神の栄光-真に重いもの- 02-7-2
最近の若者がなぜわざわざ面倒なことをして茶髪にするのか、黒い髪では「重い」のだそうだ。茶髪とは要するに、ヨーロッパの人たちの髪の色の真似であり、江戸時代が終わってから百三十年以上を経てもなお、ヨーロッパの真似をしなければ落ち着けないような心理がある。
「重い」ものをさけて、ますます軽くなる現代の風潮の一つがこうした茶髪の増大にも現れている。書物にしても、字のつまった書物、古典といわれる内容の重厚なものなどは、大多数の若者には読まれていない。今から半世紀以上以前には、岩波文庫のような細かい字のぎっしり詰まった本が若者の愛読書であったことを考えると、この半世紀の間の、軽いものへの流れの甚だしさに驚かされる。
政治も軽く、歌謡曲のような大衆的な音楽もますます軽く、若者向けの雑誌や週刊誌なども重みの感じられないような、娯楽や服飾、食事、異性問題やスポーツ関連記事などで埋まっている。
こうした軽い方向へとすべてが流されていくように見えるただなかで、聖書だけは数千年前と変わらない内容の重みをもったまま、読まれ続けている。その内容がごく一部しか理解できなくとも、それでも全世界では圧倒的なベストセラーであり続けている。
聖書ほど重い内容はない。愛とは、正義とは、生きる目的とは、罪とは、裁きとは何か、また命とは何か、死とは、歴史とは創造とは、そして世界の終わりにはどうなるのか…等々の古代から最も深遠な思想家や宗教が問題にしてきたことがぎっしり詰まっているのである。
たった一言がある人の生涯を変えていくほどに、聖書の内容は力あり、重みがある。
それはどうしてなのか、この世界、宇宙のすべてを創造されて今も維持されている神ご自身がそこに存在しておられるからである。万物の創造者である、神の「重み」は全宇宙より重い。
栄光という言葉がある。この言葉は、旧約聖書の出エジプト記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書などにとくに多く現れる。(*)この栄光という言葉の原語(ヘブル語)は、カーボードという。この言葉の形容詞や動詞の形は、カーベードであるが、この言葉の原意は、「重い」という意味を持つ。(**)
(*)この原語とその関連語は旧約聖書全体では、367回現れ、そのうち、詩編では64回、イザヤ書63回、出エジプト記33回、エゼキエル書25回などと、一部の書物に特別に多く用いられている。(Theologiocal Word Book Of The Old Testament 426Pによる)こうした使われ方は、詩編やイザヤ書のような詩的な書物ではとくに神の栄光、神の霊的な重みを実感することが多かったこと、エゼキエル書はことに霊的な啓示の多い書物なので神の栄光を強く示されたのだと考えられる。
(**)彼は老いて、(太っていて)重かったからである。(サムエル記上四・18)この「重い」という言葉の原語は「カーベード」である。
澄み切った大空、夜空のきらめく星を見つめ、宇宙へと心を向けるとき、はるか古代から一部の人はそこに神の重みを実感していた。人間においても子供や、大人であっても精神的に浅い人間は、軽く感じる。他方、人生の中で幾多の苦しみや困難を乗り越えてきた人には独特の重みを感じさせるものがある。
そのような重みの背後にある、究極的な存在こそは、あらゆる深い経験や苦しみの彼方にある神ご自身であり、この世界や宇宙全体を創造された神はまことに何よりも重い存在である。命は地球より重いと言われることがあるが、地球どころか全宇宙そのものより重い存在、すべての人間の命を集めたものよりはるかに重い存在が、それらを創造された神にほかならない。
このゆえに、つぎのように旧約聖書の詩集(詩編)で最も有名な詩の一つが、神の重み(栄光)を歌っているのである。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編一九編より)
私たちの現代の言葉では、栄光と重みのあることとは全くといってよいほど関係していない。パウロのつぎの言葉も栄光と重みとが関連して述べられている。
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれる。(Ⅱコリント四・17)
人間はいとも簡単に命を失う存在である。小さな鉄の球(弾丸)一発でも死ぬ。交通事故においても一瞬にして帰らぬ姿となってしまう。そのようなはかない、軽い存在であっても、神はここでパウロが述べているような、不滅のもの、永遠なる神の重み(栄光)を与えて下さるというのは、驚くべきかとである。私たちが苦しみを神への信仰によって乗り越え、導かれていくとき、そこに神の栄光の世界がどこまでも広がっていることであろう。