はこ舟 2002年7月号
内容・目次
神の言葉
神の栄光-真に重いもの
小鳥への説教
備えられる神
新しいことを
ことば
休憩室 自然の沈黙 天の川
神の言葉 02-7-1
私たちは学校教育で多くの時間を勉強に費やした。そこで多くの言葉も学んだ。しかし、それはみんな人間の言葉であった。新聞、テレビ、雑誌など至るところで目にするのもすべて人間の言葉である。
神の言葉などあるのかというのが一般の人の気持ちではないだろうか。
神の言葉とは、永遠的な力をもつ言葉、時間や社会状況によって変わることがないし、どこの国の人であっても、身分や家柄、教養、学識などと全く関係なく働く力をもった言葉である。
そしてそれはわずか一言であっても、その人の生涯を変えるほどの力を持っている。
さらに、その言葉は繰り返し学んでも、さらにその奥の意味が見えてくるために、はかりしれない実感を持たせるのである。
私自身も、神の言葉について書いてある、たった一冊の小さな本の数行で生涯が変えられることになった。それは神の言葉の力だった。あの時の不思議な経験は忘れることができない。どんなに人間によって説得されても決して受け入れなかったであろうようなことが、わずか数分で私の魂の根本を変えるに至ったからである。
また、神の言葉は文字すら読めない人であっても、病床で苦しむ者にも、また孤独や不安、死の苦しみと絶望のただなかにある人にすら、働きかけてその人間そのものを根本から変えることができる。
聖書にも、十字架上で釘付けされるという最も残酷な刑罰、最も激しい痛みと苦しみを強いられる恐ろしい状況にあっても、神の言葉を信じた者が救いへと入れられる有様が記されている。
混乱と汚れた言葉、不真実な言葉が洪水のようにはんらんしているこの世において、たしかに神の言葉は存在している。そして今も静かに働きかけている。
人間の言葉に疲れた者、永遠不変の真実をもとめる者、みずからの存在の支えが欲しい者は、この神の言葉によって必ず満たされる。
次に引用する聖書の言葉において、水とかぶどう酒、乳とか言われているのは、この「神の言葉」であり、神の言葉を生み出す「聖霊」のことである。
渇きを覚えている者は皆、水のところに来たれ!
銀を持たない者も来たれ。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。(イザヤ書五五・1)
働きと休憩と
ふつうの仕事には休憩は必須である。しかし、神とともに、神の国のために働くとき、休憩の時間はそれほど必要がなくなる。
それは神の国のための働きはそれ自体が休憩の要素をうちに持っているからであり、魂の内なる休憩所を持っているとき、はたらきながらもいつでもその休憩所にて休むことができるからである。それは主の平安(平安)である。
キリストが、明日は十字架で処刑されるという最後の夜、弟子たちにとくに与えようとされたのが、この主の平和であった。
しかし、この主の平和もつねに心して主に求め、それを用いるようでなければ消えていく。それゆえ、一週間に一度の日曜日はふだんの仕事を休み、神の国のために心を働かせるのである。二人、三人がキリストの名によって集まるならば、祈りは聞かれることが約束されている。
そうして毎週毎週、繰り返して主の平安、平和をたえず新しく受け取っていくとき、日常の生活のただなかにおいても、その主の平安を実感することができる。そして働きつつも休憩を感じることができる。