リストボタンたった一人の愛によって   2003/1

 人間はたった一人の愛を受けても生きる力が与えられるというところがある。逆にいくら多くの人と交際していても、たった一人の愛も受けていないときには、その人の心は荒れてくるし、だんだん枯れて固まってしまう。
 確かに愛はそれが、人間的な愛であっても、人を生かす力を持っている。
 しかし、誰でもが感じるそのような人間的な愛は、時には激しいものがあり、人間を生かすどころか、滅ぼしてしまう力を持っている。こうした滅ぼしてしまうほどの愛は、男女の愛に見られることがある。
 親子の愛もそれが人間的な愛であると、その強さに応じて子供を強制して、塾などに行かせることになる。しかしそのような自分中心の気持ちからの愛からも真によきものは生じてこないであろう。
 たった一人の愛、純粋な愛があれば、人間は生きることができるといっても、それが人間的な愛であれば、総じてはかないものであり、致命的な結果となる場合もある。
 人間から受ける愛はこうして祝福されないことが多い。しかし、神から受ける愛はまったく異なる。どんなに他人に誤解中傷されていても、その本当のことをだれも知ってはくれなくとも、心に主イエスの愛が注がれているのを実感することのできる魂は決して損なわれない。
 最初の殉教者であったステパノという人はどんなに周囲の者たちが、憎しみをつのらせても、彼らを憎み返したり、恐れたりすることもなく、キリストが神の右に座しているのをまざまざと見ることができた。ステパノは自分に注がれたキリストの愛を深く実感していたゆえである。

 愛を持たないで人とたえず交際するのは、魂をそこなうものである。だから、やむをえない場合には、むしろ交際をへらすか、それとも全くそれを絶つべきである。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために上 一月三〇日の項)

 愛を持たないで、人間と交際を持つことは、今日では避けることができない。会社、学校、その他のさまざまの場面で、私たちは多くの人間と関わり合う。昔は例えば農業の人が圧倒的に多く、その農業をしているとほかの人と交際することはそれほど多くなかっただろう。
 なぜ、愛なくして人と交際することで、その人の魂がそこなわれるのだろうか。
 愛なくしてということは、無関心や憎しみ、ねたみ、あるいは競争心とかその人たちを利用しようといった気持ちから交際することになる。こうした心の傾向こそが罪と言われる気持ちであり、そうした気持ちは次第にその人のよき部分を壊していく。
 だれに対しても愛をもって関わるということは、自然のままの人間には不可能なことである。 そうした不可能なことに唯一道を開くのが、キリストという、今も活きておられる方の愛を受けることである。たった一人の愛を受けるだけであっても、生きていける。それが最もはっきりといえるのは、キリストというお方の愛を受けて生きることである。
 ほかのすべてから誤解され、受け入れられなくとも、キリストが受け入れてくださり、自分を愛して下さっていると実感できれば、私たちはすでにキリストの愛を受けているのであり、その愛を持っていれば他人を恨んだり、憎んだままで生きるということから免れていく。
 たった一人の愛も受けていないと思うときには、主イエスに心を向け変えて、主にむかって叫ぶとき、たった一人のお方である主イエスからの愛を感じることができ、そこから神の国へと歩み始めることができるようになってくる。
区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。