主があなたの永遠の光となり 2003/2
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく
あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり
あなたの悲しみの日々は終わる。(イザヤ書六〇・19~20)
太陽は永遠の存在だと古代の人々には思われていた。しかし、ガリレイが一六〇九年に、望遠鏡で月のような天体も地上の物体と同様な物質だということを観察して、ようやく天体も特別な、地上のものとは本質的に異なる物質ではないと考えられるようになった。
しかし聖書の民は、太陽の光も神が与えたものにすぎないとの啓示を受けていた。そして天体ですら寿命があることの予感を与えられていた。
天の万象(太陽、星などの天体)は衰え (*)
天は巻物のように巻き上げられる。ぶどうの葉がしおれ
いちじくの葉がしおれるように
天の万象は力を失う。(イザヤ書三四・4)
(*)万象とは、あらゆる事物をいう。聖書では最初の書物である創世記の二章に初めて現れる。
「天地万物は完成された。」この箇所では「万物」と訳されている。また、次の箇所のように、太陽、月、星などの天体を意味するときもある。「また目を上げて天を仰ぎ、太陽、月、星といった天の万象を見て、これらに惑わされ、ひれ伏し仕えてはならない。」(申命記四・19)
この箇所では、永遠に変わらないもののように思っている天体ですら、衰え、巻き上げられるかのようになって消えていくということが啓示されている。
しかし、世界のたいていの民族では太陽を永遠のものとみなして、それを神と崇めていた。エジプトやインド、そしてインカ帝国でも太陽を神と崇めていたし、古代ギリシャでも、アポロンという神は太陽神である。ローマのアポロはそのギリシャの神の名前のラテン語形である。日本でも天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽の神である。
こうしてどの民族も太陽を神としているただなかで、聖書の民だけは、太陽のような絶大な存在すらも、神が創造した被造物の一つにすぎず、さらにその光も神がまず光を創造して、その光をもらっただけのものだと知らされていた。(創世記第一章)
このように太陽や星々さえも、被造物であるゆえに、それらは神の御計画によって巻き取られ、消え失せるとすら言われているのである。それは例えば、人間が建物を造ったらそれを壊すこともできるのは当然であるのと同様である。
太陽や星々が消えてしまうといったことは、現代の天体物理学でも明らかになっている。例えば太陽も宇宙に誕生してからおよそ四六億年、あと五〇億年余りは寿命があるとされている。最終的には太陽は白色矮星から小さな黒色矮星となり、銀河系のゴミのごときものとなって果てる。
聖書ではこのような物理学的なこととは全く異なるが、その有限性を明確に述べている。
宇宙物理学では、地球もいずれはるかな未来には、太陽が赤色巨星となっていくにつれて、地球は太陽に飲み込まれ、その高熱のために宇宙空間に蒸発してなくなるということしか分からない。それは実に空しい結論である。
人間が死んだら体を構成していたタンパク質や脂肪、水、無機質などは、火葬にせよ、土葬にせよ、水中葬にせよ最終的には、二酸化炭素やイオウや窒素の化合物、水、あるいは金属化合物となって大気中や地中に帰っていく。太陽や地球も最終的には宇宙に帰っていくのも、人間の体が変化していく状態と似たところがある。
要するにみんな消えていくということになる。科学が結論できるのはこのように、希望のまったくあり得ない未来像なのである。
聖書ではそのような何の力にもならない未来像とは根本的に異なる未来を約束している。
それがこのイザヤ書の箇所にも見られる。
太陽や星々、月などはすべて一時的な光である。永遠の光は神ご自身なのだということが力強く宣言されている。
科学という学問によっては人間はこの大いなる宇宙の中で、将来は消滅してしまうという結論しか得られない。これこそ、神が私たち人間に、科学やその他の学問と異なる方向へと方向転換するようにとの強い促しなのである。
聖書に記されている神の言葉は、あらゆる目に見えるものが最終的に私たちの光となるのでなく、神ご自身が光となって永遠から永遠に至るということである。なんと希望に満ちた未来観であろう。
ここで注目すべきことは、神が光となるということに加えて、
「あなたの悲しみの日々が終わる」と言われていることである。
この地上に生きる限り、私たちは数々の悲しみに遭遇する。外見からみて分からなくとも、心の奥深くに秘めた悲しみを持ちつつ、心にて涙を流しつつ生きてきた人々は数知れないだろう。人間関係の悲しみ、生まれ落ちたときから親もいないような人、親子や兄弟同士の反目、離反、そして職場や友人同士の中での無理解、中傷、さらに病気という重い荷物、ことにもう治らないと宣言されて痛みと苦しみのみが増し加わっていく絶望的な悲しみ、また老年の孤独と不自由、死に向かう悲しみもある。そして国家の内部での戦争や外国との戦争のゆえに傷つけられ、愛するものを奪われた悲しみ…、さらに、こうしたいわば外から来る悲しみと違って、自分の犯した罪によって取り返しのつかない事態になってしまったこと、あるいはそのようなことを引き起こしてしまう自分の罪深い本性のゆえの悲しみもある。
こうした悲しみをまったく持たずに年齢を重ねていくことは一人もないであろう。
身近に自分のことをかまってくれる人がいてもなお、いやすことのできない悲しみを抱えて沈むような心をもてあます人々もあるだろう。
人間として生きる限り、だれもが直面せざるを得ない深い悲しみ、それを神が最終的に終わらせてくださるという。ここには、すでに述べたようなありとあらゆる悲しみをすべて見抜いておられた神のお心の一端を感じさせるものがある。
主が永遠の光となり、
あなたの悲しみの日々は終わる!
for the LORD will be your everlasting light,
and your days of mourning shall be ended.(NRS)
これは万人の心の深いところでの願いを成就して下さる神の愛を表している。どうしようもない暗い心、どのような慰めも人間の交際や娯楽もいっさいをもってしてもどうすることもできない人間の深い悲しみ、そのただなかに神は来て下さり、光を投げかけてくださり、いかなる深い悲しみをも終わらせて下さるという。何と喜ばしいこと、感謝すべきことであろう。
悲しみの日が終わること、それは主イエスもはっきりと約束して下さったことである。
ああ、幸いだ悲しむ人々は。
その人たちは(神によって)慰められるから。(マタイ福音書五・4)
Blessed are those who mourn,
for they shall be comforted.
この短い主イエスの言葉、約束のなかに、人間の持っているあらゆる悲しみに、御手を伸べてくださる神の愛が背後に感じられる。イザヤが世の終わりに成就すると預言したことは、キリストがこの世に来て下さったことによって、すでにそのことを信じる人にはその約束が成就されてきたのである。
信じる者に悲しみへの深い慰め、励ましが与えられても、なおこの世には至るところにそうした悲しみを持つ人々はいるし、あらたな悲しみを生み出す戦争や貧困、飢餓、病気がつねに生じている。そうした世界の悲しみを最終的に決着させるために、キリストは再び来られるという約束が与えられている。このことを信じる信仰なくしては最終的に悲しみは終わらないからである。
そのゆえに、聖書の最後の書である黙示録に、やはりこのことがはっきりと記されている。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。…
更にわたしは、聖なる都が神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
…「見よ、…神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録二十一・1~4より)
この世にはどんなことがあっても修復されない悲しみがある。そのことを神はご存じである。それゆえにこのように今から二五〇〇年ほども昔から、そうした悲しみが終わる日が来ることが預言され、それはキリストによって信じるものに成就し、さらにこの世全体が造りかえられて、悲しみが終わる日々が来ると約束されて聖書はその結びとなっているのである。
どのようにしてそんなことが生じるのかわからない。人間が死んでどのようなかたちで復活して、キリストと同様にされるのかわからないのと同様である。
ここに信仰が必要とされる。信仰があれば、そうしたすばらしい約束を内に持つことができ、実際に深い悲しみに今、慰めが与えられることによって、世の終わりにも確かに聖書に書かれたようなことが実現するのだと予感することができる。
主よ、そのような御国を来たらせたまえ!