このイザヤの預言からはるか七百年もの後、人の子であるとともに、神の子であるイエスというお方が神から送られ、そうしてそのイエスがこのイザヤ書にあるように、傷つけられ、砕かれ、実際に槍で刺し貫かれたのであった。
そしてさらにそれで終わるのでなく、その後二千年間、ずっとそのイエスの十字架の死を、私たちの罪を担って死んで下さったのだと信じるとき、実際に私たちの魂に平和が訪れることになった。これは驚くべきことである。このような人間の魂に関わる最も重大な問題が、いまから二千七百年も昔に神の言葉として、一人の人が聞き取り、それを人々に告げて、文書として書き残されていったが、それがそのまま現実の歴史の中で、長い歳月を通して実現されていったのである。
こうして、旧約聖書では平和とは、現実には訪れてはおらず、ごく一部の人しかそれを実感していなかったようであるが、未来の「その時」には、全世界に武力や戦争が終わるときが訪れること、そして人間全体の罪を担って、私たちに平安をもたらそうとされるお方が現れることを、確かな神のご計画だと預言しているのである。
そしてすでに預言者や詩編などにおいては、神からの平和を実感している人たちの経験がつづられている。
その一部をつぎに取り上げよう。
詩篇の中から
詩編では、神からの平和(平安)については多くの箇所にそれが見られるが、とくに詩編二十三編において、神から与えられる平和が、美しく表現されている。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
この詩で言われている状況とは、主なる神が私たちを導くお方となって下さるならば、私たちには欠けるものはなくなるという実感を与えられる。それは、まさに主の平和が与えられていることである。
いかに神を信じていようとも、大きな苦しみや悩みは生じる。神の平和を与えられるとは、決してこの世の苦しみや困難が降りかかってこないということではない。だれにも言えないような困難な問題も出てくる。そうした時にあっても、神がともにいて下さるゆえに、平和を実感する。その平和とは、たんに何も動揺を感じないという消極的な内容でなく、平和という原語(シャーローム)の原意である、「満たされた状態、完成された状態」を思わせるものがある。
「わたしの杯をあふれさせてくださる」とは、神が周囲の状況はいかようであれ、自分の魂の深いところを満たしてくださり、神の恵みであふれるようにして下さるということである。
また、預言者イザヤは大いなる預言者であるが、また稀なスケールをもって万物を見つめている預言者でもある。そのイザヤが最終的な平和とはなにかについてつぎのように述べている。
ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。
そのとき、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。
正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。
わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。(イザヤ書三十二・15〜17)
このように、「平和」とは神の霊が天から注がれて初めて訪れるものであり、荒れた野は緑ゆたかな所となり、正義が宿る。そこに永遠的な平和が訪れると預言されている。イザヤの時代は、戦乱のただ中であり、ほとんどだれもそのような状況が訪れること夢にも思わなかっただろう。しかし、まことに預言者は神の言葉を担う人間である。千年、二千年以上の歳月をもはるかに見つめ、必ずそのような時が訪れることを、神が与えられた視力によって洞察することができたのであった。
旧約聖書はこのように、武力による戦いの記事がいろいろ見られるが、それは決して最終的な姿でない。そのようなただなかにあって、未来のある時に聖なる霊が天より下って、文字通りの平和、平安が訪れることを確言しているのである。旧約聖書はそのように、私たちをキリストの時代へと、キリストの平和へと強力に指し示す力を持っているといえよう。
新約聖書に入ると、堰(せき)を切ったように、それまでごく部分的にしか実現していなかった、「主の平和」があふれるようになる。