天における大いなる喜び
人間が最も喜ぶときとは、人から認められたとき、それは有名になったり、賞をもらったり、欲しいものが与えられたとき、または気の合った友人との交わり、好きな飲食をするとき…などなど多様なものがあるだろう。
それなら神が最も喜ばれるときというのはどういう時なのであろうか。
このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない(と思いこんでいる)九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。…
(ルカ福音書十五章より)
天において喜びがわき起こるのは、たった一人でも心から悔い改めて神に立ち返るときであるという。そのようなことに最も深い喜びがあるなどと、ふつうは考えたこともない人が多数であろう。
私たちは、自分たちの小さな喜びばかりに目を取られて、私たちすべてを支配されている神のいます天においてどんなときに大いなる喜びがわき起こるだろうかなどとあまり考えたことがないのではないだろうか。
この世には、神に祝福された喜びと、単なる自分本位の喜びや楽しみがある。飲食の楽しみは一人でも味わえる。あるいは、数人の仲間との飲食も楽しいだろう。しかしこれも健康を損なうとたちまちそのような楽しみは消えていく。飲食自体ができないほどに病気も重くなることがある。
さらに、楽しみや喜びは悪いことをしても生じる。人を困らせておいて楽しみを感じるとか、または禁じられたことをして楽しむとか喜ぶなどということも多く見られる。
しかし、そうしたことと全く異なる喜びがある。
それがここで言われている、たった一人の罪人が悔い改めて、神に立ち返ることである。私たちが神のお心を与えられるならば、このことがどんなに深くて清い喜びであるかがわかってくる。
新聞やテレビでは、能力のある者がもてはやされ、優勝とかで最大の喜びがあるかのように書いている。オリンピックとかサッカー、野球、相撲など新聞でも大々的に取り扱われている。例えばサッカーのように、一個のボールを相手のゴールに蹴って入れたということがどうしてそんな新聞で一面トップで写真入りで掲載する必要があるのか、じつに不可解である。
それは正義とか愛、真実といったこととはまるで関係のないことである。もともと長い人間の歴史においては、大多数の人々は広いグラウンドでボールを追って遊ぶというような余裕は全くなかった。一日中仕事に追われていた。朝暗いうちから、夕方暗くなるまでまで働いても飢え死ぬことすらある状況が身近にあった。
時間のあるときに近くの広場でそうしたスポーツをして、心身のさわやかさを経験し、楽しみを持つということが本来であって、あのように世界的大事件のように書き立てることはもっともっと重要なことがあるのにそこから目をそらしてしまうことになる。
高校の野球部など、毎日数時間も一年中やっているところもある。そのような膨大な時間を単に、ボールを一本の棒で打つことと、それを追ってとらえるという単純なことに費やしてどれほどの精神的な成長があるだろうか。こうした贅沢な時間の使い方は、日本のような豊かな国であるからできるのであって、食物もまともになく、飢えで苦しむ無数の人々、子供のときから一日中働かねばならないような人々にとっては、スポーツで毎日何時間も費やすというのは考えられない贅沢とうつるだろう。
若者はそうしたことより、本来は、田畑を耕し、自分で作物を育てたり、国立の施設を作ってそこでさまざまの障害者や病の人たちへの介助などの仕事に従事するとか、外国の貧しい国々で働いたりする経験を重ねることがずっと有益だと思われる。
聖書はスポーツ世界の楽しみや喜びとは本質的に異なる世界の喜びを告げている。そうした喜びとか楽しみは、強い者が中心である。弱い者は、見下され無視され退場するだけである。
しかし、聖書の世界では、弱い者、この世から見下された者、はみ出したもの、迷い込んでどうにもならなくなった者、うずくまってしまった者を中心にしている。そうした者が神の愛を知って悔い改めるときに、その当事者も深い喜びが与えられ、それが神の御心にかなっていることであるから、最大の喜びが天にある、神はそうした者が悔い改めることが最大の喜びなのだと記されている。
聖書にいう神とは何と感謝すべきお方であろうか。私たちは自分の能力の弱さや不足に悲しむことはないのである。この世から見下され、無視されても構わないのである。私たちが神へのまなざしを持ち続けるかぎり、そうした弱いところから見つめる心を最も大切にしてくださるからである。
「ああ、幸いだ。心の貧しき者は。その人たちには、神の国が与えられるからである」との言葉通りに、最大のよきものである神の国がそうした人々に与えられる。