リストボタン一つになること  2002/10

 人間の最大の願いの一つは、みんなが友になること、心が一つになることだろう。家庭や学校といった小さなところから、会社、国全体、さらには国際的な平和まで、だれもが本来は一つになって友になることを願っているはずである。
 戦争は、この一つになれないということが、大規模になってしまった悲劇である。戦争を止めて平和を、という願いは繰り返し語られてきた。しかし今日までの長い歴史のなかで、たえず戦争は生じてきたのである。そして現在もまた、アメリカがイラクに戦争を仕掛けようとしている。イラクにしても核兵器や生物化学兵器の開発を密かにしているという疑惑が持たれている。それらもみな、戦争のための開発である。
 戦争によっておびただしい人々が殺され、あるいは生涯治らないほどの傷を体に受ける。それによって家庭も破壊されたり、癒しがたい心身の傷を受けていく。また、戦争が終わってもなお、国家内部の混乱や内乱が生じたり、原爆のような恐ろしい兵器は数十年を経てもなお被爆した人々に苦しみを与え続けている。
 戦争が残すいまわしい例として地雷がある。これは、現在世界で一億個が七〇カ国で埋められたままになっている。そして一個を大変な苦労をして探しだし、廃棄するには、一個につき、十万円以上の経費がかかることも多いという。現在の調子で、地雷を除き去るには、千年以上もかかる計算になるという。
 地雷によって腕や足が吹き飛ばされ、働くこともできなくなって生涯を破壊されるという、悲劇的事態に巻き込まれる人たちは、毎日世界のどこかで生じている。毎月二千人以上が死んだり、手足を吹き飛ばされているから、一日になおすと二十人もの人がどこかで犠牲になっているのである。
 こうした悲しむべきことも、戦争を起こすからである。内戦であれ、外国との戦争であれ、戦争が生じると地雷を畑とか道路とかあちこちに埋めてしまう。そして結局は一般の農民、市民がその犠牲になることが多い。
 現在の北朝鮮の拉致問題の悲劇も南北が一つになれないところから来ている。この問題を考えるときに、私たちは単に北朝鮮の拉致を非難するだけでなく、今からつい六十年ほど前には、日本がいかに朝鮮半島のおびただしい数の人々を強制連行してきたかを知らねばならない。前号にも少し触れたが、ここではもう少し詳しく見てみよう。
 日本は一九三九年から、一九四五年までの七年足らずの間に、実に百万人を越える朝鮮の人たちを強制連行して日本に連れてきて、とくにおびただしい粉塵や有毒ガスの漂う炭坑や金属鉱山を主として働かせた。(*)
そのときの状況は、つぎのようであったという。

 動員計画数を達成するために深夜や早暁、突然に男のいる家の寝込みを襲い、あるいは田畑で働いている最中にトラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭坑へ送り込み,その責を果たしたという。
 また,女性は女子愛国奉仕隊とか女子挺身隊として狩り出され,各地の戦線で従軍慰安婦にされた。(**)

 これはまさに拉致であり、現在問題となっている北朝鮮の拉致とは比較にもならない膨大な数である。このような悲劇が起きるのは究極的には、一つになれない人間の罪が根底にある。

(*)この七年足らずの間の強制連行された数は、敗戦が近づくにつれて増大した。太平洋戦争の始まった一九四一年には、十万人であったのが、敗戦の前年の一九四四年には、三十二万人もの人たちが強制連行されている。炭坑や金属鉱山、土木などにはこの七年たらずの期間でおよそ、九十四万人を越えており、さらに軍事用員としては、十四万五千人もが連れて来られたという。これらの合計でおよそ、一〇八万人以上となる。その他に樺太(サハリン)や南方の戦線に軍事要員として動員された人たちは、四万人を越えている。これらを合わせると百十二万人もの朝鮮半島の人たちが強制連行されてきたことになる。(大蔵省「日本人の海外活動に関する歴史的調査」朝鮮編 一九四七年。この項と(**)はともに、平凡社 世界大百科事典による)

 人間がたがいに一つになれないとき、単に個人的な争いや憎しみが生じるのに留まらずに、戦争という形をとって、大規模な悲劇となっていくのである。
 こうした事実を知るとき、また、現在のように、新しい形の戦争が生じるかも知れないという状況においては、いっそう主イエスが言われた、「一つになること」の重要性が浮かび上がってくる。
 そして一つになるためには、まずその一番重要な出発点がどこにあるかを示された。それがヨハネ福音書において強調されている。

父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。
 彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。…
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。
  こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。(ヨハネ福音書十七・21〜23)

 ヨハネ福音書ではこのように、とくに「一つとなる」ことが強調されている。
 ここに引用した箇所のすこし前には、キリストを信じる人たちを聖なる者としてください、聖別されるようにとの主イエスの願いが記されていた。(*)
 キリスト者とは、神の国のために、「分かたれた人々」なのである。そうした人々にとって、孤独はつきものである。

(*)新共同訳では、「捧げられた者となるため」と訳されている。しかしこの箇所の原語は、ハギアゾーであって、神のために分ける、聖別するということであって、この世から分けるという意味がもとにある。新改訳では「 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」と訳して、分かつという意味をはっきり出している。

 実際にヨハネ福音書の書かれたときには、すでに厳しい迫害が始まって数十年にもなっている。そうした孤立せざるを得ないキリスト者にとって、きわめて重要なのが、主にある民が一つになるということであった。そのため、ヨハネ福音書ではとくに、この一つになるということが繰り返し現れるのである。神のために分かたれるという箇所のすぐ後に、信じる者たちが一つになるということが言われて、キリストの最後の祈りが締めくくられているのもそのような理由による。

わたしは、もはや世にはいない。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(ヨハネ十七・11)

 また、この精神は、すでに有名なマタイ福音書の次の言葉でも言われている。この世は分裂している。家庭も、仕事先も、また社会も国際社会も分裂が至るところでみられる。そうしたただ中に、キリストは来られた。キリストの本当の心が私たちに宿るときには、分裂でなく、一つになる方向へと導かれる。少数でも、心を合わせて祈る心が一つの方向へと進めていく。小さな所からでも一つになって主イエスに求めていく心が言われている。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(マタイ十八・19)

 祈りの心は、一つにする。それは、祈りは神が働かれるからである。それと正反対なのが、悪口、中傷である。それは愛もなく、祈りもないところから生じる。どんな敵対する人がいても、その人のために祈ることで、一つにされる。相手は背いたままであってもなお、祈る人の世界にはそうした敵する人も一つに祈られている。祈りは主にあって、一つにまとめる力を持っている。敵対者だけでなく、健康なもの、病気の者、遠くの者、死んだ者とすら一つにするような力がある。
 地上で最後の夕食のときに語られた主イエスの言葉は、そのような一つへの切実な祈りで終わっていることに、分裂に悩む現代の私たちへの特別なメッセージがある。区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。