リストボタン王の中の王  2002/11

 聖書においては、主イエスが王として言われている。しかし、現代の私たちには王であるイエスというようなイメージを持っている人はどれほどいるだろうか。イエス・キリストといえば、多くの人にとっては、聖人、立派な教えを説いた人、奇跡を行った人、十字架で殺された人というようなことが連想されるだろう。しかし、聖書では私たちが通常では思い浮かべない、「王」であるということがしばしば現れる。

 神とかキリストというとき、私たちはどのようなイメージを浮かべるであろうか。神については、創造主、全知全能、目に見えない存在などを思い浮かべるであろう。そして、支配という言葉とか王という言葉はあまり、思い浮かべないであろう。
 しかし、神ははじめから私たちに神は王であることを示そうとされている。キリストについても、キリストはどんなお方か、と尋ねられるならたいていは、キリストを救い主と受け入れていない世間の人なら偉い教えを説いた人というのが最も多いだろう。キリスト教という名前からもそうした「教え」を説いた人、というイメージが浮かびやすい。
 しかし、神は私たちに単によい教えを説くというだけのお方ではないことを示して来られた。それは、新約聖書の一番最初にある、マタイ福音書のはじめの部分にすでに見られる。

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ福音書二・23

 何百年もの長い間、神の民には、ダビデの子孫から救い主が現れるという信仰があった。しかし、マタイ福音書によれば、最初にキリストの誕生を知らされたのは、はるか東方の国から来た博士たちであった。
 それはキリストが、神の民と言われるユダヤ人でなく、異邦の国々の人々によって受け入れられるということの象徴的な出来事であったと言えよう。
 そしてその博士たちは、キリストのことをたんに、やさしい慰め手であるとか、教えを述べる人だとかいうのでなく、「王」だと啓示されたのであった。
 王、それは支配ということである。東方からの博士たちは、まったくユダヤの国のことはなにも知らなかったのであるが、生まれたイエスが「王」として生まれたということを、神から啓示されたのであった。
 これは、イエスは王であるということを、神は異邦人に啓示されるのだという預言的な出来事となっている。
 王なるキリスト、それは個人の罪を赦し、苦しみ、悩みを慰めてくれる愛に満ちたお方というイメージとはことなる側面を感じさせるものがある。それは、悪の力をもその支配下におき、人間のすべてや世界全体を支配し、歴史を動かし、導いていく、さらにはこの宇宙全体をも支配しているお方という、壮大な存在を暗示しているのである。
 キリストがそのような絶大な力を与えられたお方であり、だからこそ王であるということは、一般的にはあまり気付かれていないようである。
 しかし、聖書をよく見ると当然のことながら、すでにイエスが王であることが繰り返し強調されている。
ことに新約聖書のヨハネ福音書で、イエスが裁判にかけられて、十字架刑に処せられるところの記述にはほかの福音書よりも、ずっと多く「王」という言葉が用いられている。イエスを裁いた、ローマ総督のピラトと主イエスの裁判の場での会話はつぎのように記されている。

そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのか。」…
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ福音書十八・3338より)
 
 そのあと、兵士たちはイエスをあざけり、茨の冠を作ってイエスにかぶらせ、そばで「ユダヤ人の王、万歳」といって平手で打った。ユダヤ人たちも、イエスが、王と自称したといって皇帝に背く罪を犯したと断罪した。総督のピラトは、ユダヤ人に「見よ、あなた方の王だ」というと、彼らは「殺せ、殺せ、十字架につけよ」と叫んだ。ピラトは「おまえたちの王を私が十字架につけるのか」と言った。…ピラトはイエスの罪状書きを書かせたが、そこには「ユダヤ人の王」とあり、それはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「ユダヤ人の王」と書かずに「この男はユダヤ人の王と自称していた」と書いてくださいと希望したが、ピラトは、「私が書いたものは、書いたままにしておけ」と命じた。(ヨハネ福音書十九章より)

 このように、主イエスが処刑される場面の記述に、繰り返し「王」ということが出てくる。イエスを殺そうとする者、処刑に関わる兵士、赦そうとするローマ総督のピラト、そして主イエスご自身もそれぞれいろいろの思いで「王」という言葉を用いている。
 そしてピラトは、「見よ、お前達の王だ!」といったが、これは、その少し前に、主イエスを指して「見よ、この人を!」といったことと同様に、深い意味が込められている。主イエスこそ、私たちがどのような人生の場面においても、見つめるべきお方であることを、神がピラトの口を通して言わせていると考えられるのである。私たちは日常の生活において、新聞、テレビなどのマスコミで、「この人を見よ!」と毎日毎日見せつけられているのである。それは歌手であったり、政治家、スポーツの選手、あるいは犯罪を犯した人など多様な人々である。少し前までは、鈴木宗男を、その後は、田中真紀子、さらに北朝鮮に拉致された人たちなどなどつぎつぎに繰り出されてくる。そうした人を国民がテレビや新聞をつうじて一斉に注目しているのである。
 しかし、いくらそのようなマスコミで登場する人物を見つめていても、私たち自身の精神にはなんのよいこともない。単に目先の興味に振り回されているだけになってしまう。
 ヨハネ福音書において、「この人を見よ!」という言葉は、このような現代に生きる私たちにも投げかけられているのがわかる。現代のような、世界中の人間がつぎつぎと現れてくる時代にあってこそ、いっそう、ピラトの言った、「この人を見よ!」が重要性を帯びていくのである。私たちはたしかに、「この人」イエスを見つめるべきなのである。主イエスこそ、万人が見つめるべきお方であり、そこから神の国にあるよきものが注がれてくることになる。
 ピラトが、「見よ、お前たちの王だ!」と言った一言もそれと同様な意味をもって、現代にも語りかけていると言えよう。王、すなわち、真の支配者は、キリストなのだと。
 いつの時代においても、何者が支配しているのか、という問題は最重要な問題であった。日本においても戦前は、天皇こそが真の王であり、世界を支配する王になる存在なのだという宣伝をしきりに行った。「八紘一宇」(*)という言葉はそうしたことを意味している。戦前のキリスト者たちが受けた迫害の一つは、キリストが王であるという信仰であった。当時の日本では、天皇こそが本当の王である、キリストが王であるとか、黙示録にあるように信徒も一時的にせよ、王のように支配するなどというのは、日本の国家方針と相容れない考え方だとして厳しく迫害された。

*)八紘(はっこう)のうち、紘(こう)とは、「つな」という意味の言葉で、八紘とは、もともとは大地にはりわたした八本のつなを表す。そこから「大地の八方のはて」を意味する。19408月、第二次近衛(このえ)内閣が、日本の国家方針は、八紘を一宇(いちう)とすることだとして以来、しばしば用いられた。「宇」とは「家」を意味するので、この方針は、世界万国を日本の天皇の支配のもとに統合して、一つの家となそう、ということであった。それは、中国への侵略戦争をも正当化する考え方でもあった。

 このように、何者が王なのかという問題をめぐって、キリストこそ真の王なりと信じるゆえに、古代のローマ帝国のキリスト者への迫害となったし、日本の徳川時代の過酷な迫害も生みだした。
 またそのような社会的な問題にとどまることなく、個人の生活においても、何を自分の内なる王とするか、つまり何者に自分が仕えるのか、ということは日常生活や人生全体においてもきわめて重要な問題となる。
 あなたは、何を自分の王としているのか、何を自分がつねに敬い、心から従おうとする存在としているのかと尋ねられたら多くの人は何と答えるだろうか。それは、幼少の頃においては両親であり、学校の教師であるだろうし、友達関係では力の強い者であるかもしれない。大人になると、職場の上司であるかもしれない。また、夫とか友達など特定の人間に全面的に従い、仕えているという場合もあるだろう。また、長い病気になると、医者がそうした存在にもなりうる。
 しかし、心から信頼して仕え続けることができる存在は、どんな人間もふさわしくはない。人間は不正なことをすることもしばしばあり、不真実であり、弱い存在だからである。また何かの事故や病気ですぐに死んでしまうはかないものであるからである。本当の支配を永続的に続けることなどだれもできないのである。
 そうしたなかで、どこまでも仕え続けていくことができる存在、しかも何者をも支配できる力を持っている存在といえば、神のごとき存在でしかない。私たちはそうした観点からも目には見えない、神と同質の本質をもったお方ならば、仕えていくし、そういうお方こそ、真の王であるということになる。
 聖書はまさにそのようなお方として、キリストを指し示しているのである。そして私自身の個人的な経験によっても、かつては、そのように仕えるべき存在がなく、いわば自分に仕えていたということである。自分が少しでも認められるようになりたい、自分が強くなるのだといったことで自分、自分というのがつねにある意識であった。
 多くの人たちも同様で、他人に仕え、また自分に仕えているのが実態であろう。
 ヨハネ福音書でとくにいわれているように、キリストこそ、万人の王、あらゆる支配者のなかの最高の支配者である。ピラトが、イエスの罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いたが、それについて異論を出したユダヤ人達に対して、「私が書いたものはそのままにしておけ」と言ったが、それもたんにローマ総督ピラトがユダヤ人に出した命令にとどまらず、歴史のなかで、二千年にわたって実現されてきたのである。ピラトはもちろん自分が神の道具となっているとは知らなかったが、歴史のなかでたしかに、キリストが王である、ということは、大書されてきたのである。ユダヤ人から出たただの人、処刑されてしまった哀れな罪人としか当時の人は思わなかっただろう。しかし神が、キリストこそは真の支配をされている王であると、人類の歴史のなかに書き込まれたのであった。
 このように、王であると強調されているイエスであるが、そのイエスは、嘲弄され、茨の冠をかぶせられ、平手で打たれ、鞭打たれて、重い十字架を背負わされて、処刑場への道をよろめきながら歩いていった。そこにはいかなる意味においても、王などということは感じられなかった。最も低いところまで、突き落とされた人間、もう一切の自由も奪いとられた死をまえにした哀れな人間でしかないと見えただろう。
 しかし、聖書は、そのような屈辱と弱さのただなかのキリストこそ、真の王であったと記しているのである。それは茨の冠ということが象徴的に意味している。茨をかぶせられるほどにあざけられ、見下され、苦しみを受けた。しかしそうした状況においてこそ、万物を支配されている王なのであると…。
 この世の王(支配者)は、敵と戦い武力で攻撃して多くを殺傷することによって王となったり、策略によって自分のライバルを排除していって王になる。しかし、キリストはみずからが人々から嘲笑され、見下され、重い傷を受けていてもなお、王なのであった。
 こうした性質を持つ救い主が現れるということは、キリストよりも五百年以上も昔に、すでに偉大な預言者イザヤによって預言されていた。(*)そのお方が預言の通りにたしかに現れ、王という本質を持った救い主として地上に来られたのである。

*)彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
多くの痛みを負い、…
私たちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのは、私たちの病であったのに、
私たちは、彼は神の手にかかって
打たれて苦しんでいると思っていた。…
私たちの罪のすべてを
主は彼に負わせられた。
彼は、捕らえられ、裁きを受けて
命を奪われた。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。(イザヤ書五三章より)

 また、ヨハネ福音書においてもここにあげた、福音書の終わりの部分だけでなく、その最初から、キリストが王であることを述べている。

…その翌日、イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。…フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ福音書1・4350より)

 これはヨハネ福音書の第一章の終わりに出てくる場面である。十二弟子の筆頭格であったペテロですら、イエスの数々の奇跡や、不思議の力、深い教えを聞き、もっと後になってようやく、イエスが「神の子」であること、すなわち神と同質のお方であることを知った。にもかかわらず、ここで現れるナタナエルは、右に引用した部分でわかるようにほんの一度の出会いで、主イエスがいっさいを越えて見抜くお方であることを知って、ただちにイエスのことを「神の子」であり、しかも「王」であることを啓示されたのである。
 ヨハネ福音書ではこのナタナエルの言葉もまた、一種の預言となっている。それはたしかに真理であり、以後の歴史も、イエスが神の子であり、王であることを啓示されて信じる人が、実際に無数に生じていったのである。
 私たちが用いてきた讃美歌には、「君なるイエス」とか、「イエス君(きみ)」といった言葉がしばしば出てくる。これを、親しみを込めた表現と思っている人もいるようだが、それは間違いである。万葉歌人として知られる、額田王(おおきみ)も「王」という漢字を「きみ」と読ませている。このようなことでもわかるが、。もともと、「君」とは、「王」という意味を持っている。それゆえに「君主」という言葉がある。だから、「君なるイエス」とは、「王であるイエス」という意味なのである。

 キリストが王であるということ、あらゆる支配の力を持っておられることは、旧約聖書の最初の書物である、創世記にもごくわずかであるが閃光のように示され、ダニエル書においては、はっきりと記されている。
 まず創世記の箇所を見てみよう。その創世記では、キリストを指し示している不思議な人物が現れる。(*)それは、メルキゼデクである。これは、「正義の王」(**)という意味であり、新約聖書のヘブル書では、これがキリストを指し示していると、繰り返し強調されている。メルキゼデクとは不思議な人物で創世記の一箇所に現れる以外には、旧約聖書の分厚い内容のなかでは、あとは詩篇に一度出てくるだけである。ここに、キリストが初めて「王」として預言的に言われている。
 このように、このメルキゼデクという人物によって、はるか後に現れるキリストが、人間の罪をぬぐい去って、神と人間の間を橋渡しする存在(祭司)であるとともに、支配する権威を与えられた王でもあるということが、一瞬のきらめきのように暗示されているのである。

*)創世記十四・1724
**)ヘブル語で、メルキは王、セデクは、正義という意味。


 つぎに旧約聖書のダニエル書はどうであろうか。つぎの箇所がよく知られている。

…夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、日の老いたる者(神)の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。
 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続きその統治は滅びることがない。(ダニエル書七・1314

 ダニエル書は独特の預言的内容に満ちているが、ここで言われているのは、「人の子」のような者が、神のところに行って、永遠に朽ちない支配の力、王としての権威を受けたということである。ここに出てくる「天の雲に乗って」という表現は、主イエスがそのまま、ご自身の再臨のときについて語ったときに用いている。また、このダニエル書のこの箇所で、「人の子」と言われている者が、神のまえに行って永遠の王権、支配の力を与えられたとある。これが、主イエスの言葉によって、イエス自身のことを指しているのがわかる。主イエスは地上で福音を宣べ伝えておられたとき、自分のことを「人の子」といわれたが、それは単なる人間の子供といった意味でなく、このダニエル書で言われているように、神から特別に永遠の支配の力を受けた存在、すなわち王であることの称号として用いられているのである。
 こうしてキリストは、すでに旧約聖書の時代から、神から、世界を支配する王として預言されていたと言える。
 ヨハネ福音書において、キリストの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていたが、それがわざわざヘブル語(*)、ラテン語、ギリシャ語で書かれたと記されている。殺してしまう人間の罪名をどうして三ヶ国語で書いたりしたのか、不可解なことである。そしてそんなことは、キリストが殺されるということに比べたらどうでもよいことに見える。ヨハネ福音書でなぜこのようなことに強調が置かれているのだろうか。

*)正確には、ヘブル語と同族のアラム語。

 それは、ここにも神の不思議な御手のはたらきがあるのだと言おうとしているのである。このような特別な仕方で書かせることについて、ピラトはそれが深い意味を持っているということはもちろん考えることもしなかった。一時の気まぐれでそのようにしたのであろう。しかし、神はピラトの手を用いて、キリストが全世界の「王」であることを宣言したのである。ヘブル語で書かれた旧約聖書は、現代では、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの宗教の教典となり、世界を覆っている状況となっている。また、ラテン語は古代のローマの言語で、現在のフランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語などはそのラテン語から生まれたものであり、世界にその影響は及んでいる。またギリシャ語は、当時の世界語であり、哲学や自然学、政治学などさまざまの分野でギリシャ語の書物は大きな影響を及ぼしていった。
 こうしたことから、イエスが「王」であるという罪状書きがこれら三つの言語で書かれたということは、全世界に、イエスが王であることが宣言されていくことの預言でもあったのである。
 このことは、以後二千年の歴史を通じて徐々に実現していくことになった。キリスト教が広まるとき、最初にユダヤ人から迫害があった。ついでローマ帝国からの長期にわたる迫害が続いた。しかしそれらは、目には見えないが、王たるキリストの力によってその迫害の力は除かれ、キリスト教は広く浸透していった。はるか後に日本に伝わってきたときも、江戸幕府は全力をあげて、キリスト教を撲滅しようとした。けれどもやはり、三百年にわたる迫害も止めざるを得なくなった。それは目には見えないが、キリストが王としてこの世界を、御支配なさっている証しだと言えよう。
 将来の世界はどうなるのか、飢餓の問題、環境問題、核兵器の問題、各地でのテロや内戦、あるいは世界的な規模で生じるかも知れない紛争などなど考えると、人間の理性などで考えるだけでは、およそ解決不能だと言わざるを得ない。地球そのものも未来は消滅してしまうと言われている。
 こうした答えの与えられない状況にあって、聖書はこうしたグローバルな問題、はるかな未来の問題も視野におさめて答えを人類に与えているのである。それこそは、キリストが王であり、いっさいを支配しているゆえに、キリストに委ねることによって私たちはその大いなる力によって救い出される、霊的な「新しい天と地」が訪れるということを信じることへと導かれる。その信仰以外には、解決はなく、また将来への明るい展望は決して開かれないのである。
 キリストのことを、聖書の最後の書である黙示録では、キング オブ キングズ(King of kings)と言われている。(黙示録十九・16)まさに、キリストは、あらゆる種類の支配者のすべての上に立つ、真の王なのである。それは単に、国々の支配者の上にあるというにとどまらず、自然を動かす力、宇宙を動かしている法則の上にもある。そうしたあらゆる支配の上にあるのがキリストの支配なのである。
 キリストは昔も今も、そして将来も真の王であり続ける。しかしその王は、茨の冠をかぶせられ、侮辱され最も低いところまで降りて行かれたお方であった。最後にエルサレムに入って行かれたときも、旧約聖書の預言通りに、わざわざ小さいロバの子に乗って入っていったのである。
 
…シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』(マタイ福音書二十一・5

 このように、キリストは王であったが、たしかにみすぼらしい小さなロバの子に乗って来られたのである。しかしそれもすでに旧約聖書に預言されていた。この新約聖書にある言葉は、旧約聖書のゼカリヤ書九章九節からの引用なのである。王とか皇帝など支配者は、ふつうはみごとな白馬にまたがって、家来を従え、堂々とやってくるものである。それといかに対照的であることだろう。
 私たちに与えられた王とは、そのような最も低いところまで来て下さる王である。私たちがどんなに低くされ、人から理解されず、また侮辱されることがあろうとも、主イエスはそこにも降りて来て下さる。そして落ち込んでいる私たちに、王の力を与えて立ち上がらせてくださる。病気で一人苦しむとき、孤独に悩み、将来に絶望するような事態に直面してもなお、そこに主イエスは降りてきてくださる。そして、悲しみに沈む心や孤独に悩み、体の痛みに耐えがたい思いをする者の心の内にまでも来て下さり、神の国の力を与えて下さる。一番の底辺にまで来て下さる王、それこそが聖書で記されているキリストなのである。

区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。