リストボタン火を投じるために  2002/12

 キリストはどんな目的で地上に来られたのか、それは今月号で述べたように、罪からの救いであり、救われた者が神(キリスト)と共に生きることができるようになるためであった。
 このことと関連しているが、別の表現で言われたのがつぎの箇所である。

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。(ルカ福音書十二・49〜51)

 火を投じるため、それは驚かされるような表現である。私たちはこのような表現によってあまりよいことを連想しないのではないだろうか。それゆえこの言葉の背後にある意味を考えようとしないことが多い。
 火、それは聖書ではしばしば裁きの象徴として用いられる。

・主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて…(創世記十九て・24)
・見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを、火と炎をもって責められる。

 主イエスは救いをもたらすためであって、裁きなどまったくしないと思いこんででいる人が多い。しかし、主イエスはしばしば悪の霊に取り付かれた人から悪霊を追い出したがそれは救いであるとともに、悪に対する裁きでもあった。
 また、神殿は祈りの家であるべきなのに、商人たちが、売買の場としていることを指摘し、商人たちを追い出したり、机を倒したりされた。これは神の権威をもってされた一種の裁きである。
 主イエスは神の愛や真実とともに裁きの力をも与えられていた。その力をもって人間を裁くとき、誰一人その裁きに耐えることはできない。
 このような正義の力をもっておられるのであるが、それを人間に及ぼしてつぎつぎと滅ぼすのでなく、自分の身にそのさばきの火を受けて、自らが十字架の上での激しい苦しみに耐えられたのである。
 たしかに主は火を投じられたが、それは当時の一般のユダヤ人や、キリストの前に現れた洗礼のヨハネが予想したような、天からの火や人間の武力でもって悪人を滅ぼすことではなかった。十字架で自分が苦しみの極限まで味わうことによって、罪の根源を滅ぼしたのである。

 火が燃えていればと、どんなにか願っていることか!(四十九節) 

 この火ということではもう一つ別の意味が込められている。
それは聖霊の火ということである。聖書において初めて聖霊が弟子たちの上に豊かに注がれたのは、使徒たちが熱心に祈っていたときであった。

…一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒行伝二・2〜4より)

 このように、聖霊が炎のようなものにたとえられている。それは聖霊の力を象徴しているい。ここではとくに舌と関係付けられて言われているが、その時以後、聖霊によって火のような力をもって、神の言葉が語られることの預言となっている。主が心から望んでいたのは、この聖霊の火が燃えていることであった。
 黙示録のなかには、「七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。」(黙示録四・5)とあるが、ここにも、霊(聖霊)が燃え続けるものであることが暗示されている。このように私たちの心や、信仰、あるいはキリストの集会において、その聖霊のともし火が燃え続けているようにというのがパウロの願いでもあった。それはつぎの言葉からうかがえる。

だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけよ。
いつも喜べ。
絶えず祈れ。
どんなことにも感謝せよ。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることである。
霊の火を消すな。…
すべてを吟味して、良いものを大事にせよ。(Tテサロニケ五・15〜22)

 私たちもたえず気を付けていなければ、聖霊の火が燃え続けていかない。この世にはいろいろの他の火が燃えているからである。さまざまの犯罪が生じるのも、あの人が!というようなことが起きるのも、それは、いわば異なる火が燃え移って、それによってその人間の行動が別人のようになるからである。
 日本という国全体が、異なる火によって燃えさかるときもある。中国との戦争、太平洋戦争のときの日本はまさにそうであった。ただの人間(天皇)を現人神と偽って教え、戦争もその命令で開始し、天皇のためにアジアの国々の人々を殺し、それで王国を築き上げるなどと称していたのである。

 聖霊の火が燃えていたらと、どんなにか願っていることか!

 それはそのまま、現代の私たちの願いでもある。キリストは当時の人々から捨てられ、弟子たちにすら裏切られ、そのような残酷な刑罰と苦しみを受けることによって、聖霊の火を全世界の人々に点火されたのである。その時以来、人は心から求める者はだれでも与えられるようになった。
 キリストによって聖霊の火は燃え始め、それは受け継がれていって二千年がすぎた。私も学生時代の最後の年に、思いがけずそのような火を魂に受けた。
 この聖霊の火はどんなに消そうと思っても消すことができない。ローマ帝国や、日本の江戸時代の三百年ほどもの長い歳月、その全権力をもって滅ぼそうとした。しかしできなかった。今も、主イエスが望んでおられる通り、聖霊の火は世界に燃え続けている。私たちはたえずそこから新たな火を取って、燃やされ、エネルギーを与えられ、さらに別の人にも分かち与えることができるようにならせていただきたいと思う。区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。