沈黙はうみだす力 2002/11
天の沈黙
黙示録に、これから封印された巻物を開く直前に、不思議な半時間ばかりの沈黙があったと記されている。
… わたしは、玉座に座っておられる方(神)の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。… しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。…
小羊(*)が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。(黙示録七・1−3、八・1より)
小羊とは、キリストのことであり、神の手にある七つの封印をされた巻物があり、そこにはこれから起きる出来事、神のご計画が記されている。しかし、その封印を解くこと、すなわち、その神の計画をあらかじめ知らされるのはキリストのみである。それゆえ、封印を解くことは、ただ小羊なるキリストだけだと言われている。
黙示録は、とてもむつかしい書物である。新約聖書のなかで最もわかりにくい書物と言えるだろう。 しかしそれは、これからの世界がどうなっていくのか、神の大いなる御計画と導きが書かれているものなのである。
神の手にあった巻物は、小羊なるキリストの手によって、第一の封印からひとつずつ開かれていった。最後の第七の封印が開かれることによって最も大きい内容が示されていく。そのような重要な場面の冒頭にこのような不思議な半時間ばかりの静けさがあった。
(*)キリストのことをなぜ、「小羊」と言っているのかというと、キリストより一三〇〇年ほども昔、モーセの時代に、エジプトに奴隷状態となっていた人々を神の助けによって導き出すという旧約聖書で特別に重要な出来事があった。そのとき、小羊の血を家の入り口に塗っておいたら、その家の者はさばきを受けずに救われたということがあった。それは、キリストが十字架で血を流して人間のために犠牲となって死んで下さったが、それを信じることによって裁きが過越して救いを受けることの預言的な出来事であった。
それはどんな意味があったのだろうか。これから生じる神の大いなるわざを前にして、それまでの無数の人々の大声での讃美も消えて、静寂が支配した。
それまではつぎのように、讃美の大声に満ちていたのである。
わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、…玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」
また、天使たちは…玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」(黙示録七・9〜12)
このような、救われた人々の大声でのすばらしい讃美や天使たちの讃美はいつまでも響いていてもよさそうであるにもかかわらず、それらがすべて沈黙してすべてが静寂に包まれたのであった。その情景を思い浮かべるときには、人間から出てくるあらゆる思いを退け、ただ神の大いなるわざを受け止めるために、天の世界が集中したのがうかがえる。
現代における沈黙の必要性
現代の私たちにとってもこのような沈黙が不可欠である。天の世界において、裁きに関わる神の言葉が実行に移されようとするときに沈黙が全体を支配したように、私たちもそのような静けさが必要なのである。
黙示録は未来のことを預言している書物である。しかし、現代に生きる私たちの世界においても、神のさばきはつねに行われている。さばきは世の終わりといったいつのことか分からない未来にだけあるのでは決してない。
彼を信じる者は、さばかれない。
信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。(ヨハネ三・18)
こうした裁きがいわば常時行われている。私たちは神を信じていてもさまざまの時がある。苦しみのとき、感謝のとき、悩みのときあるいは讃美のとき、また喜びのときがある。そうしたどのような時においても、つねに沈黙のときを持つことの重要性を感じさせられる。
苦しみのときには神から離れそうになる。神がおられるのならどうしてこんなにひどいことが生じるのか、なぜほかの人には起こらないで自分はこの大変な重荷を負って生きていかねばならないのか…そうした苦しみや痛みのときはまた誘惑の時であり、神への信頼を揺るがされ、ついには信仰を捨ててしまうことすらあるだろう。旧約聖書にはエリヤという神の大いなる預言者ですら深い挫折感のゆえに死ぬことを願って砂漠の一本の木の下に赴いたことが記されている。
苦しみの深いほど、静まることも深くなければ、私たちはその苦しみの意味をまったく理解できないままとなるだろう。突然の別離や人間関係が壊れること、大きな罪、失敗や中傷などで傷ついた心は、そうしたことを引き起こした相手があるとき、その相手への憎しみや恨み、ねたみが深く巣くってしまうことになりかねない。
これは闇の力に敗北することであると言えよう。そうした悪の力に負けることなく、勝利していくためには、主イエスのすでになされた勝利の力を与えられる必要がある。そのためにこそ、祈りを伴う沈黙が必要となる。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平安を得るためである。
あなたがたにはこの世では苦しみがある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っているのだから。」(ヨハネ十六・33)
逆に、神の恵みによって大きな喜びが与えられることもある。健康が続くこと、よき結婚、仕事、生活の安定、家庭の幸い等など、しかしそうしたものが与えられているとき、もし私たちがそれを当たり前と思ってしまうとそこから神への切実な心を失っていく。それを正しく受け止めて感謝するためには、沈黙が必要である。神のまえに静まることによってそうした恵みも当然のことでなく、一つ一つ神からの賜物として感謝をもって受け取っていくべきものだと知らされる。そうした感謝は「沈黙」のときを持つのでなければ、つい忘れていくものである。
沈黙といっても何でもよいのではない。沈黙にも二種類ある。
私たちは命じられなくとも沈黙することも多い。それは無関心や、言うことによる圧迫への恐れ、あるいは心の冷たさのゆえの沈黙もある。
けれども、聖書にはそうした非生産的な沈黙でなく、前向きの沈黙のことが記されている。本当の沈黙、静けさとは、祈りであり、神へのまなざしであり、神への訴えであり、神からの力を受けようと待ち望む姿勢でもある。それは弱い者への心や不正なものへの嫌悪と正しいことへのあこがれ、願いとなっている。そしてそれは最終
的には、愛となっていくものである。
聖書にもそうした沈黙の必要が記されている。
おののいて罪を離れよ。
床に横たわるときも自らの心と語りて沈黙に入れ。(詩篇四・5)
マザー・テレサの言葉から
私たちは神を見いださねばなりません。そして神は騒がしいなかとか落ち着きのないところでは見いだされないのです。
神は沈黙の友なのです。いかに、自然、すなわち樹木や花、草などが沈黙のうちに育っているかを見なさい。また星や月、そして太陽、いかにそれらは沈黙のうちに動いているかを見なさい。
私たちが、沈黙のうちに受け取れば受け取るほど、私たちは実際の生活のなかで、与えることができるのです。私たちがほかの魂に触れるためには、沈黙が必要なのです。
本質的なことは、何を私たちが言うかではなく、神が私たちに何を語っておられるか、神が私たちを通して何を語っておられるかなのです。
私たちのあらゆる言葉は、内から来るのでなければ無益なのです。キリストの光を与えない言葉は、闇を深めるだけなのです。(Something Beautiful
For God 「神のために何か美しいものを」66P)(*)
このマザー・テレサの言葉は、二〇年ほど以前にこの原書を見つけて読んだとき、とくに印象に残っている箇所の一つである。私たちが沈黙のうちで、神から、主イエスから受け取っていないなら、他者にも何も与えることはできない、ということはことに心に残った言葉であった。この書物のタイトルは、「神のために何か美しいもの」であるが、私たちが何か美しいものを神のためになすためには、沈黙のうちに神から与えられるということが不可欠だと言おうとしているのである。
主イエスの沈黙
主イエスは、夜通し祈られたことがしばしばあったようである。
朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ福音書一・35)
このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。(ルカ福音書六・12)
このような長時間の一人での祈りこそは、神のみまえの沈黙の時であり、そのようなときに神からの力を豊かに受けておられたであろうし、世の中の不信とその背後にある悪霊との戦いをされていたと思われる。 聖書ではあえて、そうした長時間の祈りのときになにを祈っておられたのかについては一切記していない。しかしそれは神と霊的に交わりを持つことであり、神の力を受けて、神の洞察力を注がれ、また周囲の弟子たちや人間がサタンに負けないようにと祈りを続けられる時でもあっただろう。
そうした祈りは、つぎの言葉のようにまさに愛へと開いていくものであった。
真の沈黙は、平安へ、礼拝へ、愛へと開く。
沈黙を通して、愛することを学べ。沈黙は友愛にみちた交わりの実であると同時に、こうした交わりへの道でもある。(*)
神とともに私たちがあるとき、自ずから沈黙を愛するようになるだろう。なぜなら神は愛の神であり、愛とはつねに目に見えないものを注ぎ、語りかけるからである。もし、私たちが主イエスの言葉のように、まず神を愛しているならば、その神からの語りかけを聞こうとするはずである。
それは山や谷川、星空や樹木、野草などを愛するときも同様である。それらを愛する心は、必然的にそれらに心を注ぐとともに、それらから発せられている目には見えないものを受け取ろうとする。山を愛する心は山から語りかけてくるある種の言葉に耳を傾けるであろう。
主イエスは最も重要な戒めは、神を愛することであり、次にそれと同様に重要なのが隣人を愛せよということだと教えられた。神を愛することは、第一であり、それは神への沈黙を通してより純粋なものにされる。
主イエスも弟子たちとともに歩んだ数年間において、しばしば夜を徹して祈られた。現代のように電気による照明は全くなく、自動車や工場もない時代において夜とは、真っ暗な長い時であったであろう。そしてガリラヤ湖畔の低い丘においては、ほとんど民家もなく、風の音しか響いてこない静けさに包まれていたと考えられる。そのような静寂のなかで、主イエスの祈りは深まり、神からの力と語りかけを深く受け止められたのであろう。
しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書二十二・32)
このように言われた主イエスは常に弟子たちのために祈っておられた方であった。そうした祈りもこの夜の沈黙のときにもなされたと思われる。祈りは神からの力を受けるだけでなく、またその受けた力や愛によって人間に注ぎ出すのが本来の目的であるからである。
こうした沈黙は、三年間のみ言葉の福音を宣べ伝えているときだけでなく、いよいよ捕えられて裁判にかけられたときにおいてもみられた。ユダヤ人の指導者たちが、イエスは神を汚したと、最も重い犯罪をしたと繰り返し主張しているのに、主イエスはまったくそれには答えようとされなかった。ローマ総督のピラトが驚くほど、主イエスは沈黙を通されたのである。
しかしそのようなときにもいっそう神の御計画が確実に進んでいることを確信されていた。そのような神への信頼に基づく沈黙はますます確信を与え、周囲にも何かが伝わり、波及していくのである。
このような黙して歩む姿は、すでにキリストよりもずっと以前の預言書に驚くほどあざやかに記されている。
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
…そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
…彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。
…多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。(イザヤ書五十三章より)
このように、キリストの十字架はそれより五百年以上も昔にすでにその意味が告げられ、とくにその沈黙によってその使命が担われたことが強調されている。主に結びついた沈黙は愛であるという言葉が、キリストの十字架によって実現されたのである。
このような事実を学ぶとき、私たちもそうした沈黙を日々の生活のなかで、持ち続けていくことの大切さを知らされるのである。
(*)次にあげるのは、「沈黙について」の引用文の原文。
On Silence
We need to find God, and he cannot be found in noise and restlessness.
God is the friend of silence. See how nature -trees, flowers, grass - grow
in silence;
see the stars, the moon and sun, how they move in silence.
… The more we receive in silent prayer, the more we can give in our active
life.
We need silence to be able to touch souls.
The essential thing is not what we say, but what God says to us and through
us.
All our words will be useless unless they come from within - words which
do not give the light of Christ increase the darkness.
必要なことは沈黙なのである。それによって私たちは神に従おうとしている者はいっそう静まって神の御心にかなった歩みができるようでなければならないし、また神に背いている者はその大いなるわざが始まる前に
ふつう私たちの生活ではあまりにも沈黙は少ない。いつも家の中では、テレビとかラジオ、CDなどの音が響いており、およそ物音一つしない静けさというのは想像できないほどである。
しかし、少し以前であれば、